第8話 名簿にある名前

日が落ちる前に、祖母は家族名簿を広げた。
膝の上ではなく、上がり框の端だった。紙の半分が土間へ出て、半分が家の内側へ残っている。そこが家の中と外の境目だからだと、私はあとになって気づいた。
名簿は、神棚の引き出しから出されて以来、一度も畳まれていなかった。紙の白さはもう失われ、古い米袋のような、乾いた穀物の匂いがした。指で触れれば崩れそうなのに、折り目だけは頑固に残っている。
祖母は紙の端を、赤黒い糸の切れ端で押さえた。
風はない。それでも、名簿の頁はときどき小さく震えた。土間から上がってくる湿気が、紙の中へ入り込んでいるようだった。
私は祖母の隣へ座った。上がり框の木は、昼間の熱をまだ少し残していた。けれど土間へ垂らした足先には、冷たい空気がまとわりつく。家の内側にいるのか、外側にいるのか、足の裏だけが決められずにいた。
頁には、家の者の名前が並んでいた。
曾祖父の名。祖父の名。若くして亡くなった叔父の名。村を出たまま戻らなかった親類の名。名前の横には、生まれた年や死んだ年、家を離れた年が小さく書き込まれている。
字はどれも同じではなかった。太い墨で押し切ったような字もあれば、細く震えた字もある。何人もの手が、長い時間をかけて一冊の紙へ重なっていた。
私は、志乃の名のところで指を止めた。
名前はきちんと書かれている。
篠宮志乃。
その横には、盆に帰った印も、送り出した印もなかった。
何も増えていない。
ただ、余白にだけ、薄い押し跡があった。筆を置いたような丸い跡と、そこから途中まで伸びた線。墨は残っていないのに、紙の繊維が潰れている。誰かが名前を書きかけ、最後まで書かずに手を引いたように見えた。
私は指先を近づけた。
触れる寸前、祖母の手が私の手首を押さえた。
強くはなかった。
触るな、というより、いまはまだ、そこへ指を置く時刻ではないという止め方だった。
「何を書きかけたの」
「分からん」
「おばあちゃんが書いたんでしょう」
「私だけが書くものじゃない」
「じゃあ、誰が」
祖母は答えず、志乃の名の上に薄い紙を一枚置いた。隠したのではない。名前の上に、別のものを重ねて見えなくしただけだった。
その仕草が、台所の水桶に布を被せたときと同じに見えた。
見えないようにするだけでは、通り道は変わらない。
私は土間を見た。
母の草履は、玄関脇に置かれたままだった。けれど、昨日まで上がり框と平行だった二足は、今朝から少しずつ内側へ寄っている。鼻先は座敷ではなく、台所の方を向いていた。片方の底には濡れた土が薄くつき、藍色の鼻緒は、乾くことを拒むように黒く沈んでいる。
触らずにいると、草履の方がこちらを見ている気がした。
「盆の名は、帰るものを数える」
玄関の戸口に立っていた久代甚蔵が言った。
いつからそこにいたのか分からなかった。戸は開いていたが、入ってくる音を私は聞いていない。久代は杖の先を土間へ置き、草履の並びを見ていた。私や祖母の顔には目を向けない。
「数えたなら、数え損ねをそのままにするな」
「母さんを数え損ねたってこと?」
私は訊いた。
久代はすぐに答えなかった。土間の湿りへ杖の先を軽く当てる。乾いた音がしたはずなのに、杖の先だけが黒く濡れた。
「名簿にある名前と、そこにいるものは同じじゃない」
「母さんは、母さんでしょう」
「生きている間はな」
胸の奥が狭くなった。
「じゃあ、今は違うって言いたいの」
「言っているのは、名を持つ者と、名を借りる者を分けろということだ。志乃の名が書かれているからといって、志乃の形をしたものまで家の者になるわけじゃない」
祖母が名簿の端を押さえた。
「久代、余計なことを言うな」
「余計かどうかは、紬が決める」
「決めさせるには早い」
「早いままでは、また同じになる」
祖母の唇が薄く結ばれた。
二人の間に、古い家の梁のような沈黙が渡った。どちらも声を荒らげない。けれど、私の前に置かれた名簿を挟んで、別々の時間を生きてきた人間同士が向かい合っているのが分かった。
「また、って何」
私は二人を見た。
「前にも、同じことがあったの」
祖母は名簿から手を離した。
久代が代わりに答えた。
「この家で、ではない。だが、似たことは村のあちこちで起きた。盆のあと、帰るはずの人間が帰らず、家には声や手つきだけが残った。草履が玄関にあり、台所で飯を炊く音がし、夜になると名前を呼ぶ。家族は、それを本人だと思いたがる」
「思いたがるんじゃない。本人かもしれないから、信じるんでしょう」
「そうだ。だから厄介だ」
「厄介って、母さんのことを物みたいに言わないで」
私の声が土間へ落ちた。
母のことを、気配だの形だの、帰るものだのと呼ばれるたびに、身体の中から何かが削られていく。母は、欠けた湯呑みを捨てず、布巾の端を折り、私の髪を払う人だった。家の中のどこかにいるかもしれない人を、名前のないものとして扱うことなどできなかった。
「母さんは、物じゃない。ここに帰ってきた。私の前で、少し長くいるって言った。台所に立って、湯呑みを並べて、風鈴が止まるのを見ていた。私は見た。聞いた。覚えている」
「覚えているから、分けなければならん」
祖母が言った。
「お前の中にある志乃の記憶と、家の中へ残った気配を一緒にすれば、あれは志乃の名を使える。志乃の声で呼べる。志乃の手つきで戸を開けられる。お前が覚えているほど、あれは近くなる」
「私が母さんを覚えているのが悪いの?」
「悪いとは言っていない」
「でも、覚えているから危ないって言ってる」
「違う。覚えているからこそ、違いを見ろと言っている」
祖母の指が、名簿の上の薄い紙を一度撫でた。
「忘れろと言っているんじゃない。志乃の声と、志乃の声を借りたものを分けろ。志乃の手つきと、手つきを真似るものを分けろ。母親を大切に思うなら、似ているという理由だけで、何でも母親にするな」
私は反論しようとした。
けれど、言葉が出なかった。
米びつの蓋。水桶に映った顔。戸の向こうから返ってきた、間のない「はい」。どれも母に似ていた。似ていたから、私は何度も近づきかけた。何度も、そこに母がいると決めそうになった。
名簿の余白に残る押し跡が、紙の底からこちらを覗いている。
「名簿には、何が書いてあるの」
私は訊いた。
「名前だけじゃないでしょう。印がついている人もいる。墨が薄い人もいる。何を数えているの」
久代は杖を持ち替えた。
「家に帰った者。家から出た者。戻れなかった者。名前の横の印は、その者がどこにいるかを決めるものではない。どこへ送ったかを忘れないためのものだ」
「じゃあ、母さんの横に何もないのは」
「まだ送っていない」
言葉が、冷たい水のように胸へ入った。
「母さんは、まだ帰っていないの」
「帰っていない。だが、戻る道の途中にいる」
「それなら、呼べばいい」
「呼ぶだけでは足りない」
久代は名簿の下端を指した。
「家に残る者の名を先に区切る。次に、帰る者の名を呼ぶ。名を呼ばれた者が、どちらへ向くかを見る。家へ戻るのか、家の中へ入り込むのか。向きが違う」
「母さんを呼んで、来たら迎えればいいんじゃないの」
「迎えるな」
「どうして」
「迎えるという言葉は、戸を開けたままにするからだ」
久代は玄関の外を見た。山の方から湿った風が入り、土間の隅に溜まっていた細かな砂をわずかに動かす。
「志乃は、帰るために来る。影は、残るために来る。どちらも同じ顔をして、同じ声で、同じ戸口へ立つ。違いは、呼ばれたあとに待てるかどうかだ。帰る者は、呼んだ者の方へ来ても、戸口で一度止まる。残るものは、止まらずに家の奥へ入ろうとする」
私は草履を見た。
母の草履は、玄関にあるのに家の奥を向いている。
「草履が内側を向いているのは、母さんが家へ戻ろうとしているからじゃないの」
「戻ろうとしている」
「じゃあ、いいことじゃない」
「その後ろに、別の足跡が重なっている」
「影が母さんについてきている?」
「志乃が連れてきたのか、影が志乃についてきたのかは分からん。だが、二つが重なったまま家へ入れば、名を分けるのが難しくなる」
祖母が、私の指先を見た。
「志乃の名に触れるな」
「触れたら、どうなるの」
「呼ばれる」
「誰に」
「名を借りたいものに」
その瞬間、名簿の余白に残っていた押し跡が、わずかに濃くなった。
墨が滲んだのではない。
紙の下から、誰かが指で押したように見えた。
私は息を止めた。
上がり框の下、土間の暗がりで、何かが擦れた。
ぺたり。
草履の音だった。
私は顔を上げた。
母の草履は、玄関脇にある。二足とも、まだ動いていない。だが、土間に残された濡れた足跡が一つ、名簿の方へ伸びていた。
足跡の先端は、私の指の前で止まっている。
祖母が名簿を閉じようとした。
「待って」
私はその手を掴んだ。
「母さんの名前を、まだ送らないで」
「送るために、見るんだ」
「名前を消すわけじゃないよね」
「消さない」
「母さんが帰ってきた証拠を、なくさないよね」
「名は残す」
祖母の声は乾いていた。けれど、私の手を外すとき、その動きはいつもよりゆっくりだった。
「残すために区切る。家族として扱うために、家族でないものと分ける。お前が恐れているのは、志乃を送れば二度と戻らないことだろう」
私は答えなかった。
答えなくても、祖母には分かっていた。
「だが、同じ場所に置き続ければ、志乃の方が名前を失う。影が志乃の名で呼ばれ、志乃の癖で振る舞い、志乃の席に座り続ければ、本当に戻るべき者の方が、家から押し出される」
「そんなの、嫌だ」
「なら、見分けろ」
「怖い」
「怖いまま見ろ。怖くなくなってからでは遅い」
祖母は名簿を開き直した。
久代は玄関の外へ出て、土間の濡れ跡を杖の先で追った。足跡は私の前で途切れている。外から入った形ではない。家の奥から来た形でもない。途中の空間に、誰かが足だけを置いたようだった。
「この跡は、名簿を見に来ている」
久代が言った。
「名前を見れば、家の者になれるの?」
「名前を呼ばれれば、輪郭を持てる。名前を書かれれば、居場所を持てる。だが、名簿に載せるには、来た者の足元を確かめなければならない」
「母さんの名前は、もう書いてある」
「だからこそ、書き足せない」
「何を」
「帰ったという印をだ」
名簿の余白。
志乃の名前の横に残された、途中で消えた押し跡。
私はようやく、それが何を意味しているのか分かりかけた。誰かが母の帰還を記そうとした。だが、母本人なのか、母の形を借りたものなのか判別できず、筆を止めた。
「おばあちゃんが、書かなかったの」
「書けなかった」
「怖かったから?」
「違う」
祖母は、名簿を見たまま言った。
「志乃を、志乃でないものにしてしまうのが怖かった」
初めて、祖母の声に隠しきれないものが混じった。乾いた木の割れ目から、古い水が滲むような声だった。
「だったら、どうして母さんを一人で帰らせたの」
「一人ではなかったからだ」
「何を知ってるの」
「志乃は、帰る前に私のところへ来た。台所の水が濁っていると言った。井戸の底で、誰かが歩いている音がすると言った。私は戸を閉めろと言った。あの子は、閉める前に、もう一度だけ水を見た」
「それで?」
「水の中に、自分の顔が二つ映ったと言った」
台所の奥で、戸が小さく鳴った。
私はそちらを見た。誰もいない。けれど、母が最後に水桶を覗いたときの姿が、目の裏に浮かぶ。
井戸水に触れる前に、必ず水面を見る。
濁りや虫を確かめるためだと思っていた。けれど、母は何か別のものを見ていたのかもしれない。
「母さんは、怖がってた?」
「怖がる顔をしなかった」
「いつもそうだよ。自分が怖くても、私には何でもないふりをする」
「だから、志乃は言った。少し長くいる、と」
「どうして」
「家の匂いを確かめたかったんだろう」
祖母は志乃の名を指先でなぞらなかった。触れずに、その周囲だけを見ていた。
「自分がまだ自分のまま戻れるのか。あの子は確かめたかった。家の中を掃き、湯呑みを並べ、草履を揃え、いつもの手を動かせば戻れると思った。だが、家の仕事をするほど、あれは志乃の癖を拾った」
「母さんは、影を家に入れたの」
「入れたのかもしれん。入れられたのかもしれん」
「またそればかり」
「境目で起きたことに、ひとつの向きしかないと思うな。呼んだ者が呼ばれ、拾った者が拾われる。帰ろうとした者が、帰り道を家の中へ伸ばしてしまうこともある」
久代が杖を上げた。
「今夜、火を焚くなら、名簿の余白を埋めるな」
「でも、帰った印をつけないと」
「つけるのは、志乃が戻ったあとだ」
「戻ったかどうか、どうやって分かるの」
「お前が見る」
私は久代を見た。
「私が?」
「お前がいちばん、志乃の手つきを知っている。だが、知っているからこそ、似ているだけのものに縋る。見分けるのは、お前の役目だ」
「できない」
「できなくてもやる」
「母さんかもしれないものを、私が拒むかもしれない」
「拒むことが、送ることとは限らん」
久代は、杖の先で土間の足跡を指した。
「帰る者は、拒まれても帰る道を向く。残るものは、拒まれるほど家の中へ寄る。お前が手を伸ばさず、名を呼び、足元を見る。それだけで違いは出る」
祖母が名簿を私の方へ向けた。
「読むか」
「私が?」
「声に出して読む。家の者の名を、順番に」
「母さんも?」
「最後だ」
「最後に呼んだら、母さんが来るの」
「来るかもしれん」
「影も?」
「来るだろう」
「それなら、呼ばない方が」
「呼ばなければ、志乃の名は影に使われたままになる」
祖母の指が、名簿の上で止まった。
「名を呼ぶことは、縛ることではない。帰る者に、帰る向きを渡すことだ」
私は名簿を見た。
祖父の名。亡くなった叔父の名。村を出た親類の名。いまこの家にはいない者の名前が、紙の上では確かな順番を持っている。
家族とは、一緒にいる人間だけのことではないのだろうか。
いない者を数え、帰る者を送り、戻れない者を戻れないままにしない。そのために、名前が残されている。
私は志乃の名の横の余白を見た。
空白は、母がいない証拠ではなかった。
まだ、母のために残されている場所だった。
夕方、私は台所で湯呑みを一つ多く並べた。
志乃の分だ。
いつものように、祖母の分、私の分、それから母の分。三つを並べたあと、もう一つ増やそうとして、指先を止めた。
四つ目の湯呑みは、母のものに似ていた。けれど母の湯呑みではない。戸棚の奥にしまわれていた、縁の欠けていない白い湯呑みだった。
私はそれを出さなかった。
似ているだけの席を、家族の席にしないために。
いちばん奥の母の湯呑みに、井戸水を注ぐ。水面は揺れず、薄暗い台所の灯りをそのまま映した。
私は唇を触れさせた。
飲まなかった。
飲んだら、母を待つための水なのか、母の形を借りたものへ渡す水なのか、分からなくなる気がした。
名簿を抱え、玄関へ戻る。
土間の草履は、まだそこにあった。
けれど、今度は二足とも、上がり框ではなく、私の方を向いていた。
鼻緒の影が濃い。
濡れた足跡が、名簿の前まで伸びている。
私は上がり框に座り、紙を膝へ置いた。祖母は神棚の前で札を整え、久代は玄関の外で水の音を聞いている。三人とも、まだ火を焚かない。
夜になるのを待っていた。
台所の戸を閉める。
手のひらが戸板から離れた直後、内側から、鈍い音が一度だけ返ってきた。
誰かが、こちら側へ手を当てたような音だった。
私は振り向かなかった。
名簿の最初の名前へ、指を置く。
紙は冷たかった。
その冷たさの下で、誰かが私の指を待っている気がした。
私はまだ、名前を呼ばなかった。
ただ、母の名の横に残された空白を見つめていた。そこには墨も、印も、誰かの手の跡もない。
それでも、空白は完全な空白ではなかった。
紙の繊維が、ほんの少しだけ内側へ沈んでいる。
まるで、書かれるのを待つのではなく、書かれないことを耐えているように。
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