5話 温め直された食卓

家に帰ると、玄関の灯りがいつもより長くついていた。

普段なら、日が暮れてしばらくすれば消えている。母は電気代に細かい人ではないけれど、誰もいない場所を明るくしておくのを好まない。なのに今日は、扉のすりガラス越しに、廊下の白い光が外まで漏れていた。

鍵を差し込む。

回す前から、台所の音が聞こえていた。鍋の蓋が触れ合う音。換気扇の低い唸り。湯気を含んだ、醤油と焼いた魚の匂い。

扉を開けた瞬間、その匂いが正面から来た。

「おかえり」

台所から母の声がする。

「ただいま」

返事をしただけで、喉の奥がひりついた。声は出た。けれど、七瀬アリーナで最後に言った「はい」よりも細く、玄関の壁に吸い込まれていくようだった。

母は振り返らなかった。コンロの前で、味噌汁の鍋の蓋をそっと外している。立ち上った湯気が、眼鏡の端を白く曇らせた。焼き魚の皮には、温め直したせいで新しい焦げ目がついている。冷蔵庫の横に置かれた小さな時計は、いつもより遅い時間を指していた。

「手、洗ってきなさい」

「うん」

それだけで終わった。

大会、どうだったの。勝ったの。県大会には行けるの。

そういう言葉は、どこにもなかった。

洗面所で蛇口をひねる。水が指の間を流れていく。試合中にラケットを握り込んでいた手は、まだ少しこわばっていた。親指の付け根に赤い跡が残り、爪の脇には白い粉が入り込んでいる。石鹸を泡立てて擦っても、体育館の床の匂いが取れない気がした。

鏡を見る。

目の下が暗い。髪は雨上がりの湿気で少し膨らみ、頬には体育館の熱がまだ残っている。泣いてはいない。泣いていないのに、泣いたあとみたいな顔をしていた。

バッグを自分の部屋へ置こうとして、途中で手が止まる。

内ポケットの中に、コンビニの袋が入っている。空になったプリンの容器と、折り畳まれた袋。松永のプラスチックスプーンは、制服のポケットから出して、机の端に置いていた。透明な柄に、歩道橋の白い灯りが残っている気がする。

捨てればいいのに、捨てられなかった。

私はそれをもう一度ポケットへしまい、居間へ戻った。

食卓には、焼き魚と味噌汁、それから小鉢が二つ並んでいた。箸は私の席に向かって揃えられている。母は椅子を引き、私が座るのを待った。

「ごはん、少し多いけど」

「食べる」

反射的に答えてから、一拍遅れて椅子に座った。

味噌汁の表面に、薄い油が浮いている。湯気が立ち、出汁と味噌の匂いが鼻へ入ってくる。さっき歩道橋で食べたプリンの冷たさが、まだ舌の奥に残っていた。甘さのあとに来たカラメルの苦味。蓮が何も言わずに差し出したスプーン。容器の底へ触れた、かすかな音。

私は箸を取った。

けれど、魚の身をほぐすことができなかった。

母は向かいに座らず、台所の流しの前で茶碗を拭いていた。私が食べるところを正面から見ないようにしているのかもしれない。見られていないことが、少しだけありがたかった。もし母の目がこちらを向いていたら、私はきっと、箸の動かし方まで隠そうとしてしまう。

「お茶、熱かったら言って」

「うん」

「味噌汁、少し薄めにしたから」

「うん」

「魚は、骨だけ気をつけて」

「うん」

返事ばかりが続く。

母はそれ以上、何も言わなかった。

私は味噌汁を一口飲んだ。熱さが舌に触れ、喉を通る。空腹はあるはずなのに、胃の入口が固く閉じているようで、身体の中へ落ちていかない。焼き魚を箸で小さく崩し、口へ運ぶ。皮の焦げた苦味が先に広がり、身の淡い甘さがあとから追いかけてきた。

プリンとは違う苦さだった。

冷たくもない。柔らかくもない。けれど、その焦げた部分を噛んでいると、なぜか歩道橋の上に戻ったような気がした。蓮が「負けたやつが、負けたやつに何か言うときくらい、綺麗なこと言わなくていい」と言った声が、耳の奥で蘇る。

箸が止まった。

「結衣」

母がこちらを見た。

「なに」

「魚、嫌だった?」

「違う」

「そう」

母はそれ以上、尋ねなかった。

皿の位置を、ほんの少しだけ私のほうへ近づける。焼き魚の皿が木の卓上を滑り、かすかな音を立てた。

その音が、妙に胸へ入った。

「……お母さん」

「うん」

「今日」

声がそこで切れた。

今日、負けた。県大会へ行けなかった。最後の一球が取れなかった。私がもっと早く動けていたら、ゆかの足を引っ張らずに済んだ。私は大事なところでいつも止まる。そう言おうとした。

でも、母の前でそれを言えば、きっと泣く。

泣けば、母は困る。困らせたくない。自分の負けを、家の食卓まで持ち込んで、母に片づけさせたくない。

「今日、遅くなってごめん」

代わりに出てきたのは、それだけだった。

母は布巾を畳んだ。水を絞った布が、手の中で小さく形を変える。

「遅くなるのは、連絡があれば大丈夫」

「うん」

「でも、謝ることではないよ」

「……そうかな」

「そう。大会の日なんでしょう。帰りが遅くなるくらい、最初からわかってる」

母の声は穏やかだった。慰める調子ではない。正しいことを言っているというより、生活の決まりをひとつ確認しているような声だった。

「結果は、聞かないの?」

自分でも驚いた。

母の手が止まった。

「聞いてほしい?」

「わからない」

「そう」

「聞かれないと、自分から言わなきゃいけない気がする。でも、聞かれたら、たぶん言えない」

言葉が出始めると、今度は止めにくかった。

「負けた。県大会、行けない。最後のところで私が動けなくて、ゆかにも迷惑をかけて……たぶん、私がもっとちゃんとしてたら、違った。ずっと練習してきたのに、大事な場面になるとまた同じことをして。中学のときから、何度も……」

母は黙って聞いていた。

「私、いつもそうなの。あと一歩のところで止まる。だから、負けると、試合に負けたっていうより、自分の中身を見られた気がする。ほら、やっぱり役に立たないんだって。誰かと組んでも、最後には足を引っ張るんだって。そう思われる前に、もう自分でそう思っておけば、少しはましだから」

そこまで言って、喉が震えた。

母はすぐに立ち上がらなかった。励ますために近づきもしなかった。私の前に手を伸ばすこともせず、ただ、湯のみの向きを少し整えた。

「結衣」

「うん」

「お母さんは、勝ったか負けたかを聞きたいんじゃないよ」

私は顔を上げた。

「じゃあ、何を聞きたいの」

「今日は、帰ってこられたかどうか」

その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。

「帰ってきたじゃん」

「そう。だから、それでいい」

「それだけ?」

「それだけって言うけどね」

母はようやく椅子へ腰を下ろした。私の向かいではなく、少し斜めの位置だった。

「負けた日に家へ帰るのは、簡単なようで簡単じゃないでしょう。帰ったら結果を聞かれる。がっかりされる。頑張りが足りないって言われる。そう思うと、帰る前にどこかへ行きたくなることもある。お母さんも昔、失敗した日に、家の玄関がいちばん遠く感じたことがあるから」

「お母さんも?」

「あるよ。話したくないのに、どうだったって聞かれて、うまく答えられなくて。答えられない自分がまた嫌になってね。だから、結衣には同じ思いをさせたくない」

母の話を、私は初めて聞いた。

いつも台所にいて、何でも知っているように見える母にも、帰れなかった夜があったのだと思う。誰かに話せず、話せないことまで責めていた夜が。

「でも、何も聞かれないと、私がどうでもいいみたいにも思う」

言ったあと、ひどく幼いことを言った気がした。

母は少しだけ目を細めた。

「どうでもよかったら、玄関の灯りはつけておかないよ」

それだけ言い、味噌汁の鍋へ視線を向ける。

「食べられないなら、残してもいい。でも、食べられるものは少し食べて。明日の結衣の身体は、今日の結衣が作るから」

「明日も、部活に行かなきゃいけない」

「行きたいの?」

質問されて、私は箸を握り直した。

行きたい。けれど怖い。ゆかの顔を見るのが怖い。部員たちの視線を受けるのが怖い。昨日の自分の失点が、みんなの中にも同じ形で残っている気がする。

「……行く」

返事の前に、一拍置いた。

「行きたいかどうかは、まだわからない。でも、行く。行かないと、負けたまま部活までなくなる気がするから」

「そう」

母はうなずいた。

「じゃあ、今日は行くと決めたところまででいいね」

「練習のことを考えなきゃ」

「今日は考えなくていい」

「でも」

「明日のことは、明日の身体で考えなさい。今夜の身体は、食べて寝るためにあるの」

先生と似たことを言う。

けれど母の声には、体育館の外へ送り出すための命令ではなく、ここにいていいという重さがあった。

私はもう一度、味噌汁を飲んだ。さっきより熱さがわかる。出汁の味も、味噌の塩気も、舌へ届いた。焼き魚を少しずつほぐし、今度は二口続けて食べる。

母は何も言わない。

ただ、私の茶が減ると、立ち上がって注ぎ足した。

その間に、スマートフォンが振動した。

卓上で、ぶぶ、と短く震える。

画面には部活のグループメッセージが表示されていた。

《今日はおつかれさま》 《明日の朝、いつも通りでいい?》 《西島先生から、明日は軽めにするって》

誰かが送ったスタンプが、画面の端で小さく跳ねている。明るい顔をした動物の絵だった。普段なら笑うかもしれない。今は、そこまで表情が動かなかった。

続けて、ゆかから個別のメッセージが来た。

《ちゃんと帰れた?》 《返事はいらないよ。おやすみだけでも、明日の朝でもいいから》

私は画面を見つめた。

返事をしなければ。心配させたくない。けれど、「大丈夫」と打つことはできなかった。大丈夫ではない。大丈夫ではないまま帰ってきて、今、母の味噌汁を飲んでいる。

指が入力欄の上で止まる。

《帰れた》    そこまで打って、送信した。

すぐに既読がついた。

《よかった》 《明日、来られそうなら来て。無理なら無理でいいから》

短い文章だった。ゆかにしては、ずいぶん静かだった。

私は画面を伏せた。

「友達?」

「うん。ゆか」

「返事できたのね」

「帰れたってだけ」

「それで十分じゃない」

母はそう言って、空いた皿を見た。

「少し食べたね」

「……うん」

「じゃあ、今日はここまで」

母は皿を下げようとした。

「待って」

自分でも驚くほど早く、手が伸びた。母の手首をつかむほどではない。ただ、皿の端へ指を置いただけだった。

「もう少し、ここにいていい?」

母は私を見た。

「もちろん」

その返事には、理由も条件もなかった。

母は皿を下げず、私の向かいに座った。食卓には、味噌汁の湯気がまだ細く残っている。換気扇の音。時計の針。冷蔵庫が時折立てる低い振動。部屋の中には、言葉にならないものがいくつもあった。

でも、それらは私を追い出さなかった。

私はバッグの内ポケットから、空のプリン容器が入った袋を取り出した。母の目がそこへ落ちる。

「プリン、食べたの?」

「蓮が買ってくれた」

「松永くんが?」

「うん」

「そう」

母は少しだけ笑った。

「半分こした」

「二つを?」

「二つとも、半分ずつ」

説明すると、母は不思議そうに瞬きをした。けれど、意味を尋ねなかった。

私は袋の中の空容器を指でなぞった。もう冷たくない。容器の底に残っていたカラメルも、きれいに食べてしまっている。

「変なやつなんだよ」

「そうなの?」

「口が悪いし。勝手だし。何も言わないくせに、勝手にプリン買って、スプーン押しつけてくるし」

「優しいのね」

「……そういう言い方すると、違う気がする」

「じゃあ、何て言えばいいの?」

私は答えようとして、やめた。

優しい、では足りない。慰めた、でも違う。蓮は私の負けを消さなかった。私が自分を責めるのを止めもしなかった。ただ、半分を持つと言った。

その沈黙が、今も手の中に残っている。

「わからない」

私は言った。

「でも、ひとりで帰らなくてよかった」

母は空の容器を見たまま、静かにうなずいた。

「そう」

それから立ち上がり、食卓の照明を少しだけ落とした。明るすぎない光が、焼き魚の皿と、私の指先を包む。

私は最後に味噌汁をもう一口飲んだ。

体育館の乾いた空気は、まだ口の中に残っている。最後の一球の音も消えていない。明日の部室で、また身体が固まるかもしれない。ゆかに何と言えばいいのかも、まだわからない。

それでも、今夜の私は家に帰ってきた。

結果を言えないままでも、箸を置けないままでも、食卓は片づけられずに残っていた。母は答えを急かさず、湯気の消えかけた味噌汁を温め直し、私の前へ皿を近づけてくれた。

負けた日は、帰ってはいけない日ではなかった。

そのことを、私はまだうまく言葉にできない。

けれど、母の置いた湯のみの温かさと、バッグの内ポケットに残る紙袋のざらつきが、身体のどこかへ静かに届いていた。

スマートフォンが、もう一度だけ震えた。

ゆかからだった。

《おやすみ、結衣》

私は画面を開き、しばらく考えた。

《おやすみ。明日、行く》

送信する。

送ったあと、胸の奥が少しだけ狭くなった。約束したわけではない。勝つとも、もう止まらないとも言っていない。ただ、明日そこへ行くと書いただけだ。

母が空いた皿を下げる。

その背中を見ながら、私はプラスチックスプーンの感触を思い出した。冷たくて、軽くて、捨てられるはずのもの。それなのに、指先に残った重さは消えない。

夜はまだ深くない。

私は部屋へ戻る前に、もう一度だけ味噌汁の鍋から立つ湯気を見た。細い白さが、台所の明かりの中でゆっくりほどけていく。

明日になれば、またラケットを握る。

その手が、最後の一歩を出せるかどうかはわからない。

ただ今夜は、出せない足を抱えたままでも、眠る場所がある。食べられない箸を、母が急かさず待ってくれた。言えない悔しさを、蓮が半分持って帰ってくれた。

その二つの沈黙の間で、私はようやく、目を閉じる準備を始めた。

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