第4話 帳面の頁

柿の木の根元に立っていた恒一の背中を思い出すと、僕はまだ喉の奥に湿った空気の重みを感じる。あの夜、家の奥で誰かが音もなく歩き始めた気配は、結局、誰の口からも説明されないまま朝を迎えた。母は味噌汁の鍋を火にかけ、叔父は玄関の鍵を一つずつ確かめ、僕だけが黒い手帳を開いて、書けることの少なさに苛立っていた。
だから僕は、その日の夕方、仏間へ向かった。
仏間の戸は、開けるたびに湿った木の匂いを吐き出した。夏の盆地の夜は、日が落ちても家の芯まで熱を吐ききらない。なのに、仏間の暗さだけは、いつも一歩先に冷えている。線香の匂いが薄く残る畳の上で、遺影の中の祖母はいつも通り穏やかに微笑んでいた。写真の中の顔は、僕の記憶にある祖母よりも若く、そのぶん、よそよそしかった。
帳面は、遺影の脇に立てかけられたままだった。誰かが隠したわけではない。ただ、誰も触れずにきただけだ。手に取ると、紙は古びて、表紙の隅が丸く反っていた。祖母の筆跡を追うことに、僕は自分でも驚くほど躊躇がなかった。怖いというより、触れなければいけないものに、ようやく触れているという感触があった。
指先の汗を吸いこんで、紙はすぐに波打つ。最初の頁には、戸締まりの順が、まるで台所の下拵えのように細かく記されていた。縁側の西側を先に閉めること。夕暮れに戸口へ立つ者は一人だけにすること。呼ぶ声がしても、すぐに返事をしないこと。字は小さく、乱れがなく、必要なことだけを削ぎ落として並べたような硬さがあった。神崎トメが縁側で語った作法と、寸分違わなかった。
頁をめくる指が、次第に速くなった。台所の献立のような書きつけの合間に、時折、意味のとれない一行が挟まる。「西の間の障子、夜は開けぬこと」「呼ばれても、名を呼び返してはならぬ」。そして最後の頁に、ひときわ小さく、こう記されていた。
聞いてはいけない音
僕はそこで息を止めた。紙の上の字が、見慣れた祖母のものであるはずなのに、突然、別の人間の手によるもののように見えた。続く一行は、さらに短かった。
音を数えるな
その下に、筆圧の深く沈んだ横線が一本、引かれている。まるで、そこから先を誰にも越えさせないための溝だった。トメが縁側で言った言葉が、耳の奥でそのまま再生された。――音は、数えたとたんに形を持つ。形を持てば、向こうも気づく。
帳面を閉じることができなかった。頁の隙間から漂う、乾いた白粉の残り香のような匂いが鼻の奥にひっかかり、幼いころの場面を無理やり押し上げてくる。縁側の板の冷たさ。膝に触れる祖母の指の乾いた感触。鈴の細い音。そこまでは、輪郭を持って像を結ぶ。だがそこから先が、墨を流したように黒く抜け落ちている。思い出せない、というより、思い出してはいけない場所に触れたときの冷えが、胸の裏側にじわりと広がっていった。
*
翌朝、僕は帳面を持って台所へ下りた。母は番茶を淹れていて、薄い湯気が朝の光の中で揺れていた。僕は湯呑みの隣に、帳面を開いたまま置いた。「聞いてはいけない音」の頁を、母の目の高さに合わせて。
母は視線を落とした。頁を見る時間は、ほんの二、三秒だったと思う。だが、その二、三秒のあいだ、母の顔からあらゆる表情が抜け落ちた。まるで、顔の筋肉そのものが、何かを堪えるために動きを止めたようだった。
次の瞬間、母は爪先で椅子の足をよけるようにして立ち上がり、帳面をそっと閉じた。乱暴にではない。むしろ丁寧に、傷つけないように。それから鍋に向かい、火にかけた湯がやがて小さく鳴りはじめた。湯沸かしの音だけが、しばらく台所の角を埋めた。
「そういうの、いま触るもんじゃない」
母はこちらを見ずに言った。声は低く、平らだった。
「触るもんじゃないなら、いつ触ればいいの」
「そういう聞き方をするから、疲れるのよ、あんたは」
母は湯呑みを二つ並べた。ひとつは僕の前に、もうひとつは自分の手元に。布巾で湯呑みの縁を拭う指先が、微かに震えていた。乾いた場所を、意味もなく何度も拭っている。
「母さんは、この帳面のことを知ってたんだろう」
「知ってるとか知らないとかじゃないの」
「じゃあ、何なの」

母はようやく僕を見た。疲れた顔だった。怒っているのではない。怒る力を使う前の場所で、何かを両手で押さえているような顔だった。
「透。あんたは、知れば楽になると思ってるんでしょう。全部わかれば、腑に落ちて、夜もぐっすり眠れて、東京へ帰る頃には、これはただの古い家のこわい話でしたって、笑って話せるようになると思ってる」
「そうじゃない」
「じゃあ、何のために掘り返すの」
「掘り返してるつもりはない。ただ、聞こえてしまったから、聞こえなかったことにできないだけだ」
母は湯呑みを持ったまま、しばらく黙っていた。湯気が母の顔の下から立ちのぼり、輪郭をわずかに滲ませた。
「お祖母ちゃんはね」母は言った。「言葉で説明する人じゃなかった。教えるときは、いつも手順だった。戸の閉め方、味噌の仕込み方、縁側の掃き方。理由は言わない。ただ、こうするものだと、身体で覚えさせる人だった。だから私も、理由を知らないまま覚えたことがたくさんある。理由を知らないまま覚えたことを、理由も知らずに透に伝えていいのか、私にはずっとわからなかった」
「それが、この帳面のこと?」
「これだけじゃない」母は僅かに視線を落とした。「あの夜のことも。透、あんたが忘れていることも」
心臓が、ひとつ大きく鳴った。
「僕が、何を忘れてるって言うの」
母は答えなかった。答える代わりに、布巾を畳んだ。角をきっちり合わせて、水切りの隅に置く。何かを断ち切るときの、母の癖のような几帳面さだった。
「母さん」
「透」母は遮るように言った。「聞いてはいけない音、と書いてあるでしょう。お祖母ちゃんは、噓を書く人じゃなかった。あの人が聞いてはいけないと書いたなら、本当に聞いてはいけないの。それが迷信でも、古臭い決まりごとでも、私はそれを守ることでしか、あんたを守れなかった」
「僕を守るって、何から」
母の手が、湯呑みの縁でぴたりと止まった。
「あんたが、あの夜に見たかもしれないものから」
その一言だけを残して、母は流しへ向かった。もう拭う必要のない皿を、また拭き始めた。僕はその背中に、かつて自分を寝かしつけた祖母の手の癖を、無意識に重ねてしまっていた。手順で愛情を運ぶ人と、手順で沈黙を運ぶ人は、もしかしたら同じ血筋の、同じ形をしているのかもしれない。
*
その日の午後、僕は祖母の帳面を持ったまま、縁側に座った。木目の浅い傷を指でなぞると、そこにまだ湿り気が残っている。昼の熱が引かない板は、素足の裏をうっすらと冷やした。裏山から吹く風が、庭の柿の木の葉を擦らせ、障子の白をゆるく揺らしている。音はなかった。ただ、何かが待っている気配だけが、家の背骨に沿って伸びているのを感じた。
黒い手帳を開き、頁の端に「帳面」「芽衣、閉じる」「白粉の匂い」と書きつけた。書いているあいだも、胸の奥では別の音が鳴っていた。紙をめくる指先が、自分でも制御できないほど早くなる。どこかに、もっと先がある。そこへ行かなければ、ここへは戻ってこられない。言葉になる前の予感だけが、喉元まで迫り上がっていた。
庭では、柿の葉の重なりが夕方の光を濃く沈めはじめていた。土の色が、根元のあたりだけ、他よりもわずかに暗く見える。僕はまだそこへ踏み込む決心をつけられずにいたが、帳面を閉じた手の中には、もう後戻りできない重さが残っていた。
← 横にスクロールして読み進められます
