第1話 縁側に帰る夜

盆地へ下りる最後の坂道で、雨が降り出した。
東京を出るときには、雲の切れ間から夏の光が差していた。駅までの道で汗ばんだシャツが、冷房の効いた特急の中で乾きかけていたのに、山あいへ入った途端、空気は別のものになった。窓ガラスに細かな水滴が増え、対向車のライトが滲む。濡れた杉の匂いが、閉じた車内にまで入り込んでくるようだった。
駅から実家までは歩いた。迎えを頼むほどの距離ではなかったし、母に電話をすれば、きっと「荷物があるなら言いなさい」と言う。そのあとで、来る時間や食事の段取りや、布団を干したかどうかまで話が続く。そういう会話を、帰る前から始める気にはなれなかった。
商店街を抜けると、町は急に暗くなった。閉じたシャッターの並ぶ通りの先で、盆踊りの提灯だけが新しかった。空き地になった場所に、仮設の櫓が組まれている。昔は魚屋だった角も、文房具店だった二軒隣も、今は草の伸びた駐車場だった。人のいない町に、夏の行事だけが昔の手順で残っている。
三輪家の門は、錆びた蝶番を鳴らして開いた。
庭の柿の木は、記憶の中より太くなっていた。枝が屋根へかかり、葉の重なりが夕方の光を濃くしている。玄関へ向かう石畳には、雨で黒く濡れた苔が浮いていた。子どもの頃、祖母のしげに手を引かれて歩いた道だ。あの頃の自分は、石のどこを踏めば靴が濡れないかに夢中だった。しげはいつも少し前を歩き、濡れた石を避けるたび、草履の底を短く擦らせた。
その音を、いまも覚えている。
玄関を開けると、母の芽衣が台所から顔を出した。
「遅かったね。雨、強くなったでしょう」
「駅から歩いたから」
「電話してくれればよかったのに。傘くらい持って行ったのに」
言いながら、母は僕の肩から鞄を取った。昔と同じように、こちらの返事を待たずに動く。鞄を廊下の隅へ置き、濡れた上着を脱がせるようにハンガーを差し出した。その手つきがあまりに手慣れていたので、僕は一瞬、自分が大学へ戻ってきたのか、三十年前の夏に帰ってきたのか分からなくなった。
台所の卓上には、書類の束が置かれていた。母はそれをすぐに脇へ寄せたが、角のそろった紙の一番上に、解体工事という文字が見えた。
居間では、叔父の恒一が携帯電話を耳に当てていた。
「はい。来週の火曜で。ええ、立ち会いは私がします。残すものは、こちらで先に分けますから」
僕に気づいても、叔父は片手を上げただけだった。声は低く、短い。電話を切ると、画面を確認し、机の端に置いた。何かを決めた人間の仕草だった。
「久しぶりだな」
「うん。叔父さんも、変わらないね」
「変わらない方が困る家だ」
叔父はそう言って、居間の奥へ目を向けた。縁側の障子は閉じられている。雨の向こうで庭がぼんやりと白く、柿の葉だけが濃い影になっていた。
母が台所から声をかけた。
「透、荷物は二階に置いて。布団は出してあるから」
「この家、解体するの?」
「その話は夕飯のあとでいいでしょう。まず着替えて。風邪を引くから」
母はそう言いながら、卓上の書類をもう一度角までそろえた。紙の端を指の腹で撫で、わずかなずれも許さない。僕はそれを見ていた。母は昔から、何か困ったことが起きると、物の位置を整えた。食器棚の皿、台所の布巾、玄関の靴。整った場所が増えるほど、母の顔から表情が消えていく。
二階の部屋は、子どもの頃のままではなかった。壁際に段ボールが積まれ、古い本棚は空になっている。窓を開けると、雨の匂いと一緒に、濡れた柿の葉が擦れる音が入ってきた。
机の引き出しに、擦り切れた夏用の上履きが残っていた。片方だけ、泥の跡が黒くこびりついている。僕はそれを手に取ったが、いつ、どこで汚したのか思い出せなかった。祖母の失踪後、家に戻らなくなったことは覚えている。その前の夏に何があったのかは、写真の裏側だけが抜け落ちたように曖昧だった。
下から母の声がした。
「透、ご飯できたよ」
食卓には、薄味の煮物と焼き魚、それから冷めかけた茶が並んでいた。母は箸を人数分並べたあと、僕の箸だけを一度持ち上げ、置き直した。叔父は見積書を脇に置き、眼鏡を外して畳んだ。
「明日、役所に行く」と叔父が言った。「名義の確認がいる。家を売るなら、先に片づけるものを決めないといけない」
「売ることは、もう決まってるの?」
「決めないと、傷むだけだ。屋根も、床下も、去年から見てもらっている。直す金をかけて残す理由はない」
「理由なら、あるんじゃないかな」
言ってから、僕は自分でも意外だった。家を残したいと思っているわけではない。十数年も帰らなかった僕が、いまさら所有者のような顔をする資格もない。ただ、叔父の言う「理由がない」という言葉の中に、祖母の不在まで一緒に片づけられる気がした。
叔父は眼鏡を畳の脇へ置いた。
「住んでいない人間には、理由に見える。住んでいる人間には、修繕費と固定資産税と、雨漏りした天井だ」
「僕は、祖母のことを言ってる」
母の手が止まった。箸を持っていた指が、ほんの少しだけ強く握られる。
叔父は僕を見なかった。
「しげの話をして、家が直るのか」
「直すつもりはない。ただ、いなかったことにはしたくない」
「いなかったんだよ」
「行方不明になっただけだろ」
「同じだ」
叔父の声は大きくなっていない。だからこそ、言葉の硬さだけが卓上に残った。母が煮物の器を少し奥へ押した。食べる場所を整えるように、会話の逃げ道を作るように。
「透、長旅で疲れてるでしょう。解体の話は明日でいいから」
「母さんは、あの夜のことを覚えてる?」
聞いた瞬間、雨の音が遠のいた。
母は僕を見ず、空になった湯呑みを布巾で拭き始めた。すでに乾いているのに、縁を何度も撫でている。
「何の夜?」
「祖母がいなくなった夜」
「ずいぶん昔のことでしょう」
「僕が、何か見たんじゃないかと思ってる」
布巾が止まった。
「見てないわよ」
「どうして分かるの」
「分かるもの」
「僕が覚えていないだけかもしれない」
母はようやく顔を上げた。疲れているように見えた。怒っているのではない。怒る力を使う前に、何かを押し込めている顔だった。
「覚えていないことを、無理に思い出さなくていいの。人間はね、全部覚えていれば強くなれるわけじゃない。忘れたまま生きた方がいいこともあるの」
「それは、母さんが決めることじゃない」
「決めたのは私じゃない」
「じゃあ、誰が決めたの」
母は答えなかった。布巾を畳み、端をそろえた。台所の流しから、水が一滴落ちる音がした。
叔父が時計を見た。
「食べろ。冷める」
「叔父さんは、何か聞いたんだろ」
「何も」
「見た?」
「何も見ていない」
「なら、どうしてそんなに家を壊したがるんだ」
恒一の指が机の角に触れた。三度、軽く叩いた。癖なのだろう。あるいは、何かを数えかけてやめたのかもしれない。
「壊したがっているんじゃない。終わらせたいだけだ」
「何を」
「この家にかかる手間を」
「それだけ?」
叔父は返事をしなかった。母が僕の茶碗に煮物を取り分けた。鶏肉の皮がひとつ、汁の中で揺れた。

「透」と母が言った。「今夜は寝なさい。明日になれば、東京へ戻る日までの予定を決めるから。しげのことを調べるなら、帰ってからにして」
その名前が、母の口から出たのは、僕が帰ってきて初めてだった。
祖母しげ。
音になった途端、家のどこかで木が鳴った。
ぱき、と乾いた音だった。風で戸が動いたのかと思った。だが次に、板を踏む音がした。
裸足の足裏が、濡れた縁側を踏む。
ひとつ。
続いて、草履の底が擦れた。
す、と薄い音が障子の向こうを横切る。
僕は箸を置く前に、それが祖母の歩き方だと知った。しげは足音を立てない人だった。けれど、縁側を歩くときだけ、左足のあとに右の草履を少し遅らせた。幼い僕はその間隔を面白がって、祖母の後ろを真似して歩いたことがある。
左へ行く。
戻る。
右へ行く。
戻る。
障子の向こうには誰もいないはずなのに、板は順番に沈み、家の端から端へ音が移っていった。
「今の、聞こえたろ」
口にしたつもりだった。だが声にはならなかった。
母は湯呑みを拭いていた。目を伏せたまま、同じ場所を何度も撫でている。叔父は時計を見ていた。秒針が十二を越えたところで、彼の指が机の角を三度叩いた。
僕は立ち上がった。
「どこへ行くの」
母の声は平らだった。
「縁側を見てくる」
「やめなさい」
「誰もいないなら、見れば分かる」
「分からなくていいこともあるの」
「母さんは、分かってるんだろ」
母は布巾を置いた。両手を膝の上にそろえ、僕をまっすぐ見た。
「分かっているから言ってるの。あの音を追うと、帰れなくなる」
「どこへ?」
「ここへ」
答えの意味がつかめないまま、僕は障子へ目を向けた。
音が止まった。
止まったのに、誰かがまだ縁側に立っている気がした。障子一枚の向こうに、濡れた足裏と、白粉の匂いをまとった小さな身体がある。見ればきっと祖母だと思う。見なければ、ずっとそう思い続けられる。
やがて、板がもう一度鳴った。
今度は、こちらへ来る音だった。
縁側の端から、障子の前へ。
裸足。
草履。
裸足。
草履。
音が近づくたび、湿った冷気が畳の上までにじんできた。僕の足裏が冷えた。食卓の下で、膝がわずかに震えている。守り袋を握ると、中の小さな鈴が指に触れた。祖母がくれたものだ。いつ、どんな言葉を添えて渡されたのかだけが、どうしても思い出せない。
最後の一歩が、障子の前で止まった。
母は息を止めていた。
叔父は立ち上がり、玄関の鍵を確かめた。鍵束が掌の中で小さく鳴る。
「恒一」と母が呼んだ。
「分かってる」
「順番を」
「分かってる」
叔父は縁側へ向かわなかった。玄関を見て、勝手口を見て、それから仏間の方へ視線を移した。戸締まりを確かめるというより、どこかへ逃げる順番を探しているように見えた。
僕は障子の前に立った。
「透、やめて」
母の声が、初めて崩れた。
僕は指を伸ばした。障子紙の向こうに、影はなかった。ただ、紙の下端だけが湿って暗くなっている。白粉の匂いがした。古い石鹸と、汗ばんだ夏着の布の匂い。祖母に抱かれたとき、頬に触れた木綿の冷たさまで戻ってきた。
指先が障子の桟に触れた。
その瞬間、庭のどこかで小さな鈴が鳴った。
一度だけ。
障子の向こうの気配が消えた。
僕は開けなかった。開けられなかった。家族の誰も動かず、雨だけが屋根を叩き続けた。
夜が深くなってから、僕は客間へ戻った。眠る気にはなれず、布団の上で黒い手帳を開いた。
時刻を書いた。
音の間隔を書いた。
裸足と草履。
白粉の匂い。
鈴、一度。
書き終えたところで、廊下の方から、また板の軋む音がした。今度は縁側ではない。僕の部屋の前まで続く廊下の、もっと近い場所だった。
左へ。
戻る。
右へ。
戻る。
戸締まりを確かめようと立ち上がったが、手は襖の取っ手に届かなかった。音はしばらく続いた。家の中を、誰かが帰る場所を探して歩いているように。
明け方、蝉が鳴き始める少し前に、音は消えた。
朝、縁側の板には薄い汚れが残っていた。裸足の跡と、草履の底が擦れた跡が、交互に細く続いている。濡れているのに、指で触れると冷たい粉のように崩れた。
仏間の遺影の前の畳だけが、少し湿っていた。
母はそこを見ないようにして、味噌汁の鍋を火にかけた。叔父は玄関の鍵を一つずつ確かめていた。僕は何も言わず、黒い手帳を開いた。
書きながら、自分の指先が震えていることに気づいた。
気のせいではない。
そう思った途端、家の空気が、帰ってきたときより少しだけ狭くなった。
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