第2話 返却台の上の、見知らぬ印

朝の図書館は、夜とはまったく違う顔をしている。
開館前の一時間、まだ利用者の入らない閲覧室には、東向きの窓から差し込む光が斜めに落ち、書架の背表紙を淡い金色に縁取っていた。昨夜あれほど平らに押しつぶしていた蛍光灯の白さは消え、代わりに埃の粒が光の筋の中でゆっくりと回っている。私はいつものように、開館準備の巡回を始めた。
第三閲覧室へ続く郷土資料の書架。昨夜、空白があった場所へ、私はまっすぐ向かった。
『北辺歳時記』は、そこにあった。
一瞬、胸の奥で何かがほどけるような感覚があった。けれど、指先を伸ばした瞬間、そのほどけかけたものが逆に強く締め直された。
本は確かに戻っている。だが、位置が違う。
昨夜、私は隣の『地区誌索引』との高さを揃え、背表紙が棚の縁と一直線になるように押し込んだ。今、目の前の『北辺歳時記』は、その線からほんの一、二ミリ、奥へ引っ込んでいる。誰かが同じ位置に戻そうとして、わずかに力の加減を誤ったような沈み方だった。
私は本を抜き、両手で持った。表紙の重さ、紙の匂い、綴じの緩み具合。どれも昨日と変わらない。けれど、栞の位置が違う。
昨夜、私が最後に確認したとき、栞は第三章の冒頭、地区の祭祀にまつわる頁の間に挟まっていた。今は、その十数頁先、旧市街の境界を記した頁に移動している。
私は栞を挟んだまま、頁の端を見た。紙の角が、昨夜とは別の形に折れていた。私が触れた角は、指の腹で押さえたような丸みのある折れ方をする。癖のようなものだ。だが今、その角は鋭く、ほとんど直角に近い折れ方をしていた。誰か別の指が、別の力で、この頁を開いた。
本は同じ本だ。けれど、この本に触れた手は、私の知らない手だった。
私はその本を胸の高さに持ったまま、事務室へ向かった。
閲覧台帳の保管棚を開け、昨夜の貸出票の綴りを取り出す。指先が乾いて、紙の表面に少し引っかかるのを感じながら頁をめくると、隅にひとつ、見覚えのない印影があった。
丸い印。ただしその輪郭は、私がふだん見慣れているものより、わずかに歪んでいる。印泥の乗り方も均一ではなく、右側だけ濃く、左側は掠れて、紙の繊維に引っかかるように滲んでいた。まるで、押した者の手が一瞬だけ迷ったかのように。
私は白手袋のまま貸出票を持ち上げ、窓からの光に透かした。裏側からでも、印影の濃淡がはっきりと分かる。押された時刻の欄には、二十二時十七分、とあった。
閉館は二十一時。巡回を終えて私が事務室を出たのは、二十二時をわずかに過ぎた頃だ。つまりこの印は、私が館内にまだいた時間に押されている。
「瀬戸くん」
声に顔を上げると、白石由羽さんが台帳室の入口に立っていた。すでに当直記録の綴りを小脇に抱え、もう片方の手には昨夜の閲覧記録の複写を持っている。彼女の机の上を見るまでもなく分かる。今朝の彼女は、いつもより早く出勤していた。
「もう照合を始めていたんですか」
「気になることがあったから」
白石さんは机に台帳を置いた。ペンは机の端と平行に、定規で測ったようにきっちりと揃えられている。いつもそうする人だとは知っていた。けれど今朝のその角度は、いつもよりさらに厳密に見えた。数ミリの誤差も許さないという意志が、そこに宿っているように感じられた。
「これを見てください」
私は貸出票を差し出した。白石さんはそれを受け取り、光にかざすことなく、目を細めて印影を見つめた。長い沈黙があった。彼女の視線が印影の右端から左端へ、ゆっくりと移動する。
「処理の抜けはないはずです」
彼女はそう言い、視線だけを台帳の行間へ落とした。
私はその一拍の遅れを見逃さなかった。言葉より先に、彼女の指先が紙の端を押さえていた。押さえる、というより、逃げようとする紙を引き留めるような動きだった。
「抜けがないなら、この印は誰のものですか」
「私の印ではありません」
「分かっています。私が伺いたいのは、誰の印かということです」
白石さんはしばらく答えなかった。窓の外で、通用口の扉が開く音がした。開館準備に来た他の職員だろう。彼女はその音に一瞬だけ耳を向け、それから台帳の頁を静かに閉じた。
「瀬戸くん。あなたは記録が乱れることを、何よりも嫌う人ね」
「はい」
「私もそうよ。だから、分からないことを分からないまま口にするのが怖い。ここに、私が把握していない時刻の押印がある。それは事実。でも、事実だけを並べて、誰かを疑う形にしてしまうのは、記録を扱う者としては危険なことだと思うの」
「危険、というのは」
「一度、疑いの形で記録された言葉は、たとえ後で訂正しても、完全には消えない。人の記憶にも、書類にも残ってしまう。だから私は、確かめられることだけを、確かめられる順番で見ていきたい」
その言い方には、単なる慎重さ以上の重みがあった。まるで、過去に一度、確かめる前に何かを言葉にしてしまい、それを取り返せなかった経験があるかのように。私はその重みの出どころを知らなかった。けれど、知らないままにしておくべきではないという予感だけが、胸の奥に残った。
「白石さん。私はあなたを疑っているわけではありません。ただ、この印が閉館後に押されたという事実は動きません。動かない事実の上に、動かない手順で近づいていきたいだけです」
白石さんは、私の顔を見た。今朝初めて、机上の配置ではなく、私の目を見た。
「なら、手順どおりに進めましょう。監視記録と、巡回表と、この印影の時刻を、順番に合わせていくの。私も、同じものを見たい」
彼女はそう言うと、机の上のペンを一度だけ持ち上げ、また同じ位置に、寸分違わず戻した。その所作の正確さが、かえって彼女の内側にある何かの揺れを、私に感じさせた。
窓の外で、開館を告げる時計の針が動いた。私は貸出票を証拠保管用の透明な袋に収めながら、昨夜の埃の筋と、今朝の折れた頁の角を、頭の中で重ね合わせていた。
記録は、正しく残ることもあれば、正しく見えるように整えられることもある。白石さんの言葉は、そのどちらであるのか、まだ私には分からなかった。
ただ、この図書館のどこかに、記録に残らない手が確かに存在している。その手は、昨夜も今朝も、私たちのすぐ近くを通り過ぎていったはずだった。
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