第3話 MINI MART桐原駅南店の白い光

MINI MART桐原駅南店の自動ドアが開いた。
外の夕暮れを歩いてきた目には、店内の白い光が強すぎた。雨上がりの道路に残った薄暗さも、赤茶けた遊歩道の濡れた匂いも、入口を一歩くぐっただけで切り離される。白い天井。白い床。冷蔵ケースのガラスに映る、輪郭の薄い私たち。
電子レンジが低く唸っていた。どこかで店員が商品の袋を並べる音がし、冷蔵ケースの奥では機械が絶え間なく空気を冷やしている。湿ったシャツの袖に、店内の乾いた冷気が触れた。
私は一度、まぶたを細めた。
負けた夜には、こういう光が残酷に見えることがある。何も隠してくれない。顔色も、濡れた髪も、肩から落ちかけたバッグの紐も、全部を同じ明るさで照らしてしまう。試合のあとに残るものは、悔しさだけだと思っていた。けれど白い光の下に立つと、疲れも、空腹も、ひどく遅れて身体へ戻ってくる。
隣の蓮は、私より先に店内へ入った。
振り返らない。私がついてきているか確認することもない。ただ、歩く速度だけは少し落ちていた。
そのまま飲み物の棚へ向かうのかと思った。蓮は試合帰りになると、まず缶茶を探す。甘すぎず、喉に刺さらないもの。自動販売機ではなく、冷蔵ケースのいちばん下の段から、いつも同じ銘柄を取る。
けれど蓮は、飲み物の前を通り過ぎた。
向かったのは、店の奥にある冷蔵スイーツの棚だった。
私は足を止めた。
透明な扉の向こうに、白いラベルのプリンが並んでいる。とろけるカスタードプリン。蓮と私にとって、試合帰りの定番だった。練習試合で勝った日も、負けた日も、駅へ戻る途中であれを買った。
売り切れている日は、蓮が「店の仕入れが下手」と言い、私が「そんなに怒ることじゃない」と返した。けれど、ふたりとも少しだけ残念そうにしていた。冷蔵ケースに二つ残っている日は、それだけで一日の端に小さな勝ちが置かれる。
今日は、勝ちという言葉を聞きたくなかった。
蓮は扉を開け、プリンを二つ取った。
ひとつではなかった。
二つ。
手に取る動きに迷いがない。白い容器を指先で確かめるように持ち上げ、傷がないか見る。乱暴に扱っているようで、こういうときだけ妙に丁寧だ。
「……二つも食べるの」
声が出た。自分でも驚くほど普通の声だった。
蓮は棚を閉めながら、こちらを見た。
「おまえの分」
「私は、別に」
「別にじゃないだろ」
口調はいつもの蓮だった。きつくて、余計な説明がなくて、相手の逃げ道を先に塞ぐ。
「食べられるか、わからない」
「食べられるものを食べろって、先生が言ってた」
「先生に言われたから買うの」
「違う」
蓮はそこで言葉を止めた。
視線が、私の顔から手元へ落ちる。私はバッグの肩紐を握ったまま、指を開けずにいた。試合中と同じ形。ラケットを握るための手。その手で、今は何も握っていないのに、力だけが抜けない。
蓮はプリンを持ったまま、少しだけ顎を引いた。
「腹が減ってる顔してる」
「どんな顔」
「ひどい顔」
「蓮に言われたくない」
「俺はいつもひどい顔だ」
それだけ言って、蓮はレジへ歩き出した。
私は一拍遅れて続いた。
レジには、学校帰りらしい小学生が二人並んでいた。片方が肉まんを指差し、もう片方が新作の菓子を手にしている。笑い声が、店内の白い空気の中で軽く跳ねていた。
私たちのバッグには、体育館の匂いが染みついている。乾いたシャトルの羽根。汗。床に残ったワックス。隣に並ぶ子どもたちからは、雨と甘い菓子の匂いがした。
世界は、私たちが負けたことなど知らないまま動いていた。
それが少し腹立たしく、同時に助かった。
蓮は財布を出した。小銭を数える手つきが早い。けれど、プリンをレジ台へ置くときだけ、容器の底が台にぶつからないように手を添えた。
ピッ、とバーコードを読む電子音がした。
二つ目のプリンにも、同じ音が重なる。
その音が、体育館でシャトルの落ちた音に似ていた。短く、乾いていて、結果だけを機械的に告げる音。
私は反射的に目を伏せた。
蓮が会計を済ませる。店員が「袋、おひとつでよろしいですか」と尋ねると、蓮は一瞬だけ私を見た。
「はい」
レジ袋を受け取った蓮の指に、薄い持ち手が食い込む。
私は何も言えなかった。
店を出ると、外の空気がまた肌へ戻ってきた。濡れた路面から上がる匂い。駅前の車の排気。商店街のどこかで焼き鳥を焼いている煙。白い店内から出たばかりの目には、夕方の街がひどく暗く見えた。
蓮は駅前の歩道橋へ向かった。
「駅、こっちじゃない?」
私は改札の方向を指した。
「食う」
「ここで?」
「歩きながら食うな。こぼす」
蓮はそれだけ言って、歩道橋の階段を上り始めた。
階段の途中に、自動販売機があった。雨に濡れた金属の側面が、白いランプをぼんやり反射している。蓮はそこで足を止めた。プリンの袋を片手に持ち替え、もう片方の手で缶茶を二本買う。
ボタンを押す音がした。
ガコン、と缶が落ちる。
蓮は一本を自分のバッグの脇へ挟み、もう一本を私へ差し出した。
「飲め」
「自分で買える」
「知ってる」
「じゃあ、なんで」
「今のおまえ、財布を出すのに三分くらいかかりそうだから」
「そんなにかからない」
「じゃあ、ここで測るか」
私は缶茶を受け取った。
冷たい。手のひらに金属の温度が移り、こわばっていた指先が少しだけほどける。蓮は私が缶を落とさないのを確認してから、ようやく階段を上がり始めた。
歩道橋の上は、風が強かった。
駅前を走る車のライトが、濡れた道路の上で長く伸びている。商店街の看板はところどころ明かりが切れ、残った文字だけが夜の入り口に浮かんでいた。歩道橋の手すりは湿っていて、触れると掌に冷たさが残る。
蓮は橋の中央で立ち止まった。
袋からプリンを取り出す。
ふたの端を持つ指が、試合中とは別人のように慎重だった。蓮は一度、プラスチックスプーンを指で弾いた。小さく、乾いた音が鳴る。
それから、プリンのふたを剥がした。
ぺり、と薄い音がした。
冷えたカスタードの表面が現れる。白に近い黄色。その下に沈んだカラメルが、容器の底で濃い茶色をしている。照明を受けた表面は滑らかで、わずかに揺れていた。
蓮はもうひとつのふたを開けた。
私の前へ、スプーンを差し出す。
「……これ」
「見ればわかる」
「使え」
「言われなくても使う」
私はスプーンを受け取った。
先端が蓮の指に触れた。冷たくて軽いはずのものが、手の中で妙に確かな重さを持った。
蓮は自分のプリンを見たまま言った。
「半分」
「え」
「半分ずつ食う」
「二つ買ったのに?」
「二つとも半分ずつ」
「それ、意味あるの」
「ある」
蓮は顔を上げなかった。
「一個ずつ食ったら、いつもと同じだろ」
その言葉が、風の中に残った。
いつもと同じ。試合帰りに、それぞれが自分のプリンを食べる。勝った日は少し得意げに、負けた日は何も言わずに。けれど今日は、同じにしてはいけない何かがある。
「今日は、いつもじゃないから」
蓮は続けた。
「勝った日みたいに食うな。負けた日を、なかったことにするために食うな。だから半分。おまえの分と、俺の分。どっちがどっちとかじゃなくて、半分ずつ」
私は蓮を見た。
蓮は相変わらず、私の顔を見ない。視線はプリンの容器へ落ちている。けれど、耳が少し赤くなっていた。自分で言ったことが恥ずかしいのだと思う。
「それ、慰めてるの」
「違う」
「じゃあ、何」
「知らない」
蓮はスプーンを容器へ入れた。
表面が、柔らかく割れる。
す、と抵抗が抜ける感触が、透明な柄を通じて指に伝わった。カスタードの淡い甘さの下から、カラメルの苦い液体がゆっくり流れてくる。蓮はスプーンを持ち上げ、ひと口食べた。
目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その表情を見たのは初めてではなかった。練習のあと、プリンを食べるときだけ、蓮は一瞬、勝負の場から離れる。けれど今日は、その緩みも長く続かなかった。甘さの奥にある苦味を確認するように、蓮はゆっくり噛んだ。
「食べろ」
「……うん」
私は自分のプリンへスプーンを入れた。
表面がぷるりと揺れた。先端が底へ沈み、冷たいカスタードがわずかに崩れる。口に入れると、最初に甘さが広がった。そのあとから、カラメルの苦味が舌の奥へ残る。
甘いだけではなかった。
体育館の乾いた空気でひび割れていた喉に、冷たさが落ちていく。冷たいものを食べているのに、胸の奥のどこかだけが温度を取り戻した。
私はもう一口すくった。
蓮は何も言わない。
車が橋の下を通り過ぎる。タイヤが濡れた路面を擦り、しゃあ、と長い音を残していく。駅の構内から発車を知らせるアナウンスが流れた。言葉は風に散って、意味の一部だけがこちらまで届く。
「……蓮」
「何」
「これ、先に決めてたの」
「何を」
「プリンを買うこと」
「別に」
「二つ買うこと」
「棚に二つあったから」
「半分こすること」
蓮はスプーンを止めた。
そのまま、しばらく動かなかった。
私は答えを待った。聞いてはいけないような気もした。聞けば、この夜に残っている曖昧なものが、言葉によって形を変えてしまう。蓮の沈黙は、まだ名前のついていないものだった。慰めでも、同情でも、励ましでもない。もっと不器用で、もっと対等なもの。
蓮はプリンの容器を見つめたまま言った。
「おまえが、ああいう顔してたから」
「ああいう顔って」
「全部、自分のせいにして、誰にも触らせない顔」
胸の奥で、何かが硬く鳴った。
「触らせないって、何」
「言葉の話だ。誰かが何か言おうとすると、先に閉じるだろ。大丈夫です、平気です、なんでもないですって。あれ、聞いてるほうは何もできない」
「できないなら、放っておけばいいじゃん」
「放っておけるなら、最初から買ってない」
蓮の声は低かった。
「俺は、慰めるのが下手だ。おまえが欲しい言葉を知ってるわけでもない。そもそも、おまえが何を言われたら楽になるのかもわからない。『次がある』とか『惜しかった』とか言えば、たぶん殴られるし」
「殴らない」
「顔は殴る」
「それは……」
言葉が続かなかった。
蓮は一度、缶茶を飲んだ。喉を鳴らす音が、風の中でも聞こえた。
「でも、俺も負けた。俺も、あの体育館から出たくなかった。帰ってからも、たぶんずっと今日の試合を思い出す。だったら、俺が勝った側みたいな顔して、おまえだけを励ますのは違うだろ」
「蓮は、私たちの試合に出てない」
「出てなくても負けたんだよ」
「何が」
「部として。学校として。自分が出るはずだった場所に、おまえらも俺も届かなかった。それで十分だろ」
蓮はそこで、ようやく私を見た。
鋭い目だった。けれど、今は私を追い詰めるための鋭さではない。自分の言葉を引っ込めないための目だった。
「負けたやつが、負けたやつに何か言うときくらい、綺麗なこと言わなくていいだろ。取れなかった球は取れなかった。悔しいものは悔しい。おまえが自分を責めるのも、俺が勝手に止められることじゃない。でも、ひとりで全部持って帰る必要もない」
最後の言葉だけ、少し掠れた。
私はスプーンを握ったまま、プリンの表面を見つめた。
「持って帰らないって、どうするの」
「半分、置いていく」
「どこに」
「俺に」
蓮はそう言ってから、言いすぎたと思ったのか、すぐに目を逸らした。
歩道橋の下を、また車が通った。白いヘッドライトが手すりの隙間から差し込み、蓮の横顔を一瞬だけ照らす。表情は見えた。悔しさを隠している顔。平気なふりをして、そのふりを自分で支えている顔。
私は、初めて蓮の負けを見た気がした。
試合で負けたときの顔ではない。負けを誰にも渡せず、ポケットの中で小銭を弄びながら歩いている顔。私が見ていたのは、私と同じように、何度も最後の一球を打ち直している人だった。
「……蓮も、半分置いていくの」
「何を」
「悔しさ」
「置いていくっていうか」
蓮はプリンをもう一口食べた。
「一緒に持つだけだろ」
その言い方は、あまりに簡単だった。
けれど、簡単なことほど、私にはできなかった。私はいつも、誰かに持たせる前に、自分のものとして抱え込んでいた。重いと言われるのが怖かった。途中で返されるのが怖かった。持てないと言われるくらいなら、最初から誰にも渡さないほうがいいと思っていた。
でも蓮は、持てるとは言わなかった。
軽くしてやるとも言わなかった。
ただ、自分の分もあるから、一緒に持つと言った。
それが、思っていたよりずっと深く胸へ入った。
「私、最後の球を取れなかった」
言葉が、今度は途中で止まらなかった。
「見えてたのに、足が動かなかった。ゆかの前に出るはずだった。あの子が取ってくれると思って、ほんの少し遅れた。たぶん、私がもっと早く声を出していたら、立ち位置を変えていたら、取れた。取れたかもしれない球だった」
蓮は黙って聞いていた。
「中学のときも、同じようなことがあった。大事な試合で、身体が固まった。練習ならできることが、試合になるとできなくなる。だから、私はずっと、自分には肝心なところが足りないんだと思ってる。努力しても、最後に足りなくなる。誰かと組んでも、最後に迷惑をかける。そういう人間なんだって」
喉が痛い。
声を出すたび、内側に擦り傷が増えていくようだった。それでも止められなかった。隣に蓮がいる。話しても、すぐに正しい言葉で塞がれない。話したことを、なかったことにされない。
「だから、負けると、試合に負けたんじゃなくて、自分がばれた気がする。私は大事なところで役に立たない人間だって、みんなに知られた気がして……次も組んでもらえなくなる気がして。ゆかも、先生も、みんな私を見限る気がして。だから、何も言えなくなる。悔しいって言ったら、泣くから。泣いたら、もう戻れないから」
私はそこで、初めて顔を上げた。
蓮はプリンを持ったまま、こちらを見ていた。
何か言おうとしているのがわかった。けれど、すぐには言わなかった。蓮は言葉を選ぶというより、言ってはいけない言葉をひとつずつ捨てているようだった。
やがて、彼は缶茶を手すりの上へ置いた。
「それ、俺にはわからない」
「……うん」
「同じ経験をしたとか、気持ちがわかるとか、そういうことは言えない。俺はおまえじゃないし、おまえの頭の中を見たわけでもない。だから、簡単に大丈夫とは言わない。たぶん大丈夫じゃないから」
蓮の声は、風に削られながらもはっきりしていた。
「でも、見限るかどうかを決めるのは、おまえじゃないだろ。ゆかがどう思うか、先生がどう思うか、俺がどう思うか。そこまで先回りして、自分で全部終わらせるな。負けたあとに一人になるのは、相手に捨てられたからじゃなくて、自分で扉を閉めてるだけかもしれない」
「……それは、蓮も同じじゃない」
「だから今、開けてる」
蓮は、私の手元へ視線を落とした。
「プリン、もう一口食え。溶ける」
私は笑いそうになった。
やっぱり、蓮は最後まで蓮だった。長く話したあとに、感情の余韻を受け止める代わりに、プリンの話へ戻る。けれど、その不器用さがありがたかった。泣くか、笑うか、答えを出すかを迫られずに済む。
私はスプーンを動かした。
表面を割り、カラメルをすくう。甘さと苦さが一緒に舌へ広がった。さっきよりも味がはっきりしていた。冷たさも、柔らかさも、容器の縁に残った薄い膜の感触も、全部が身体へ届く。
蓮も自分のプリンを食べている。
ふたりのスプーンが、同じタイミングで容器の底に触れた。
かつ、と小さな音が重なる。
その音を聞いたとき、私はようやく、隣にいるということの形を少しだけ理解した。
何かを消してくれることではない。
正しい場所へ連れていくことでもない。
負けたままの私の隣で、同じように甘さと苦さを口にすること。私の悔しさを、私のものではなくしてしまうのではなく、半分だけ持ってくれること。
「蓮」
「何」
「明日も、練習するよね」
「する」
「私も行く」
「来るなとは言ってない」
「でも、また止まるかもしれない」
「止まったら、止まったところから動け」
「簡単に言う」
「簡単じゃない。だから練習するんだろ」
蓮は空になった容器の底を見ていた。
「次は、負けない」
私は言った。
言ったあと、少しだけ怖くなった。勝つと約束したわけではない。勝てる根拠があるわけでもない。ただ、言葉にしたことで、次の練習へ戻る道が細く見えた。
蓮はすぐには返さなかった。
やがて、空のプリン容器を袋へ戻しながら言った。
「勝て」
「命令?」
「お願いに聞こえたか」
「全然」
「じゃあ命令でいい」
私は今度こそ、少しだけ笑った。
うまく笑えたわけではない。喉の奥にはまだ痛みが残っているし、最後の一球の音も消えていない。明日になれば、また同じ失点を思い出すだろう。コートへ入れば、足が固くなるかもしれない。
それでも、今日の私はもう、あの一球だけを抱えて歩いてはいなかった。
缶茶はまだ冷たい。紙袋のざらつきが指に残っている。プリンのカラメルの苦味が、舌の奥から消えずにいる。蓮は空の容器をきちんと袋へしまい、私がスプーンを落とさないように、袋の口を少し折って持ちやすくした。
駅のホームから、電車の到着を知らせる音が響いた。
「行くか」
「うん」
歩道橋を下りる階段で、蓮は先に歩いた。けれど、私が一段遅れると、自然に速度を落とした。振り返らない。ただ、置いていかない歩き方をする。
濡れた階段の手すりに、駅前灯の白い光が流れている。
私はその光を見ながら、スプーンをバッグの内ポケットへ入れた。捨てる理由はなかった。使い終わっただけの小さなプラスチックなのに、指先に残った感触が消えなかった。
明日になれば、これはただのスプーンに戻るのかもしれない。
それでも今夜は、私の負けを半分にしてくれたものだった。
歩道橋の下で、蓮が待っていた。
「遅い」
「蓮が早い」
「おまえが遅い」
「今日は、私の速さで歩くって言ってなかった?」
「言ってない」
「言ってた」
「言ってない」
言い合いながら、私たちは駅へ向かった。
七瀬アリーナの床の熱は、まだ足裏に残っている。最後のシャトルが床へ落ちた音も、胸の奥から消えてはいない。
けれど、その音の隣に、別の音が増えていた。
プリンの容器にスプーンが触れた、かすかな音。
同じ苦さを半分ずつ口にした、短い夜の音。
私はそれを、ひとりで聞かなくてよかった。
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