第7話 焚き直す火

久代甚蔵が家へ入ってきたのは、夕立の匂いがまだ縁側に残っているころだった。
雨は降らなかった。山の向こうで一度だけ雷が鳴り、湿った風が田の方から流れてきただけだ。それでも、軒下の土は黒く濡れ、縁側の板には細い水の筋が残っていた。
久代は玄関の戸口で立ち止まった。
草履を脱いだ指先が、ほんの一瞬、宙で止まる。彼は人の顔を見る前に、いつも足元を見る。土間の汚れ、草履の向き、濡れた跡。そこにあるものを確かめてからでなければ、家へ上がらない。
今夜も同じだった。
久代は土間へ視線を落とし、母の草履を見た。
二足は、朝よりさらに台所の方へ寄っていた。鼻先は揃っている。母がいつも整えていたときと同じ、きっちりした角度だった。けれど、片方の底だけが土へ深く沈み、藍色の鼻緒の影が濡れた藻のように濃くなっている。
「今夜だ」
久代は、草履から目を離さずに言った。
私は玄関の脇に立ったまま、手の甲を親指でこすった。
「何が、今夜なの」
久代はすぐには答えなかった。代わりに、杖の先で草履の前の土を軽く叩いた。乾いた音が一つした。土は乾いているはずなのに、杖の先だけが黒く湿った。
「火を焚き直す」
祖母が神棚の前で数珠を一つ弾いた。
「もう送り火は終わってる」
「終わったから、やり直す」
「村の火を?」
「家の火をだ」
久代はようやく顔を上げた。皺の深い目が、私を見た。けれど、そこにも長く留まらず、すぐ足元へ落ちる。
「水が戻っている」
「古井戸で見た水のこと?」
「あれだけじゃない。用水路から井戸へ入り、井戸から家の水桶へ来る。家の水桶から土間へ出て、草履の跡を濃くする。流れが一つにつながった」
「それが、母さんを連れて帰ってきてるの」
「志乃の気配は戻っている」
「気配じゃなくて、母さんを戻したい」
久代は私の言葉を聞き終えるまで黙っていた。返事を急がない沈黙だった。外では雨を待っていた蝉が、途中で声を止めた。縁側の風鈴が、風もないのに一度だけ揺れた。
「戻す、というのは、家の中へ置くことではない」
久代が言った。
「母親の足を、母親の帰る方へ向けることだ。家に残したい者の足を、家の都合で止めることじゃない」
「母さんは、ここへ帰ってきたんでしょう」
「帰ろうとした」
「なら、どうして家から出すの」
「帰る場所が一つだと思うな。盆に来る者には、来た場所と帰る場所がある。お前がここへ留めれば、志乃はどちらにも戻れなくなる」
祖母が神棚の下へ歩いた。封の糸はもう切られている。小さな引き出しを開け、白い札と家族名簿を取り出す。紙の端は湿気で波打ち、古い墨の匂いがした。
祖母は札を久代へ渡した。
久代は紙を受け取らず、まず裏面を指で撫でた。濡れ方を確かめるような手つきだった。
「誰かが触った」
「私が見た」
「触ったのか」
「持っただけ」
「それなら、まだ間に合う」
久代は札を受け取った。紙を開くと、細い文字が現れる。
迎えたものを数える。
家の名を置く。
戻る者の名を呼ぶ。
火を外へ送る。
残ったものを、残った場所へ戻す。
私は最後の一行を読んだ。
「残ったものって、何」
「火を焚けば分かる」
祖母が答えた。
「分からないまま、始めるの?」
「分からないものを、分からないまま家の者にするよりはいい」
「でも、火のそばに母さんが来たら」
「近づくな」
「母さんかもしれないのに?」
「母親なら、こちらから掴まなくても来る。お前が手を伸ばせば、影も一緒に寄る」
その言葉が胸へ刺さった。
私は母の草履を見た。履き手の足の形に伸びた鼻緒。片方だけ柔らかくなった縁。母の足がそこへ何度も入り、土間から外へ出て、また帰ってきた時間が、布と革に染み込んでいる。
それは母のものだった。
それなのに、今は母を呼ぶための入口にも見えた。
「火を焚く場所は?」
私が訊くと、久代は勝手口の外を指した。
「家と用水路の間。水が戻ってくるところに、火を置く」
「雨が降ったら消える」
「降らせない」
「そんなこと、できるの」
「火を見ている間だけは、雨も風もこちらの都合に従う」
祖母は久代を睨んだ。
「余計なことを言うな」
「紬が聞いた」
「聞いたことを全部渡すな。火に言葉を与えすぎると、火がそれを覚える」
「火が覚える?」
私が訊くと、祖母は札を折り直した。
「昔、火の前で名前を何度も呼んだ者がいた。帰したくない、ここにいてほしい、消えないでくれと。火はその願いを拾った。送るはずのものが、家の周りを何度も回った。翌朝、村中の玄関に、同じ草履の跡がついていた」
「その人は、どうなったの」
「家族の全員が、その人の声を聞いた。死んだ者も、生きている者も、同じ声で呼ばれた」
祖母の指が、紙の角を強く押さえた。
「だから、火の前で願いを言うな。帰ってきてほしいとも、ここにいてほしいとも言うな。呼ぶなら、名だけにしろ。名を呼んだら、待て。来たものを選ぶのは、足元を見てからだ」
「母さんの名前だけなら、いいの」
「志乃の名を、志乃でないものに渡さなければな」
祖母はそう言って、私の袖口を直した。汗で肌に張りついた布を、乱暴に引きはがす。母と同じ仕草だった。だが、祖母の指は乾いている。母のような水気がない。
私はその違いを覚えた。
似ているものを、同じに扱わない。
祖母は火ばさみと小さな炭籠を持ち、久代は枯れ枝を束ねた。私は母の使っていた藍染の手拭いを懐へ入れた。汗を拭くためではない。母の匂いを残した布を、火のそばで燃やさないためだった。
勝手口から外へ出る。
庭の土は柔らかく、足を置くたびに靴底へまとわりついた。夕立の匂いが、濡れた草と土の匂いに混じっている。家の壁は湿気を吸って黒ずみ、閉じた窓の向こうに、まだ生活の気配が残っていた。
台所の戸が、私たちの背後でゆっくり開いた。
祖母は振り返らなかった。
久代だけが、足元を見た。
土の上に、濡れた足跡があった。
家の中から出ている。
けれど、庭へ続いた跡は一つもない。勝手口の敷居のところで途切れ、その先に、母の草履の底の模様だけが二つ、土へ押されていた。
「来ている」
久代が言った。
「母さんが?」
「まだ決めるな」
祖母は火床を作るため、地面へ浅い溝を掘った。火ばさみの先が土を削り、湿った黒土が薄くめくれる。そこから、古い灰が出てきた。去年の火か、それより前の火か分からない。灰の中に、小さな糸の切れ端が混じっている。
祖母はそれを拾い上げ、指先で確かめた。
「赤い糸だ」
久代が言った。
「送り火の糸だ。燃え残ったものは、流れへ返す」
「燃やすんじゃないの」
「燃えないものを燃やそうとすると、火が家へ戻る」
久代は赤い糸を祖母から受け取り、用水路の方へ歩いた。水路の水は暮れかけた光を細く揺らしている。流れの脇には、先日見た白い手拭いがまだ引っかかっていた。さらに少し下流には、泥を吸った簪が沈んでいる。
久代は杖で簪を水から押し出した。拾い上げはしない。ただ、流れの中央へ戻す。
「誰かのものじゃないのに」
私が言うと、久代は簪を見たまま答えた。
「誰かのものだった。持ち主がいなくなっただけだ」
「母さんのものかもしれない」
「志乃の簪なら、櫛の歯の間に赤い糸が絡む。これは違う」
「どうして分かるの」
「去年の盆から、ここに流れ着いたものを見てきた。人の物には、人の使い方が残る。影の物には、持ち主をなくしたまま、家へ入ろうとする向きがある」
久代は水路の流れに沿って杖を置いた。
「家へ戻る枝は、下流へ行かない。石の下を通って、古井戸へ返る。井戸から桶へ、桶から土間へ。あとは、家の者がそれを迎える」
「私が迎えたから、あれが入ったの」
「志乃が先に迎えた。お前は、その残りを待った」
責める言い方ではなかった。それがかえって痛かった。
「母さんは、何を迎えたの」
「名残だ」
久代は赤い糸を水へ落とした。糸は流れに乗らず、石の脇で一度だけ揺れ、それから水の下へ沈んだ。
「盆の帰り道には、帰れないものが混じる。捨てられた物、呼ばれなかった名、持ち主をなくした気配。そういうものが人の後ろへつく。多くは火の外へ落ちる。だが、暮らしを整える人間は、落ちたものまで拾おうとする」
「母さんは、拾ったの?」
「拾ったのか、拾われたのかは同じように見える」
「そんなの、母さんが可哀想だよ」
「可哀想で済むなら、村の作法はいらない」
私は水路を見た。
白い手拭いが、流れの中で一度だけ浮いた。端の藍糸が、母の手拭いに似ている。私は手を伸ばしかけた。
祖母が私の手首を掴んだ。
「触るな」
「母さんの匂いがする」
「匂いを家へ持ち帰るな」
「でも、母さんが持っていたものかもしれない」
「なら、なおさら置いていけ」
祖母の指が食い込む。
「母さんのものなら、母さんの帰る場所へ戻る。お前が拾って抱えれば、母さんのものかどうか分からなくなる」
私は手を引いた。
水路の音が、耳の奥で長く続いた。水は何も説明しない。ただ、低い場所へ流れ、石に当たれば音を変え、また同じ方向へ進んでいく。
家へ戻ると、火床の上に枯れ枝が組まれていた。
久代が木札を一本、枝の間へ差し込む。木札には、古い墨で家の名が書かれていた。篠宮という文字の最後の筆が、湿気でにじんでいる。
「家の名を、先に置く」
久代が言った。
「名を置くと、何が起きるの」
「家が家になる。戸口と土間と台所が、同じ一つの内側になる」
「今は違うの?」
「今は、内側へ入り込んだものが、家の名を借りている」
私は玄関を見た。
引き戸は閉まっている。けれど、戸の隙間から黒い湿りが滲み、庭へ細く伸びている。母の草履の跡だった。二足の跡が、玄関から火床まで続いている。
実物の草履は玄関にある。
それなのに、土の上には履いた足の跡がある。
私は息を止めた。
「久代さん、あれは」
「まだ見るな」
「でも、草履は家に」
「跡が先に来ている。形より気配の方が早い」
火床の向こう、暗くなりかけた庭の端で、何かが立っているように見えた。
白い夏着。
濡れた髪。
片手に、あの藍染の手拭い。
私は一歩、前へ出た。
「紬」
母の声がした。
今度は、きちんと息を吸ってから呼んだ。
胸が熱くなった。母だと思った。母なら、ここに来る。母なら、私を見つける。私は懐の手拭いを握った。
「お母さん?」
祖母の手が伸びてきた。だが、私を止める前に、久代が杖を横へ差し出した。
「足元を見ろ」
私は視線を下げた。
白い夏着の影には、足がなかった。
地面の濡れ跡だけが、火床へ向かって伸びている。草履の跡は二つ。けれど、影の身体はその上を滑るように近づいていた。
「紬。おいで」
声は柔らかかった。
「火を焚くなら、薪を持ってきて。母さん、手が濡れているの」
母なら、濡れた手で薪を持たない。火が消えるからだ。先に布巾で手を拭き、薪の乾いた部分を選ぶ。私はそれを知っている。
それでも、母の声が胸を撫でた。
「お母さんなら、薪を濡らさない」
私が言うと、影の輪郭が少し揺れた。
「紬。そんなこと、今はどうでもいいでしょう」
その言い方には、母の疲れがあった。私が細かいことにこだわったとき、母が静かに困った顔をする。その声に似ている。似ているのに、母なら最後に必ず、私の手から荷物を取る。重いものを持たせたまま、どうでもいいとは言わない。
「母さんは、どうでもいいって言わない」
「言うわよ。あなたが、何でも覚えているから」
影の声が少しだけ低くなった。
「草履の向きも、茶碗の角度も、私が息を吸う間も。そんなに覚えていたら、私がいなくなっても、あなたの中で私は動き続ける。だったら、ここにいてもいいでしょう。あなたが待っているかぎり、私は家にいられる」
私は手拭いを握った。藍染の布が汗を吸い、指へ張りつく。
「母さんは、待っている人を家に縛らない」
「私は母親よ」
「母さんなら、帰れない人を見たら、帰れるようにする」
影が一歩近づいた。
濡れた跡が火床の縁まで来る。
「紬。私はここにいる。あなたの知っている声で、あなたの知っている手つきで。何が違うの。あなたが抱きしめれば、全部同じになる」
その言葉に、足が動きかけた。
抱きしめたい。
ずっとそう思っていた。母の姿を見たら、何も確かめずに腕を回したい。声の違いも、足跡の踵の有無も、草履の沈み方も、全部どうでもいいと言いたかった。
けれど、祖母の手が私の肩へ置かれた。
乾いた手だった。
「紬」
祖母は私を見なかった。火床を見たまま言った。
「名を呼ぶなら、最後まで自分で呼べ。ここで誰かの声を借りるな」
久代が枝を一本折り、火床の中央へ置いた。
「火をつける」
「まだ母さんが」
「だからだ」
久代が火打ち石を打つ。
小さな火花が散り、乾いた杉皮へ落ちた。煙が細く立ち上がる。土と湿気の匂いの中に、焦げた樹皮の苦い匂いが混じった。
影が火床から退いた。
初めて、足のある動きをした。
濡れた跡が一つ、家の方へ戻る。
「紬」
母の声が、今度は玄関から聞こえた。
「火を消して。母さん、帰ってきたから」
玄関の中で、草履が擦れた。
ぺたり。
ぺたり。
家の奥へ向いていたはずの二足が、庭の火へ向きを変えた気配がした。
久代は火を見つめたまま、低く言った。
「今夜、志乃の名を呼ぶ。だが、まだ呼ぶな」
「どうして」
「家の名を置いただけだ。次に、家に残っている名を区切る。名簿が要る」
祖母が白い札を火の前へ持ち上げた。紙の端が熱で震える。
「ここから先は、名前を間違えられない」
私は玄関を見た。
土間の暗がりに、母の草履が立っている。鼻先はいつの間にか、こちらを向いていた。二足とも、まるで火のそばへ来る者を待つように揃っている。
その奥で、母の声がした。
「紬。おいで」
私は返事をしなかった。
火が一度、大きく燃え上がった。赤い舌が枯れ枝を舐め、庭の湿気を押しのけていく。けれど、玄関から伸びた濡れた跡は消えず、火床の手前で二つに分かれた。
一つは、家の中へ戻る跡。
もう一つは、私の足元へ向かう跡。
私は足を動かさなかった。
母を呼ぶために、母でないものを招かない。
母を戻すために、母を閉じ込めない。
その二つを同時にするには、待つだけでは足りなかった。何を残し、何を送り、どの声に返事をするのか、自分で選ばなければならない。
久代が家族名簿を開いた。
紙が湿った夜気の中で、かすかに鳴る。
祖母が私の隣に立ち、火ばさみを握った。
玄関の草履が、土間の上でゆっくりと向きを変えた。
今度は、家の奥ではなかった。
火の方を向いていた。
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