5話 台帳の手触り

修復室を出たあと、私は事務室へ戻らず、資料管理室の奥にある閲覧台帳の保管棚へ向かった。

開館中の図書館では、台帳を広げたままにしておくことができない。利用者の閲覧履歴や職員の処理記録が混じっているため、必要な頁だけを確認し、終われば必ず元の位置へ戻す。それが規則だった。けれど、その規則を守るためには、台帳がどのように扱われてきたかを見なければならない。

記録は、文字だけでできているわけではない。

表紙の角の潰れ方、頁の開き癖、紙の端についた指の油。何度もめくられた頁には、繊維がわずかに寝ている。特定の行だけを探す人間は、毎回同じ場所に親指を置く。書いた者の癖は文字に残るが、読んだ者の癖は紙の手触りに残る。

私は白手袋を外し、台帳の背に貼られた管理番号を確認した。素手で触れるのは本来避けるべきだったが、紙の状態を知るには、布越しでは足りないことがある。指先を一度擦り合わせてから、最も古い閲覧台帳を棚から抜いた。

表紙を開く。

紙は乾いていた。だが、中央から後半にかけて、頁の開き方が不自然に均一だった。自然に使われた台帳なら、記入の多い月と少ない月で、頁の反り方に差が出る。ここにはそれがない。誰かが一冊を、傷めないように扱っていた。

傷めない、というより、傷を残さないように。

私は最初の頁から順にめくった。利用者の氏名、閲覧資料、利用時刻。筆跡はさまざまだった。急いで書いた丸い字、鉛筆の芯を寝かせた薄い字、何度も書き直した跡。人が本を読んだ時間は、名前だけではなく、紙の上の乱れにも現れる。

白石由羽の記入は、すぐに見分けがついた。

数字の横線が短い。時刻の「1」は罫線からわずかに離れ、「7」の斜め線は必ず右下へ沈む。筆圧は強くないのに、文字の終わりだけがはっきりしている。書き終えたあと、迷いなくペンを離す人の字だった。

私は白石さんが記入した頁を十枚ほど並べた。

どの頁も平らだった。

他の頁には、記入欄の下に薄い膨らみがある。手首を置いた跡、紙を押さえた指の跡、台帳を閉じたときに挟まった微細な埃。だが、白石さんの触れた頁だけは、紙の表面が滑らかすぎる。めくるときに角を引っかけた形跡も、折れもない。

彼女は、紙を傷めないのではない。

傷む可能性そのものを避けている。

「何を見ているの」

背後から声がした。

振り返ると、白石さんが入口に立っていた。手には細い紙束と、ほとんど冷めているらしい紅茶のカップがある。彼女は私の前まで来ると、机の端に置かれた台帳を見た。視線が頁の上を走り、すぐに私の指先へ移る。

「閲覧台帳です」

「それは見れば分かるわ」

「白石さんの記入頁と、それ以外の頁を比べています」

「何か違いがある?」

「あります。白石さんが触れた頁は、折れが少ない」

彼女はカップを置いた。置く位置が机の縁から正確に三センチほど離れている。

「記録を扱う人間なら、そのくらいは気をつけるでしょう」

「気をつけるだけなら、紙の反り方まで揃いません」

「揃えたのかもしれない」

「全部を?」

「全部を」

白石さんは否定しなかった。私は台帳を閉じず、頁の端に指を置いた。

「記録を残す人は、普通、書いた内容を気にします。どの時刻に、誰が、何を見たか。けれど白石さんは、書いたあとの紙の状態を気にしている」

「それが悪いこと?」

「悪いとは言っていません。ただ、記録を読む人間に何を見せるかを考えているように見えます」

白石さんの指が、眼鏡の縁へ触れた。彼女はすぐに手を下ろし、机上の紙束の角を揃えた。

「瀬戸くん。あなたは、人が記録を扱うとき、必ず何かを隠していると思っているの?」

「いいえ」

「では、何を思っているの」

私は台帳の頁を見た。余白には、薄い鉛筆の跡がある。消されたものではない。最初から強く書かれなかったため、紙の凹みだけが残っていた。

「記録を残す人間は、残す内容だけではなく、残り方も選びます」

「選ぶ?」

「はい。濃く書くか、薄く書くか。紙を押さえるか、浮かせるか。後から誰かが読むことを考えるなら、記入の仕方にも意図が出る」

「それは、司書の仕事を疑っている言い方に聞こえるわ」

「疑っているのではありません。記録を、記録として見ているだけです」

白石さんはしばらく黙っていた。窓の外から、子どもたちの声が聞こえた。閲覧室の一角で、保護者が小さな声で読み聞かせをしているらしい。その柔らかな声は、事務室の空気に馴染む前に、壁へ吸い込まれた。

「昔、記録を残すことが人を守ると思っていた」

白石さんが言った。

「今も思っています」

「そうね。記録があれば、誰がどこにいたかを確かめられる。事故が起きたとき、責任の所在も追える。けれど、記録があるから救われるとは限らない。書かれた一行が、別の人間を追い詰めることもある」

「だから、紙に傷を残さないんですか」

「傷が残れば、読む人はそこに意味を見つける。記入の乱れ、時刻のずれ、書き直しの跡。事実とは関係のない部分まで、証拠のように扱われてしまう」

「でも、乱れを消しても、事実そのものは消えません」

「消えないなら、まだいいわ」

白石さんの返事は静かだった。

「本当に怖いのは、事実があったのに、記録の方が先に整ってしまうことよ。あとから現場を見た人間は、整った記録に合わせて記憶を直す。違っていたのは現場の方だと思い込む。私は、それを一度見たことがある」

彼女は紙束へ目を落とした。そこには、事故後に作り直した勤務用ノートがあるのだろう。表紙の角が擦れ、背の糸がわずかに浮いていた。

「何があったんですか」

「今のあなたには必要ない話です」

「私が調べていることと関係があるかもしれません」

「関係があるから話したくないの」

その言葉には、初めて硬い拒絶が混じった。私はそれ以上、問い詰めなかった。白石さんの記録頁が平らなのは、誰かを欺くためだけではない。記録を扱うたび、過去の紙面に触れてしまうからなのだろう。

彼女は何かを隠している。

だが、それが今回の本の移動と同じ意図なのかは、まだ分からない。

白石さんが退室したあと、私は台帳の後半をさらにめくった。

同じ頁に、別の違和感があった。

記入欄の一部だけ、順番が逆になっている。

閲覧開始時刻が先に書かれ、その下に資料名が記されている。通常の書式では、資料名を書いてから時刻を記入する。利用者が先に資料名を書き、職員が確認後に時刻を入れるためだ。

しかし、数頁だけは時刻が先だった。

その頁に記された時刻は、すべて二十二時台だった。

閉館後、利用者が閲覧台帳へ記入することはない。職員が処理するなら、資料名と時刻の順序を崩す理由もない。私は頁を並べ、時刻の間隔を見た。

二十二時十三分。

二十二時十七分。

二十二時二十一分。

四分ごとに、同じ欄へ記入されている。

私はメモ帳を開き、数字を書き写した。二十二時十七分は、あの返却印の時刻と一致していた。

台帳の頁には、名前がない。

資料名も、途中で消えている。

残っているのは時刻だけだった。

私は立ち上がり、警備室へ向かった。

久保田さんは監視モニターの前で、無糖の缶コーヒーを飲んでいた。彼は私を見ると、口を開かず、隣の椅子を顎で示した。画面には第三閲覧室の扉が映っている。何度見ても、そこには動くものがない。

「巡回表を見せてください」

「何に使う」

「台帳の時刻と照合します」

久保田さんはポケットから小さなメモ帳を取り出した。公式の巡回表ではなく、彼自身が書き込んでいるものだった。紙の端は擦り切れ、ところどころに黒い指跡がついている。開かれた頁には、時刻と短い記号が並んでいた。

「二十二時十三分。二十二時十七分。二十二時二十一分」

私が読み上げると、久保田さんの手が止まった。

「その時刻を、どこで見た」

「閲覧台帳です。名前のない記入がありました」

「記入?」

「時刻だけが、四分おきに残っています」

久保田さんはメモ帳を閉じた。

「見せろ」

「ここにはありません。保管棚へ戻しました」

「なら、戻れ」

「その前に、巡回表を確認したい」

「確認している」

「何をですか」

彼は監視モニターを見たまま答えた。

「空白だ」

「毎晩、同じ時刻ですか」

「ほぼな」

「ほぼ、というのは?」

「二十二時十五分から十九分の間。日によって一分ずれる」

「そのずれは、巡回のずれですか」

「違う。建物の方がずれる」

私は意味が分からず、画面を見た。

久保田さんは鍵束を親指で数えた。金属音は鳴らない。

「夜の巡回は、決めた時刻に歩けばいいわけじゃない。空調が止まる時間、外の車が途切れる時間、上階の配管が鳴る時間がある。それらを身体で覚えて、異常が混じっていないかを見る。第三閲覧室の前では、毎晩ひとつだけ音が欠ける」

「音が欠ける?」

「床板の軋みだ。俺が歩いたときは鳴る。だが、戻るときには鳴らない。誰かが先に通った日は、床板の鳴り方が変わる」

「誰かが通った日は、ですか」

「断定はしていない」

「でも、毎晩同じ時間に、音が欠けている」

「だから見ている」

久保田さんは巡回表を広げた。二十二時十四分の欄には、強い筆圧で丸がついている。その次の欄は空白。二十二時十九分の欄には、薄い線が引かれている。

「公式の巡回表には、空白はありません」

「書いてないからな」

「なぜ書かないんですか」

「書けば、説明を求められる」

「説明できないから?」

「説明すると、現場が消えるからだ」

私は彼を見た。

久保田さんはようやくこちらを向いた。大きな身体に似合わず、声は低く、乾いていた。

「警備の報告書に、床板の鳴り方を書く欄はない。監視カメラの死角に、建物の増築でできた影を書く欄もない。書式にない異常は、異常として扱われない。上に出したところで、“機器の誤作動”か“確認不足”に丸をつけられて終わる」

「だから、自分の記録にだけ残している」

「残す必要があるものは残す。見せる必要がないものは見せない」

「それは、記録を整えることと同じではありませんか」

久保田さんの目が細くなった。

「同じじゃない。俺のメモは、現場を消すためじゃない。忘れないためだ」

「では、誰かが“ここにいなかったこと”にしているこの空白は?」

「それは俺の仕事じゃない」

「仕事でなくても、知っているなら教えてください」

「教えることと、使わせることは違う」

「私に使わせたくない?」

「お前が危ないからだ」

「危ないのは、私が知らないままにすることです」

「知れば止まれなくなる」

その言葉は、私自身がいちばんよく知っていることだった。空白を見つけると、埋めるまで眠れない。棚の高さが一ミリ違えば直す。記録の時刻が一分ずれていれば、その理由を探す。私の執着は、職務への忠実さと同じ顔をしている。

久保田さんは、それを見抜いていた。

「見つけたことを全部追えば、守れるとは限らない」

「追わなければ、何を守るべきかも分かりません」

「本を守るのか、人間を守るのか、記録を守るのか。全部は無理だ」

「それでも、どれかを最初から捨てるつもりはありません」

久保田さんは黙った。モニターの青い光が、彼の頬の深い皺を浮かび上がらせる。しばらくして、彼は自分のメモ帳を開き、ある頁を私へ向けた。

そこには、過去三週間分の時刻が並んでいた。

二十二時十四分、空白。

二十二時十六分、空白。

二十二時十七分、空白。

日付は違うのに、同じ場所で同じような欠けが続いている。私はその列を見て、喉の奥が乾くのを感じた。

「これは、今月からですか」

「いや。俺が書き始めたのが今月だ」

「それ以前にも?」

「知らん。見ていたが、書かなかった」

「なぜ今になって?」

久保田さんは答えず、モニターの画面を切り替えた。別の映像が映る。第三閲覧室の北側、壁際の狭い範囲だった。カメラは正面の扉を映しているが、壁と書架の間に細い暗がりが残っている。

「この影は、去年の改修前からある」

「現在の図面には、壁しかありません」

「図面にないから、壁しかないことになった」

「改修で塞がれたのでは?」

「塞がれたなら、空調の風は出ない」

私は画面へ近づいた。暗がりの下で、埃が細く揺れている。風がある。壁の内側に空間がある。

「久保田さんは、入ったことがありますか」

「ない」

返事は早かった。

「本当に?」

「入ったことはない。だが、入口がどこにあるかは分かる」

「なぜ教えてくれるんですか」

彼は私の手元にある台帳へ視線を落とした。

「お前が、記録の空白を見つけたからだ。空白を見つけた人間が、空白を埋めるために何をするかは、見ておいた方がいい」

警備室の時計が、かすかに秒を刻んだ。

私は台帳の時刻を思い出した。二十二時十三分、十七分、二十一分。監視記録の空白は、その周辺に重なっている。誰かは一定の間隔で第三閲覧室の近くを往復し、記録のつなぎ目だけを選んで通っている。

だが、それだけではない。

台帳の名前のない時刻は、利用者の記録ではなかった。誰かが、閲覧した資料ではなく、通過した時間を残している。

私は資料管理室へ戻り、先ほどの台帳をもう一度開いた。

該当する頁の余白を、指先でなぞる。

そこには、文字の跡が残っていた。消されたのではない。薄い筆圧で書かれたため、光の角度を変えたときだけ見える線だった。

人名の一部。

「久」という文字の払いと、「我」の左側らしい線。

私は息を止めた。

誰かが、閲覧台帳に自分の名前を書きかけた。だが、途中で消した。あるいは、消されることを知っていて、紙へ力をかけずに残した。

記録は、完全には消えていない。

消そうとした手の下に、別の手つきが残っている。

私は台帳を閉じ、角を揃えた。紙の表面は平らだった。平らすぎるほどに。

それでも、指先にはわずかな凹みが残っていた。

「誰かが、ここにいなかったことにされている」

声に出すと、言葉は事務室の静けさの中で思いのほか重く落ちた。

窓の外では、午後の光が傾き始めていた。閲覧室の机に伸びた影が、少しずつ長くなっている。昼の利用者たちは本を読み、必要な頁に指を挟み、読み終えれば本を返す。その繰り返しの中で、誰かだけが記録から外れ、夜の建物を歩いている。

私は台帳を保管棚へ戻した。

そのとき、背後の書架から小さな音がした。

紙が一枚、落ちた音だった。

振り返ると、床に古い閲覧票が落ちている。誰かが触れた形跡はない。私は拾い上げ、表面を確認した。

名前の欄は空白だった。

だが、紙の裏には、同じ筆圧の薄い凹みが残っていた。

久我。

私はその二文字を指先でなぞった。

まだ、名前とは呼べない。

それでも、もう単なる空白ではなかった。記録から消された痕跡が、紙の手触りとして残っている。

私は閲覧票をメモ帳へ挟み、資料管理室の灯りを消した。

廊下へ出ると、蛍光灯が一列ずつ点いていく。白い光が、私の前方へ道を作る。その道の先には第三閲覧室があり、さらにその向こうには、現在の図面に存在しない暗がりがある。

私は歩きながら、台帳の平らな頁と、久保田さんの巡回表の空白を重ねて考えた。

誰かは記録を直している。

だが、すべてを消しているわけではない。

消したように見せながら、後から照合できる程度の凹みを残している。

それは隠蔽する手つきではなく、誰かに見つけられることを待つ手つきにも見えた。

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台帳の手触り - 記録なき夜 - 誰でも作家life