3話 神崎トメの縁

神崎トメの家へ行くことにしたのは、母にも恒一にも言わずに決めた。

朝食のあと、母が洗った茶碗を伏せ、恒一が書斎で紙をめくる音を聞いているうちに、家の中にいることが急に息苦しくなった。昨日から、誰もが何かを知っている顔をしている。けれど、僕が尋ねると、知っていることではなく、尋ね方の方を問題にされた。

外へ出ると、庭の空気は家の中より軽かった。蝉の声が柿の葉に絡みつき、濃い緑の隙間から落ちた光が、濡れた石畳の上で細かく揺れている。夏の陽射しは強いのに、足元には夜の湿りがまだ残っていた。

町へ下りる道は、昔より短く感じられた。その代わり、途中にあるものが少なくなっていた。

酒屋だった建物は、窓に板が打ちつけられていた。道の向かいの家は屋根だけを残して更地になり、雑草の間から、かつての基礎らしいコンクリートが覗いている。小学生の頃、僕はその家の前を通るたび、庭にいた白い犬に吠えられた。犬の名前は覚えていない。だが、鎖が伸びきる直前に鳴る金具の音は、いまも耳の奥に残っている。

町から消えていくのは、人間より先に音なのかもしれない。

そんなことを考えながら、僕は坂を下った。盆地の底には、夏祭りの準備をする人が何人かいた。通りに提灯を吊り、櫓の周りに紅白の布を巻いている。誰もが忙しそうに手を動かしていたが、昔の祭りにあった浮き立つ気配は薄い。音を出すための人手を、町全体でかき集めているように見えた。

神崎トメの家は、町の外れにあった。裏手に小さな畑があり、縁側の下には薪が積まれている。薪の間から、乾いた木の匂いが立っていた。庭の隅で風に揺れる洗濯物は、白い布のままほとんど動かない。風があるのに、家の周囲だけが風を避けているようだった。

玄関脇の戸を叩くと、すぐに返事があった。

「開いとる」

中へ入ると、奥の縁側にトメが座っていた。膝の上に白い布を広げ、細い針を動かしている。針先が布を抜けるたび、糸がかすかに光った。

「神崎さん」

「見れば分かる。入ってきたのは、あんた一人だ」

トメは手を止めずに言った。顔を上げたのは、僕が縁側の板に腰を下ろしてからだった。鋭い目が、僕の顔ではなく、まず足元を見た。それから膝、手、最後に守り袋へ移る。

「しげの孫か」

「はい。三輪透です」

「知っとるよ。子どもの頃、ここへ来たことがある」

「僕が?」

「来た。しげの後ろに隠れて、こっちの顔を見ていた。菓子をやろうとしたら、手だけ出した」

トメの口元が、ごくわずかに緩んだ。

「そのときのことは、覚えていません」

「覚えとらんでも、手は覚えとることがある」

その言葉が、縁側の板を通って足裏へ入ってきたように感じた。僕は膝の上で指を組んだ。考え込むと、指先で膝を叩く癖がある。今日は叩かないようにしていたが、右手の親指が左の爪を何度も撫でていた。

「まだ、聞く気かい」

トメが言った。

声は乾いていた。だが棘はなかった。熱い湯をこぼさないよう、両手で茶碗を包むような慎重さだけがあった。

「聞きたいです」

「何を」

「祖母のことを。あの夜のことを。縁側に聞こえる足音のことを」

トメは針を布に刺したまま、手を止めた。糸の先が膝の上で小さく震えている。

「一度に三つも聞けば、答えも三つに割れる。そういう聞き方をするから、若い者は昔のことを壊す」

「壊したくて来たわけじゃありません」

「壊したくない者は、聞く前に帰る」

「帰れないんです」

言葉が思ったより早く出た。

「家に戻ってから、ずっとそうです。あの音が、ただの足音ではないと分かってしまった。僕は音を聞き分けるのが得意なんです。床板の鳴り方も、風が戸を揺らす音も、人が歩いた音も、だいたい区別できる。だから、気のせいだと言われても納得できない。納得できないまま東京へ戻ったら、たぶん僕は、また十年でも二十年でも、あの家を避けると思います。そうしているうちに、本当に祖母がいなかったことになってしまう」

トメは僕を見なかった。庭の畑に目を向け、枯れかけた茄子の葉を眺めていた。

「いなかったことにはならんよ。いなくなった人間は、いないまま残る」

「残り方が、足音なんですか」

「足音だけとは言っとらん」

「では、何が残っているんです」

「それを知りたいから、ここへ来たんだろう」

返す言葉がなかった。

トメは針を抜き、糸を歯で切った。布を膝の上で四つに折り、端をそろえる。祖母が物を置くときの手つきを思い出した。急須の向き、湯呑みの位置、縁側に脱いだ草履の揃え方。似ていると言えば似ている。けれど、その似ているという感覚自体が、僕の記憶の穴から出てきたものなのかもしれなかった。

「昨夜の音を話してみな」

「裸足で板を踏む音がして、そのあとに草履が擦れました。縁側の端から端まで、往復していた。途中で一度、障子の前まで来た。白粉の匂いがして、庭で鈴が鳴った。僕が持っている守り袋の中の鈴と同じ音でした」

「音を数えたか」

「……数えました」

トメの顔から、わずかな柔らかさが消えた。

「何回」

「数えたくて数えたわけじゃない。記録するために――」

「何回」

僕は黒い手帳を開いた。時刻と、音の間隔と、歩いた方向を書いてある。ページの端が汗で波打っていた。

「十六回です。正確には、十六往復。最後だけ、僕の部屋の前で止まりました」

トメは長いあいだ黙っていた。縁側の下で、薪がひとつ乾いた音を立てた。風で崩れたのかもしれない。だがトメはそちらを見なかった。

「音は、数えたとたんに形を持つ」

「形を持つ?」

「聞こえただけなら、まだ家の中のものだ。板の軋みか、風か、人の足か。けれど数えれば、そこにあるものとして扱うことになる。名前をつけるのと同じだ。名前をつけたものは、呼ばれたと知る」

「では、数えなければよかったんですか」

「そういう話ではない。もう数えたから、そう言っとる」

トメは手元の布を見た。布の一角には、細い糸で小さな輪が縫い込まれている。何かの印のようだった。

「しげは、音を数えるなと言わなかったか」

「祖母が?」

「お前にではない。家の者にだ」

「僕の家には、祖母の帳面が残っています。まだ見つけてはいないけれど、たぶんそこに書いてある」

「見つけてはいないのに、あると思うのかい」

「祖母が残したものは、誰かが捨てない限り残るはずです」

「家を壊す話が出ている」

「だから急いでいるんです」

トメは、そこで初めて僕の目を見た。

「家を壊すのは、建物をなくすことだけじゃない。手順をなくすことだ。戸を閉める順、夕暮れに誰が外へ出て、誰が中へ入るか。そういうものを迷信だと言って捨てたあとで、家の中に何が残っていたのかを知る者はいなくなる」

「祖母は、何かを家の中に残したんですか」

トメは答えなかった。

「夕暮れに家へ入るときは、戸を閉める順がある。玄関、勝手口、縁側、最後に仏間。西を先に閉めて、東をあとにする。外の風を先に抜く。戸口に立つ者は一人だけ。二人いるなら、片方は庭に残る」

「なぜですか」

「順番が崩れるからだ」

「何の順番です」

「家が内と外を分ける順番だよ」

トメの言葉は平坦だった。だからこそ、喉の奥に冷たいものが落ちた。

「それを守らないと、何かが入ってくる?」

「入ってくるものだけなら、まだいい」

「出ていくものもあるんですか」

トメは答えず、縁側の先へ目を向けた。太陽は山の向こうへ傾き、庭の影が長くなっていた。家の中にいるのに、夕暮れが少しずつこちらへ寄ってくる。

「しげは、家を閉めるのがうまかった」

「祖母が、何を閉めていたのか知りたいんです」

「知ったら、あんたも閉める側になる」

「それでもいい」

「よくはない。そう言う者は、閉めることを自分で選べると思っている。しげは選んだんじゃない。選ばされて、最後に自分で引き受けただけだ」

声がわずかに揺れた。トメはすぐに茶碗を取り上げ、乾いた茶をひと口飲んだ。喉を通す音が、妙にはっきり聞こえた。

「祖母は、失踪したんでしょう」

「そう聞いている」

「神崎さんも、そう思っているんですか」

「思うことと、知っていることは違う」

「知っていることを教えてください」

「教えたら、あんたはそれを持って東京へ帰るのかい」

僕は答えられなかった。

足音を聞く前なら、そうしていたと思う。家を売る話も、祖母の失踪も、僕の人生の外側に置いておけばよかった。帰郷は一時的な用事で、家は処分され、記憶は整理される。そういうふうに、母や恒一がしてきたように。

けれど、縁側に残った湿った跡を見てから、僕の中で時間の流れが変わってしまった。過去は後ろにあるのではなく、家の端からこちらへ歩いてきている。

「持ち帰れないなら、ここに置いていきます」

僕は言った。

「何を」

「知ったことを。僕が暮らしていた東京へ持って帰れなくても、少なくとも、なかったことにはしない」

トメはしばらく黙っていた。やがて、膝の上の布を僕の方へ押し出した。縫い込まれた小さな輪が、夕方の光を吸って黒く見えた。

「しげは、あんたに似たことを言ったよ」

「祖母が?」

「言葉は違う。あの人は、余計なことを口にしなかったからね。ただ、帰れないものを帰そうとする顔をしていた」

胸の奥で、鈴が鳴った気がした。実際には守り袋は膝の上にあり、動いていない。

「祖母は、僕に何かを残したんですか」

「残したかもしれない。残さなかったかもしれない」

「それでは、答えになっていません」

「答えを欲しがるねえ」

トメは初めて、少しだけ笑った。笑ったというより、乾いた息が口元から漏れたような表情だった。

「家の中には、答えより先に手順がある。まず閉める。次に待つ。それから、聞こえたものを聞こえたままにしておく。意味を急いでつけると、違うものを呼ぶ」

「僕は、もう呼んでしまったんでしょうか」

「さあね」

「さあね、で済ませないでください」

声が強くなった。トメの家の縁側の下で、また薪が鳴った。僕は反射的に音の方へ顔を向けた。トメは動かなかった。

「済ませているんじゃない。済まないことを、済んだように言わないだけだよ。あんたの家では、みんながそれをやった。しげがいなくなった夜も、その後も。母親も、叔父も、町の者もだ。誰かが言えば、ほかの者も言わなければならなくなる。言葉が続けば、順番が崩れる。だから黙った」

「家族を守るために?」

「守ったと思っているんだろうね」

「違うんですか」

「守るというのは、誰かを中へ入れることだけじゃない。時には、見せないことも守ることになる。ただし、見せないで済ませたものは、消えたわけじゃない。見えない場所で、別の形になる」

その言葉を聞きながら、僕は自分の右手が守り袋を握っていることに気づいた。袋の布は汗で湿り、縫い目が指に食い込んでいた。祖母が僕の手の上に自分の手を重ねた感触が、記憶の底からわずかに浮かぶ。小さな鈴を渡されたのかもしれない。あるいは、握らせたまま何かを言ったのかもしれない。

肝心の言葉だけが、まだ戻ってこない。

帰り際、僕は黒い手帳を閉じた。トメの視線が、表紙の角に残った記録へ向いた。

「それ、毎晩つけているのかい」

「音と時刻を」

「時刻はいらん」

「どうして」

「夜に歩くものは、夜にしか戻れんからだ」

意味を問い返す前に、トメは縫い物を片づけ始めた。針を布に刺し、糸を巻き、茶碗を縁側の隅へ寄せる。帰る者を追い出すのではなく、帰るべき順番を整えているようだった。

僕が立ち上がると、トメは戸口を見た。

「今日は、日が落ちる前に家へ着きな」

「何かあるんですか」

「何もない日ほど、戸は早く閉める」

「神崎さん」

呼び止めると、トメは振り向かなかった。

「祖母は、あの夜、ひとりでしたか」

長い沈黙があった。

「ひとりで歩いていた」

それだけだった。

町へ戻る道は、来たときより湿っていた。夕暮れが山の斜面から下りてきて、道路の端に溜まった水を青黒く染めている。空き家の軒先に吊られた提灯が、まだ灯っていないのに、赤い紙だけで人の気配を作っていた。

味噌汁の匂いが、どこかの家から流れてきた。犬の吠える声が一度だけして、すぐに消えた。町は静かだった。人がいないのではなく、人が音を立てないように暮らしている静けさだった。

三輪家の門が見えたころには、空はほとんど暮れていた。

庭の柿の木の根元が、行きがけより少し盛り上がっている。

僕は足を止めた。

そこに恒一が立っていた。作業着のポケットに手を入れ、何かを待つようでもなく、何かを見張るようでもない。ただ、土の方を見ないまま、土の前にいる。

「叔父さん」

呼ぶと、恒一の肩がわずかに動いた。

「どこへ行っていた」

「神崎さんのところ」

恒一は返事をしなかった。視線は庭の奥へ向いている。柿の葉が重なり、その向こうで家の縁側が暗く沈んでいた。

「祖母の話を聞いてきた」

「そうか」

「戸締まりの順番があるらしいね」

恒一の手が、ポケットの中で動いた。鍵を確かめているのかもしれない。

「古い家には、いろいろある」

「夕暮れに、玄関、勝手口、縁側、仏間の順に閉める」

恒一は僕を見た。初めて、はっきりと目が合った。その眼差しには怒りも驚きもなかった。ただ、見つかってしまった人間の疲れがあった。

「余計なことを聞いたな」

「聞かないで済ませるには、もう遅いと思う」

「遅いとか早いとかじゃない」

「じゃあ何なんだ」

恒一は土の盛り上がりを見た。見たくない場所を、今度は自分から見た。

「まだ、何も出ていない」

その言い方が気になった。

「何か埋まっているの」

「知らない」

「知らない人の立ち方じゃない」

恒一の口元が固くなった。指先がポケットの中で、鍵束を握り直す。金属が布越しに小さく鳴った。

「透。家の中へ入れ」

「何があるのか聞いている」

「暗くなる前に戸を閉める」

「その順番で?」

恒一は答えなかった。

家の奥で、障子が一枚、誰にも触れられないまま鳴った。

風の音ではなかった。

僕と恒一のあいだに、湿った空気が流れ込んできた。白粉と、古い石鹸と、夏着の木綿が濡れたときの匂い。縁側の方から、何かがこちらを向いた気配がした。

恒一は土から離れた。

僕は問わなかった。問えば、答えの代わりに別の音が返ってくる気がした。

家の奥で、誰かが音もなく歩き始めた。

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