6話 消えるためではない足音

閉館を告げる放送が流れたあと、図書館は少しずつ音を失っていった。

利用者が椅子を引く音。返却台へ本を置く音。受付の職員が交わす短い挨拶。ひとつずつ消えていき、最後に残ったのは、空調の低い唸りと、蛍光灯の内部で鳴るかすかな振動だけだった。

私は事務室の時計を見た。

二十一時五十八分。

机の上には、昼間に写し取った閲覧台帳の時刻と、久保田さんの私的な巡回メモを並べてある。二十二時十三分、十七分、二十一分。どれも第三閲覧室の周辺で、監視記録が薄くなる時間帯と重なっていた。

数字は、誰かの足音の代わりに残っている。

私はメモ帳を閉じ、立ち上がった。

「今夜も見回るの?」

白石さんが、向かいの机から顔を上げた。彼女は閉館後の記録を整理していた。ペンは机の端と平行に置かれている。けれど、今日は二本あるうちの一本が、ほんの少しだけ内側へ傾いていた。

「久保田さんの巡回に同行します」

「同行の許可は取ったの?」

「先ほど」

「そう」

白石さんは返事をしたあと、台帳の頁へ目を落とした。視線が文字の上を滑り、二十二時台の記入欄で止まる。

「瀬戸くん」

「はい」

「今夜、何か聞こえても、すぐに追わないで」

「なぜですか」

「聞こえたものが、あなたを呼んでいるとは限らないから」

「誰かが歩いているなら、確認する必要があります」

「確認する必要と、近づく必要は別よ」

白石さんはペンを持ち上げた。紙へ触れる前に、指先が一度だけ止まる。

「この建物には、昔から、見つけない方がいいものがあった。見つけた人間が悪いわけではない。でも、見つけたあとにどうするかで、傷の深さは変わるの」

「見つけないままなら、傷はないことになりますか」

「そうは言っていないわ」

「では、何を言っているんですか」

白石さんはすぐに答えなかった。事務室の外で、台車の車輪が床の継ぎ目を越えた。遠ざかる音を聞き終えてから、彼女はようやく顔を上げた。

「あなたは、空白を見つけると、そこに何かを戻そうとするでしょう。けれど、空白が誰かの手で作られたものなら、戻すときにも別の誰かの手が必要になる。正しさだけでは、ものは元の場所へ戻らない」

「だから、戻さない?」

「戻せるものなら戻す。でも、戻すために別の人を壊すなら、考える時間が要る」

「記録を整えることと、記録を消すことは違います」

「ええ」

白石さんの返事は低かった。

「でも、外から見れば、どちらも同じように綺麗に見えることがある」

彼女は台帳を閉じ、角を揃えた。その動作は正確だった。正確すぎて、指先の震えが紙へ伝わらないよう押し殺していることだけが、かえって分かった。

「行ってきます」

私が言うと、白石さんは視線を上げなかった。

「無事に戻ってきて。記録に残らない場所からではなく、こちら側へ」

その言葉が何を意味するのか、私は尋ねなかった。

警備室へ行くと、久保田さんはすでに懐中電灯を手にしていた。大きな背中がモニターの前に立ち、画面の端に映る第三閲覧室の扉を見ている。缶コーヒーは机の隅に置かれたまま、まだ開けられていなかった。

「行く」

「はい」

「音を立てるなとは言わん。立てた音を覚えろ」

久保田さんはそう言い、鍵束を親指で数えた。金属は鳴らない。

私たちは警備室を出た。

廊下の床板は、場所によって鳴り方が違う。正面玄関側は乾いた高い音がする。事務室の前は沈んだ音で、修復室の近くでは、床下の配管が反響して少し遅れて戻ってくる。久保田さんは歩くたび、ほんのわずかに歩幅を変えていた。

「今の角度は?」

私が尋ねると、彼は足を止めずに答えた。

「何が」

「廊下の壁側を歩く理由です」

「中央は鳴る」

「壁側は鳴らない」

「鳴る。鳴らないように踏むだけだ」

「それを知っている人間が、ほかにもいる可能性は?」

久保田さんは一度だけこちらを見た。

「知っている人間はいる。使える人間は少ない」

「その違いは?」

「建物の癖を知っているだけじゃ足りない。自分の身体を建物に合わせる必要がある。急げば鳴る。迷えば鳴る。怖がっても鳴る」

「久保田さんは、怖くないんですか」

「怖いから、音を覚える」

短い言葉だった。だが、彼はそこで終わらなかった。

「怖くない奴は、鍵を雑に扱う。扉を開けたままにする。見えたものだけを見て、見えない側を確認しない。俺は昔、それで一度、見逃した。大事にはならなかったが、ならなかったから忘れていいことでもない」

「何を見逃したんですか」

「言う必要はない」

「なぜですか」

「言葉にすると、自分が終わったことにするからだ。終わっていないものは、終わっていないまま覚えておく。それが夜の仕事だ」

廊下の窓に、夜の雨が細い線を描いていた。街灯の光が水滴に分かれ、床の上で揺れている。歩くたび、私たちの影も伸びたり縮んだりした。久保田さんの影は大きいのに、足音だけが異様に薄かった。

第三閲覧室の手前で、彼が手を上げた。

私は立ち止まった。

扉のランプは消えている。カードキーの通過記録が残るなら、赤い光が一度点くはずだった。けれど、扉はただ閉じているだけで、誰かが内側にいる気配はない。

久保田さんが廊下の角を指した。

「この辺りだ」

壁と書架の間に、細い暗がりがあった。昼間なら見過ごすほどの幅しかない。だが、そこだけ空気の流れが違った。頬に触れた風が、廊下の空調とは逆向きに戻ってくる。

「返却口の壁の内側に、空気が薄くなる場所がある」

「壁の向こうに空間があるということですか」

「そうは言っていない」

「では、何だと?」

「ここに立つと、音が一枚分遠くなる」

久保田さんは指先で、自分の耳の横を示した。

「声を出してみろ」

「ここで?」

「小さく」

私は喉を開いた。

「聞こえますか」

「聞こえる。だが、壁の向こうではなく、廊下の奥から聞こえたように響く」

「反響ですか」

「建物の中に空間があるときの響きだ」

「それを、今まで報告しなかったんですか」

「報告書には、空間の響きという欄がない」

「欄がなければ、書かなくていい?」

久保田さんは私を見た。目の奥に、苛立ちとも疲れともつかないものが沈んでいた。

「お前は、何でも紙に載せれば守れると思っている」

「思っていません。紙に載せなければ、最初から存在しなかったことにされると言っているんです」

「載せたことで、別の形にされることもある」

「それでも残らないよりはいい」

「残すだけなら簡単だ。見た、聞いた、変だった。そう書けばいい。だが、その記録を読む人間が何を信じるかまでは、書いた側には決められない」

「だから、見たものを正確に書く」

「正確さだけで足りるなら、ここの壁はとうに開いている」

久保田さんの声が、初めて少しだけ大きくなった。すぐに彼は口を閉じ、周囲へ視線を走らせた。静けさが戻るまで、しばらく何も言わなかった。

私は返却台のそばで待つことにした。

台の上には、昼間に返却された本が数冊置かれている。『北辺歳時記』の貸出票を確認するため、私は一冊ずつ表紙を見た。どの本にも、利用者の手の跡がある。紙の端の柔らかな摩耗、開かれた頁の癖、わずかに残る体温のような匂い。

そのとき、『北辺歳時記』の貸出票がひとりでにめくれた。

紙の角が持ち上がり、ゆっくりと落ちる。

風はなかった。私は台の上に手を置き、空気の流れを確かめた。蛍光灯の熱で生まれた上昇気流が、紙を浮かせるほど強いとは思えない。紙は一度だけ、誰かに指で弾かれたように震えた。

久保田さんが振り向いた。

「触るな」

「触っていません」

「そうじゃない。めくれた理由を、今すぐ決めるな」

貸出票の頁が、もう一度浮いた。

その下に、薄い黒い筋が見えた。紙片か、鉛筆の跡か。私は懐中電灯を向けるために、柄へ手を伸ばした。

書庫の奥で、紙が擦れた。

ほとんど音にならない。けれど、私は聞いた。紙と紙が触れ合い、すぐに離れる音。誰かが頁をめくったのではなく、何かを抜き取った音だった。

私は懐中電灯を握った。

「待て」

久保田さんの声が飛んだ。

私は走らなかった。だが、足はすでに音のした方へ向いていた。第三閲覧室の奥、利用者用の書架が途切れ、職員用の仮置き棚が暗がりへ沈んでいる。そこに、人の輪郭が立っていた。

顔は見えない。

背の高さは私より少し高い。肩幅は狭い。黒い上着のようなものを着ているが、照明が弱く、布の色までは分からない。輪郭は棚の影から半歩だけ出て、こちらを見たように見えた。

逃げる姿勢ではなかった。

最初から、こちらの視線を避けるために立っている。

私は光を向けた。

輪郭が動いた。

動いたというより、暗がりの濃さが一度変わった。人影の足元で、床板が鳴らなかった。扉も、棚も、何も動いていないのに、そこにあったものだけが壁の奥へ沈んだように見えた。

「止まれ!」

私は声を出していた。

自分でも驚くほど大きな声だった。空虚な閲覧室に響き、天井へ跳ね返る。声の残響が消えたとき、そこには誰もいなかった。

久保田さんが私の肩を掴んだ。

「行くな」

「まだ近くにいます」

「近くにいるから行くな」

「逃げたんです」

「逃げたなら、音が残る」

「音が残らないように歩く人間だと言ったのは、あなたです」

「だからだ」

久保田さんの手が強くなる。警備服の布地が肩へ食い込み、指先の力が骨に伝わった。

「追えば、お前の足音だけが残る。相手はそれを聞いて、次にどこへ行くか決める。見つけたつもりで、道を教えることになる」

「では、どうするんですか。何もなかったことにして戻るんですか」

「何もなかったとは言っていない」

「でも、誰もいない」

「人がいないことと、何も起きていないことは違う」

久保田さんは私を離し、懐中電灯を床へ向けた。

埃の上に、細い筋があった。

靴跡ではない。床を撫でた何かの端が、書庫の奥からこちらへ向かっている。筋の途中で一度だけ途切れ、壁際の巾木の前で消えていた。

私はしゃがみ込んだ。

「触るな」

「触りません」

光を低くすると、筋の脇に白いものが見えた。紙片だった。名刺ほどの大きさで、端が不規則に裂けている。表面には薄い赤鉛筆の線があり、現在の図面にはない壁の角を示していた。

第三閲覧室の北側から、さらに下へ折れる線。

その線の端には、赤い丸がひとつついている。

「図面の切れ端です」

「拾う」

「久保田さんが?」

「手袋を出せ」

私はポケットから白手袋を取り出した。研修初日に支給された古びたものだった。何度も洗い、布地は薄くなっている。それでも、紙へ触れるときには今でもこれを使う。

紙片を拾い上げた。

乾いている。だが、赤鉛筆の線の一部だけが、わずかに盛り上がっていた。後から強くなぞった跡だ。図面の印刷線ではない。誰かが、通るべき場所を示すために書き足した。

裏面には何もないように見えた。

私は懐中電灯を斜めから当てた。

紙の繊維の流れに沿って、細い凹みがある。文字ではない。数字のようにも見えたが、途中で折れ、意味を結べない。

「読めるか」

久保田さんが尋ねた。

「まだ分かりません」

「分からないものは、分からないまま袋へ入れろ」

「あなたらしくない言い方ですね」

「俺は現場を覚える。意味を決めるのは別の仕事だ」

「でも、これが何か知っているように見えます」

久保田さんは紙片を見たまま、しばらく動かなかった。

「知っているのは、ここが昔から抜け道にされやすいことだけだ」

「誰が使っていたんですか」

「昔の夜間整理員」

「名前は?」

「記録を見ろ」

「記録にないから聞いているんです」

久保田さんの顔から、わずかに表情が消えた。

「名前は、残っていた」

「残っていた?」

「俺が勤務を始めた頃には、まだ名札の箱にいくつかあった。夜間整理員の名札だ。職員名簿にも名前があった。だが、ある年から箱の中身が減った。名簿の頁も差し替わった。人が辞めたからだと思っていた」

「違ったんですか」

「分からん」

「見たのに?」

「見たことと、分かることは違う」

「あなたは、見なかったことにしたんですか」

久保田さんは答えなかった。

返却台の上で、貸出票がまためくれた。今度は一枚だけではない。数枚の紙が、誰も触れていないのに同じ方向へ持ち上がり、ぱらりと落ちる。音は乾いていて、薄い羽ばたきに似ていた。

私は書庫の奥を見た。

「まだいます」

「そうかもしれん」

「呼びかけます」

「やめろ」

「話を聞きたい」

「話を聞ける相手なら、今まで記録の外にはいない」

「人を記録から外すのは、図書館の方です。外された側が話す機会を持てないままなら、こちらが聞きに行くしかない」

「お前は、人間だと決めた」

「紙を抜き、印を押し、本を戻す。人間でなければ誰がやるんです」

「人間だとしても、話したいとは限らない」

「話したくない人間を追い詰めるつもりはありません」

「その足で追いかけながら、よく言う」

私は返す言葉を失った。

久保田さんは、私の手にある紙片へ視線を落とした。

「お前は、本を守りたいと言ったな」

「はい」

「なら、今夜はここまでにしろ」

「なぜですか」

「この紙片を持って戻れ。ここで拾ったものを持ち帰れば、明日になっても消えない。お前が追いかけなくても、これはお前のところへ残る」

「それでは、相手に逃げられます」

「消えるために歩いているなら、追わなくても消える。だが、残すために歩いている人間なら、こちらが戻ったあとも、何かを残す」

「相手が残したものを、私が見落としたら?」

「見落とすな」

久保田さんは、初めて私に命じるように言った。

「だが、見落とさないことと、すぐ手を伸ばすことは違う。目を開けたまま、一晩置け。紙は逃げない」

その言葉には、彼自身が長いあいだ、何かを見つけながら手を伸ばさずにいた者の重さがあった。

私は紙片を透明な証拠袋へ入れた。袋の中で、赤鉛筆の線が蛍光灯を受けて細く光る。下へ折れる線は、まるで紙の内部へ落ちていく階段のようだった。

私たちは第三閲覧室を出た。

扉を閉める前、私は一度だけ振り返った。北側の壁は、昼間と同じ壁に見える。書架も、机も、椅子も、すべて決められた位置に収まっている。

ただ、壁際の暗がりだけが、少し深かった。

警備室へ戻る廊下で、久保田さんが突然足を止めた。

「何か?」

彼は答えず、背後を見た。

私は同じ方向へ振り返った。

誰もいない。

それでも、床のどこかで、遅れて足音がした。

一歩。

私たちのものではない。

もう一歩。

音は近づかず、遠ざかりもしない。ただ、私たちが歩いた場所を、同じ順番でなぞっていた。

久保田さんは鍵束を握ったまま、目を閉じた。

「消えるための足音じゃない」

「では、何のためですか」

「こちらが聞いたと、知らせるためだ」

その意味を考える前に、三度目の足音が鳴った。

今度は、私のすぐ後ろだった。

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消えるためではない足音 - 記録なき夜 - 誰でも作家life