7話 返却口の下で

閉館後の閲覧室は、昼間の同じ場所とは思えないほど音を失っていた。

蛍光灯の白い光だけが机の角を平らに切り取り、窓の外を走る車の音も、厚い壁に一度ぶつかってから遠くへ沈んでいく。紙をめくる音さえ、誰かに聞かれることを避けるように小さかった。

私は第三閲覧室の脇にある長机へ、三枚の紙を並べた。

一枚目は、久保田さんが持っていた古い館内図。二枚目は、現在使われている避難経路図の複写。三枚目は、閉館後の監視記録から抜き出した時刻表だった。

紙の端を揃える。

それだけの動作に、いつもなら何も感じない。けれど今夜は、揃えたはずの三枚が互いに違う方向へ逃げていくように見えた。

現在の図面では、第三閲覧室の北側は壁になっている。厚さ三十センチほどの耐火壁。その向こうに部屋はない。少なくとも、建築記録上はそうなっていた。

古い館内図では、その壁の内側に細い通路が描かれている。

通路は第三閲覧室の北壁から返却口の裏へ伸び、そこから下へ折れていた。線の先には、四角の中に二本の縦線が入った記号がある。階段を示す、古い図面の記号だった。

私はその線を、何度も指でなぞった。

赤鉛筆の線は途中で薄くなり、壁の手前で消えている。消されたというより、上から白い塗料を塗られたような跡だった。余白に見える部分にも、紙の繊維がわずかに潰れている。線があった場所だけ、紙が平らだった。

「そこを見ても、入口は出てこない」

背後から藤堂美雪さんの声がした。

私は振り返らずに答えた。

「入口がないから、消えたことになったんですか」

「逆よ。消えたことにしたから、入口も消えた」

藤堂さんは私の向かいに腰を下ろした。彼女は古い規程集を一冊、机へ置いた。表紙の革は乾いて硬くなり、角は何度も指で撫でられたように丸くなっている。

「現行の図面は、建物の姿を写しているのではないわ。今、説明してよいことだけを残している」

「説明してよいことだけ?」

「図書館の図面は、利用者に見せるためのものではない。職員が迷わず動くためのものよ。必要のない通路は、ない方が運用しやすい。使われていない地下書庫も、事故のあとで封鎖したなら、最初から存在しない方が管理しやすい」

「でも、現物は残っている」

「建物は、記録ほど従順ではないから」

藤堂さんは規程集を開いた。頁の間には、古い紙片が挟まっている。紙の色は黄ばんでいたが、文字は薄くなっていなかった。

「旧式返却口の点検規程。昭和の終わり頃に廃止されている」

私は紙片を覗き込んだ。

返却口の裏側に異常が生じた場合、地下保存庫へ降りる作業員用階段を使用すること。点検時は、第三閲覧室の北壁に設けられた保守扉を開閉し、必ず二名以上で立ち会うこと。

二名以上。

その一文の下に、鉛筆で引かれた線があった。規程の文字を囲むのではなく、行の外側をなぞるような細い線だった。

「この規程が残っているなら、地下書庫も、保守扉も記録に残っているはずです」

「残っているわ」

「どこに?」

藤堂さんは、すぐには答えなかった。彼女は紙片を指先で押さえ、端が浮かないようにした。問いに答える前に、資料が乱れていないか確かめる癖がある。

「残っている場所が、見つからないように残っている」

「それは、記録として矛盾しています」

「そうね」

「藤堂さんは、いつから知っていたんですか」

彼女は目を上げた。眼鏡の奥の瞳は、私の顔ではなく、机上の古い図面を見ていた。

「知っていたのではなく、覚えていたの。昔、地下書庫の点検に入ったことがある」

「いつですか」

「あなたが生まれる前よ」

「誰と?」

「夜間整理員の人と」

その答えに、紙の上の空気が変わったように感じた。

私は規程集から目を離さなかった。

「名前は?」

藤堂さんの指が止まった。

「名前を聞いて、どうするの」

「その人が、今夜の出入り者かもしれません」

「かもしれない、というだけで名前を口にするのは、あなたが嫌うやり方でしょう」

「だから確認したいんです」

「名前を確認するには、まずその人が存在したという記録が必要になる。記録が消えているなら、名前だけでは証明にならない」

「それでも、名前は必要です」

「名前は、証拠になる前に、誰かを傷つけることがあるわ」

藤堂さんの声は静かだった。だが、その静けさは穏やかさではなかった。長い年月のあいだ、言わずに保ってきたものを、これ以上崩さないための硬さだった。

私は机上の図面に目を戻した。

「この図面の線は、誰かが消したものです」

「そうね」

「でも、完全には消していない。紙の繊維が潰れている。上から白く塗ったあと、別の人が赤鉛筆で線を引き直している。消した人間と、残そうとした人間が違う」

「よく見ているわ」

「誰が残そうとしたんですか」

「そこまでは分からない」

「藤堂さんにも?」

「知らないことは知らないと言うわ。あなたにも、そうしてほしい」

私は唇を閉じた。

知らないことを知らないままにするのは、私にとって簡単ではない。空白は、放っておくほど輪郭を持つ。輪郭を持った空白は、やがて周囲の記録まで歪めていく。

そのことを、私はこの数日で身にしみて知った。

「藤堂さんは、昔、地下書庫で何を見たんですか」

彼女は規程集を閉じた。

「見たのは、書架と台帳と、階段よ」

「人は?」

「いたわ」

答えが短く、私はかえって聞き返せなかった。

藤堂さんはしばらく沈黙していた。閲覧室の奥で、空調の羽根が一度だけ回転し、乾いた風が机の上を横切った。古い図面の端が持ち上がる。私は反射的に指で押さえた。

「その人は、記録を扱うのが上手だった」

藤堂さんが言った。

「本を戻す位置を間違えない。台帳の頁を傷めない。返却印を押すときも、紙の繊維の向きを見ていた。私よりずっと几帳面だった」

「その人が、夜ごと本を抜いている?」

「断定はしない」

「でも、似ています」

「似ているから同じだと思うのは、記録の読み方として危険よ」

「では、何が違うんですか」

「昔のその人は、本を戻すために記録を残していた。今の誰かは、記録を残すために本を動かしているように見える」

その言葉の意味を、私はすぐには掴めなかった。

「本を戻すために記録を残す?」

「何がどこにあったか、どの順番で移ったか。それを確かめるには、現物だけでは足りない。台帳の記載と、棚の位置と、紙に残る手の跡を揃える必要がある」

「照合している」

私が言うと、藤堂さんは答えなかった。

だが、否定もしなかった。

そのとき、事務室の扉が開いた。

黒瀬圭介が入ってきた。片手に缶コーヒー、もう片方に薄いファイルを持っている。彼は机の上の図面を見て、わずかに眉を寄せた。ファイルを置く前に、紙の束の端を指で二度叩く。

「地下書庫の話か」

「聞いていたんですか」

「聞こえた。図書館は静かだからな。声を潜めても、話の中身までは消えない」

黒瀬さんはファイルを開いた。表紙の内側には、正面玄関、搬入口、職員通用口、第三閲覧室のカードキー記録が時刻順に並んでいる。

「出入口を確認した。昨夜の閉館後、外から入った形跡はない。正面玄関、搬入口、通用口、全部だ」

「では、内部の人間ですか」

「その結論を急ぐな」

「外部でないなら、内部でしょう」

「違う。出入口を使っていない可能性がある」

黒瀬さんはファイルから一枚の記録を抜き出した。

「カードキーのログに、第三閲覧室の通過記録がある。二十二時十七分。ただし、使用者番号が欠けている」

「欠けている?」

「番号欄だけが空白だ。認証に失敗した記録なら、エラーコードが出る。これは通過時刻だけが残っている。システムの不具合か、古い制御盤を経由したか。そのどちらかだ」

「第三閲覧室のカードキーは、現行の制御盤だけを通るはずです」

「そう書いてある」

黒瀬さんは現在の館内図を見た。

「だが、書いてあることと、実際の配線が同じとは限らない」

「あなたは地下書庫の存在を認めるんですか」

「存在を認めるのではなく、存在する可能性を捨てないだけだ。俺は幽霊を捜査しないが、図面に線があり、空気が動き、カードキーの記録が欠けているなら、壁の向こうに何かあるとは考える」

藤堂さんが静かに言った。

「珍しく、素直ね」

「合理的なだけです」

「合理的な人は、現場を見ないまま壁を壁にする」

「だから現場へ行く」

黒瀬さんは図面を見たまま続けた。

「ただし、地下へ降りるなら、全員で行くべきではない。人が増えると、誰が何を触ったか分からなくなる。入口を見つける者、記録を取る者、警戒する者を分ける」

「私は入口を確認します」

「君は記録を取れ」

「紙の状態を読む必要があります」

「それは柊木に任せればいい」

「柊木さんは、まだこの件を隠していることがあります」

「全員、何かしら隠している」

黒瀬さんは缶コーヒーを机へ置いた。缶の底が木の天板に触れ、低い音がする。

「問題は、隠していることが事件の手口に関係するかどうかだ。白石は事故の記憶を隠している。久保田は死角を隠している。柊木は修復紙の不足を隠している。藤堂は昔の図面を持っていた。相良は、過去の台帳を整えすぎている」

「相良さんにも話を聞いたんですか」

「電話でな。穏やかな人だった」

黒瀬さんの声に、わずかな皮肉が混じった。

「穏やかで、話が綺麗すぎた。図書館に問題はなかった、すべての記録は適切に整理されている、地下書庫は安全上の理由で廃止された。質問をするたび、答えが最初から用意されている」

「それは、相良さんの記録と同じです」

「そうだ。整っている。整いすぎている」

私は古い図面の余白を見た。

現在の図面には、地下書庫がない。けれど、図面を作った人間は、消した線の形を知らなければ消せない。線を消した者が元の動線を知っていたのか。それとも、知っている者から指示を受けたのか。

黒瀬さんが私を見た。

「今夜、動くなら、目的を決めろ」

「目的は、出入り者の確認です」

「それだけか?」

「それと、地下へ通じる動線の確認です」

「見つけた場合は?」

「話を聞きます」

「相手が逃げたら?」

「追います」

「君は、追うなと言われたばかりだろう」

私は返事をしなかった。

黒瀬さんは、私の沈黙を見ているのではなく、指先を見ていた。私は無意識に、机上の図面の端を撫でていた。紙の表面に残る白い塗料のざらつきを確かめている。

「瀬戸」

「はい」

「事件は、正しさを取り戻すための作業じゃない。まず、何が起きたかを確定する作業だ。正しさを先に置くと、証拠がそれに合わせて見える」

「分かっています」

「分かっていない顔だ」

「では、何を置けばいいんですか」

黒瀬さんは腕を組んだ。

「時刻。場所。手順。誰が何を見て、何を触ったか。それだけだ。感情も動機も後にしろ。相手を救いたいとか、誰かを罰したいとか、そういうものは最後に考えればいい」

「もし、その手順の中に、誰かを消すための意図があったら?」

「それも、証拠が出てからだ」

「証拠が出るまで、その人間は存在しないままです」

黒瀬さんの眉間の皺が深くなった。

「君は、存在と証明を混ぜている」

「混ぜていません。証明できない存在を、存在しないことにする手順が問題だと言っているんです」

「証明できないものを、存在すると扱うのも同じくらい危険だ」

「では、見えない場所にいる人間は、誰にも助けを求められない」

「助けると決めるのが早い」

「追及するつもりはありません」

「君の目が、もう追及している」

言われて、私は初めて顔を上げた。

黒瀬さんは冷たい目をしていた。だが、その冷たさは拒絶ではなく、線を引くためのものだった。私が踏み越えようとしている境界を、彼は記録のように明確に示している。

「……なら、確認します」

私は言った。

「まず、返却口の構造と、旧図面の線が現物と一致するかを確認する。次に、地下へ続く動線が実際に残っているかを見る。そこに人がいた場合は、手を出さず、話をする。証拠を持ち帰る」

「それならいい」

黒瀬さんはファイルを閉じた。

「俺も行く」

藤堂さんが、古い規程集の頁を押さえたまま言った。

「私も」

「危険です」

「地下の入口を知っている人間がいた方がいいでしょう」

「入口を知っているなら、今まで言えばよかった」

「言ったでしょう。必要なときに」

「必要なときが今だと?」

「あなたが図面を並べたから」

藤堂さんは、机上の紙を見た。

「口で説明すると、人は説明だけを覚える。現物を見せれば、見たものを覚える。あなたは紙の差異を見抜ける。だから、入口まで連れていく意味がある」

私は藤堂さんの言葉を聞きながら、彼女の古い紙束に目を向けた。薄い紙の端に、鉛筆で書かれた書庫番号がある。今の分類番号には存在しない番号だった。

「その書庫番号は?」

藤堂さんは紙束を閉じた。

「地下書庫の番号」

「まだ、地下書庫に番号があるんですか」

「番号があるから、消すのに時間がかかったのよ」

黒瀬さんが、短く息を吐いた。

「それを最初に言ってくれ」

「最初に言っても、あなたは図面を確認したでしょう」

「確認する手順が増えた」

「手順が増えた分、見落としは減るわ」

黒瀬さんは反論しなかった。納得したというより、反論するための材料がないと判断したようだった。

私は長机の上の紙を一枚ずつ透明な袋へ入れた。現在の図面、古い館内図、カードキー記録、久保田さんの巡回表の複写。紙の角を揃え、順番を崩さないよう重ねていく。

そのとき、背後の事務室から音がした。

誰かが入ってきた気配ではない。

紙を一枚、机へ置く音。

私たちは同時に振り返った。

事務室には、白石さんがいた。彼女は机の前に立ち、こちらを見ている。机上のペンは二本とも、端と平行に揃っていた。けれど、彼女の右手には見覚えのない薄い封筒があった。

白石さんは封筒を見下ろし、それから私へ視線を向けた。

「藤堂さん。まだ、その図面を持っていたんですね」

「持っていたわ」

「相良さんは、処分したと話していました」

その名前が出た瞬間、部屋の空気がわずかに硬くなった。

黒瀬さんが立ち上がる。

「相良元館長は、図面を処分したと言ったんですか」

「正確には、旧館内図は改修時に廃棄した、と」

「同じことだろう」

「記録上は、そうなっています」

白石さんは封筒の端を揃えた。紙を整える指先が、いつもよりゆっくりだった。

「でも、現物が残っているなら、記録の方が違っている」

「その封筒には何が?」

黒瀬さんが尋ねた。

白石さんはすぐに答えなかった。彼女は封筒を長机へ置き、封の部分をこちらへ向けた。差出人の名前はない。表面には、細い鉛筆で日付だけが書かれている。

十七年前の日付だった。

私はその日付を見て、どこかで見た数字だと思った。白石さんが過去の事故を口にしたとき、最後まで言わなかった夜。館内規程が改訂された年。第三閲覧室の監視カメラが設置された時期。

すべてが、同じ年に重なっている。

「開けてもいいですか」

私が聞くと、白石さんは首を横に振った。

「ここで開けるべきではありません」

「なぜですか」

「中身を見れば、記録を戻せなくなるから」

「記録は、すでに正しくない」

「それでも、開く前には戻れます」

白石さんの声は震えていなかった。だが、封筒を押さえた指の先が白くなっている。

「私は、あの夜に何があったかを知っています。少なくとも、見たものは覚えている。でも、覚えていることと、それを誰かに渡すことは別です。渡した瞬間、私の記憶は別の人間の記録になる。その記録がまた整えられたら、私は今度こそ何も言えなくなる」

「だから、封筒を持っていたんですか」

「持っていたのは私ではありません」

「では、誰が?」

白石さんは目を伏せた。

「今朝、机の引き出しに入っていました。鍵をかけていた引き出しです。中には、これだけがあった」

「誰かが入れた?」

「そう考えるしかありません」

「封筒の中身は?」

「まだ見ていません」

「見ていないのに、なぜ過去の記録だと分かるんですか」

「日付と、紙の匂いで」

白石さんは封筒を持ち上げた。

「古い紙です。館長室で使われていた保管用の封筒と同じ匂いがする。相良さんが、重要な書類を一時保管するときに使っていたものです」

「相良さんのものだと?」

「断定はしません。でも、私がこの館で見てきた封筒の中では、同じ紙を使っていたのは相良さんだけです」

藤堂さんが、封筒へ手を伸ばしかけて止めた。

「白石さん。あなたは、その日付を覚えているのね」

「忘れたことにしていた日です」

「忘れたことにするのは、覚えているのと同じよ」

「そうでしょうか」

「記録に書かないことと、存在しなかったことは違う」

白石さんは、藤堂さんを見た。

「藤堂さんが、そう言うんですか」

「言うわ」

「あなたは、あのとき何も言わなかった」

「言えなかった」

「言わなかったのではなく?」

藤堂さんの表情は変わらなかった。ただ、古い図面を押さえていた指が、紙から離れた。

「言葉にしたら、誰かが消されると思った」

「実際に消された」

白石さんの声が、初めてわずかに乱れた。

「名簿からも、台帳からも、勤務記録からも。私は何度も見直した。書き間違いではないか、綴じる順番を間違えたのではないか、改訂前の控えでは残っていないか。でも、見れば見るほど、最初からいなかったように整えられていた」

「誰の名前ですか」

黒瀬さんが聞いた。

白石さんは口を開きかけ、閉じた。

その沈黙の中で、私は封筒の端に残る紙の毛羽を見た。封をした糊が一度剥がされ、別の糊で閉じ直されている。右端だけに薄い皺があり、封筒を狭い場所から引き抜いた跡のようだった。

誰かは、この封筒を机へ置いた。

そして、白石さんに見つけさせた。

「名前を言う前に、地下を確認します」

私は言った。

黒瀬さんがこちらを見る。

「なぜだ」

「この封筒を置いた人間は、私たちが図面を広げていることを知っている。第三閲覧室の壁の向こうにいる人物が、こちらの会話を聞いている可能性があります」

「根拠は?」

「封筒の皺です。机の引き出しから出したのではなく、狭い場所を通して差し入れた。紙の繊維に、古い木材の粉が残っています」

私は封筒を指さした。

「地下書庫の通路を通った紙の匂いがする」

黒瀬さんは封筒へ顔を近づけた。紙には触れず、匂いを確かめるように息を吸う。

「……古い木と埃だな」

「それだけでは根拠にならない」

「分かっています」

私は図面を見た。

「だから、構造を確認します」

藤堂さんが古い規程集を閉じた。

「今夜、地下へ降りるなら、返却口からではなく、第三閲覧室の北壁から入るべきです」

「入口を知っているんですか」

「知っているのは、入口があった場所よ」

「場所だけでも十分です」

「いいえ。封鎖されている可能性がある。開ければ音が出る。音が出れば、向こうにいる人間は逃げる」

久保田さんが、いつの間にか事務室の入口に立っていた。手には懐中電灯がある。鍵束を親指で数えながら、こちらを見ていた。

「逃げるなら、音が出る」

「久保田さん、いつから?」

「封筒が出たあたりから」

「盗み聞きは感心しないな」

黒瀬さんが言うと、久保田さんは肩をすくめた。

「聞かなくても、紙を置く音は分かる」

「地下へ入ることに反対ですか」

「反対じゃない。順番がある」

久保田さんは長机へ歩み寄り、図面の上に指を置いた。現在の図面ではなく、古い館内図の返却口の位置だった。

「まず、扉があるかを見る。次に、扉が使われているかを見る。最後に、開ける。いきなり開ければ、こちらが何も知らないことを相手に教える」

「相手に知らせたくないなら、なぜ今まで放っていたんですか」

私が聞くと、久保田さんは指を止めた。

「放っていたわけじゃない。夜の建物には、触らない方が守れる場所がある」

「誰を守るんですか」

「建物を」

「建物だけ?」

久保田さんは答えなかった。

白石さんが、封筒を両手で持ち直した。

「開けるなら、私も立ち会います」

「過去の事故に関係している可能性があります」

黒瀬さんが言った。

「だからです。私の知らないところで、また記録が整えられるのは困ります」

「それは、事故の責任を取るためですか」

「責任を取るという言葉は、便利すぎます」

白石さんは封筒を机へ置いた。

「責任を取ると言えば、過去が終わったように見える。でも、終わるのは処分や謝罪の手続きだけで、消えた記録は戻らない。私はもう、終わったことにするための記録を作りたくない」

その言葉には、これまで聞いたことのない強さがあった。声は大きくない。けれど、机上の紙を揃える手つきが止まっている。それだけで、彼女が何かを手放したことが分かった。

黒瀬さんは白石さんを見たあと、封筒へ視線を移した。

「分かった。開封は現場で行う。誰か一人で中身を確認することはしない」

藤堂さんが、短く頷いた。

「それがいいわ」

私は紙袋へ封筒を入れた。封筒の角が袋の内側に触れ、擦れる音を立てる。

その音の向こうで、第三閲覧室の壁が、かすかに鳴った。

木が軋んだような音だった。

全員がそちらを向いた。

「今のは?」

黒瀬さんが問う。

久保田さんは懐中電灯を消した。暗くなった事務室で、蛍光灯の白さだけが壁を浮かび上がらせている。

「壁の中だ」

「聞き間違いでは?」

「違う」

久保田さんは鍵束を握った。

「誰かが、こちらの音を聞いている」

私は息を止めた。

壁の向こうに、空間がある。

その空間に、誰かがいる。

私たちはまだ、誰の名前も確かめていない。けれど、壁の向こうの人物は、こちらが自分を追っていることを知っている。

机上の図面へ目を落とす。

消された線。

残された赤鉛筆。

記録のない通過時刻。

一冊ずつ動かされる本。

そして、机の引き出しへ戻された封筒。

ばらばらだったものが、まだ完全ではないにせよ、ひとつの方向へ向かい始めていた。

私は白手袋をはめた。

紙を扱う前に、必ず指先を確認する。いつもの習慣だった。だが今夜は、その白い布地がひどく頼りなく見えた。

「行きます」

私は言った。

「返却口の下を確認します」

黒瀬さんがファイルを抱え直した。

「証拠を乱すな」

「はい」

藤堂さんは規程集を持ち上げた。

「見つけたものを、見つけたままにしておくこと」

白石さんは封筒の入った袋を胸元へ抱えた。

「そして、見つけたものを、なかったことにしないこと」

久保田さんが扉を開けた。

夜の廊下から、冷たい空気が流れ込んできた。蛍光灯が一列ずつ先に点き、白い光が私たちの前に細い道を作る。その道の先には第三閲覧室があり、さらにその向こうには、現在の図面から削られた暗がりがある。

歩き出したとき、背後で紙が擦れた。

誰も振り返らなかった。

音はもう、呼びかけではなかった。

こちらの行動を、誰かが記録している音だった。

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