第5話 柿の木の下

庭へ出たのは、昼下がりの蝉が鳴きやんだ、妙に静かな時間だった。
蝉の声は、いつも突然途切れる。何か合図があるわけでもないのに、庭じゅうを覆っていた音が一度に引き、濃い緑だけが取り残される。その静けさのなかで、柿の葉が一枚、裏返った。白い葉裏が陽を受け、すぐに元へ戻る。
空は白かった。夏の光が強すぎて、遠くの山も、家の屋根も、輪郭を失っている。けれど木陰に入ると、肌に触れる空気は冷たかった。湿気が水のように地面へ溜まり、草の根や古い木の皮の奥に沈んでいる。
柿の木は、子どもの頃より太くなっていた。
幹の皮には縦に深いひびが走り、その裂け目に黒い土が詰まっている。幼いころ、僕はこの木を大きな人間だと思っていた。枝を広げて庭を見張り、夕方になると家の中へ戻る僕を、葉の隙間から見送っている。祖母のしげは、その話を聞いても笑わなかった。ただ、僕の頭に手を置き、
「木は、見ているだけで口は出さんよ」
と言った。
あの言葉の意味を、僕はまだ知らない。
根元の土は、周囲より少し盛り上がっていた。昨日、恒一が立っていた場所だ。彼は何もしていないように見えたが、土を見ないまま、土の前に立っていた。その姿を思い出すと、胸の底に小さな錘が落ちる。
僕はしゃがみこんだ。
表面は乾いていたが、指で払うとすぐ下に湿り気があった。土の匂いが立ち上る。腐った葉、濡れた木、鉄のような苦み。そのなかに、乾いた油に似た匂いが混じっていた。古い道具箱を開けたときの匂いに近い。
土の一部だけが、何度も踏み固められたように硬い。
手のひらで押すと、中央がわずかに沈んだ。根の張りにしては形が不自然だった。円ではなく、細長い跡が、幹から縁側の方へ伸びている。誰かが立ち、向きを変え、同じ場所を踏み続けたような跡だった。
僕は台所を振り返った。
障子の向こうに、母の影があった。動いていない。こちらを見ているのか、ただ立っているだけなのかは分からなかった。
裏手の物置から、小さなスコップを持ってきた。柄を握ると、手のひらに古い木のささくれが触れた。軍手を探すこともできたが、土に触れたかった。何かを掘り出すなら、道具を介さず、自分の手で確かめなければいけない気がした。
刃先を土へ入れる。
湿った土は、思ったより素直に崩れた。スコップが根に当たるたび、乾いた音がする。僕は根を傷つけないように、少しずつ周囲を掘った。汗がこめかみを伝い、首筋へ落ちる。夏着の布が背中に張りつき、土の冷たさと身体の熱が、腕のなかで交互に入れ替わった。
土を三度、四度と掻き出したところで、スコップの先が木に触れた。
硬い音ではなかった。空洞を叩いたような、鈍い音だった。
僕はスコップを置き、指で土を払った。爪の間へ黒い泥が入り込む。土の下から、木片の角が現れた。表面は濡れて黒ずんでいるが、木目はまだ残っている。
さらに掘ると、それは下駄だった。
片方だけが、横向きに埋まっていた。鼻緒は色を失い、布の繊維が土と一緒に固まっている。歯の部分は欠けていない。底には、板の上で何度も擦られた跡があった。前の方だけがつるりと減り、後ろには浅い傷が幾筋も走っている。
僕はそれを持ち上げた。
手にした瞬間、縁側の板の冷たさが足裏へ戻ってきた。
裸足で板を踏む。濡れた木が、皮膚の熱を奪う。少し遅れて、草履の底が擦れる。誰かが歩いているのではない。立ち止まり、戻り、また境目へ近づいている。
記憶の中の祖母は、いつも白い木綿の夏着を着ていた。袖口から細い腕がのぞき、白粉の匂いと石鹸の匂いが近くにあった。僕の頬に触れる布は、洗い立てなのに、どこか湿っていた。
その湿った布の感触が、指先にある下駄の木肌と重なった。
「それ、どこから」
背後で母の声がした。
僕は振り向かず、下駄を土の上に置いた。
「ここから出てきた」
「そんなもの、捨てなさい」
「祖母のものだと思う」
「古い下駄なんて、どこにでもあるでしょう」
「これは、縁側で使っていたものだよ」
母は黙った。
土を踏む靴音が、僕の背後で止まった。恒一だ。彼は工具箱を持っていた。庭の修繕でもするつもりだったのかもしれない。だが僕が掘っているのを見て、足を止めた。
「掘るな」
恒一が言った。
「どうして」
「根を傷める」
「根を傷めないように掘ってる」
「そういう話じゃない」
僕は振り向いた。恒一は柿の木ではなく、僕の手元を見ていた。下駄の汚れた鼻緒。爪の間に入った土。スコップの先。どれも、彼にとっては見慣れたもののはずなのに、ひとつひとつを避けるような目をしていた。
「叔父さんは、これが何か知ってるんだね」
「知らない」
「知らない人は、掘るなとは言わない」
「家のものを勝手に掘り返すなと言っているだけだ」
「家を壊すのは勝手に進めているのに?」
「壊すには手続きがいる。掘るのには要らない。だから危ない」
「何が危ないの」
恒一は答えなかった。代わりに、工具箱の取っ手をなぞった。金属の留め具が、日に焼けた指先で小さく光る。
母が一歩、近づいた。
「透、もうやめなさい」
「母さんも、これを知ってる?」
「知らないわ」
「本当に?」
「本当かどうかを、あなたに説明する必要があるの?」
「僕にはある。三十年前の夜のことを、僕だけ何も知らないままにされているから」
母の顔から血の気が引いた。だが声は平らなままだった。
「知らないままにされたんじゃない。知らないで済むようにしたの」
「同じだよ」
「違うわ」
母はそう言って、エプロンの端を整えた。指先が布を何度も撫でる。言葉を選んでいるのではなく、言葉が出てこないように押さえている仕草だった。
「透。あの頃のあなたは、何も分からない子どもだった。家の中で起きたことを、順番どおりに覚えられる年齢じゃなかった。怖いものを見れば、怖いものとして残る。声を聞けば、その声だけが残る。理由なんて、子どもには必要ないのよ」
「僕が何を見たのか、母さんは知ってる」
「見ていないかもしれない」
「だから、記憶をなくしたの?」
「忘れたのは、あなた自身でしょう」
「僕が自分で忘れたのか、それとも、忘れさせられたのかを聞いている」
母は黙っていた。
風が庭を横切った。柿の葉が一斉に裏返り、濃い緑の上に白い光が走る。どこかで金属が鳴った。盆踊りの櫓を組む音かもしれない。けれど僕には、縁側で鈴が鳴った音に聞こえた。
母が先に目を逸らした。
「掘り出したものは、仏間へ置いて」
「捨てろとは言わないんだね」
「捨てたら、もっと困るから」
その言葉に、恒一が初めて母を見た。
「芽衣」
「何」
「余計なことを言うな」
「もう遅いでしょう」
母の声は小さかった。けれど、その小ささの中に、長く押さえつけていたものが滲んでいた。
「透はもう、音を聞いてる。帳面も見た。ここまで来たら、何も言わないことが守りになるとは限らない」
「言って、何が変わる」
「変わらないから黙るの?」
恒一は口を閉じた。
僕は二人の間にある沈黙を見ていた。家族の会話は、言葉よりも先に終わる。誰かが名前を呼び、誰かが視線を外す。そのたびに、話されなかったものが、床下や天井裏へ押し込まれていく。
「祖母は、これをここへ埋めたの?」
下駄を持ち上げて、僕は聞いた。
「しげは、物を埋める人じゃなかった」
恒一が言った。
「物を置く場所を決める人だった。必要なものは必要な場所へ戻す。使ったものは洗う。戸は順番に閉める。そういう人だ。だから、これがここにあるなら、置き忘れたんじゃない。置いたんだ」
「何のために」

「知らない」
「またそれか」
「本当に知らない。俺は、夜にこれを見た。柿の木の下から出ているのを見た。だが、誰が埋めたのかも、なぜ埋めたのかも、聞かなかった」
「聞かなかったんじゃなくて、聞けなかったんだろう」
恒一の指が、工具箱の取っ手から離れた。
「お前は何も知らないから、そう言える」
「何も知らないままにされたから、聞いてるんだ」
「知らない方が生きられることもある」
「それを母さんも言った」
「だから、正しい」
「正しいのに、叔父さんは家を壊そうとしてる」
恒一は僕を見た。目の奥に、苛立ちよりも疲労が浮かんでいた。
「壊せば、少なくとも形はなくなる」
「形がなくなれば、音も消える?」
「消えると思っている」
「思っているだけなんだね」
「それ以上、どうしろと言うんだ」
声は荒れていない。だが、そこに初めて剥き出しのものがあった。合理性の裏側に隠されていた、逃げ場のない恐怖だった。
「家を残せば、また誰かが聞く。誰かが掘る。誰かが、あの夜を思い出す。だったら、壊す方がましだ。建物なら壊せる。土台も、柱も、縁側も、全部なくせる。なくなれば、少なくとも人間は、なくなったものを理由にして眠れる」
「でも、祖母は戻ってこない」
「戻ってきてほしいのか」
問われて、言葉が詰まった。
僕は下駄を見た。泥の中から現れた木は、長い時間を黙っていた。祖母が履いたものなのか、最後に誰かが履かせたものなのか、それすらまだ分からない。ただ、足音だけは毎夜、ここへ戻ってくる。
「戻ってきてほしいというより、いなかったことにしたくない」
僕は言った。
「それは同じことだ」
「違う。戻すことと、残すことは違う」
「残したものが、残された人間を守るとは限らない」
「それでも、僕は見たい。自分が何を忘れたのか」
母が息を吸った。風呂敷を畳むときのように、両手を胸元で重ねる。
「透。忘れた記憶を取り戻せば、あなたが楽になるとは限らない」
「楽になりたいわけじゃない」
「なら、何を望んでいるの」
僕は答える前に、土の中へ手を入れた。下駄のあった場所から少し離れたところで、指先に硬いものが触れた。
木ではなかった。
白く、滑らかな感触だった。
僕は周囲の土を慎重に払った。白い樹脂の髪留めが、泥の中から現れた。ひびも汚れもほとんどない。埋まっていた時間だけが、そこから抜け落ちているようだった。
母の息が止まった。
恒一は、はっきりと一歩後ずさった。
「それを、見せて」
母が言った。
僕は立ち上がり、髪留めを母の手のひらへ置いた。母は受け取ったものの、指を閉じなかった。掌の中央に白い髪留めを載せたまま、ただ見つめている。
「祖母のもの?」
「そう」
母は即答した。
その速さに、僕はかえって怖くなった。
「どうして分かるの」
「私が、しげに渡したから」
「いつ」
母は答えなかった。
髪留めの白さが、母の掌の皺の中で浮いている。夏の陽射しを受けても温まらず、死人の歯のように冷たく見えた。
「透」
母はゆっくり言った。
「これを持って、仏間へ行きなさい」
「何か知っているなら、話して」
「今は話せない」
「いつなら話せるの」
「夜になったら」
恒一が顔を上げた。
「芽衣」
「もう、足音が来ている」
「来ていない」
「来ていないから、今のうちに言うのよ」
母は僕の目を見た。その眼差しには、怖れと、遅れて届くような愛情があった。子どもの頃、転んだ僕の膝に薬を塗りながら、痛いかと聞かなかった祖母の目に似ていた。痛いと言えば、痛みが本当になる。だから、手だけを動かす。そういう人たちの目だった。
「夕方になる前に、下駄と髪留めを帳面の横へ置いて。戸は、今日は私が閉める。あなたは縁側へ出ないで」
「出たら、何が起きるの」
「帰ってこられなくなる」
「母さんは、前にもそう言った」
「帰る場所が変わるの」
その言葉の意味を尋ねる前に、母は髪留めを風呂敷で包んだ。白い布を二重にし、端をきっちり折る。結び目は固くない。ほどこうと思えばほどける程度の強さだった。だが、ほどくには決められた順番があるように見えた。
その夜、僕は下駄と髪留めを仏間へ持ち込んだ。
帳面の横に下駄を置き、風呂敷から出した髪留めを、その隣へ並べる。物の向きをそろえると、部屋の空気が少しだけ整った。祖母が見ていたら、きっと髪留めの先を下駄の鼻緒へ向けるだろう。そう思って、僕は髪留めの向きを変えた。
その瞬間、仏間の奥で、畳が一度だけ沈んだ。
誰かが膝をついたような音だった。
僕は振り返らなかった。振り返ってはいけないという言葉が、記憶ではなく身体の命令として浮かんだ。
しばらく待ったが、縁側の足音は聞こえなかった。家全体が、音を忘れたように静かだった。外では風が柿の葉を揺らしているのに、三輪家の中だけ、空気が厚く固まっている。
僕は眠らずにいた。
帳面を開き、黒い手帳へ書く。
下駄、一つ。
白い髪留め、一つ。
母は「知っている」と即答した。
恒一は、壊せば音が消えると思っている。
書き終えたとき、庭の方から、ごく小さな圧が伝わってきた。
土を踏んだ音ではなかった。柿の木の根元に、誰かが足を置いたような、地面の沈みだった。
僕は障子を開けた。
庭には何もいない。
ただ、昼に掘り返した土が、少しだけ落ち着いていた。下駄を埋めたときの手の動きが、その上にまだ残っている。誰かが両手で土を寄せ、指の腹で表面を撫で、最後に一度だけ、足で踏み固めたような跡。
その手つきが、自分のものに思えた。
いや、自分の記憶のなかにある、祖母の手つきと同じだった。
僕は口元を押さえた。白粉の匂いがした。障子の隙間から、湿った風が入り込んでくる。仏間の帳面の頁が、誰にも触れられないまま一枚だけめくれた。
紙の上の文字が、月明かりの中で浮かんだ。
音を数えるな。
僕は数えなかった。
それでも、柿の木の下から家へ向かって、裸足のあとがひとつ、またひとつ、濡れた土の上に増えていくのが見えた。
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