第1話 北辺歳時記の欠けた背

閉館を告げる館内放送が、最後の語尾を天井の奥へ吸い込ませた。
「本日の開館時間は終了いたしました。お忘れ物のないよう、出口までお進みください」
女の声は、誰もいない閲覧室ではひどく遠かった。放送が止むと、蛍光灯の白さだけが残った。机も床も、壁際の書架も、同じ薄い光に押しつけられて、奥行きを失っている。
私は返却台の上に残った本を一冊ずつ確認した。表紙の傷、貸出票の綴じ込み、返却印の位置。昼間なら利用者の話し声や椅子を引く音に紛れてしまう小さな違いが、閉館後には紙の上へ浮かび上がってくる。
本は、静かな場所ほど正直になる。
返却された本を台車へ移し、第三閲覧室へ向かう通路に入った。旧市立鷹ノ宮図書館は、増築と改修を繰り返したせいで、同じ階にあるはずの部屋がそれぞれ違う時代に属している。床の板目が途中で変わり、蛍光灯の色も、廊下の幅もわずかに違う。第三閲覧室へ続く書架列は古い建物の側にあり、棚板の奥には、長年の埃が薄い筋になって残っていた。
私はその筋を、毎晩見ていた。
書架の前を通りかかったとき、足が止まった。
一冊ぶんだけ、空気が薄かった。
書架には郷土資料と古地誌が並んでいる。背表紙の高さはほぼ揃い、分類番号の順も崩れていない。けれど、中央から少し右に、明らかな欠けがあった。
『北辺歳時記』。
昨日の夜、私はその本を棚へ戻した。背表紙の下端が隣の『地区誌索引』より二ミリほど沈んでいたので、指の腹で押し込み、背の高さを揃えた。そのとき、表紙の角に貼られた蔵書票の端が、わずかに浮いていたことまで覚えている。
今、その場所には本がない。
私は白手袋をはめた右手を、空いた隙間へ差し入れた。隣の本の背に触れないよう、指をまっすぐ伸ばす。棚板の奥は乾いていた。湿気を含んだ紙なら、抜き取られたあとにも冷たさが残る。だが、そこにあったのは乾いた紙と古い糊の匂いだけだった。
隣の本を一本抜き、棚の奥を照らす。埃の筋が一本だけ切れている。
本を抜いたなら、周囲の埃はもっと乱れるはずだった。けれど乱れているのは、中央から左へ三センチほどの範囲だけだった。指先か、布の端が触れた程度の乱れ。棚の中で本を横へ滑らせたのではなく、正面からまっすぐ引き出したように見える。
私は手にした本を戻し、背表紙を揃えた。
それでも、空白は埋まらない。
「瀬戸くん、まだ巡回中?」
背後から声がした。
振り返ると、白石由羽が廊下の端に立っていた。閉館後の当直を担当する彼女は、薄い灰色のカーディガンを着て、片手に記録板を抱えている。記録板の上には、鉛筆と細い定規が平行に置かれていた。
「はい。第三閲覧室側を確認しています」
「何かあった?」
彼女の目は私の顔ではなく、書架の中央へ向いた。空白を見た瞬間、視線が一度だけ止まり、それから記録板へ戻った。
「一冊、ありません」
「貸出処理は?」
「まだ確認していません。ただ、昨夜は私が戻しました」
「戻した本を、戻した本人が見失うことはあるわ」
白石さんはそう言ったが、声に慰める調子はなかった。可能性をひとつ読み上げているだけだった。
私は空いた棚を指で示した。
「『北辺歳時記』です。昨日の返却分にありました。返却印は二十一時四十六分。私が閉架前に棚へ戻しています」
「閉架前、というのは何時?」
「二十一時五十二分です。第三閲覧室の巡回に入る前でした」
「その時、背表紙の位置まで確認した?」
「しました」
白石さんは記録板から鉛筆を取り上げた。芯の尖り方まで整えられた鉛筆だった。彼女は記録用紙の余白に時刻を書きかけ、途中で手を止めた。
「瀬戸くん」
「はい」
「見間違いではない、と言い切れる?」
問いかけられて、私は書架を見た。見間違いではない、と答えるのは簡単だった。しかし、簡単に答えたくなかった。
私は本の題名だけでなく、その本が棚の中でどのように置かれていたかを覚えている。『北辺歳時記』は背表紙の中央に薄い擦り傷があり、題字の「歳」の右上だけが少し白く剥げていた。隣の本より背が低く、そのため棚板との間に細い影ができていた。
本があったときの影を、私は知っている。
「見間違いではありません」
「そう」
彼女は鉛筆を紙の上に置いた。だが、置いた位置がいつもより少しだけ斜めだった。すぐに気づいたのか、白石さんは鉛筆を持ち上げ、記録板の端と平行に置き直した。
「台帳を見ます。棚から見つからないなら、まず記録上の移動を確認するべきです」
「貸出処理が残っている可能性は?」
「閉館後に利用者が持ち出すことはできない。カードキーの記録が必要になる場所ですから」
「では、職員の誰かが?」
白石さんは答えなかった。
廊下の奥で、空調が一度だけ唸った。冷たい風が流れ、書架の上に積もった埃がかすかに揺れた。
「疑うのは、記録を見てからにしましょう」
彼女は記録板を抱え直した。
「疑うつもりはありません。ただ、空白があるなら、そこに何があったかを確認したいだけです」
「同じことよ」
「違います」
私が言うと、白石さんの目が初めてこちらを向いた。
「疑いは、人に向かいます。確認は、物に向かう。私は物を見たいんです」
その言葉を聞いたとき、彼女の声の底にも似た性質があると感じた。人の表情より、台帳の行間。言葉より、紙の端。白石さんもまた、何かを見落とすことを恐れている。
「物を見れば、分かることがあります」
彼女はそう言い、短く息を吐いた。
「でも、物に残らないこともあるわ」
それ以上は続けず、白石さんは事務室の方へ歩いていった。靴音が二度、三度、床の継ぎ目で変わる。私はその音を聞きながら、再び空白へ向き直った。
隣の本を抜き、左右の背表紙を少しずつ動かしてみる。『北辺歳時記』が戻ってきたとき、どの位置に収まるかを確かめるためだった。棚板の埃には、背表紙の幅よりわずかに狭い跡が残っている。何度も出し入れされた本なら、左右に擦れた線ができる。しかし、その跡は一度きりの動きを示していた。
抜かれたのは今夜だ。
私は返却台へ戻った。残された台車の本を一冊ずつ確認し、閲覧室の机の下、新聞架の裏、職員用の仮置き棚まで見て回る。『北辺歳時記』は見つからなかった。
図書館は閉まっている。
利用者は帰っている。正面玄関は施錠され、搬入口も確認済みのはずだった。夜間に残っている職員は、当直司書の白石さんと警備員の久保田さん、それから見習いの私だけだ。
それでも、消えた本は、誰かの手を離れている。
私はもう一度、第三閲覧室側の書架へ戻った。
空白は、さっきより大きく見えた。棚の一部が欠けたのではなく、そこだけ周囲の時間から取り残されているようだった。私はメモ帳を取り出し、書架番号と分類番号、発見時刻を書いた。字を書く手が、普段よりわずかに硬い。
「本が一冊ないだけだ」
声に出してみると、言葉が薄かった。
一冊の本がなくなる。それだけなら、処理のミス、棚違い、返却後の移動で説明できる。図書館では毎日、何百冊もの本が手から手へ渡る。間違いは起きる。棚は乱れる。記録も、時には遅れる。
けれど、この空白は、間違いの形をしていなかった。
空白の周囲が、あまりに整っている。
私は空いた棚板に白い付箋を貼った。発見時刻と題名を書き、剥がれないよう端を指で押さえる。紙の端が棚板に貼りつくとき、乾いた音がした。
その音を聞いた直後、廊下の奥で何かが擦れた。
紙か、布か。
私は振り返った。
第三閲覧室へ続く通路には、誰もいない。蛍光灯が一本だけ明滅し、壁際の床に細い影を落としている。私は懐中電灯を取り、ゆっくり歩いた。足を進めるたび、夜勤で鈍った膝が重くなる。長時間、紙と机に向かっていたせいで、指先の感覚も少し遠い。
それでも、棚の埃だけは見えた。
閲覧室へ入る扉の手前、床の埃に細い筋が伸びていた。誰かが歩いた跡には見えない。靴底の形も、衣服の繊維も残っていない。ただ、埃が一方向へ撫でられている。扉の内側から、書架の方へ向かって。
私はしゃがみ込み、白手袋の指で触れかけて、やめた。
触れれば、残っているものを消してしまう。
そのとき、廊下の向こうで館内時計が時を刻んだ。二十二時を告げる音はなく、針の動きだけが、ガラスの向こうで静かに進んでいる。
閉館後の図書館に、利用者の気配はない。
あるはずがない。
私は立ち上がり、遠ざかるように見える埃の筋を見つめた。筋の先は第三閲覧室の扉で途切れている。扉は閉まっていた。カードキーのランプも消えている。
それでも、誰かがここを通った。
本を持って。
そして、記録には残っていない。
私は事務室へ戻る前に、もう一度だけ空いた棚を振り返った。白い付箋が蛍光灯を受けて、小さな傷のように浮かんでいる。
翌朝までに本が戻るのかどうか、私はまだ知らなかった。
ただ、戻ってきたとしても、元の場所に収まっただけでは済まない気がしていた。抜き取られた本には、抜き取った者の手つきが残る。その手つきは、返却印の濃淡や栞の位置や、棚に残る埃の筋となって、必ずどこかに現れる。
私は個人用のメモ帳を開き、空白の幅をもう一度測った。
本の厚みは、三・一センチ。
その数字の横に、私は小さく書いた。
――戻ってきても、同じ本とは限らない。
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