2話 夕暮れの戸締まり

朝の光は、障子紙を通るとどこか黄ばんで見えた。

昨夜のことを、誰も口にしなかった。母は普段どおりに味噌汁の鍋を火にかけ、叔父は玄関の鍵を確かめてから、朝刊も取らずに書斎へ籠った。僕は縁側の板の汚れを写真に撮り、手帳に「六月、朝、乾いた粉状」とだけ書いて、それ以上のことはしなかった。誰かに何かを聞くには、この家の朝はまだ早すぎる気がした。

昼が近づくと、蝉の声が濃くなった。庭の柿の木は、記憶にある姿より一回り太く、葉の重なりが濃い緑の反射になって、障子の下半分を白く沈ませている。古い木造家屋というのは、夏になるとこんなにも乾いた匂いを持つものだったろうか。畳の藺草、柱の油、どこかにしまい込まれた樟脳。それらが混ざり合って、僕の記憶にある夏よりも少しだけ、埃っぽく感じられた。

台所では、母が茶碗を洗っていた。背中を丸め、蛇口から出る水音に合わせて、皿の縁を指の腹でなぞっている。僕はしばらくその背中を見ていた。何度か口を開きかけて、そのたびに言葉を選び直した。「昨夜のことだけど」と切り出すのか、「あの足音は」と聞くのか、どちらも唐突すぎる気がした。

「東京の仕事、忙しいの」

僕が口を開く前に、母が言った。

「まあ、それなりに」

「電車、まだ混んでる? この時間だと」

「母さん」

「傘、玄関にいくつかあるから、持って出て。この時期、急に降るから」

「母さん、僕は」

「家、長く空けると戸が固くなるのよ。恒一が去年、蝶番に油を差してくれたけど、それでも湿気を吸うと元に戻る」

どれも間違っていない問いだった。仕事のこと、電車のこと、戸の建て付け。ひとつひとつは、僕を気にかけているからこそ出てくる言葉のはずだ。だが、それらは正確な弾道で、僕が投げようとした問いの手前に落ちた。母は僕の話を遮っているのではない。話す前に、話す場所そのものをずらしているのだ。

「昨日の音のことを、聞きたいんだけど」

僕はもう一度、まっすぐに言った。母の指が止まった。皿を持つ手が、水面の下でわずかに強張る。

「聞きたいことなんて、なかったでしょう」

「あった」

「なかったの」

「僕にはあった」

母は皿を置き、布巾を手に取った。濡れてもいない指先を、布巾で拭う仕草だけが続いた。

「透。あなたは十何年もここに帰ってこなかった。帰ってこなかった人が、一晩でこの家の何を分かった気になるの」

「分かろうとしてる。それのどこが悪い」

「悪くはないわよ。ただ、分かろうとすることが、いつも良い結果を連れてくるとは限らないの」

母はそう言って、布巾を畳んだ。角をきちんと合わせ、水切りの隅に置く。その手つきは、いつも通りだった。何かを断ち切るときの、母の癖のような几帳面さ。僕はそれ以上、何も言えなかった。言えば、母がまた別の話題へ滑っていくだけだと分かっていたからだ。

昼食のあと、僕は家の中を一巡した。仏間の障子を開けると、線香の匂いが微かに残る暗さがあった。遺影の中の祖母は、白黒の写真の中で、いつも通り穏やかに微笑んでいる。畳のへりが、記憶よりも擦り切れている気がした。廊下の床は、踏むたびに違う場所で軋み、その音の高さまで、なぜか身体が覚えていた。台所に戻ると、古い包丁が鈍い光を放って壁に掛かっている。柄の木目が黒く艶を帯び、幾人もの手が握ってきた重みを伝えていた。

急須の取っ手が、右向きに置かれているのに気づいたのは、そのときだった。

左向きのはずだ、と反射的に思った。祖母は物を置くとき、必ず向きをそろえる人だった。急須の取っ手はいつも左、注ぎ口は窓の方を向く。その配置が、なぜ今も自分の中に残っているのか、自分でも説明がつかない。三十年も前に消えた人の癖を、僕はまだ身体のどこかで測っている。

この記憶は、いつのものだろう。

問いを立てた瞬間、記憶の底が薄く濁った。祖母の手が急須を置く場面は思い出せるのに、それを見ていた自分がどこに座っていたのか、何歳だったのか、まったく像を結ばない。曖昧さは、霧のようにやわらかいのに、触れると指先が冷える。

夕暮れが近づくと、恒一が家の中を回り始めた。玄関の鍵、勝手口の掛け金、縁側の戸。ひとつ確かめるたびに、彼はほんの一拍、動きを止める。単に鍵の具合を見ているのではない。何かの手順を、身体で反復しているように見えた。

「毎日やってるの、それ」

僕が聞くと、叔父は振り向かずに答えた。

「毎日じゃない。夕方だけだ」

「意味があるのか」

「意味なんてない。癖だ」

「癖にしては、順番が決まってる」

叔父の手が、勝手口の掛け金の上で止まった。

「順番が決まっている癖もある」

それだけ言って、彼は縁側の障子戸に手をかけた。指の関節が、木枠の継ぎ目をなぞる。長年やってきた者だけが持つ、迷いのない動きだった。だがその動きの奥に、迷いのなさとは違う、何かに追い立てられるような硬さがあるのを、僕は感じ取っていた。

日が傾ききる直前、僕は庭先に立っていた。柿の葉の隙間から差す光が、地面に細かな影を落としている。湿った風が頬をなでたとき、あの音が届いた。

朝よりも近い。

床板を踏む裸足の音、そのあとに続く草履の底の擦れ。戻る音と、戻らない音が、交互にこすれ合うように鳴った。

僕は思わず庭の奥へ足を進めた。柿の葉が細かく揺れ、湿気を含んだ夕方の空気が肌にまとわりつく。縁側の端には誰もいない。なのに、板の上を踏んだあとだけが、濡れたように暗く光っていた。

背後で、足音が止まった。

振り返らなくても分かる。叔父の息が、長く止められている。

「何か見えたか」

その声には、確認の響きがなかった。むしろ、僕が何かを見たと答えることを、あらかじめ拒んでいるような硬さがあった。

「見てはいない」僕は言った。「聞いただけだ」

「聞いた、ってのは」

「叔父さんも、聞いてるんだろう」

恒一は答えなかった。工具箱を持ったままの手が、取っ手の上でわずかに動いた。それだけだった。

「叔父さんが毎日、戸締まりを確かめてるのは、家を守るためじゃないんだろう」僕は続けた。「何かを、外へ出さないためだ」

「屁理屈だ」

「屁理屈でもいい。だったら、僕の言ってることのどこが間違ってるのか、叔父さんの言葉で言ってくれ」

夕暮れの庭に、しばらく沈黙が落ちた。柿の葉のこすれる音と、遠くでかすかに鳴く蝉の声だけが、その間を埋めていた。恒一の視線は、僕を通り越して、縁側の暗がりへ向いていた。

「透」

やがて叔父が言った。声の硬さは変わらないのに、そこに初めて、疲れのようなものが滲んでいた。

「お前がここで何を確かめようと、俺には止める権利がない。だが、確かめた先に何があるか、お前は本当に知りたいのか。知りたいと言うのは簡単だ。だが、知ってしまったものを、お前は元の暮らしに戻して持ち帰れるのか」

「戻せなくてもいい」

「そういう言葉を、俺も昔、口にしたことがある」

その一言だけを残して、恒一は縁側の戸に手をかけ、音を立てずに閉めた。西から、東へ。順番を違えない、身体に染みついた手つきだった。僕は、見えたものより先に、見ないことに慣れた家族の沈黙の重さを、体の奥で受け止めていた。

庭に立ち尽くしたまま、僕は柿の木の根元へ目を向けた。土の色が、周りよりわずかに沈んで見える。何かがそこに埋まっているのではないかという想像が、理由もなく胸の底に落ちてきた。

空はすでに藍色に近づき、家の輪郭が黒くにじみ始めていた。縁側の暗がりに、まだ何かが立っているような気がして、僕はしばらくその場を動けなかった。

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夕暮れの戸締まり - 音の継承 - 誰でも作家life