8話 何も言わない手

昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴る少し前、部室のドアが開いた。

松永蓮が入ってきた。

いつもの顔に見えた。目つきは鋭く、髪は寝癖のように一筋だけ跳ねていて、ラケットケースを肩から下ろす動作も乱暴だった。けれど、よく見ると目の下に薄い影がある。昨日より濃い。眠れていないのかもしれない。

蓮は私を見なかった。

部室の棚へ歩き、ラケットケースを置く。ケースの底が床に触れ、乾いた音がした。普段なら、そのあとに何か言う。昨日のフットワークが遅いとか、飴を食べるのに時間がかかりすぎだとか、わざと腹の立つ言葉を選ぶ。

今日は、何も言わなかった。

私は机の上に置かれた飴を見た。朝、ゆかが置いてくれたものだ。包み紙はもう開いていて、口の中には甘さの名残が少しだけ残っている。赤い飴は、時間をかけて喉の奥をほどいてくれた。

でも、蓮に聞きたいことは、飴ではほどけなかった。

昨日、どうしてプリンを買ったのか。

どうして二つだったのか。

どうして半分にしたのか。

歩道橋の上で聞いた。けれど、蓮は「一緒に持つだけだろ」と言ったあと、すぐにプリンの話へ戻った。私はそれ以上、聞けなかった。

今日は聞かなければならない気がした。

蓮の隣にある机へ、視線を落としたまま声を出す。

「蓮」

「何」

返事は短かった。けれど、聞こえている。

「あれ……なんで」

喉の奥で一度つかえた言葉を、どうにか外へ押し出した。

蓮は棚の上に置かれた缶茶へ手を伸ばした。まだ開けていない缶だった。指先で押し転がすと、缶の底が机の表面をかすかに擦った。

「何が」

「昨日のプリン」

「食っただろ」

「そうじゃなくて」

「じゃあ何だよ」

蓮は缶茶を転がしたまま、こちらを見ない。

聞き方を間違えたと思った。もっと簡単に言えばよかった。ありがとう、と先に言えばよかったのかもしれない。でも、ありがとうだけでは、昨日の夜に残ったものをすべて片づけてしまうような気がした。

「どうして、二つ買ったの」

「棚に二つあったから」

「一つだけでもよかったでしょ」

「俺が二つ食べるつもりだった」

「じゃあ、どうして半分こしたの」

缶の動きが止まった。

蓮は目を上げなかった。長い沈黙が部室に落ちる。廊下では誰かが笑っている。遠くの教室から机を引く音がして、窓の外では校庭の砂を踏む足音が続いている。

部室の中だけ、時間の流れが少し違った。

私は、聞かなければよかったと思い始めた。蓮は感情を言葉にするのが苦手だ。そこへ無理に手を入れたら、昨夜の沈黙まで壊してしまうかもしれない。

「……腹、減ってたから」

蓮が言った。

ぶっきらぼうだった。

けれど、言い訳の軽さはなかった。むしろ、何かを隠すために、いちばん短い言葉だけを選んでいるように聞こえた。

「私も?」

「おまえも」

「私が空腹そうに見えた?」

「見えた」

「どんな顔」

「ひどい顔」

「蓮に言われたくない」

「俺はいつもひどい顔だ」

そこで会話を終わらせようとしたのか、蓮は缶茶を机の端へ置いた。

私はその手を見ていた。

指先に、小さなテーピングの跡が残っている。昨日の試合で擦れたのだろう。ラケットを握る手なのに、爪の脇には紙の切れ端のようなものが入り込んでいた。きっと帰ってから、道具を手入れしたのだ。自分が負けたことを忘れるためではなく、忘れられないまま、いつもの作業を続けたのだと思う。

「蓮は、私が食べれば平気になると思ったの」

「思ってない」

「じゃあ、何のため」

蓮はすぐには答えなかった。

代わりに、制服のポケットへ手を入れる。小銭を探しているような音がした。硬貨が触れ合い、かすかな金属音を立てる。

「これ」

蓮はポケットから、透明なプラスチックスプーンを取り出した。

昨日、私に渡したものと同じ形だった。薄い刃先に傷がなく、包装もまだ開いていない。蓮はそれを私の前へ置いた。

「……予備?」

「そう」

「どうして持ってるの」

「コンビニでもらった」

「もらったのを、ずっと持ってたの?」

「別に。捨てるのが面倒だっただけ」

「昨日、使ったのに?」

「もう一つあったから」

蓮の言葉は、どこまでも素っ気なかった。

けれど、そのスプーンを置く手つきは丁寧だった。机の上で私の指が届く位置を確かめてから、そっと離す。まるで、渡したものが逃げないように見届けているようだった。

私はスプーンを見つめた。

透明な柄の向こうに、窓から差し込む昼の光が白く滲んでいる。昨夜、冷えたプリンの表面を割った感触が、指先へ戻ってきた。柔らかい膜を破る感触。底から上がってくるカラメルの苦さ。容器に触れたスプーンの小さな音。

あのとき、蓮は何も言わなかった。

私が食べるのを急かさず、私が泣かないことも責めず、隣で自分の分を食べていた。

「私、昨日、蓮が何も言わないから、最初は嫌われてるのかと思った」

蓮の眉がわずかに動いた。

「は?」

「負けたから。私が最後の球を取れなかったから。もう話す価値もないのかなって」

「何でそうなる」

「そう思ったんだよ」

「意味がわからない」

「蓮なら、そういうこと言うと思ってた」

「俺を何だと思ってる」

「勝負が終わったら、負けたほうには興味がなくなる人」

蓮は鼻から短く息を吐いた。

「それ、俺が今までそんなことしたか」

「言葉では、似たようなことを言ってた」

「言葉だけだろ」

「言葉って、そういうものでしょ」

少しだけ、蓮の目がこちらを向いた。

「じゃあ、言葉だけで人間を決めるなよ」

「……蓮に言われたくない」

「俺は言葉以外も見てる」

「私の何を見てるの」

聞いた途端、蓮の顔が固まった。

自分で言っておいて、私の喉も狭くなった。問い詰めたいわけではない。ただ、蓮が昨日から何を見ていたのか知りたかった。私の失敗だけではなく、失敗のあとに残った私を見ていたのか。

蓮は机の上のレシートを拾った。細長い紙は何度も折られた跡があり、角が柔らかくなっている。MINI MART桐原駅南店の名前と、プリン二つ、缶茶二本。合計金額が印字されていた。

「おまえの手」

「手?」

「ずっと握ってただろ。ラケットを持ってないのに、ラケットを持つ形で」

私は自分の手を見た。

指は開いている。けれど、意識するとすぐに親指と人差し指が近づき、手のひらが固くなった。

「それが何」

「何でもない」

「何でもなくないから言ったんでしょ」

「……それ以上は言わない」

「どうして」

「言うと、たぶん変になる」

「変になってもいいよ」

「おまえはよくても、俺が嫌だ」

蓮はレシートを折り直した。

「俺は、気の利いたことが言えない。言おうとすると、相手を責めてるみたいになる。大丈夫じゃないやつに大丈夫って言うのも嫌いだし、頑張ったやつに頑張ったって言うのも、何か違う気がする。頑張ったかどうかを決めるのは、言う側じゃないだろ」

「じゃあ、何を言えばいいの」

「知らない」

「蓮も知らないんだ」

「知らない。だから、言わない」

「それで、プリン?」

「それで、プリン」

即答だった。

私はスプーンを指先で押した。机の上を、透明なものが少しだけ滑る。

「プリンを渡せば、気持ちが伝わると思ったの」

「思ってない」

「じゃあ」

「伝わらなくても、食えるだろ」

「話を戻さないで」

「戻してるんじゃない。俺にできるのは、それくらいだ」

蓮はようやく、まっすぐ私を見た。

目の下の影が濃い。平気なふりをするために、昨日からずっと顔を固めていたのだろう。けれど、目だけは隠しきれていなかった。

「おまえが何か言えば、俺はたぶん、余計なことを言う。慰めようとして、負けを軽くする。正しいことを言って、おまえを追い詰める。だったら、同じものを食うほうがまだましだろ」

「同じものを?」

「プリン。缶茶。負けたあとに、同じものを口にする。おまえの痛みを消すためじゃない。消えないままでも、隣にいられるようにするためだ」

私は何も言えなかった。

蓮は視線を逸らし、レシートをまた折った。何度も同じ場所を折るから、紙の中央が白く薄くなっている。

「俺も、昨日の負けを持ってる」

それは、蓮が初めて自分から言ったことだった。

「自分の試合じゃないのに、とか思うなよ。俺だって県大会へ行けなかった。自分が出るはずだった場所に届かなかった。おまえたちの試合を見て、あと一つだったのにって思った。俺なら取れた、なんて言う気はない。あの場にいたのはおまえで、止まったのもおまえだ。でも、負けたのはおまえだけじゃない」

「蓮は、私の負けを自分のものにしてるの?」

「違う」

蓮はすぐに否定した。

「おまえのものは、おまえのものだ。俺が勝手に奪うつもりはない。ただ、全部ひとりで持ってるのを見るのが嫌だった」

「どうして」

「見てられないから」

短い言葉だった。

けれど、その短さの奥に、蓮が昨夜ずっと飲み込んできたものがあった。

「俺も、負けたあと、誰にも話せなかったことがある。話したら、負けが本当に自分のものになる気がした。だから黙って、ひとりで帰った。家に着いても、飯を食っても、ずっとあの球のことを考えてた。誰かに聞かれても、別にって言った。平気だって顔をして、何も受け取らなかった」

蓮の指が、レシートの端をつまむ。

「でも、ひとりで持ってると、負けはどんどん形を変える。最初は一個の失点だったのに、気づくと自分の性格とか、才能とか、これから先の全部まで悪い証拠みたいになる。おまえが昨日してた顔は、それに近かった」

胸の奥が、静かに痛んだ。

「だから、プリンを買ったの」

「だから、買った」

「話すより?」

「話すより、ましだった」

「スプーンを渡すほうが?」

「渡すほうが、まだ正確だった」

蓮はそう言って、スプーンを見た。

「これなら、俺が何を言いたいか、言葉より少しは間違わない」

その言葉が、深く残った。

私はずっと、蓮の沈黙を拒絶だと思っていた。けれど蓮は、言葉を使わないことで、私の悔しさを勝手に別の形へ変えないようにしていたのだ。励ますという名目で、私の負けを奪わないために。

沈黙は、何もないのではなかった。

そこには、触れ方を間違えないように立ち止まる意思があった。

「……ありがとう」

今度は、昨日よりもはっきり声が出た。

蓮は返事をしなかった。

ただ、机の上のスプーンを私のほうへもう少し押した。

「持ってろ」

「何に使うの」

「知らない」

「またそれ」

「使う日が来るかもしれないだろ」

「プリンを食べる日?」

「それでもいい」

私はスプーンを手に取った。

薄いプラスチックが、指の間でかすかにたわむ。軽い。簡単に折れそうで、けれど、折らずに持つこともできる。蓮が差し出したものを、今度は自分から受け取った。

そのとき、部室の外からゆかの声が聞こえた。

「結衣ー? いる? あ、松永もいるじゃん。何、二人で秘密の反省会?」

「違う」

蓮が即答した。

ゆかがドアから顔を出す。いつもの明るさを取り戻しているが、私たちの間にあるものを見て、声の調子を少し落とした。

「そっか。じゃあ、秘密じゃない反省会?」

「反省会でもない」

「じゃあ何してたの」

「スプーンを見てた」

蓮が言った。

ゆかは数秒、黙った。

「……それ、どういう会話?」

「聞くな」

「聞くなって言われると聞きたくなるじゃん」

「おまえは本当に面倒だな」

「結衣、松永がまた悪口言ってる」

「いつものことだから」

そう返すと、ゆかが目を丸くした。

私自身も少し驚いた。蓮の悪口を、いつものこととして受け止められたことではない。悪口を受け取ったあとも、ここにいていいと思えたことに驚いた。

蓮は私を見た。

ほんの一瞬だった。

その視線には、昨日までの競争相手としての鋭さと、今夜から続いている別の静けさが重なっていた。

「次の練習試合、俺と当たるからな」

「急に何」

「昨日の負けを、プリンで終わらせるなってこと」

「終わらせるつもりはない」

「なら、次はコートで返せ」

「蓮こそ、私が負けたからって手を抜かないで」

「誰がそんなことするか」

「じゃあ、ちゃんと勝ちに来て」

「言われなくても行く」

蓮の声に、いつもの棘が戻る。

でも今度は、その棘が怖くなかった。私を切り離すためのものではなく、また同じ場所で競うためのものだとわかる。優しくされたから、競争をやめるのではない。支えてもらったからこそ、次は正面から打ち合える。

私はスプーンを部活バッグの内ポケットへ入れた。

蓮がそれを見ていた。

「捨てないの」

「捨てる理由がないから」

「ただのスプーンだぞ」

「蓮がそう言うなら、返す」

「返すな」

蓮の手が、反射的に伸びた。

けれど途中で止まった。私のバッグに触れる前に、指を引く。何も言わず、代わりにラケットケースのファスナーを閉めた。

その手の動きを見て、私は思った。

蓮は、渡したものを取り戻すのが苦手なのかもしれない。いったん差し出したものは、相手の手元に残しておく。プリンも、缶茶も、スプーンも。自分の気持ちまで含めて、返されることを恐れているのかもしれない。

私はバッグの内ポケットを閉じた。

「明日、プリン買う?」

蓮がこちらを見た。

「勝った日でも?」

「勝ち負けに関係なく」

言うと、蓮の目がほんの少し揺れた。

「……半分こはしない」

「どうして」

「次は一個ずつ食う。普通に」

「昨日は、いつもと違うから半分にしたんでしょ」

「今日は今日だ」

「じゃあ、今日負けたら?」

「そのとき考える」

「また何も言わないかもね」

「おまえもな」

「私は、少し言う」

「少しだけかよ」

「練習中だから」

蓮は、ほんの少しだけ笑った。

笑ったというより、口元の力が一瞬抜けた。けれど、それで十分だった。プリンを食べるときだけ緩む顔とは違う、誰かと同じ場所に立つことを選んだ顔だった。

予鈴が鳴った。

部室の窓から差す昼の光が、床の上をゆっくり移動している。七瀬アリーナの白い照明とは違う。ここには、午後の薄い影がある。机の脚の影、ラケットケースの影、私の手に残るスプーンの透明な輪郭。

ゆかがドアを開けた。

「行こ。次、授業」

「うん」

私は立ち上がった。

蓮も少し遅れてラケットケースを肩へ掛ける。廊下へ出ると、彼は私の歩幅に合わせるでもなく、先を急ぐでもなく、自然に隣へ並んだ。

昨日の帰り道と同じ歩き方だった。

ただ、今日は私のほうから速度を合わせた。

負けたことは消えない。最後の一球の音も、まだ胸の奥に残っている。私はまた、大事な場面で足を止めるかもしれない。次の試合で、同じように自分を責めるかもしれない。

それでも、昨日までとは違う。

負けた私を、私だけのものにしない人がいる。何も言わずに隣へ来て、半分のプリンを差し出した人がいる。言葉の代わりに渡されたスプーンが、今もバッグの中で小さく揺れている。

それは、痛みを消す道具ではない。

痛みを持ったまま、誰かと同じ方向へ歩くための、軽くて透明な手だった。

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