第9話 柿の木の根

蝉がまだ鳴き出さない朝、僕は庭に出た。
昨日、母と交わした言葉のいくつかが、まだ胸の底で形を変えずに残っていた。透の声だけは、返してよい。あなたから、しげを奪ったのは私たちよ。帰すために歩いているのよ。ばらばらに落ちていたそれらの言葉が、夜のあいだに少しずつ位置を変え、ひとつの輪郭を結ぼうとしているのを、僕は感じていた。輪郭を完成させるには、まだ足りないものがある。そう思う根拠は、理屈ではなく、足の裏に残った土の記憶だった。
柿の木の根元は、数日前に僕が掘り返したまま、誰の手も入っていなかった。土は雨を含んで黒く、表面にだけ薄い乾いた膜が張っている。僕はしゃがみこみ、その膜を指の腹で崩した。下駄と髪留めを取り出したときよりも、もう少し深いところに、何かがある気がした。理由は説明できない。ただ、掘った場所の脇、根の張り出した陰に、まだ触れていない沈みがあった。
スコップの先を差し入れる。土は柔らかく、しかし奥へ進むほど、粘りを増していく。汗が額から落ち、乾いた土の表面に小さな染みを作った。
「まだ、掘るのか」
声のした方を見ると、恒一が立っていた。作業着ではなく、寝間着のままだった。眠っていなかったのだろう。目の下に、いつもより濃い影がある。
「もう一度だけ」
「もう十分だろう」
「十分だと思っているのは、叔父さんだけかもしれない」
恒一は答えず、庭の端に立ったまま、僕の手元を見ていた。止めようとはしなかった。その代わりに、彼は自分の右手をポケットに入れ、鍵束を握りしめる仕草をした。何かを確かめるための儀式のように。
スコップの先が、硬いものに触れた。
木ではない。金属でもない。もっと柔らかく、しかし崩れない感触。僕は手で土を払った。現れたのは、古い布に包まれた小さな塊だった。布はすでに土の色に染まり、輪郭が土と溶け合っている。それでも、指先で持ち上げると、思ったより軽い。
結び目をほどくと、中から出てきたのは、小さな鈴だった。
僕の首にかかっている守り袋の鈴と、同じ形をしている。ただし、こちらの鈴には、紐の先に小さな布切れが結ばれていた。色褪せた木綿の切れ端。かつて誰かの着物の袖口から切り取られたもののように見えた。
「それは」
母の声がした。振り返ると、芽衣が縁側に立っていた。エプロンをつけたまま、片手を口元に当てている。
「見たことがあるの」
「これが、何か知ってる?」
母は縁側から下りず、その場に立ち尽くしていた。
「しげの鈴よ。あなたに渡したのと、対になっていたもの。二つでひとつ。片方は孫に、片方は――」
母はそこで言葉を止めた。だが今日は、布巾を取りに逃げなかった。両手を胸の前で重ね、続きを自分に言い聞かせるように話した。
「片方は、自分の代わりに家に残す人に渡すものだったの。しげは、そう言っていた。誰かがこの家の役目を継ぐとき、鈴が二つ、揃う」
「僕が持っているのは、片方だけだった」
「そう。もう片方は、しげが手放さなかった。ずっと、自分の手元に置いていた。あなたに全部を渡してしまったら、あなたはもう、家の外に出られなくなる。しげはそれを、何よりも恐れていた」
恒一が一歩、前に出た。声は掠れていた。
「あの夜、しげはお前を庭に立たせて、柿の木の方を見せた。そこに何かがいた。俺には見えなかった。だが、しげには見えていた。お前が見ていたものと、同じものが」
「僕は、何を見たの」

「呼んでいるものだ」
恒一の声が、初めて震えた。
「名前も、形もない。ただ、境界の向こうから、家の中の誰かを呼んでいる。しげは、それに応える役目を、代々の女が継いできたと言っていた。応えるというのは、向こうへ行くことじゃない。向こうと、こちらのあいだに、自分の身体を橋のように差し出すことだ。橋になった者は、完全にこちら側にはいられなくなる。かといって、向こうへ渡りきることもない。ただ、行き来する」
「祖母は、それを、僕に継がせようとしたの」
「継がせようとしたんじゃない」
母が言った。
「継がせたくなかったの。だから、あなたの声だけは返してよい、と書いた。あなたが呼ばれても、応えていい。応えて、それで終わりにしていい、という意味よ。継ぐ必要はない。ただ、一度だけ、応えてやってくれ、と。しげはそう考えていた」
「でも、祖母は消えた」
「しげが、代わりに橋になったの。あなたの代わりに」
母の声が、庭の湿った空気の中で低く響いた。
「片方の鈴をあなたに持たせて、もう片方を自分の手元に置いたまま、庭へ出た。恒一があなたを家の中へ引き戻したとき、しげはもう、こちら側に半分しかいなかった。だから、恒一に『渡した』と言った。あなたを、渡したんじゃない。役目を、まだこちらに引き留めておくと約束した、という意味だったのかもしれない」
僕は手の中の鈴を見た。土に濡れて黒ずんだ布切れが、朝の光の中で微かに揺れている。祖母がこれを埋めたのは、僕を家の外へ出すためだった。同時に、自分自身をこちら側に繋ぎとめるための、最後の錨でもあったのだろう。埋めることは、手放すことではなく、留めることだったのだ。
「僕は、これからどうすればいいの」
問いは、恒一にも母にも向けたものではなかった。むしろ、自分自身の喉の奥に向けて放った言葉だった。
「家を売れば、この鈴も、しげの役目も、なかったことになる。何十年か経てば、誰も覚えていない話になる」
恒一が言った。声には、もう合理主義者の硬さはなかった。
「だが、それでいいとは、俺にはもう言えない」
その夜、僕は縁側にひとりで座った。鈴を両手で包み、蚊取り線香の煙が闇へほどけていくのを見ていた。
裸足が板を踏む音がした。次に、草履の底が擦れる。左へ行き、戻り、右へ行き、戻る。三十年間、変わらなかった歩幅だった。
僕は障子を開けなかった。代わりに、手の中の鈴を軽く振った。小さな音が、庭の湿った空気の中へ溶けていく。
足音が、僕のすぐ横で止まった。
「もう、いいよ」
声にならない言葉だったが、確かに口から出た気がした。
「僕が、聞いておく。だから、もう歩かなくていい」
板が、最後にひとつ、深く沈んだ。それきり、音は聞こえなくなった。
翌朝、縁側の板には、もう跡が残っていなかった。ただ、僕の胸の奥に、あの歩幅の記憶だけが、静かに移り住んでいた。柿の木の葉が朝の光を受けて揺れ、庭の土は、もう何も隠していないというように、乾いた匂いだけを立てていた。
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