2話 赤茶けた遊歩道で黙るふたり

体育館の扉が閉まると、七瀬アリーナの熱が背中に残った。

外の空気は、思っていたより冷たかった。夕立が通り過ぎたばかりで、赤茶けた遊歩道の舗装には細い水の筋が残っている。街灯はまだ完全には明るくなっておらず、濡れた地面の上で、ぼんやり黄色く滲んでいた。

私は部活バッグを抱え直して歩き出した。

駅までは、歩いて十分ほどだ。いつもなら短い道だった。練習のあとなら、ゆかと今日のラリーの話をしたり、誰かがコンビニの新商品を見つけたと言って寄り道したりする。疲れていても、足は勝手に駅へ向かう。

今日は、足だけが歩いていた。

頭の中には、まだコートがある。

十九対十九。相手のサーブ。ゆかが前へ出る。私の視界の端を白いシャトルが横切る。あと一歩。ほんの一歩、踏み込めば届いた。

届いたはずだった。

その「はず」が、歩くたびに靴の中へ入り込んでくる。足裏に小さな石が挟まっているようで、どれだけ歩いても取れない。

隣を歩いている松永蓮は、何も言わなかった。

いつもなら、体育館を出てすぐに何か言う。私のレシーブの癖を指摘するか、試合中の判断を皮肉るか、せめて「ひどい顔」と笑う。蓮の言葉は鋭くて、たまに腹が立つ。でも、試合のあとに何も言われないと、それはそれで落ち着かなかった。

「今日、ずいぶん静かだね」

私は前を向いたまま言った。

返事はない。

蓮の革靴が、濡れた舗装を踏む音だけが隣に続いている。一定の間隔で、ぺた、ぺた、と鳴る。私のスニーカーの音とは少し違って、蓮のほうが歩幅は広い。それでも今日は、私を追い越さない。

いつもなら、蓮は自分の速度で歩く。私が遅れれば、振り返って「置いてくぞ」と言う。実際には置いていかないくせに、そう言う。

今日は言わなかった。

そのことが、妙に気になった。

「蓮」

「……何」

ようやく返事が返ってきた。声が低い。体育館の中で聞いたときよりも、少し掠れている。

「何か言わないの」

「何かって」

「何でもいいから」

「おまえ、今それ聞く?」

「聞く」

自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからなかった。慰めてほしいわけではない。負けたことを軽く扱ってほしいわけでもない。むしろ、下手な言葉をかけられたら、私はたぶん腹を立てる。

それでも、何も言われないことが怖かった。

蓮はポケットの中へ手を入れた。小銭か、折り畳んだレシートでも触っているのか、布地の向こうで指が動いている。目は私を見ない。濡れた遊歩道の先にある商店街の看板を、ぼんやり眺めていた。

「言ったら、たぶん余計なことになる」

「いつも余計なことしか言わないじゃん」

「いつもはな」

「今日は違うの」

「違う」

蓮はそこで黙った。

短い言葉なのに、妙に重かった。

雨に濡れた植え込みから、土の匂いが立ち上っている。体育館の乾いた空気とは違う湿り気が、シャツの袖から皮膚へまとわりつく。遠くで自転車のベルが鳴り、商店街の軒先から、店じまいを知らせる金属音が響いた。

私たちだけが、試合の終わった場所からまだ出られずにいる。

「蓮は、悔しくないの」

聞いてから、しまったと思った。

蓮の顎がわずかに下がった。歩幅が一度だけ乱れた。

「悔しいに決まってるだろ」

声に棘が戻っていた。けれど、その棘は私に向けられたものではなかった。

「じゃあ、何で平気そうなの」

「平気そうに見えるなら、おまえの目が悪い」

「見えるよ。いつも通りじゃん」

「いつも通りにしてるだけだ」

蓮は少し黙り、それから、前を向いたまま言った。

「負けたあとに、負けた顔をして何か変わるか。泣けば点が戻るか。悔しいって言えば、県大会に行けるか。行けないだろ。だったら、できるだけ普通にしてるしかない」

その言い方は、試合中の蓮に似ていた。相手の隙を見つけると、迷いなくそこへ打ち込む。余計な動きを削り、必要なことだけを選ぶ。けれど、今の言葉は誰かを倒すためではなく、崩れないために並べられているようだった。

「それ、私にも言ってる?」

「別に」

「言ってるじゃん」

「おまえが勝手に受け取ってるだけだ」

「……そういうところ、嫌い」

「知ってる」

「知ってるなら、もう少し違う言い方して」

「無理」

蓮は即答した。

その返しがあまりに蓮らしくて、私は笑いそうになった。けれど口元が少し動いただけで、笑いにはならなかった。喉の奥に残っているものが、まだそこを塞いでいる。

蓮は私の顔を見なかった。

見ないことで、見ているようだった。

私はバッグの肩紐を握った。濡れた空気のせいか、指先が冷えている。握り込むと、ラケットのグリップを握ったときの形になる。親指と人差し指が近づき、手のひらが硬くなる。

「私、また止まった」

声に出すと、その事実が道路の上に置かれた。

蓮は何も言わなかった。

「大事なところで、また足が止まった。中学のときもそうだった。あと一歩で届く球を見て、動けなくなった。高校に入ってからも、何度かあった。練習では取れるのに、試合になると、足が床に縫いつけられたみたいになる」

「今日のは、足が止まったんじゃない」

「止まったよ」

「半歩遅れただけだ」

「同じじゃん」

「違う」

蓮の声が、今度ははっきりした。

「同じじゃない。止まったって言うと、最初から最後まで何もしてないみたいになる。おまえは、そこまでのラリーを何本返した」

私は答えなかった。

数字を数えようとすると、また最後の一球へ戻ってしまう。何本返したかなんて、覚えていない。覚えているのは、相手のスマッシュの音と、床へ滑り込んだときの膝の痛みと、ゆかの「ナイス」という短い声だけだった。

「数えてない」

「だろうな」

「何本だったの」

「知らない」

「知らないんじゃん」

「数えてないから知らない。でも、何本もあった」

蓮はそこで初めて、私の手元を見た。

「最後の一球だけで、全部を決めるな」

胸の奥が狭くなった。

「でも、最後の一球で負けた」

「負けた。そこは変わらない」

「じゃあ、何が違うの」

「負けたことと、おまえが足りないことを一緒にするなって言ってる」

私は足を止めた。

蓮も二歩遅れて止まった。

遊歩道の水たまりに、街灯の光が揺れている。蓮の影がその上に伸び、私の影と途中で重なっていた。顔を上げれば、蓮の表情を見ることができたはずだ。けれど私は見なかった。見れば、何かを受け取らなければいけない気がした。

「簡単に言わないでよ」

言葉が喉から滑り落ちた。

「簡単じゃない。私は、負けるたびにそう思う。自分が足りないから負けたって。練習が足りない、判断が遅い、体が弱い。何かが足りないから、最後に取れない。そう考えたほうが、まだ次に何をすればいいかわかるから」

「わかってないだろ」

「……何が」

「自分を責めれば練習になると思ってる。でも、責めてる時間が長すぎる。昨日の失点を今日まで持ってきて、今日の身体を固くして、また次のミスを作る。それで、また自分が足りないって言う」

蓮の言葉が、濡れた路面よりも冷たく感じられた。

反論できなかった。

中学二年の秋。あと一点で勝てた試合。高校一年の春、相手のクリアを見送った試合。練習試合で、ペアの子に「もっと声を出して」と言われた日。どれも終わったはずなのに、今でも身体の中に残っている。私は失点を忘れない。忘れないことが、次に同じ失敗をしないために必要だと思っていた。

でも、忘れないまま抱え続けたものが、次の足を重くしていたのかもしれない。

「蓮は、そうならないの」

「なる」

意外なほど素直な返事だった。

「俺だってなる。負けた試合は、勝った試合より長く覚えてる。帰ってから飯を食ってても、風呂に入ってても、あの球を打ち直してる。もっと前に出ればよかったとか、逆に下がればよかったとか、相手の肩が開いてたとか。何回やっても、頭の中じゃ取れる」

「……じゃあ、蓮も足りないんじゃないの」

「そうかもな」

蓮は水たまりを見たまま言った。

「でも、それを今日決める必要はないだろ」

その言葉は、さっき西島先生が言ったものと少し似ていた。先生の声より乱暴で、蓮の声よりも静かだった。

私の喉がまた詰まった。

「悔しいのに、何も言えない」

「俺も」

「泣きそうなのに、泣けない」

「俺は泣きそうにもならない」

「嘘」

「うるさい」

蓮は初めて私を見た。

鋭い目だった。いつものように、相手の弱点を探すときの目つきではない。自分の中を見られそうになって、反射的に睨んでいる顔だった。

私は目を逸らした。

その瞬間、蓮の肩から少しだけ力が抜けた気がした。勝ったわけでも、負けたわけでもない。ただ、互いに見ないことで、互いの見られたくないところを守っている。

商店街の入口で、古い看板が風に揺れた。電球のいくつかは切れていて、残った明かりだけが濡れた歩道へ細く落ちている。閉店した文具店のシャッターには、夏祭りのポスターがまだ貼られていた。明るい色の金魚が、雨に濡れた紙の中で泳いでいる。

蓮が歩き出した。

今度は私もすぐに続いた。

さっきまでより、歩幅が近い。合わせようとしたわけではないのに、同じ速度になっていた。

「駅、寄る?」

蓮が言った。

「どこに」

「コンビニ」

「何か買うの」

「飲み物」

「それだけ?」

「それ以上、食えるのか」

私は答えられなかった。

空腹はある。先生に言われたからではなく、身体の奥に、ようやくその感覚が浮かび上がってきている。けれど食べることまで誰かに見られるのは、少し恥ずかしかった。負けた直後なのに、甘いものを欲しがる自分が、競技から逃げているように思えた。

蓮は私の返事を待たず、歩く速度を少し落とした。

背中を押すでも、置いていくでもない。私がついて来られる速さに、ただ変えた。

そのことに気づいたとき、胸の内側で固まっていたものが、ほんの少し形を変えた。

慰められているわけではない。

蓮は、私の負けを消そうとしていない。大丈夫だとも、次があるとも言わない。私がまだ試合の最後に立ち尽くしていることを、見なかったことにもしない。

ただ、そこから駅まで歩くあいだ、同じ道を歩いている。

それだけだった。

それだけなのに、ひとりで歩くより、足音が少しだけ軽く聞こえた。

遊歩道の先に、MINI MART桐原駅南店の白い看板が見えてきた。雨上がりの薄暗さの中で、その光だけが妙にはっきりしている。蓮はポケットから手を出し、何かを確かめるように小銭を握り直した。

私は、彼の手元を見た。

その指先は、試合中のように鋭くはなかった。迷っているわけでもないのに、何かを選ぶ前の手つきをしていた。

「蓮」

「何」

「……プリン、あるかな」

蓮は一度だけ私を見た。

それから、ほんの少し顎を引いた。

「売り切れてたら、今日は店の負けだな」

いつもの蓮なら、もっと刺のある言い方をしたはずだった。

私は笑えなかった。でも、口元がわずかにほどけた。

赤茶けた遊歩道の濡れた光が、足元で細く揺れている。七瀬アリーナの床の熱はまだ消えていなかった。それでも、私たちはもう、体育館の中にはいなかった。

歩くたびに、最後の一球の音が少しずつ遠ざかっていく。

消えたわけではない。

ただ、その音だけを聞きながら歩く必要はなくなっていた。

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