第9話 白線を磨く音

午後の練習が始まる少し前、西島先生は体育館の入口で私を呼び止めた。
部員たちは、まだコートの周りでラケットのグリップを確かめたり、シャトルの筒を運んだりしている。窓の外には薄い雲がかかり、昼と夕方のあいだみたいな光が、体育館の床へ斜めに差し込んでいた。空調の音が低く続いている。昨日までなら、その音を聞いただけで七瀬アリーナの乾いた空気が戻ってきたはずだった。
「相沢」
「はい」
先生は、返事を急かさなかった。私の顔を一度見て、それから手元へ視線を落とす。指が、ラケットを握るときの形に固まっていることを見ているのだと思う。
先生の手には、古い雑巾があった。
端が少し擦り切れていて、何度も洗われた布の匂いがする。先生はそれを私へ差し出した。
「これ、頼めるか」
どこを、とは言わなかった。
私は雑巾を受け取った。濡れてはいない。乾いた布のざらつきが、指先に触れる。
「何をすればいいですか」
「見ればわかる」
先生の視線の先には、コートの白線があった。
昨日までなら、練習の準備をしなければいけない時間だった。シャトルを出し、ネットの高さを確認し、基礎打ちの相手を探す。負けた翌日だからこそ、誰より早くラケットを握らなければいけないと思っていた。そうしなければ、昨日の失敗に負けたままになる。
なのに、先生が渡したのはラケットではなく、雑巾だった。
「床を磨けってことですか」
「白線を」
短い答えだった。
命令口調ではない。けれど、迷ってもいない。
私はコートの端へ歩いた。昨日の試合で見たものと同じ白線が、体育館の床にまっすぐ引かれている。七瀬アリーナの線とは違う。傷の数も、ところどころ浮いた塗料の具合も違う。それでも、白い線は白い線だった。
膝をつく。
制服の膝に、床の冷たさがじわりと染みてきた。雑巾を白線へ置き、ゆっくりと押し出す。
ざり、という音がした。
乾いた布が、床に残った細かな砂を拾っていく。体育館の匂いが鼻へ入った。汗。ゴム底の靴。木材とワックス。それから、練習のあとに残るシャトルの羽根の匂い。
私は雑巾を動かし続けた。
一本の白線をたどる。
勝ち負けとは関係なく、線はそこにあった。誰かが勝ったから濃くなるわけでも、負けたから薄くなるわけでもない。選手が転んでも、シャトルが何度落ちても、白線は同じ場所に引かれている。
なのに昨日の私は、その線の上で自分の位置を見失った。
相手のスマッシュに追われた。ゆかの呼吸に合わせようとした。後ろへ下がり、また前へ出た。長いラリーの途中では、何度も身体が勝手に動いた。届かないと思った球にも手を伸ばした。膝を床へ擦り、息を切らし、それでもラケットを返した。
最後の一本だけ、足が止まった。
それが、私には全部だった。
雑巾を持つ手に力が入る。指先がまたラケットのグリップを握る形になった。
「そこ、強く押しすぎ」
少し離れたところから、西島先生の声がした。
私は雑巾を止めた。
「汚れが落ちないので」
「落とすのは汚れだけでいい。床まで削るな」
私は手の力を抜いた。
布が床へ沿う。さっきまで引っかかっていた感触が、少し滑らかになる。
「……先生」
「はい」
「私、昨日のことを忘れたいわけじゃないです」
「そうだな」
「でも、何度も思い出します。最後の球を取れなかったところだけ。頭の中で、何回もやり直して。今度は足を出す。今度は声を出す。今度は取れるって。でも、何回やっても、実際には戻れない」
先生は、すぐには答えなかった。
体育館の反対側では、二年生の男子がネットを張っている。金具が噛み合う音。シャトルの筒を床へ置く音。誰かの笑い声が、一度だけ響いて消えた。
「戻れないから、前へ行けないのか」
「……たぶん」
「前へ行く必要はない」
私は顔を上げた。
「必要ない、ですか」
「昨日のコートへ戻れないのは当たり前だ。戻れないものを戻そうとするから、今いる場所が消える。相沢、今どこにいる」
「体育館です」
「どこの」
「桐原南高校の体育館」
「昨日のコートではない」
「はい」
「なら、昨日の足で立とうとするな。今日の床に、今日の足を置け」
先生はそう言って、私の手元を見た。
「走れるなら、次は整えろ」
「練習を始めるんじゃなくて?」
「整えるのも練習だ。自分が立つ場所を、人に用意してもらうな。用意されていないなら、自分で拭け」
その言葉は厳しかった。
けれど、責める厳しさではなかった。私の失敗を裁くのではなく、失敗したあとにもできることを、目の前へ置いている。
私は白線をもう一度拭いた。
少し離れた場所から、ゆかの声がした。
「先生、私もやっていい?」
先生はゆかを見る。
「自分の準備は」
「もう終わりました」
「なら、頼む」
ゆかが雑巾を一枚持ってきた。私の隣へしゃがむ。いつものように大きな身振りで笑ったり、何か軽口を挟んだりはしなかった。雑巾を水で濡らし、固く絞る。水が手首を伝って落ち、床に小さな暗い跡を作った。
「結衣」
「うん」
「ここ、私がやるね」
「大丈夫。私がやる」
「うん。知ってる」
ゆかは少し間を置いた。
「だから、隣でやる」
私は返事をしなかった。
ゆかの雑巾が、私のものとは逆方向へ動き始める。ざっ、ざっ、と二つの音が重なった。会話の代わりに、床を擦る音が続く。
以前のゆかなら、こんな沈黙に耐えられなかったと思う。新しい話題を探し、どうでもいいことを付け足し、私の返事が薄くても何度も話しかけてきたはずだ。
今日は違った。
髪を耳へ掛ける音。雑巾を絞る水音。隣に置かれた膝の影。
そのどれもが、言葉より近かった。
「ゆか」
「なに」
「昨日、私に預けてって言ったよね」
「うん」
「少しだけなら、まだ持ってる」
「何を?」
「負けたこと」
ゆかの雑巾が止まった。
私は白線を見たまま続けた。
「全部は無理。まだ、私の中にある。最後の球も、足が止まった感覚も、ゆかに迷惑をかけたって思う気持ちも。でも、昨日より少しだけ、外へ出せる気がする」
「うん」
「だから、持っててほしい。返さなくていいから」
ゆかはすぐには答えなかった。
私は、言いすぎたと思った。こういうことを言うと、相手は何か返さなければいけなくなる。重い、と言われるかもしれない。そんなつもりはないと言われるかもしれない。
けれど、ゆかは雑巾を動かしながら言った。
「わかった。じゃあ、私も少し預ける」
「ゆかも?」
「私も悔しいから。昨日の私がもっとちゃんとしてたらって、まだ思ってる。結衣だけが持ったら、私が楽になるだけだもん。それは違うでしょ」
「……うん」
「ただし、預かったものを勝手に軽くはしない。『大丈夫』とか、『もう忘れよう』とか、そういうふうにはしない。結衣が悔しいなら、悔しいまま持つ。私も一緒に持つ」
その言葉を聞いているうちに、喉の奥にあった固いものが少しずつほどけていった。
私は泣かなかった。
泣かなかったけれど、呼吸が一度だけ崩れた。鼻から吸った空気が途中で引っかかり、胸の奥まで届かない。ゆかは何も言わなかった。雑巾を動かし続けた。
白線の上に、細い汚れが残っていた。
私はそこへ布を置き、今度は力を入れすぎないように、ゆっくり押した。
汚れは一度では消えなかった。何度も同じ場所を往復する。黒ずみが薄くなり、白が戻る。完全に元通りではない。よく見れば、床の傷も、擦れた跡も残っている。
それでも、次に足を置ける程度には整った。
西島先生が、少し離れた場所からこちらを見ていた。
「相沢」
「はい」
「もういい」
私は雑巾を止めた。
「全部ですか」
「今日はそこまででいい」
「まだ、端が汚れています」
「明日やればいい」
先生はそう言い、雑巾を受け取った。
「全部きれいにしてから始めようとすると、いつまでも始まらない」
私は白線を見た。
確かに、まだ薄い汚れは残っている。私の負けも同じだった。昨日のことを全部理解して、すべて納得して、自分を許してからでなければ動けないと思っていた。
けれど、床は完全にきれいにならなくても、次のラリーのために使える。
「先生」
「はい」
「私、練習してもいいですか」
先生は一度だけ、私の足元を見た。
「足はあるか」
「あります」
「なら、置け」
私は立ち上がった。
膝に床の冷たさが残っている。手のひらには雑巾の湿り気があり、指先には洗剤の薄い匂いがついていた。ラケットを握ると、グリップの擦れたテープが掌へ馴染む。
ゆかも立ち上がった。
「最初、基礎打ちからでいい?」
「うん」
「昨日みたいに、私が先に出すぎたら言って」
「ゆかも、私が後ろへ下がりすぎたら言って」
「言う」
「遠慮しないで」
「結衣もね」
コートへ入る。
白線の上に足を置いた。昨日の七瀬アリーナとは違う床だ。少し滑りやすく、照明の位置も違う。けれど、足裏は確かに今いる場所を覚えていく。
ゆかがシャトルを持ち上げた。
「いくよ」
「うん」
シャトルが飛ぶ。
最初の一球は、少し身体が遅れた。ラケット面に当たった音が鈍く、返球は浅い。ゆかが前へ出て拾う。次の球は私の肩口へ来た。私は一歩下がり、腰を落として返した。
ラリーは長く続かなかった。
途中で私の返球がネットへかかり、白い羽根がこちら側へ落ちる。
ぱさ、と小さな音がした。
胸の奥に、昨日の音が戻ってくる。
ぱし、と床を叩いたシャトル。
指先が固まる。
「結衣」
ゆかが呼んだ。
私は白線を見た。
今いる場所。桐原南高校の体育館。午後の練習。隣にゆか。少し離れたところに、ラケットを拭いている蓮。コートの外で、古いホイッスルを手にした西島先生。
昨日のコートではない。
私は息を吐いた。
「もう一本」
ゆかがシャトルを拾う。
「うん。もう一本」
次のラリーは、さっきより長く続いた。私は完璧には動けなかった。何度か足が遅れ、ゆかに助けられた。それでも、遅れた足をそのままにしなかった。白線の内側へ戻り、次の球へ身体を向ける。
打つ。
返す。
呼吸を合わせる。
そのたび、床を擦った雑巾の音が胸の奥で重なっていった。
ざっ、ざっ、と白線をたどる音。
汚れを消す音ではない。汚れがある場所を確かめ、そこへ何度も手を戻す音だった。
練習を終える頃には、体育館の窓が夕方の色になっていた。床に伸びた光が細長くなり、磨いた白線の上で淡く途切れている。
ゆかがラケットをケースへしまった。
「結衣」
「うん」
「今日、ちゃんと動いてたよ」
私はすぐには答えなかった。
「まだ、止まった」
「うん。止まったけど、戻った」
「戻れたのは、ゆかが呼んだから」
「じゃあ、次は私が呼ぶ。結衣も、自分で戻って」
その言い方は、励ましというより約束に近かった。
私は白線を見た。
「うん。やってみる」
「絶対、とは言わないんだ」
「絶対って言うと、また固くなるから」
「そこは学習したね」
「少しだけ」
ゆかが笑った。今度の笑いは、私を急かすためではなかった。できなかったことを、できなかったまま置いておくための笑いだった。
西島先生は、最後にコートを見回した。シャトルの羽根が落ちていないか確認し、ネットの端を整え、ホイッスルをポケットへ戻す。
「今日は食べて寝ろ」
いつもの言葉だった。
私は雑巾を洗いながら答えた。
「はい」
返事の前に、一拍置いた。
昨日なら、その一言は命令として聞こえただろう。今日は違った。食べて、眠って、明日の床へ足を置く。そのための手順の一つとして、身体へ静かに届いた。
雑巾を絞る。
水が、白線の脇へ落ちた。
暗い染みが、床の上でゆっくり広がる。けれど、すぐに乾き始めた。湿った跡はそのまま残らず、時間と空調にさらされて薄くなっていく。
私はその跡を見つめた。
負けた夜も、きっと同じなのだと思った。消えたふりをする必要はない。無理に乾かそうともしなくていい。ただ、そこに染みがあると知ったまま、次に足を置く場所を整える。
体育館を出る前、私は磨いた白線の上へ一度だけ足を置いた。
真っすぐだった。
私が勝ったからでも、負けを克服したからでもない。誰かが引いた線が、そこに残っているだけだ。
それでも、その線の上に立つことはできる。
私はラケットバッグを肩へ掛けた。内ポケットの中で、プラスチックスプーンが小さく触れた。かすかな音だった。けれど、もう捨てそびれたものではない。
負けた私が、次の場所へ持っていくものだった。
体育館の扉を開けると、夕方の空気が頬へ触れた。雨の匂いはもう薄く、駅へ続く道の向こうで、白い街灯がひとつ点いている。
私は歩き出した。
足元には、まだ昨日の床の熱が残っている。
それでも今度は、その熱だけを抱えて歩くのではなかった。ゆかが隣にいて、蓮のスプーンがバッグの中で揺れ、西島先生が整えた白線が、体育館の中で次の誰かを待っている。
負けは、まだ私の中にある。
けれど、私の全部ではない。
白線を磨く音が、歩く足音の奥で、いつまでも小さく続いていた。
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