第6話 明るさの裏で

翌朝の部室は、いつもより少し声が低かった。
誰も「静かにしよう」と決めたわけではない。窓の外では、登校してきた生徒たちの笑い声がしているし、廊下を走る上履きの音も、階段の踊り場から何度も聞こえてくる。それなのに、部室の中だけは、声を出す前に一度相手の顔を見るような空気になっていた。
私はドアの前で立ち止まった。
昨夜、ゆかに送ったメッセージを思い出す。
《おやすみ。明日、行く》
たったそれだけの文章を送るのにも時間がかかった。行く、と書いたあと、取り消して、また打ち直した。部活へ行くことは、勝つと約束することでも、立ち直ったと見せることでもない。ただ、負けた次の日にも同じ場所へ行くということだった。
それでも、ドアノブに手をかけると、指先がラケットのグリップを握る形に固まった。
私は一拍置いてから、部室へ入った。
「おはよ」
ゆかが言った。
いつもの声より、半音ほど低い。
机の上には、小さな飴がひとつ置かれていた。赤い包装紙が、窓から差し込む朝の光を受けている。包装の端には、ゆかがいつも使っている甘い香りのハンカチの匂いが、かすかに移っていた。
「これ、結衣の」
「……私の?」
「うん。昨日、食べてなさそうだったから」
「食べたよ」
「何を?」
反射的に答えかけて、私は口を閉じた。
プリンを食べた。蓮と半分こした。冷たいカスタードをすくって、カラメルの苦味を舌の奥で感じた。缶茶を飲んで、歩道橋を下りた。そう言えばいいだけなのに、蓮の名前を口にすることが、なぜかひどく難しかった。
「……少し」
ゆかは私の顔を見た。
「少しって、味噌汁?」
「それと、魚」
「ちゃんと食べてるじゃん」
「少しだけ」
「少しでも食べたなら、まあ……いや、違う。ごめん。食事の確認をしたいわけじゃなくて」
ゆかは飴の横に置いていた自分のスマートフォンを手に取り、画面を伏せた。いつもなら、そこから新作のお菓子の話や、昨日の大会で見かけた変な応援団の話が始まる。話題をいくつも用意しているのが、ゆかの癖だった。
今日は、話題を探す手が空中で止まっている。
「その飴、食べていいよ。無理にじゃなくて。喉、まだ痛そうだから」
「顔に出てる?」
「うん」
「出してないつもりだった」
「つもりなのはわかってる」
ゆかは笑いかけた。けれど、口元だけで止まった。
「結衣さ、昨日からずっと、平気な顔をしてるよね」
胸の奥に、細い針が入った。
「平気じゃない」
思ったより早く言葉が出た。
ゆかは少し驚いたように目を瞬いた。私は自分でも驚いていた。平気ではない。それを口にしたのは、七瀬アリーナを出てから初めてだった。
「うん。そうだよね」
ゆかは椅子を引いた。私と向かい合うのではなく、隣の席を空けるように。
「昨日から、何を言えばいいか考えてた。昨日の帰りも、メッセージ打って、消して、打って、消して。『大丈夫?』は違うし、『惜しかったね』はもっと違うし、『次があるよ』なんて言ったら、たぶん自分で自分を殴ると思った」
「殴らないよ」
「心の中で」
ゆかはそう言って、指先で自分の袖口をいじった。
「私、こういうとき、すぐ明るくしようとするじゃん。誰かが黙ってると、何か言わなきゃって思う。冗談を言って、笑わせて、空気を動かして。今までそれで何とかなったこともあったから」
私は机の上の飴を見た。
「でも、昨日の結衣には、それができなかった」
「できなかった?」
「うん。正確には、できると思ったけど、やったら駄目だって途中でわかった。体育館でさ、私が変なこといっぱい言ったでしょ。シャトルの匂いがどうとか、床が熱いとか」
「言ってた」
「あれ、結衣を笑わせたかったんだと思う。でも、私が沈黙に耐えられなかっただけかもしれない。結衣が黙ってるのを見ると、私まで取り残されたみたいで怖くなるから。だから、結衣のためって顔をして、私が安心したかっただけかもしれない」
ゆかの声は、明るさを隠したぶんだけ細くなっていた。
「ゆかが悪いわけじゃない」
「悪いかどうかを決めたいんじゃないの。私、結衣にちゃんと聞きたいんだよ。どうしてほしいのか。でも、結衣はたぶん『どうしてほしいかわからない』って言うでしょ」
「……うん」
「だから困ってる。隣にいてほしいのか、放っておいてほしいのか、普通にしてほしいのか。私が勝手に選んだら、また間違う気がする」
私は返事をしようとした。
でも、ゆかの言葉は、私がずっと避けていた場所へまっすぐ近づいてくる。どうしてほしいのか。何を言われたら楽になるのか。そんなことを考えたことがなかった。誰かに頼る前に、頼らなくても済むようにすることばかり考えていた。
「何もしなくていいよ」
やっと、それだけ言った。
「何もしなくていい?」
「うん。昨日みたいに、無理に話しかけなくていい。私が黙ってても、ゆかまで困った顔をしなくていい」
「それ、結構難しい」
「そうなの?」
「だって、結衣が黙ってると、何か悪いことを言ったかなって思うもん。私が近くにいるのが嫌なのかなとか、部活を続けたくないのかなとか」
「そんなこと、思ってない」
「でも、言われないとわからないよ」
ゆかはそこで一度、深く息を吸った。
「結衣は、何でも自分の中で決めるから。私たちがどう思うかまで、先に決めちゃう。きっと迷惑だ、きっと見捨てられる、きっと組みたくないと思われるって。そうやって、誰にも聞かないまま答えを出す」
指先がまた固くなった。
「……だって、実際に迷惑をかけたから」
「昨日の試合のこと?」
「うん」
「私もミスしたよ」
「ゆかのミスとは違う」
「何が違うの」
「私のは、最後だったから」
「最後なら、結衣だけの責任になるの?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ、何なの」
ゆかの声に、初めて苛立ちが混じった。
普段のゆかは、相手が傷つかないように言葉の角を丸める。けれど今は、その丸めた言葉を机の上へ置き、代わりに手のひらで押さえ込むように話している。
「結衣が最後の球を取れなかったことは、事実だよ。そこを消したくない。私だって悔しいし、昨日の夜、何回も思い出した。結衣がもう一歩出てたらって考えたし、私がもっと後ろを見てればって考えた。でも、そこで結衣だけが悪いってことにしたら、私が自分の責任から逃げることになる」
私は顔を上げた。
ゆかの目は赤くなっていた。泣いてはいない。けれど、明るい色の瞳の奥に、眠れなかった夜が残っている。
「私、結衣に『任せて』って言ったよね。あのとき、前に出たのも私。結衣が半歩遅れたのを見て、私は自分で取れると思った。取れなかった。だから、あの一点は、結衣だけのものじゃない」
「でも、私が動けば」
「私も動けばよかった」
「ゆかは」
「結衣だけが『もし』を使っていいと思わないで」
その言葉に、胸の奥が詰まった。
ゆかは飴を指で押した。赤い包装紙が小さく鳴る。
「私だって、結衣に頼ってた。長いラリーになったら結衣が拾ってくれるって思ってたし、後ろを任せられるって思ってた。だから前へ出られた。結衣が粘ってくれるから、私は無理な位置まで行けた。結衣が最後に取れなかった一球だけ見て、それまで助けてもらった分を全部なかったことにしないでよ」
言葉が、ひとつずつ胸に落ちてきた。
私は、ゆかに頼られていた。
そう考えたことがなかった。頼られることは、失敗したときに責任を負うことだと思っていた。だから、ゆかが前へ出られたのも、私が支えられたからではなく、私が失敗すれば全部崩れる関係だと思い込んでいた。
「私、ゆかに見捨てられると思ってた」
声にした瞬間、自分の中で何かがほどけた。
ゆかの指が止まる。
「なんで」
「昨日の試合で、最後に取れなかったから。ゆかは、私と組まなければもっと勝てたかもしれないって。そう思われるのが怖かった。だから、言われる前に、自分で全部わかってるつもりになってた」
「私、そんなこと言った?」
「言ってない」
「じゃあ、勝手に決めたんだ」
「……うん」
ゆかはしばらく黙っていた。
窓の外で、チャイムが鳴る。遠くの教室から椅子を引く音が重なり、部室の空気が少しだけ学校の時間へ戻っていく。朝の光が机の上を移動し、飴の包み紙に細い白線を引いた。
「結衣」
「うん」
「私、結衣と組みたくないと思ったこと、ないよ」
その言葉を聞いても、胸の奥はすぐには軽くならなかった。信じたいと思うほど、疑う癖が先に出る。言わせているだけではないか。気を使っているだけではないか。そう考えかけた。
ゆかは続けた。
「もちろん、昨日は悔しかった。結衣に腹が立ったわけじゃない。自分にも、相手にも、試合そのものにも腹が立った。帰ってから、お母さんにまで八つ当たりしそうになったから、自分の部屋でラケットケースを蹴った。あとでちゃんと謝ったけど」
「ゆかも、そんなことするんだ」
「するよ。私だって負けたら悔しいもん。ただ、私の場合、悔しい顔をすると場がもっと重くなる気がして、笑ってるだけ。明るくしてれば、みんなが帰れると思ってた」
「それは、嘘なの?」
「嘘じゃない。でも、全部でもない」
ゆかは赤い飴を持ち上げ、私のほうへ差し出した。
「私が明るいのは、本当にみんなに元気でいてほしいから。でも、私が明るくしているあいだ、私自身が悔しいって言わなくて済むのも本当。だから、結衣が黙ってるのを見ると、私のほうまで隠してたものが見えそうになるんだと思う」
私は飴を受け取った。
包装紙の端が、指先に少し食い込む。蓮から渡されたスプーンとは違う感触だった。あのスプーンが冷たく軽いものだったのに対して、飴は小さく固く、手のひらの中で転がった。
「食べる?」
「今?」
「嫌ならいいよ」
「うん。食べる」
包みを開く。
紙が擦れる音が、やけに大きく聞こえた。飴を口に入れると、最初に苺の甘さが広がり、そのあと少し遅れて酸味が来た。甘いだけではない。舌の上で固いまま、時間をかけてほどけていく。
「……甘い」
「飴だからね」
「そうだけど」
「プリンのほうがよかった?」
ゆかの声が、ほんの少しだけいつもの明るさへ戻った。
私は一瞬迷った。
「プリンは、昨日食べた」
「え」
ゆかの目が大きく開いた。
「誰と?」
聞き方が早かった。いつものゆかだった。
「蓮」
「松永と?」
「うん」
「え、何それ。どういう状況? いや、聞いていいやつ? 聞かないほうがいいやつ? でも、プリンって、あのコンビニの?」
「うん」
「二人で?」
「うん」
ゆかは口を開きかけ、閉じた。明るさが喉まで上がってきたのに、そこから先へ出すかどうか迷っているようだった。
「……半分こしたの?」
「そう」
「二つを、半分ずつ?」
「そう」
「松永が?」
「うん」
ゆかは両手で口元を覆った。
「何それ。え、松永ってそういうことする人だったの?」
「私も知らなかった」
「私だって知らないよ。あの人、誰かに飴を渡すより、相手のラケットをへし折りそうな顔してるのに」
「へし折らないよ」
「顔の話」
ゆかは笑った。
今度の笑いは、昨日の体育館で無理に作ろうとしたものとは違っていた。大きくはないが、息が途中で途切れない。私も少しだけ口元を緩めた。
けれど、ゆかはすぐに笑いを収めた。
「でも、よかった」
「何が」
「結衣が、誰かと食べられたこと」
その言葉に、飴の甘さが急に遠くなった。
「食べられたっていうか、蓮が勝手に買って」
「それでも。ひとりで帰らなかったんでしょ」
「うん」
「じゃあ、よかった」
ゆかは飴の包み紙をきれいに折り、机の端へ置いた。
「私も、次からは勝手に明るくしないようにする。でも、完全に黙るのも無理だから、そこは許して。私、沈黙が苦手なの」
「知ってる」
「でも、苦手だからって、結衣の痛みを早く片づけようとはしない。笑えないときに笑わせようとしない。結衣が話せるまで、隣にいる。……たぶん、隣で髪とかいじってるけど」
「それは、ゆかの癖だから」
「そう。癖は急には直らない」
そこまで話したところで、部室のドアが開いた。
西島先生が入ってきた。手には練習記録のノートと、温かい缶コーヒーがある。先生は私たちを見たが、何を話していたのかを尋ねなかった。机の上の飴と、私のラケットを握る手を一度見て、ホワイトボードの前へ立つ。
「今日は軽めにする」
部員たちがそれぞれ返事をする。
先生はメニューを書き込んだ。フットワーク、基礎打ち、シャトル拾い。試合の分析も、反省会もない。誰かが「昨日の映像は」と聞くと、先生は缶コーヒーの蓋を指で押さえながら答えた。
「今日は見ない」
「でも、忘れないうちに確認したほうが」
「忘れない。だから今日は見ない」
短い言葉だった。
けれど、先生の声には、忘れることと休むことを混同しない人の静けさがあった。敗戦を放置するのではなく、今日の身体へ昨日の映像を重ねない。その線を、先生は迷わず引いている。
練習が始まる。
私はラケットを握った。指先のこわばりは、まだ残っていた。シャトルを打つたび、音が体育館の壁へ跳ね返る。ぱん、ぱん、と乾いた音が続く。昨日の最後の一球の音と似ているのに、今日はそのたびにゆかの声が混じった。
「ナイス」
「今の、取れてる」
「もう一回」
明るく言おうとして、ゆかは途中で声を落とす。けれど、今度はその躊躇が痛くなかった。私はシャトルを返しながら、ゆかの足の動きを見る。前へ出るタイミング。半歩下がるときの肩の揺れ。昨日までなら、自分のミスを消すために相手の動きを見ていた。今日は、合わせるために見ようとしている。
何本か続いたラリーのあと、シャトルが私の脇を抜けた。
私は反射的に手を伸ばしたが、届かなかった。
足が一瞬、固まった。
胸の奥へ、昨日の音が戻ってくる。
ぱし、と床を叩く音。
指がラケットの形に丸まった。
「結衣」
ゆかが呼んだ。
責める声ではない。急かす声でもない。
「次、一本」
私は息を吸った。
「うん」
返事の前に、いつもの一拍があった。
でも、今日はその一拍のあとに、ラケットを握り直すことができた。
西島先生が、コートの端からこちらを見ていた。何も言わない。ただ、次のシャトルを手に取り、ゆかへ渡す。
「続ける」
「はい」
ゆかが答える。
シャトルが上がった。
私は足を動かした。完璧にはいかなかった。返球は少し浅くなり、ゆかが前へ出て拾った。ゆかのラケットがシャトルを押し返す。私はその後ろへ入り、次の球を待つ。
一本返すたび、昨日の最後の音が少し遠くなる。
消えるわけではない。忘れるわけでもない。ただ、その音だけで次の動きを決めなくてよくなっていく。
練習の終わり、先生はシャトルの筒を片づけながら、私たちへ言った。
「今日は食べて寝ろ」
昨日と同じ言葉だった。
私は一瞬、七瀬アリーナの白い照明を思い出した。ほどけなかった靴ひも。喉の乾き。スコアボードの数字。あのときは、食べることが逃げ道のように聞こえた。
今日は違った。
食べることは、明日へ戻るために身体をここへ置くことだった。悔しさを消さず、反省を急がず、眠れるところまで自分を連れていくこと。
「先生」
私は呼び止めた。
先生が振り返る。
「はい」
「昨日のこと、まだ考えてもいいですか」
先生は少しだけ間を置いた。
「考えるのは自由だ」
「でも、今日の練習中に何度も戻ってしまって」
「戻ったら、今いる場所を確認しろ」
「今いる場所?」
「体育館だ。昨日のコートじゃない」
先生はそれだけ言い、視線を私の足元へ落とした。
「足があるなら、置き直せる」
私は白線の上へ目を向けた。
床は昨日と同じように硬い。シャトルの羽根が何本か落ちていて、空調の風にかすかに動いている。けれど、昨日と違って、隣にはゆかがいる。少し離れたところでは、蓮がラケットのグリップを丁寧に拭いている。彼は私たちの会話を聞いていたのかもしれないが、こちらを見なかった。
私は机の上に置いていた飴の包み紙を拾った。
ゆかが「それ、ゴミ箱こっち」と言う。
「わかってる」
「結衣が自分からゴミ捨てるの、珍しい」
「何それ」
「いや、昨日からちょっと変わったなって」
私は返事をしなかった。
変わったのかどうかは、まだわからない。負けたことは消えないし、自分が大事な場面で固まることも、明日突然なくなるわけではない。ゆかの言葉を聞いたからといって、次の試合で必ず動けるわけでもない。
ただ、昨日までなら自分の中へ押し込んでいた「悔しい」を、今日はほんの少しだけ外へ出せた。
ゆかはそれを受け取り、軽く流さずに持っていてくれた。
部室を出ると、廊下の窓から朝の光が細く差し込んでいた。床に伸びた光の中へ、私の足が入る。七瀬アリーナの床ではない。桐原南高校の、傷のついた廊下の床だった。
私は一度、立ち止まった。
そして、グリップを握っていた指をゆっくり開いた。
まだ、手のひらには汗が残っている。
それでも、何も握っていない形へ戻ることはできた。
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