第1話 七瀬アリーナの床がまだ熱い

七瀬アリーナの床は、試合が終わってもしばらく熱を持っていた。
コートの中では、もう誰も動いていない。ネットは張られたままで、白いテープの端が空調の風にかすかに震えている。なのに、私の足裏にはまだ、床の感触が残っていた。薄い靴底を通して伝わってくる、あの硬さ。白線を踏まないように、ほんの少しだけ足の位置をずらしていた感覚。最後の一歩を出せなかった、その場所の感触。
スコアボードを見上げる。
数字は遠くにあるのに、ひどく近かった。
負けた、という言葉を誰かに言われるより先に、数字が言い切っていた。私たちの側に並んだ数字は、相手の側より小さく、そこで止まっている。試合はもう終わっているのに、私だけが終わり方を知らなかった。
ラケットを握った右手が、まだグリップの形をしている。親指と人差し指が固まり、手のひらが開かない。ほどこうとすると、指の関節の内側が痛んだ。
「結衣」
隣で、ゆかが私を呼んだ。
声は聞こえたはずなのに、言葉の形にならなかった。ゆかの口が動く。眉が少し下がる。手にしていたタオルを、私のほうへ差し出そうとして、途中で止める。
「……結衣、靴ひも」
今度は聞こえた。
私は自分の足元を見た。靴ひもはほどけていない。試合の前に結んだままの、二重に固く結んだ結び目がそこにある。どうしてほどかなければいけないのか、一瞬わからなかった。
もう試合は終わった。靴を脱いで、バッグを持って、帰らなければならない。
それだけのことが、ずいぶん遠い。
「結衣、座る? あ、でも床、まだ熱いか。いや、熱いっていうか……ほら、体育館って試合のあと変な匂いするじゃん。シャトルの羽根と、汗と、ワックスみたいなやつ。私、あれ嗅ぐと大会終わったって感じがして……」
ゆかはそこまで言って、急に黙った。
自分で、言葉がずれていると気づいたのだと思う。
いつものゆかなら、何かを言って場を動かす。負けても、泣いている子がいても、まず声を出す。明るい言葉で空気を持ち上げて、みんなが帰る方向を見られるようにする。
でも今は、私の顔を見ながら、言葉を選び直している。
「ごめん。今の、違った」
私は首を横に振った。振ったつもりだった。実際には、ほんの少し顎が動いただけかもしれない。
「違わないよ」
声が出た。自分で思っていたよりも低く、乾いていた。
ゆかは目を見開いたあと、すぐに笑おうとした。けれど笑顔になりきれず、口元だけが歪んだ。
「そっか。じゃあ、違わないってことで」
返事をする代わりに、私は靴ひもへ手を伸ばした。
指がうまく動かない。ほどけない。結び目を引くたび、紐が指の皮膚に食い込んだ。試合中、何度もシャトルを拾った手だった。相手のスマッシュを受け、床に落ちるぎりぎりの球へ腕を伸ばし、何本も返した。その手が、いまは靴ひとつ脱がせられない。
最後のラリーが、また頭の中で始まる。
十九対十九。
相手のサーブ。私のレシーブ。ゆかが前へ出る。相手の返球が浅い。あと一歩、踏み込めばよかった。わかっていた。次に来る球も、相手の肩の向きも、見えていた。
なのに、足が動かなかった。
ラケットを出すのが一拍遅れた。
シャトルが床に落ちた音がする。
ぱし、と乾いた音。
その音だけが、何度も何度も、頭の中で鳴った。
「結衣」
今度は、別の声だった。
顔を上げると、西島先生がコートの端に立っていた。手には大会資料の入った薄いファイルがあり、脇に古いホイッスルを挟んでいる。試合のあいだ、誰よりも大きな声で指示を出していたのに、終わったあとの先生はいつも静かだった。
先生は私の顔を見た。それから、ほどけない靴ひもを見た。
「荷物、持てるか」
「……はい」
反射的に答えた。返事の前に一拍置く癖も、今日は間に合わなかった。
「そうか」
先生はそれ以上、試合の話をしなかった。
あの球は取れた、とは言わない。次はこうしろ、とも言わない。来年がある、と言わない。
私がそういう言葉を嫌っていることを、先生が知っているのかどうかはわからない。ただ、負けた直後に正しいことを言われると、正しさのぶんだけ逃げ場がなくなる。私は、自分の失敗を誰かに説明される前に、もう自分で何度も説明してしまっているからだ。
先生は少しだけ間を置いて言った。
「今日は食べて帰れ」
その声は、体育館の床に置かれたシャトルの筒より軽かった。
けれど、胸の奥に固まっていたものを押しつぶすこともしなかった。
食べる。
その言葉だけが、試合とは別の場所から来た。勝敗でも、反省でも、来年でもない。空腹という、身体にしかわからない単純なものだった。
「……食べられますかね」
ゆかが、私の代わりみたいに言った。
先生はゆかを見る。
「食べられるものを食べろ。プリンでもいい」
その瞬間、ゆかの視線が私へ流れた。
私たちは、試合帰りにプリンを買うことがある。とろけるカスタードプリン。駅前のMINI MART桐原駅南店で、棚の手前から二つ取る。売り切れている日は、ほんの少しだけ一日が負けたような気がする。逆に、まだ冷蔵ケースに残っていれば、それだけで小さな勝ちだった。
でも今日は、もう勝ち負けという言葉を増やしたくなかった。
「先生」
私はようやく靴ひもをほどいた。
「はい」
「私……」
続きが出てこなかった。
取れなかった、と言いたかった。最後の球を取れなかった。ゆかの足を引っ張った。県大会へ行けなかった。私は大事なところで動けない。中学の頃から、ずっとそうだった。
でも、言葉にしたら、全部が本当になってしまう気がした。
先生は急かさなかった。私の手元を見たまま、黙って待っていた。
その沈黙が、かえって苦しかった。
「……なんでもないです」
結局、そう言った。
先生はうなずいた。なんでもないとは思っていない顔だったが、否定もしなかった。
「そうか。じゃあ、今日はそれでいい」
それでいい、という言葉が、広い体育館の中で小さく残った。
先生が離れていく。モップを持った一年生がコートへ入り、白線の上を避けながら床をこすり始める。乾いた布が床を撫でる音が、遅れて私のところまで届いた。
周囲では、部員たちが荷物をまとめていた。
「帰り、駅まで一緒に行く?」
ゆかが聞いた。
「うん」
私はバッグを肩にかけた。重い。ラケット一本しか入っていないはずなのに、今日は中身が増えているみたいだった。
試合メモ。汗で湿ったタオル。使い込んだラケット。取れなかった最後の一球。
それらを全部、バッグの内側へ押し込む。
出口へ向かうと、体育館の白い照明が背中に張りついた。外はもう夕方の色になっているはずなのに、扉の向こうはまだ暗く見えた。
「結衣」
ゆかが、また呼んだ。
「うん」
「……無理にしゃべらなくていいからね」
私は足を止めた。
ゆかは自分で言った言葉に驚いたように、少しだけ目を逸らした。それから、両手を組んだまま続けた。
「昨日までだったら、たぶん私、もっと何か言ってたと思う。『惜しかったじゃん』とか、『次があるって』とか。たぶん、結衣が嫌がるのわかってるのに。沈黙が苦手だから、私が怖くなって、勝手にしゃべってた」
「ゆかは……」
私は言葉を探した。
「いつも、そうじゃん」
「うん。そう。そうなんだけど」
ゆかは笑いかけて、今度は笑わなかった。
「でも、今日は結衣が黙ってるのを、私が勝手に終わらせたくない。結衣が話したくなったら聞くし、話したくなかったら……その、隣にいるくらいはできるから」
その言葉は、きれいではなかった。
言い淀みがあり、途中で何度も形を変えた。けれど、だからこそ嘘に聞こえなかった。
私は何か返そうとした。ありがとう、と言えばいいのかもしれない。でも、その言葉も、今は簡単に使うと薄くなる気がした。
「……ごめん」
代わりに、そう言った。
「なんで謝るの」
「ゆかまで、変に気を使わせてるから」
「それ、謝ることじゃないよ」
「でも」
「結衣」
ゆかの声が、初めて少し強くなった。
「負けたの、結衣ひとりじゃないよ」
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
私はゆかを見た。ゆかは目を逸らさなかった。
「ダブルスって、結衣ひとりでやってたわけじゃない。私もコートにいたし、私も返せなかった球がある。結衣が最後の一球を取れなかったからって、全部結衣のせいになるわけじゃない。……まあ、結衣がそう思うのは知ってるけど」
「知ってるの?」
「知ってる。顔に出てる」
「出してない」
「出てるよ。ラケット握ってる手が、試合中より固いもん」
私は手元を見た。
まだ指が丸まっていた。
「それに、結衣はいつもそう。取れなかった球を、自分の中にしまう。私が『任せて』って言っても、任せたぶんまで自分の責任にする」
ゆかの言葉が、体育館の床に落ちたシャトルみたいに、ひとつずつ胸へ入ってくる。
「……だって、取れたかもしれないから」
「うん」
「見えてた。相手の返球も、ゆかが前に出たことも。足を出せば、たぶん触れた」
「うん」
「なのに、動かなかった」
「うん」
「だから、私が足りなかった」
言った瞬間、喉が塞がった。
泣きたくはなかった。泣いたら、いままで積み上げてきたものが全部、あの一球に吸い込まれる気がした。私は負けた。悔しい。自分が嫌だ。そういうものを、泣くという形にしてしまうのが怖かった。
ゆかはしばらく黙った。
それから、私の手ではなく、ラケットを見た。
「足りなかったかどうかは、今決めなくていいよ」
「でも、負けた」
「負けた。そこは変わらない」
「……うん」
「だからって、今日の結衣を全部説明しなくていい。取れなかった球があったことと、結衣が足りない人間だってことは、同じじゃない」
私は返事をしなかった。
そんなふうに言われると、反論するための言葉が見つからない。負けを軽く扱っているわけではない。悔しさを消そうとしているわけでもない。ただ、負けた事実と、自分の存在をぴったり重ねなくてもいいと、ゆかは言っている。
それが、すぐには信じられなかった。
扉の外から、雨の匂いが入ってきた。
夕立が上がったあとの、土とアスファルトの混じった匂い。体育館の乾いた空気に慣れていた鼻には、少し冷たく感じられた。
「行こ」
ゆかが言った。
私はうなずいた。
出口を抜ける前に、振り返る。
コートの上では、まだ誰かが床を拭いていた。白線は照明を受けて、そこだけ妙に明るい。試合が終わっても消えない線。勝った側にも負けた側にも、同じ幅で引かれている線。
私はその白線を見ながら、最後の一球をもう一度思い出した。
足は止まった。
ラケットは遅れた。
シャトルは落ちた。
それでも私は、そこまでのラリーを返してきた。苦しい球も、届かないと思った球も、何本も拾った。最後の一球だけが私の全部ではない。そう思いかけて、すぐに打ち消す。
まだ、そんなふうには考えられない。
でも、考えられないままでも、外へ出ることはできた。
扉が閉まる。体育館の熱と乾いた匂いが、背中の向こうへ薄れていく。
赤茶けた遊歩道の先で、駅前の灯りがひとつずつ点き始めていた。私はゆかと並んで歩き出した。歩幅はまだ揃わなかったが、ゆかは私を急かさなかった。
私も、早く歩こうとはしなかった。
足裏にはまだ、七瀬アリーナの床の熱が残っていた。
← 横にスクロールして読み進められます
