4話 歩道橋の上、言葉の手前

歩道橋の上は、雨上がりの匂いがまだ残っていた。

濡れた金属の手すりに触れると、指先から冷たさがじわりと入り込んでくる。下を走る車の音は、橋の床板を通して、薄い靴底の裏へぼんやり響いていた。駅前の白い灯りが、路面に溜まった水を細長く照らしている。車が通るたび、その光は崩れ、また別の形に戻った。

私は缶茶を両手で握っていた。

冷たさが手のひらに貼りついている。自動販売機から落ちてきたばかりの缶は、試合のあとに持つには少し冷えすぎていた。けれど、その冷たさがなければ、指先がまだラケットを握った形のまま固まっていることに気づけなかったかもしれない。

隣で、松永蓮が缶のプルタブを親指で押していた。

開けるでもなく、閉じるでもない。銀色の輪が、かち、かち、と小さな音を立てる。蓮はそれを何度も繰り返していた。

普段なら、こんな音を出していれば、私はすぐに文句を言っていたと思う。

うるさい、とか。落ち着きがない、とか。試合中はあれだけ相手を見ているくせに、どうして試合が終わると手元ばかりいじるの、とか。

でも今日は、何も言えなかった。

蓮が無言で買ったプリンは、私の手の中にある。ふたはすでに剥がされ、白に近い黄色の表面が、駅前の灯りを薄く返していた。容器の底には、濃いカラメルが沈んでいる。

私はスプーンを持ったまま、まだ一口も食べていなかった。

食べろ、と蓮は言った。

それ以上は言わなかった。

その短さが、今はありがたかった。食べたら元気になるとか、甘いものを食べれば忘れられるとか、そんなことを言われていたら、私はきっとプリンを蓮へ返していた。

負けたことを、甘さで塗りつぶしたくはなかった。

最後の一本は、まだ私の中にあった。

十九対十九。相手のサーブ。ゆかが前へ出る。相手の肩が開く。来る場所が見えていた。私の身体は、そこへ行くための準備をしていたはずだった。

それなのに、足が動かなかった。

ラケット面が一拍遅れ、シャトルが床に落ちた。

ぱし、と乾いた音。

その音を思い出すたび、喉の奥が固くなる。声を出そうとすると、そこに見えない指が差し込まれているようだった。

「……食わないなら、溶けるぞ」

蓮が言った。

「溶けたら、蓮が食べれば」

「二つとも?」

「買ったの、蓮だから」

「おまえの分も買った」

「頼んでない」

「知ってる」

蓮は私を見なかった。缶の縁に口をつけ、少しだけ茶を飲む。喉を通る音が、車の音の合間にかすかに聞こえた。

「頼まれてないから、何も言わずに買った」

「それ、理由になってない」

「俺の中ではなってる」

「変なの」

「うるさい」

いつもなら、そこで言い返していた。けれど今は、その「うるさい」が妙に普通で、少しだけ息がしやすかった。

私はスプーンをプリンの表面へ入れた。

柔らかい膜が、抵抗なく割れる。先端が沈み、淡いカスタードが小さく崩れた。底からカラメルがにじみ、表面に薄い茶色の線を引く。

口に入れる。

冷たさが最初に来た。次に、卵の味と砂糖の甘さ。そのあとから、カラメルの苦味が舌の奥に残る。

甘いだけではなかった。

だから少しだけ、食べやすかった。

私はもう一口すくった。

蓮は自分のプリンを食べながら、こちらを見ていないふりをしている。けれど、私がスプーンを動かすたび、目の端がわずかに揺れた。

「見てるじゃん」

「見てない」

「見てる」

「食ってるか確認してるだけだ」

「同じでしょ」

「違う」

「何が」

「見張ってるのと、確認してるのは違う」

蓮はそう言ったが、説明する気はないらしい。空になった缶を手の中で転がし、手すりの向こうを見下ろした。

私はその横顔を見た。

目つきが鋭い。普段と変わらないように見える。けれど、顎が少し下がっていた。ポケットの中の小銭を弄っていた指も、今は動いていない。

蓮も悔しいのだと思った。

ただ、それを見せないようにしている。

私と同じように。

「どうして何も言わないの」

口に出してから、遅れて後悔した。

蓮の指が止まった。

「何が」

「試合のこと。私のこと。何でもいいけど」

「言ってほしいのか」

「わからない」

「じゃあ、言わない」

「そういうところが嫌い」

「知ってる」

「知ってるなら、少しくらい言えばいいじゃん」

「言ったら、おまえは怒るだろ」

「内容による」

「『惜しかった』は?」

「怒る」

「『次がある』は?」

「もっと怒る」

「『頑張った』は?」

「……たぶん怒る」

「ほらな」

蓮は淡々と言った。

「言えることがない」

「そんなわけない」

「ある。俺はおまえの頭の中を見てない。おまえが何を考えて、どこで怖くなって、何を言われたら楽になるのかなんて知らない。なのに、わかったような顔で言葉を出すのは、ただの押しつけだろ」

私はプリンの容器を見下ろした。

カラメルの黒い筋が、容器の底へゆっくり沈んでいく。

「じゃあ、蓮は何も言わないで、どうするの」

「何もしない」

「プリンを買ったのに?」

「プリンを買っただけだ」

「缶茶も買った」

「飲み物を買っただけだ」

「ここまで一緒に来た」

「帰り道が同じだっただけだ」

私はスプーンを置いた。

「それ、全部偶然ってことにするの」

「偶然でいいだろ」

「よくない」

声が少し大きくなった。橋の下を走る車の音に紛れたが、蓮には届いた。

蓮がこちらを見る。

その目を見た瞬間、胸の奥に押し込んでいたものが、急に形を持った。私はずっと、蓮が何か言ってくれるのを待っていたのかもしれない。私の失敗を否定する言葉ではなく、私がここにいることを確かめる言葉を。

でも、蓮は何も言わない。

何も言わないまま、隣にいる。

そのことが、かえって私を苦しくした。

「私は、最後の一本を取れなかった」

言葉が出た。

喉の奥を塞いでいたものが、少しだけ動いた。

「見えてたのに。相手の肩の向きも、ゆかが前に出たことも。足を出せば届いた。たぶん、届いた。なのに、身体が動かなかった」

蓮は口を挟まなかった。

「私、いつもそう。大事なところになると、身体が固まる。練習なら取れる。普通の試合なら、たぶん、まだ動ける。でも、あと一つで勝てるとか、ここを取れば流れが変わるとか、そういう場面になると、急に足が自分のものじゃなくなる」

自分の声が、遠くから聞こえている。

「中学のときもあった。あと一点で勝てる試合で、同じように動けなかった。高校に入ってからも、何度かあった。だから今日も、やっぱりそうだったって思った。私は肝心なところで役に立たない。練習しても、誰かと組んでも、最後には足を引っ張る」

「結衣」

蓮が私の名前を呼んだ。

止める声ではなかった。

ただ、そこにいると知らせる声だった。

「言わないで」

「何を」

「大丈夫とか、違うとか。そういうの、今は聞きたくない」

「言わない」

「本当に?」

「おまえが嫌がることは、なるべくしない」

「なるべくって何」

「全部は無理だろ。おまえ、面倒だから」

私は俯いた。

笑えなかった。でも、完全に苦しくなることもなかった。

蓮は、慰めようとして言葉を選んでいるのではない。私が壊れないように、言わないものを選んでいる。そのことが、少しずつわかってきた。

「悔しい」

やっと、その言葉を口にした。

言った途端、胸の奥に隠していた熱が、喉を通って外へ出た気がした。悔しい。悔しかった。取れなかったことも、ゆかの前に出られなかったことも、自分がまた同じところで止まったことも。全部、悔しかった。

目の奥が熱くなる。

私は急いで顔を下げた。泣くつもりはなかった。涙にしてしまえば、今まで守ってきたものまで崩れる気がした。

蓮は何も言わなかった。

缶茶の空き缶を、手すりの上に置く。

それから、自分のプリンを一口すくった。甘さを確かめるように、ゆっくり食べる。

私はその音を聞いていた。

スプーンが容器の底に触れる音。かつ、と小さく鳴る。車の走行音の中でも、それだけは近かった。

「蓮は」

「何」

「蓮は、悔しくないの」

「悔しい」

返事は早かった。

「じゃあ、どうして平気そうなの」

「平気そうにしてるだけだ」

「どうして」

「負けた顔をしても、勝ちには変わらないから」

「それ、私にも言ってる?」

「違う」

蓮は空の容器を見ながら続けた。

「おまえは、負けた顔をしてるんじゃない。負けたことを、自分の中で何度もやり直してる顔だ。あの一球を取れたかもしれない、声を出せたかもしれない、立ち位置を変えられたかもしれないって。そうやって、終わった試合を何回も続けてる」

胸を指で押されたようだった。

「それの何が悪いの」

「悪いとは言ってない」

「じゃあ」

「ただ、今日の身体で、昨日の試合をやり直すな」

私は返事ができなかった。

歩道橋の向こうで、電車が駅へ滑り込んでいく。窓の明かりが連なり、夜の街を一瞬だけ明るくした。車輪の音が橋の下を通り抜け、床がかすかに震える。

「悔しいなら、悔しいままでいろよ」

蓮は言った。

「すぐに次へ行こうとするな。忘れなくていい。取れなかった球は取れなかった。負けた試合は負けた試合だ。そこを無理に前向きに変えるから、あとでまた自分に返ってくる。俺は、そういうのが嫌いだ」

「蓮らしい」

「悪かったな」

「悪いとは言ってない」

「顔が言ってる」

私は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

笑ったとは言えない。けれど、笑おうとしなくても、顔の筋肉が少し動いた。

蓮はそれを見て、何も言わなかった。

ただ、空になったプリンの容器を袋へしまい、私の容器が倒れないように袋の底を折った。紙袋のざらつきが、指先に触れる。

「私、負けたままでも、ここにいていいのかな」

気づけば、そんな言葉が出ていた。

蓮はすぐには答えなかった。

目線を駅前へ向けたまま、缶茶のプルタブを一度だけ弾く。今度は開けるためではなく、考えを切り替えるための音に聞こえた。

「それを決めるのは、おまえじゃないだろ」

「でも、私が決めるしかない」

「違う。おまえがここにいるかどうかは、部のやつらも、ゆかも、先生も、それぞれが決めることだ。おまえ一人で全員分を先回りして、見捨てられたことにするな」

「見捨てられるかもしれない」

「かもしれないな」

蓮は否定しなかった。

「でも、見捨てられるかもしれないからって、自分から消えるな。負けたやつが次の日に部室へ行くのは、負けをなかったことにするためじゃない。負けたままでも、そこにいるためだろ」

私は手の中のスプーンを見た。

透明な柄に、駅前の灯りが細く映っている。たった一つの道具だった。使えば捨てられるもの。けれど今は、手の中にあることで、自分がこの橋の上にいることを確かめられた。

「蓮も、明日来るの」

「行く」

「嫌じゃないの」

「何が」

「負けたあとに、また同じ場所へ行くの」

「嫌だよ」

蓮はあっさり言った。

「嫌だけど、行く。嫌だから行かないって決めたら、今日の負けに行き先を決められることになる。それは腹が立つ」

その言葉は、蓮らしい強さをしていた。

勝ちたいから行くのではない。負けたことに、自分の明日まで決めさせたくないから行く。私はその考えを、すぐには自分のものにできなかった。けれど、聞いているうちに、胸の中の重さがほんの少しだけ置き場所を変えた。

「私も行く」

「勝手にしろ」

「でも、また止まるかもしれない」

「止まったら、止まったところから動け」

「簡単に言わないで」

「簡単じゃないから、練習するんだろ」

蓮はそう言って、歩道橋の階段へ向かった。

私は一拍遅れてついていく。

階段を下りる蓮の歩幅は、いつもより少し狭かった。私に合わせているのだと気づいたのは、三段目を下りたあとだった。蓮は振り返らない。けれど、私が一段遅れるたび、歩く速さをわずかに落とす。

置いていかない。

そういう歩き方だった。

階段の踊り場で、私はバッグの内ポケットを開けた。スプーンを捨てる場所は、すぐ近くにあった。自動販売機の横に、小さなごみ箱が置かれている。

けれど、そこへ入れることができなかった。

指先に残る冷たさと、プリンの表面が割れた感触が、まだ消えていない。

私はスプーンをポケットへしまった。

「何してる」

下から蓮が言った。

「別に」

「そういう顔してるときの別には、だいたい何かある」

「蓮だって、何も言わないじゃん」

「俺はいい」

「ずるい」

「何が」

「自分は黙ってていいのに、私には言わせる」

「言わせてない」

「じゃあ、聞いてるだけ?」

「それならできる」

蓮は階段の下で待っていた。

「話したくなったら話せばいい。話したくないなら、黙ってろ。どっちでも置いていかないから」

私は足を止めた。

蓮はそれ以上、何も言わなかった。

駅前の白い灯りが、彼の肩越しに滲んでいる。濡れた路面には、私たちの影が並んでいた。まだ少し距離がある。けれど、さっきよりは離れていない。

私は階段を下りた。

最後の一段を踏む。足裏に、七瀬アリーナの床の感触が一瞬だけ戻ってきた。あのとき止まった足で、今度はちゃんと前へ出る。

それだけの動きだった。

でも、蓮は何も言わず、私の隣へ並んだ。

駅の改札から、電車の発車を知らせる音が聞こえる。缶茶はもう冷たさを失いかけていた。プリンの甘さとカラメルの苦味が、舌の奥にまだ残っている。

負けたことは消えない。

最後の一球の音も、きっと明日まで残る。

それでも私は、その音だけを聞きながら歩かなくていいのだと思った。蓮の靴音が隣にあり、雨上がりの匂いが背中を押し、白い駅前灯が濡れた道を照らしている。

言葉は、最後まで足りなかった。

けれど、その足りなさの中に、ふたりで立てる場所があった。

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