3話 第三閲覧室の空白

その日の午後、所轄の刑事が来館した。

正面玄関の自動扉が開くたび、外の車道から湿った風が入り込む。雨はまだ降っていなかったが、空の低さが建物の中まで押し寄せているようだった。閲覧室では数人の利用者が、それぞれの机に向かっていた。紙をめくる音、鉛筆の先が紙面を擦る音、遠くで椅子を引く音。いつもの図書館の音だった。

その中を、黒瀬圭介は音を立てずに歩いた。

彼は生活安全課の名札を見せ、白石さんと短く言葉を交わしてから、私のところへ来た。手には薄い手帳と、使い込まれた黒いボールペンを持っている。歩き方は急いでいるように見えないのに、立ち止まる場所だけが早かった。返却台、郷土資料の書架、第三閲覧室へ続く扉。順番に視線を置き、必要なものだけを拾っている。

「本は戻っているんだな」

「はい」

「じゃあ、窃盗ではない」

「戻ったことが、盗まれていない証拠になりますか」

黒瀬さんは私を見た。眉間に浅い皺が寄る。

「普通はなる。少なくとも、持ち去る意思は薄い」

「普通で説明できるなら、相談はしていません」

「見習いの君が相談したのか?」

「白石さんに確認をお願いしました」

「なるほど」

彼はそれ以上、私の立場を揶揄しなかった。代わりに、貸出票の複写を机の上へ置いた。黒い線で、印影の部分だけが囲まれている。

「閉館後の押印。時刻は二十二時十七分。職員の誰かが押した可能性は?」

「当直の印は別にあります」

「印が二つあるから、二人いると考えるのは早い。古い印を使っただけかもしれない。誰かが勝手に持ち出した可能性もある」

「その場合、印はどこから持ち出されたんでしょう」

「そこを調べる」

黒瀬さんは即答した。だが、次の言葉を続ける前に、貸出票の端を指で二度叩いた。

「ただし、君の言う“記録にない人物”というのは、今のところ根拠が弱い。人影を見たわけでも、顔を確認したわけでもない。埃の筋と印影だけだ。証拠としては、まだ状況の域を出ない」

「分かっています」

「分かっている顔ではないな」

「見つけたものを、見つけたままにしているだけです」

黒瀬さんの口元がわずかに動いた。笑ったのか、呆れたのかは分からない。

「それが一番厄介だ。見つけたものを、意味のある形にしたがる人間は多い。空白を見つけると、そこへ都合のいい誰かを置きたくなる」

「置いたのは私ではありません。空白を作ったのが誰かを確認したいんです」

「同じことに聞こえるが」

「違います。名前を決める前に、通った場所を確かめたい。通った場所を決める前に、記録がどう欠けているかを見る。順番を飛ばすと、あとで何を見たのか分からなくなる」

私は貸出票の複写を裏返した。裏には、印影の濃淡を写すために窓際で撮った写真がある。輪郭の左側だけが浅く、右側に濃い溜まりがあった。

「この印は、普通の返却印とは押し方が違います。紙に対してまっすぐ置かれていない。右側から先に触れて、左側を後から押しつけている。押す人が印を持つ手に慣れていないか、狭い場所で押したかのどちらかです」

「狭い場所?」

「返却台の上なら、こんな濃淡にはなりません。台は水平です。紙も動かないように固定できます。でも、この紙には右下へ引かれた皺がある。押したあと、すぐに何かへ差し込んだ」

「何かというのは?」

「本の中です。戻ってきた『北辺歳時記』の貸出票には、印影の裏側に、表紙の内側と同じ古い糊の匂いがありました」

黒瀬さんはしばらく黙っていた。彼の指が、手帳の端から離れた。

「つまり、本を持ち出して、どこかで印を押し、また戻した」

「はい」

「その“どこか”が、第三閲覧室の近くにあると?」

「監視記録の空白と、返却印の時刻が重なっています」

黒瀬さんは手帳を開き、時刻を書いた。文字は細く、数字の間隔が均一だった。書き終えると、彼は腕を組んだ。

「まずは出入口を確認する。正面、搬入口、職員通用口。カードキーの記録を全部出してもらう。中で誰かが勝手に動いたなら、職員の動線も調べる」

「第三閲覧室は?」

「最後だ」

「なぜですか」

「君がそこに固執しているからだ。最初から一か所に絞ると、見落としが増える」

その言葉には理屈があった。私は反論せず、彼が去るのを見送った。

けれど、黒瀬さんが通用口へ向かう途中、白石さんの机の横で足を止めたことに気づいた。彼は机上のペンを見た。二本のペンは、端と平行に並んでいる。白石さんはその視線に気づき、ペンを一本だけ持ち上げ、また置いた。

「何か?」

「机の上は、いつもこうですか」

「仕事の道具ですから」

「ずいぶん几帳面だ」

「乱れている方が、落ち着かないだけです」

「記録も?」

白石さんは一拍置いた。

「記録は、乱れていてはいけません」

黒瀬さんはそれ以上尋ねなかった。だが、彼の手帳には何かが書き加えられたようだった。

夕方、利用者が少なくなった頃、私は警備室へ呼ばれた。

警備室は建物の北側にあり、窓が小さい。外の光が早く失われる場所だった。モニターの青白い光が久保田さんの頬を照らし、古い機械のファンが低く唸っている。彼は椅子に座ったまま、画面のひとつを見ていた。

第三閲覧室の扉が映っている。

画面の左端に、白い壁。右端に、扉の半分。扉の前には、細長い影が落ちている。映像は動いていないように見えたが、よく見ると、画面の右上だけが一瞬暗くなった。

「これです」

久保田さんは指で画面を示した。

「何が映っているんですか」

「映っていない」

「しかし、画面が暗くなっています」

「暗くなったんじゃない。映像が一度、切れた」

彼は再生を戻した。モニターの中で、秒数が逆向きに流れる。二十二時十三分。十四分。十五分。第三閲覧室の扉は閉じたままだった。十六分二十秒で、画面がわずかに揺れる。次の瞬間、映像が一枚飛んだ。

「ここだけ、抜ける」

久保田さんは短く言った。

「何秒ですか」

「三秒」

「三秒だけ?」

「三秒あれば、人は通れる」

彼は巡回表を机の上へ置いた。紙には、二十二時十五分から十八分まで、細い横線が引かれている。巡回時刻は二十二時十四分と二十二時十九分。間隔としては規則どおりだった。

「足音は?」

「録音していない」

「では、なぜ空白が分かるんですか」

久保田さんは私を見なかった。

「廊下の床は、場所ごとに鳴り方が違う。俺は巡回のとき、時間より音で確認している。あの扉の前は、二十二時十五分から十八分まで、何も鳴っていない」

「誰かが歩いたなら、音がするはずでは?」

「普通ならな」

彼は鍵束を親指で数えた。金属の触れ合う音は一度もしなかった。

「だが、音を鳴らさずに通る方法を知っている人間もいる。壁側の板を使えば、床鳴りは避けられる。扉も正面から開けなければ、錠の音が残らない」

「久保田さんは、その方法を知っているんですね」

「警備員なら知っておく必要がある」

「その通路を使ったことは?」

「通路があるとは言っていない」

「今、通り方を説明しました」

久保田さんはようやくこちらを見た。片眉がわずかに上がっている。

「建物の癖を話しただけだ。人の癖とは違う」

「違いません。人が通らなければ、建物の癖は意味を持ちません」

「意味を持たないものを、意味ありげに扱うのが好きだな」

声は低かったが、怒鳴ってはいなかった。私は机上の巡回表に目を落とした。空白の前後で、久保田さんの筆圧が違っている。二十二時十四分の数字は強く、十九分の数字は薄い。誰かに見せるために書いた記録と、自分だけの確認として書いた記録が、同じ紙の上に混じっていた。

「この空白を、久保田さんはいつから知っていたんですか」

「昨日からだ」

「なぜ報告しなかったんですか」

「報告するほどのことじゃなかった」

「本が消えました」

「戻った」

「閉館後の記録に、誰かが触れています」

「触れたのが人間とは限らん」

「機械が本を抜き、栞を動かし、返却印を押して、棚へ戻したんですか」

久保田さんの指が鍵束の上で止まった。

「……そういう言い方をするな。夜の建物では、見えたものだけを信じると間違える」

「では、何を信じればいいんですか」

「見えないものを勝手に名前で呼ばないことだ」

彼は監視モニターから目を離し、壁際の棚へ手を伸ばした。そこから、古い館内図を一枚取り出す。折り目は黄ばんでいたが、紙そのものは乾いていた。現在の図面より厚く、指で触ると細かな砂のような感触が返ってくる。

「これは現行図には載っていない」

図面の中央には、第三閲覧室と旧保存庫が描かれていた。現在の館内図では、第三閲覧室の北側は壁になっている。しかし古い図では、その壁の内側に細い通路が続いていた。

線は、返却口の裏側で途切れ、さらに下へ折れている。

私は図面へ顔を近づけた。古いインクの匂いに混じって、赤鉛筆の芯が擦れた匂いがした。通路の端には、小さな記号が残っている。四角の中に、縦線が二本。私はそれを見たことがあった。保存庫の図面で、階段を示す記号だ。

「地下へ続いています」

「昔はな」

「今は?」

「知らん」

「知らないのに、図面を持っているんですか」

「知っていることと、使えることは別だ」

久保田さんは図面を私の方へ滑らせた。

「この館は、改修のたびに通路を塞いだ。塞いだことにした場所もある。警備の記録には、扉と鍵しか残らない。壁の向こうが何になっているかまでは、誰も書かない」

「誰も書かない?」

「書かなくても困らないからだ。困らないことは、だいたい消える」

その言葉を聞いたとき、私は相良元館長の名前を思い出した。過去の資料が、あまりにもきれいに整理されている。記録の空白がないのではなく、空白まで整えられているような、あの不自然な資料群。

「この図面を、相良さんは知っていますか」

久保田さんは答えなかった。

代わりに、モニターの一台から小さな音がした。映像が乱れたのではない。扉の向こうで何かが擦れたような音だった。

紙を引く音。

私は立ち上がった。

「第三閲覧室です」

久保田さんも椅子から離れた。大柄な身体が動いたのに、床は鳴らなかった。彼は懐中電灯を取り、鍵束を手の中へ収める。

「待て」

「本が動いています」

「だから待て。音を追うと、追われる側になる」

「誰かがいるなら、確認しなければ」

「確認と追跡は違う」

「私には同じです。見つけたものを、そのままにして戻れません」

久保田さんは私の前に立った。警備服の布地から、冷えた外気と機械油の匂いがした。

「お前は本を守りたいのか、それとも自分の見つけた空白を埋めたいのか」

問いは短かったが、返すまでに時間がかかった。

書架の空白。返却印。栞の位置。監視記録の欠け。私はそれらを一つずつ並べてきた。乱れを直すためだと思っていた。だが、空白が埋まればそれで終わるのか。そこに誰かの名前を戻せば、記録は正しい形になるのか。

分からなかった。

それでも、扉の向こうで紙が擦れる音は、確かに続いていた。

「両方です」

私は答えた。

「本を守ることと、空白を埋めることは、私にとって同じです」

久保田さんは長く黙った。やがて懐中電灯を点け、扉の方へ向いた。

「なら、足元を見ろ。音より先に、残るものがある」

警備室を出ると、廊下はすでに夜の色になっていた。窓の外には雨が降り始めている。細い雨粒がガラスを伝い、館内の蛍光灯を縦に引き伸ばしていた。

第三閲覧室へ向かう廊下では、空調の音が消えていた。耳を澄ますと、自分の呼吸と、久保田さんの衣服が擦れる音だけが聞こえる。床板の継ぎ目を避けながら進む彼の歩き方は、まるで建物の内側に残された古い記憶を踏まないようにしているようだった。

扉の前で、久保田さんが手を上げた。

私は立ち止まった。

カードキーのランプは消えている。扉は閉じている。記録上、誰も通っていない。

けれど、床の埃に細い筋があった。

書架側から扉へ向かって伸びている。靴跡ではない。何かの端が、床を撫でて移動したような筋だった。筋の幅は三センチほどで、途中に一度だけ途切れ、扉の下へ消えている。

私はしゃがみ込み、指を近づけた。

触れようとしたところで、扉の向こうから紙の擦れる音がした。

久保田さんの手が、私の肩を押さえた。

「聞こえたな」

「はい」

「なら、開ける」

彼が鍵を差し込む。金属が錠の中で回り、短い音が廊下へ落ちた。

扉の向こうには、誰もいなかった。

第三閲覧室の机はすべて空で、椅子も整然と収まっている。窓は閉まり、北側の壁には変わったところがない。私は懐中電灯を床へ向けた。埃の筋は、扉の内側から書架の奥へ続いている。

その先には、壁しかない。

久保田さんが先に進み、壁際の監視カメラを見上げた。カメラの角度は正しい。けれど、壁と書架の間にできた細い影だけが、画面には映らない位置にあった。

私は書架の背表紙を見た。

郷土資料の列の中で、『北辺歳時記』と同じ分類番号を持つ本が、一本だけ奥へ引っ込んでいる。昨日の空白とは別の場所だった。私は手袋をした指で、その背を押した。

本は、わずかに動いた。

その下から、乾いた紙片が一枚、床へ落ちた。

拾い上げると、古い館内図の切れ端だった。第三閲覧室の北壁、その裏側に、現在の図面にはない細い線が引かれている。線は壁を抜け、下へ折れていた。

階段の記号。

私は紙片を裏返した。

裏には、返却印の輪郭だけが赤黒く残っていた。押された文字は読めない。だが、その下に、鉛筆で小さく数字が書かれている。

二十二時十七分。

私は息を止めた。

「久保田さん」

彼は紙片を見た。無愛想な顔のまま、目だけが変わった。

「これは、あなたが書いたものですか」

「違う」

「では、白石さん?」

「知らん」

彼は壁際へ近づき、書架の脇にしゃがんだ。床の埃を照らし、筋の先を指で示す。そこには、埃が途切れた場所があった。壁際の巾木が、ほんの少し浮いている。

「ここだけ、空気が動く」

久保田さんが言った。

壁の向こうから、かすかな風が戻ってきた。乾いた紙と古い糊、それから長い時間閉じ込められていた木材の匂い。私はその匂いを吸い込み、胸の奥が冷えていくのを感じた。

図書館の記録には、ここに壁しかないことになっている。

しかし、壁の向こうには空間がある。

そして、その空間へ通じる道を、誰かが今も使っている。

背後で、廊下の蛍光灯が一度だけ明滅した。久保田さんが立ち上がり、扉の外を振り返る。私は紙片をメモ帳へ挟み、落とさないよう指で押さえた。

遠くの監視室から、機械の警告音が一度だけ鳴った。

黒瀬さんが、こちらへ向かっているのかもしれない。

白石さんが、記録を確認しているのかもしれない。

相良元館長の整えられた過去のどこかに、この壁の向こうが残っているのかもしれない。

まだ、何ひとつ断定できない。

けれど私は、もう書架の空白を偶然とは呼べなかった。

本は消えたのではない。

誰かが、記録の外へ持ち出している。

私は壁際の巾木に手を置いた。冷たい木の奥で、かすかに空気が動いた。

その向こうにいる人物が、何を求めているのかは分からない。

ただ、その人間は毎夜、本を一冊だけ選び、印を残し、元の棚へ戻している。

忘れられたくないのか。

あるいは、忘れられたものを探しているのか。

私は懐中電灯を握り直した。

明日の夜も、同じ本が消えるだろう。

そのときは、待つだけではなく、誰かが通った道を自分の目で確かめる。図書館が記録していない場所へ、記録にない人物が出入りしているなら、私はその空白を見なかったことにはできない。

扉の向こうで、また紙が擦れた。

今度は、壁の内側からだった。

← 横にスクロールして読み進められます