4話 濃淡のずれ

翌朝、私は開館前の返却棚で立ち止まった。

『北辺歳時記』は、昨夜と同じ書架に戻っていた。白い付箋を貼った空白は消え、本は何事もなかったように背表紙の列へ収まっている。けれど、隣の『地区誌索引』との高さが合っていなかった。

一・五ミリほど、奥へ沈んでいる。

それだけなら、棚差しの際に指が滑っただけとも考えられる。私は本を抜き、背表紙の下端と棚板に残った埃を見た。埃の筋は昨夜と違う。正面から引き抜かれた跡ではなく、いったん手前へ出し、斜めに戻したような細い擦れがある。

本を開く。

栞は第三章の冒頭から、旧市街の境界を記した頁へ移っていた。そこには、赤鉛筆で引かれた古い線が一本ある。地図上の町境をなぞったものだろう。私は昨夜、その頁を見ていない。栞の端には、指で強く押しつけたような角が残っていた。

私が触れた紙の角は、丸くなる。

そのことを、私は自分でも妙だと思うほど正確に覚えていた。白手袋をしていても、頁を押さえるときの力には癖がある。紙を傷めないよう、指の腹でゆっくり沈める。戻ってきた本の角は、私の触れ方とは違っていた。硬く、短い。ためらいがなく、それでいて乱暴ではない。

誰かは、この本を読むためではなく、探すために開いた。

私は貸出票をめくった。

見慣れた返却印の隣に、もうひとつ印影がある。昨夜見つけたものより濃く、しかし輪郭は薄い。インクが紙へ染み込む前に、別の紙へ押しつけられたような滲み方だった。

印影の右側に濃い溜まりがある。押した者が印を水平に置けず、狭い場所で斜めから力をかけたときにできる形だ。さらに貸出票の右下には、細い皺が残っていた。押印の直後に、紙を本の綴じ込みへ差し込んだのだろう。

私は貸出票を鼻先へ近づけた。

古い糊。乾いた埃。ほんの少しの湿り気。

それから、和紙の匂いがした。

修復室へ向かう廊下は、朝の職員たちの気配で満ちていた。台車の車輪が床の継ぎ目を越え、コピー機が低く唸り、誰かが遠くで今日の返却冊数を読み上げている。昨夜の静けさが嘘のようだった。けれど、賑わいが異常を消してくれるわけではない。むしろ人の声が増えるほど、私は見つけた印影を誰にも見せずに持ち歩いていることに落ち着かなさを覚えた。

修復室の扉は少し開いていた。

中から、紙を裁つ音が聞こえる。刃物が和紙の表面を滑り、最後の一繊維だけを残して止まる音だった。

「柊木さん」

返事はない。

私は扉を二度叩き、開けた。

柊木茉莉は窓際の作業台に向かっていた。朝の光を背にして、薄い和紙を光に透かしている。紙の繊維が白い膜のように浮かび、彼女の指先だけが、そこに残ったわずかな濃淡を追っていた。

机の上には、糊壺、竹ヘラ、骨ばさみ、小さな刷毛が並んでいる。どれも定位置から一歩も動いていない。だが、糊壺の蓋だけが、何度も開け閉めされたように少し濡れていた。

「何か用ですか」

茉莉は紙から目を離さずに言った。

「見ていただきたいものがあります」

私は貸出票を作業台へ置いた。彼女はすぐには触れなかった。紙の端から一センチほど離れたところで指を止め、呼吸を浅くする。それから、手を洗うための小さな水差しへ向かった。

「そのままでいいです。手袋をしています」

「あなたの手袋と、私の手袋は違います」

「同じ白い手袋に見えますが」

「紙に触れる人間は、白さで区別されません」

冷たい言い方ではなかった。ただ、譲るつもりがない声だった。茉莉は手を拭き、作業台の端に置かれた薄い手袋をはめた。指先が紙に触れた瞬間、彼女の顔からわずかに表情が消えた。

「この繊維……和紙ね」

「そう思いますか」

「思う、ではなく、そうです。洋紙の繊維なら、切れ目がもっと短く揃う。これは長い繊維が途中で引かれている。裂いたあと、湿らせて押さえた」

彼女は竹ヘラを取り、印影の縁を指さした。

「ここ。繊維が寝ている。印を押したあと、上から何かを重ねて擦っている」

「修復紙ですか」

「たぶん、では話さないでください」

茉莉の声が初めて強くなった。彼女はすぐに目を伏せ、紙片の端を竹ヘラでそっと撫でる。

「修復紙を重ねたなら、目的は傷を隠すことです。けれどこれは、傷を隠すというより、印影の輪郭を変えている。押した場所を別の状態に見せたかったのかもしれない」

「返却印を、ですか」

「返却印だけとは限りません。紙に残る時間を変えたかった可能性もある」

「時間を変える?」

「押印の濃淡は、インクの種類だけで決まらない。紙の乾き具合、押した角度、押したあと何に触れたかで変わる。記録を読む人は、印影から処理の順序を考えるでしょう。でも、その順序そのものを作り替えたかったなら、濃淡をわざと崩すこともある」

私は貸出票の時刻欄を見た。

二十二時十七分。

「この印は、正しい時刻を示していない可能性がありますか」

「時刻欄に書かれた数字と、押印された時間は別です」

「誰かがあとから書いた?」

「そう簡単に考えないでください」

茉莉は紙を机の中央へ移し、私の方へ向けた。印影の右端には、薄い赤黒い線が伸びている。私はこれまで、それをインクの滲みだと思っていた。だが、彼女が光を斜めから当てると、線は紙の上ではなく、紙の下へ沈んでいた。

「圧痕です。印を押したとき、下に何か硬い縁があった」

「何か硬いものを下に敷いた」

「ええ。台の上ではなく、狭い場所で。硬い縁の幅は四ミリ。金属か、古い製本の角です」

「本の中で押した?」

「そうかもしれません。けれど、あなたが言ったように、印を押したあとすぐ本へ差し込んだなら、紙の裏に表紙の糊が移るはずです」

「移っています」

「では、押印した場所と本を戻した場所は同じです」

彼女はそう言って、ようやく私の目を見た。

「誰かは本を別の場所へ持っていき、そこで印を押し、紙を補修するように押さえ、そのまま本へ戻した。作業に慣れている。少なくとも、紙を傷めないことだけは知っている」

「修復担当者の仕事に似ています」

「私を疑っていますか」

問いは静かだった。けれど、竹ヘラを握る指が白くなっていた。

「疑う前に確認しています」

「同じことです。紙に触れた人間を、触れたという理由だけで疑えば、修復者は全員、何かを隠していることになる」

「修復紙の在庫が合わないことがあったと聞きました」

茉莉は目を伏せた。糊壺の蓋を閉じる。確かめる必要のない動作を、二度繰り返した。

「古い補修紙の束が、一度だけ帳面より少なく見えた日がありました」

「少なく見えた、というのは」

「数え間違いかもしれない。束の厚みを測るとき、紙を完全に揃えなかったから」

「茉莉さんがですか」

「私が、ではありません。私の前任者がそう記録していた」

「記録に書かれていたのですか」

「いいえ。記録には、在庫は一致、とだけ」

彼女の返事は、そこで一度途切れた。

「帳面の数字は合っていました。棚の束だけが、少なく見えた。私はそのとき、現物を信じるべきでした。でも、帳面の数字が正しいなら、私の見間違いにするしかなかった」

「なぜ、見間違いだと思ったんですか」

「そう思うように、周囲が整っていたからです」

茉莉は窓の外へ視線を向けた。朝の光がガラスに反射し、彼女の顔に薄い格子をつくっている。

「在庫表、保管棚、使用記録。全部が合っていた。ひとつだけ現物が違っていた。そういうとき、人は現物の方を疑います。帳面の数字に間違いがないなら、目の方が間違っていることにする」

「その束はどこへ行ったんですか」

「知りません」

「本当に?」

「知りません」

短い答えだったが、二度目の声には疲れがあった。

「ただ、私はあのときから、修復紙を一枚使うたびに記録するようになった。紙が減ること自体は問題ではありません。問題は、減ったことが誰にも残らないことです」

茉莉は貸出票を返そうとした。私は受け取る前に尋ねた。

「この印影を作った人間は、修復の知識があると思いますか」

「ありません」

即答だった。

「なぜですか」

「本当に修復を知っている人間なら、こんなふうに印影を崩さない。後から調べられる痕を残すからです。これは、修復に似せているだけ。紙の繊維を理解しているのではなく、見える傷を別の傷で覆っている」

「では、誰が」

「分かりません。ただ、その人は紙を直したいのではなく、紙に残った順番を隠したい」

彼女はそこで言葉を止めた。私は貸出票を受け取り、透明な袋へ戻した。

「柊木さんは、閉館後に修復室へ来ることがありますか」

「あります」

「昨夜は?」

「来ていません」

「証明できますか」

「できません」

茉莉は自分の指先を見た。爪の間に、薄い白い繊維がひとつ残っている。彼女はそれを取ろうとしたが、途中で手を止めた。

「証明できないことを、できないまま言うのは嫌いです。でも、証明できないから嘘だと決められるのも嫌いです」

「その違いを、私は見分けたいと思っています」

「見分けられますか」

「物を見れば」

「物は、いつも全部を話すわけではありません」

それは、白石さんが前日に言った言葉と似ていた。私は返事をせず、作業台の上を見た。道具は整い、紙片は揃い、糊壺の蓋も閉じている。あまりにきれいで、何かが起きた場所には見えない。

だが、完全に整っていること自体が、ひとつの癖だった。

私は退室する前に、棚の端へ目を向けた。修復紙の在庫束が三つ並んでいる。そのうち中央の束だけ、背の高さが一ミリ低かった。

「これは?」

「使いかけです」

「記録には?」

「記録しています」

茉莉はすぐに帳面を開いた。頁をめくる指は速い。だが、目的の箇所で止まった瞬間、指先が紙の端を押さえた。

帳面には、中央の束も他の二つと同じ枚数が記されていた。

私はその数字と現物を見比べた。

「一枚、足りません」

茉莉は答えなかった。

窓の外で、開館を告げる音楽が流れ始めた。明るく整えられた旋律が、修復室の乾いた空気へ入り込む。利用者を迎えるための音なのに、私はそれが、何かを覆い隠す薄い布のように聞こえた。

「その一枚を、誰かが使った可能性があります」

「そうでしょうね」

「何に?」

茉莉は帳面を閉じた。紙の角を揃え、両手をその上に置く。

「傷を隠すために使ったのかもしれません。あるいは、誰かの名前が残らないようにするために」

彼女はそこで初めて、私を正面から見た。

「瀬戸さん。あなたは本を探しているようで、本当は本の中に残った人を探しているんじゃありませんか」

質問には答えず、私は貸出票の袋を握り直した。透明な膜越しに、見知らぬ印影が歪んで見える。

「まだ、そこまでは分かりません」

「分からないことを、分からないまま追うのは危険です」

「分からないまま整える方が、もっと危険だと思います」

茉莉の目がわずかに揺れた。

修復室を出ると、廊下には開館を待つ利用者の足音が増えていた。靴底が床を擦り、受付の職員が挨拶を交わす。昼の図書館が、昨夜の空白を覆うように動き始めている。

私は歩きながら、貸出票の印影を思い返した。

濃すぎるインク。

薄い輪郭。

押印の下に残る硬い縁の痕。

そして、修復紙の束から消えた一枚。

紙を直すためではない。記録の順番を、別の順番に見せるために使われた紙。

その考えが浮かんだとき、私は返却棚の前で足を止めた。『北辺歳時記』の背表紙が、朝の光の中でほかの本よりわずかに奥へ沈んでいる。

本は戻っている。

しかし、戻された場所には、戻した者の都合が残っていた。

私は白手袋の指先で本の背を押し、棚の縁へ揃えた。

紙が擦れる音は小さかった。けれどその音の奥で、昨夜の誰かが、まだ本の頁をめくっている気がした。

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