第7話 飴の置き場所

結果一覧を見てしまった翌朝、私は部室の前で立ち止まった。
廊下の窓から差し込む光は、昨日と同じ白さだった。掃除のあとに乾いた床。掲示板の端でめくれかけたポスター。誰かが走っていったあとの、遠ざかる上履きの音。
何も変わっていない。
変わっていないのに、私の身体だけが、まだ七瀬アリーナのコートの中に残っていた。
ドアノブへ手を伸ばす。金属は冷たかった。触れた指先が、ラケットのグリップを握る形に固まる。親指と人差し指が近づき、手のひらが閉じていく。
昨日の最後の一球が、眠っているあいだも消えなかった。
十九対十九。相手のサーブ。ゆかが前へ出る。私の足が、一拍だけ遅れる。見えていたシャトルが、見えていたまま届かなくなる。
ぱし、と床を叩く音。
目が覚めても、音だけは起きていた。
私は一度息を吸い、ドアを開けた。
部室には、朝比奈ゆかが先に来ていた。窓際の机に座り、スマートフォンを伏せたまま、両手で袖口をいじっている。私が入ると、顔を上げた。
「おはよ」
いつもの声より、少し低かった。
ゆかはそれから、机の端に置かれたものへ視線を落とした。
小さな飴だった。
赤い包み紙が朝の光を受けている。角の一つが少し潰れていて、袋の中で誰かの鞄に押されていた時間まで、妙に生々しく残っていた。
「これ、結衣の」
「私の?」
「うん」
ゆかは飴を指で押さえた。包み紙が、かすかに鳴る。
「昨日、喉が痛そうだったから。甘いものなら、少しは楽かなって。……あ、でも無理に食べなくていいよ。食べろって意味じゃなくて、置いとくって意味。置いとくだけなら、私が勝手にしてもいいかなって」
言いながら、ゆかの声が少しずつ速くなる。
「いや、勝手にするのもどうかと思ったんだけど、聞いたら聞いたで、結衣はたぶん『どっちでもいい』って言うし、どっちでもいいって言われたら私が困るし、困るからって勝手に置いたらそれはそれで余計なお世話かもしれないし……」
私は飴を見たまま言った。
「ゆか」
「うん」
「ありがとう」
ゆかの口が閉じた。
ほんの短い言葉だった。けれど、言う前に喉の奥で何度も引っかかった。ありがとうと言うと、昨日のことを受け取ったことになる気がした。誰かに気遣われたことを認めることになる。私はそれが、まだ少し怖かった。
「……取らないの?」
「うん」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、どうして」
「今、手が動かない」
指はまだ、グリップを握っていた。
ゆかは私の手元を見た。何か言おうとして、いったん唇を閉じる。その間が、昨日までとは違っていた。以前なら、沈黙を埋めるためにすぐ別の話を始めていたはずだ。昨日の試合で見かけた変な応援団の話とか、コンビニの新商品とか、どうでもいい話をいくつも重ねて、私が返事をしなくても場だけは動かそうとした。
今日は、動かさなかった。
ゆかは代わりに、私の部活バッグへ手を伸ばした。床に落ちかけていた肩紐を拾い、椅子の背へ掛け直す。
その所作を見ていると、胸の奥が細く痛んだ。
飴を食べさせるのではなく、置いておく。話を聞き出すのではなく、バッグの紐を掛け直す。どちらも、私を立ち直らせるためのものではなかった。ただ、私がここにいるあいだ、困らないようにしているだけだった。
「結衣」
「うん」
「昨日さ」
ゆかは窓の外を見た。校庭の隅で、運動部の生徒がボールを拾っている。朝の空気は冷たく、校舎のガラスに薄い雲が映っていた。
「私、たぶん、また変なこと言うと思う」
「何を」
「昨日みたいなこと。『惜しかった』とか、『次がある』とか。そういう、言われたら腹立つやつ」
「腹立つ」
「だよね」
ゆかは笑おうとしたが、笑いは途中でほどけた。
「私、結衣が黙ってると、何か言わなきゃって思っちゃうんだよ。沈黙が長いと、自分が見捨てたみたいな気がするから。隣にいるのに何もできないと、私のほうが耐えられなくなる。だから、結衣のためっていうより、私が安心したくてしゃべってたのかもしれない」
私は返事をしなかった。
「でも昨日、松永が何も言わずに一緒に帰ってるのを見て、少しわかった。何も言わないって、何もしないのとは違うんだね」
蓮がコンビニの袋を持って歩いていた姿が浮かんだ。赤茶けた遊歩道。濡れた舗装。私を追い越さない歩幅。自動販売機の白い光。缶茶を差し出した手。
そして、二つのプリン。
「蓮は、何もしてないよ」
「プリン買ったじゃん」
「勝手に」
「それを何もしないとは言わないんじゃない?」
ゆかは飴を指先で転がした。
「私には、ああいうことできないから。何か言うしかないと思ってた。でも、言葉って、相手のところへ届く前に、こっちの焦りが混ざるんだよね。元気になってほしい、笑ってほしい、返事してほしい。そういうのが混ざると、励ますっていうより、早く私を安心させてって言ってるみたいになる」
「ゆかは、安心したいの?」
「したいよ」
ゆかは迷わず答えた。
「結衣が黙ってても、私のことを嫌いになってないって安心したい。私が隣にいても邪魔じゃないって知りたい。でも、それを結衣に確認させるのは違うと思うから、今は言わない。……いや、今言っちゃったけど」
私は飴を見つめた。
赤い包み紙の上に、窓の光が細い線になっている。
「私、ゆかに見捨てられると思ってた」
自分の声が、思ったより近くに聞こえた。
ゆかは顔を上げた。
「なんで」
「昨日、最後の球を取れなかったから。私がもう少し早く動けば、ゆかはもっと楽に打てた。私と組んでなかったら、もっと勝てたかもしれない。だから、次は別の人と組みたいって思われると思った」
「私、そんなこと言った?」
「言ってない」
「じゃあ、勝手に決めたの?」
「……うん」
ゆかは、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、責めるものではないとわかるまでに、少し時間がかかった。ゆかは髪を耳へ掛け、窓の外を見たまま息を吐いた。
「私も、昨日の試合を何回もやり直した」
声が低い。
「結衣がもう一歩出てたらって考えた。私が後ろを見ていればって考えた。サーブのあと、前へ出るのが早すぎたかもしれない。結衣の声をちゃんと聞けてなかったかもしれない。私だって、あの一点を自分の中で何度も動かしたよ」
「でも、私は」
「聞いて」
ゆかの声が強くなった。
「結衣が最後の球を取れなかったことは、事実。そこは消さなくていい。私も悔しいし、負けたことは悔しい。でも、結衣だけが悪いことにしたら、私が自分の分まで結衣に押しつけることになる。私は、そんなふうに勝ちたくない」
私は顔を上げた。
ゆかの目の奥には、眠れていない夜の色があった。明るい子は、悔しくないのだと思っていた。笑っていられるなら、もう次を見ているのだと。けれどゆかは、笑いながら自分の痛みを隠していた。
「私、結衣に頼ってたんだよ」
「……頼ってた?」
「うん。長いラリーになったら結衣が拾ってくれるって思ってた。後ろを任せられるって思ってたから、私は前へ出られた。結衣が粘るから、私も無理な球へ行けた。昨日の最後の一球だけで、それまでの全部をなかったことにしないで」
喉の奥が熱くなった。
私は、頼られていた。
それは、失敗したときに責められるという意味ではなかった。誰かが自分の力を信じて、背中を預けていたという意味だった。
「でも、取れなかった」
「うん」
「また、止まった」
「うん」
「中学のときからずっと、同じところで止まる。練習ならできるのに、大事な試合になると、足が自分のものじゃなくなる。だから、私は肝心なところで役に立たない人間なんだと思ってる」
「結衣」
「言わせて」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「ずっと言えなかったから。言ったら泣くと思ってた。泣いたら、みんなが困ると思ってた。だから、負けたら黙って、自分の中で何度も試合をやり直した。私が悪い、私が足りない、私がもっとちゃんとしていればって。そうしていれば、少なくとも誰かに責任を押しつけなくて済むから」
ゆかは目を逸らさなかった。
「それ、責任感じゃないよ」
胸を刺された。
「じゃあ、何」
「自分を罰してるだけ。結衣が全部自分のせいにすることで、私たちは責めなくて済む。でも、私たちは責めてない。結衣が自分を責め続けるから、私たちの言葉が入る場所がなくなる」
私は指を開こうとした。
すぐには開かなかった。何度か力を抜いて、ようやく手のひらが広がる。指の跡が、薄く赤く残っていた。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
「でも」
「謝るなら、次に私へ預けて。全部じゃなくていいから。昨日の負けのうち、半分じゃなくても、ほんの少しでいい。結衣が一人で持ってるものを、私にも持たせて」
蓮の言葉が、別の形で蘇った。
半分、置いていく。
どこに、と聞いた私に、俺に、と答えた声。
私は飴を手に取った。
包み紙が、指の間でかすかに鳴る。固い小さな丸みが、掌の中へ収まる。
「これ、食べてもいい?」
ゆかは少し目を見開いた。
「もちろん」
私は包み紙の端を、できるだけきれいに剥がした。紙が擦れ、赤い飴が現れる。口に入れると、苺の甘さが広がった。けれど甘さだけではなく、あとから酸味が来た。舌の上で固いまま、飴は急には溶けない。
急には溶けない。
そのことが、今はありがたかった。
「……甘い」
「飴だからね」
「でも、少し酸っぱい」
「それがいいんじゃない。結衣、甘いだけのものって途中で飽きるでしょ」
「プリンもカラメルが苦いほうが好き」
「知ってる。だからこれにした」
「覚えてたの」
「覚えてるよ。結衣の好きなものくらい」
その言葉に、私は視線を落とした。
好きなものを覚えていてもらうことが、こんなに心細いとは思わなかった。勝敗や失点とは関係のないところで、自分の輪郭を誰かが覚えている。最後の一球を取れなかった私ではなく、苦いカラメルが好きな私を。
「昨日、プリンを食べた」
飴を舐めながら言った。
「松永と」
ゆかの目が、急に大きくなる。
「えっ、松永と?」
「うん」
「二人で?」
「うん」
「何それ。待って、どういうこと? 松永が誘ったの? あの松永が? 『プリン食うか』とか言ったの? いや、そんなわけないよね。もっと怖い言い方だったでしょ。『食え』とか?」
「だいたい合ってる」
ゆかは両手で口元を押さえた。
「何それ。松永って、プリンを半分こする人だったの?」
「私も知らなかった」
「私だって知らないよ。あの人、甘いものを食べること自体、誰にも見られたくないみたいな顔してるじゃん」
「食べるときだけ、少し顔が緩む」
「見たの?」
「見た」
ゆかは、堪えきれないように笑った。
大きな笑いではなかった。昨日の体育館で空気を動かそうとしていた笑いとも違う。こぼれたものを、そのままこぼしているような笑いだった。
私の口元も、少しだけ動いた。
笑うつもりはなかったのに、飴の甘さと、ゆかの顔がおかしくて、息が喉から漏れた。
笑い終わると、ゆかは静かに言った。
「よかった」
「何が」
「結衣が、誰かと食べられたこと」
その言葉の奥に、ゆか自身の心配があった。ひとりで帰って、ひとりで眠って、ひとりで朝まで負け続けていないかという心配。
「蓮が勝手に買っただけだよ」
「それでも、ひとりじゃなかった」
「うん」
「じゃあ、私も次から、無理にしゃべらない。でも、完全に黙るのは無理。沈黙が苦手だから」
「知ってる」
「だから、黙って隣にいる練習をする。たぶん、髪をいじるし、袖も触るし、変な顔もするけど」
「それはいつものゆか」
「いつもの私を、少し静かにする」
部室のドアが開いた。
西島先生が入ってきた。手には練習記録のノートと、温かい缶コーヒーがある。先生は私たちを見た。飴の包み紙、私の開いた手、机の端に掛け直されたバッグの肩紐。
けれど、何を話していたのかは聞かなかった。
「今日は軽めにする」
部員たちが返事をする。
先生はホワイトボードに、基礎打ちとフットワーク、それからシャトル拾いを書いた。昨日の試合映像を見るという話が出たときも、先生は首を横に振った。
「今日は見ない」
「でも、忘れないうちに確認したほうが」
「忘れない。だから今日は見ない」
先生は缶コーヒーを机へ置いた。
「反省は、逃げない。逃げないから、今日すぐ追いかけなくてもいい」
誰も口を挟まなかった。
「身体が戻っていないときに、頭だけ昨日へ戻すと、足元がなくなる。今日は足元を作る」
先生の視線が、私の靴へ落ちる。
「練習は、できる分だけでいい。できない分まで、今日の自分に払わせるな」
それだけ言って、先生はシャトルの筒を開けた。
私はラケットを握った。
指先には、まだこわばりが残っている。コートへ入ると、シャトルの羽根が空調の風に揺れた。乾いた体育館の匂いが、昨日の記憶を呼び戻す。
ぱん、とシャトルを打つ音。
ぱし、と床へ落ちた音。
身体が、一瞬だけ硬くなった。
そのとき、ゆかが声を出した。
「次、一本」
責めていない。励ましすぎてもいない。ただ、次の球があると知らせる声だった。
私は息を吸った。
「うん」
一拍遅れて、足を動かす。
返球は浅かった。ゆかが前へ出て拾う。私はその後ろへ入り、次の球を待つ。完璧ではない。怖さも消えない。けれど、足は止まった場所からもう一度動いた。
練習の終わり、西島先生が言った。
「今日は食べて寝ろ」
昨日と同じ言葉だった。
けれど今日は、それが逃げ道には聞こえなかった。悔しさを消すためではなく、悔しさを抱えた身体を明日まで運ぶための言葉に聞こえた。
部室へ戻ると、飴の包み紙が机の上に残っていた。私はそれを拾い、ごみ箱へ向かった。
ゆかが後ろから言う。
「それ、こっち」
「わかってる」
「結衣が自分から捨てるの、珍しい」
「何それ」
「なんでもない」
ゆかは少し笑った。
私は包み紙を、ごみ箱へ入れた。
飴はもう、舌の上から消えていた。甘さも酸味もなくなっている。それでも、置かれていた場所だけは残っていた。
机の端。私の席の隣。誰かが、私のために空けておいた場所。
帰り際、部室の窓から見えた廊下は、朝と同じ白さだった。七瀬アリーナの床ではない。桐原南高校の、細かな傷がついた床だ。
私はドアの前で一度立ち止まった。
指先を握る。ほどく。
昨日までなら、握ったまま帰っていたかもしれない。
私は手のひらを開き、足を一歩前へ出した。負けたことは消えない。最後の一球の音も、まだ身体の奥に残っている。
それでも、私は今日ここにいた。
誰かが置いてくれた飴を、すぐには取れなかった。けれど、置かれていることを拒まなかった。
それだけで、昨日までとは少し違う歩き方ができた。
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