第6話 地蔵堂の石段

翌朝、祖母は朝飯の支度をしなかった。
竈には火が入らず、釜の蓋も閉じたままだった。縁の欠けた母の湯呑みだけが、流しの脇に伏せられている。昨夜、祖母がそこへ置いた茶は、きれいに消えていた。こぼれた跡も、飲み口の跡もない。ただ、湯呑みの内側に薄い水気が残り、底の方へ黒い影が沈んでいた。
私はそれを見て、布巾を取ろうとした。
祖母の手が先に伸びた。
「触るな」
「もう、何も触るなって言わないで」
思ったより強い声になった。祖母は湯呑みを持ち上げず、伏せたままのそれを見ていた。白い指が、縁から少し離れた場所で止まっている。
「触らない方がいいものと、触らなければならないものがある」
「これはどっちなの」
「今は、まだ前者だ」
「母さんの湯呑みなのに」
「だからだ」
祖母は私の前掛けの紐を結び直した。結び目が一度ほどけ、湿った布が腹のあたりへ垂れていた。祖母はそれを無言で引き寄せ、いつもより強く結んだ。
「今日は地蔵堂へ行く」
「地蔵堂?」
「歩ける靴を履け」
それだけ言うと、祖母は玄関へ向かった。
私はすぐには動かなかった。地蔵堂という言葉を聞いたことはある。村はずれの山道に、小さな石の堂がある。盆の時期には、誰かが白い花を供え、子どもが近づくと叱られる。私も幼いころ、一度だけ母に手を引かれて近くまで行ったことがあった。
あのとき母は、石段の手前で立ち止まり、私の足元の靴を見た。
「紬、靴紐がほどけてる」
母はしゃがんで、私の靴紐を結び直した。結んだあと、蝶の形になった紐の端を指で押さえ、左右の長さを揃えた。
「ここは、足元を見て歩くところなの」
「どうして?」
「転ぶから」
母は笑った。
その笑い方を思い出した瞬間、台所の奥で、水が一滴落ちた。
私は振り返らなかった。振り返れば、母の声を聞きたくなる。聞けば、今度こそ返事をしてしまう。祖母はもう玄関に立っている。家の外へ出ることを急いでいるようには見えない。ただ、家の中に長く留まらないために、足を止めずにいるようだった。
私は古い草履を履いた。紐を結び、立ち上がる。玄関の土間には、母の草履が残っている。二足とも、昨夜よりさらに台所へ寄っていた。
私は見なかったことにしようとした。
けれど、見てしまった。
片方の草履の鼻緒に、細い泥の筋がついている。外から運ばれた泥ではない。湿った土が、内側から押し出されたような筋だった。
祖母が玄関の戸を開ける。
夏の終わりの光が、細長く土間へ差し込んだ。光は草履の先まで届かず、鼻緒の途中で途切れた。
「行くよ」
「母さんを置いていくの」
「置いていくんじゃない。帰る道を調べる」
「ここにいるかもしれないのに」
「だから、ここから離れる」
「それで何かに連れていかれたら?」
祖母は振り向いた。目が合う前に、視線が私の足元へ落ちる。
「お前は、母親を探すと言いながら、あれのいる場所を探している」
「同じでしょう」
「違う」
「どう違うの」
「志乃は、家の中に隠れている人間じゃない。帰る途中で道を失っている。道を失った者を、家の中だけ探しても見つからん」
「母さんが道を失ったなら、私が迎えに行く」
「迎えに行って、何を連れて帰る」
祖母の声には、怒りより疲れがあった。その疲れが、長いあいだ誰かを待ってきた人のものに聞こえた。
「母さんだけ」
「それを、お前が見分けられるのか」
「見分ける」
「何を使って」
「声。手つき。歩き方。母さんなら、私のことを知っている」
「影も知っている」
「でも、全部は真似できない」
「全部を真似る必要はない。お前が一つでも許せば、残りは家の方で埋めてくれる」
祖母はそれ以上言わなかった。言葉の代わりに、母の草履を一度だけ見た。その視線が、戸口へ出ろと言っていた。
私は土間を上がった。背中に、家の湿気がまとわりつく。振り返ると、草履の鼻緒が光の届かないところで濃く沈んでいた。
外へ出ると、村の朝はすでに動き始めていた。
田の方から、刈り取られていない稲の匂いが流れてくる。道端の側溝には昨夜の雨が細く残り、濁った水が山の方から村の外へ向かっていた。家々の軒先には、盆飾りを片づけた跡がある。竹の葉や枯れた花が束ねられ、燃やされるのを待っていた。
向かいの家の老婆が、私たちを見て手を止めた。
「地蔵さんかい」
祖母は頷いただけだった。
「まだ帰らないのかねえ、あの人」
老婆は私を見ずに言った。
私は足を止めた。
「母さんは、帰らないんじゃない」
老婆の手から、枯れた榊の枝が一本落ちた。
「そうかい。なら、よかったね」
その言い方に、私は腹の奥が冷えた。よかったという言葉が、帰ってこないことを知っている人の口から出ると、慰めではなく蓋のように聞こえた。
「おばあちゃん。この村の人たちは、母さんがどうなったか知ってるの」
「知っていることと、見たことがあることは違う」
「見た人はいるの」
「いるだろうね」
「誰」
「歩きながら訊け」
祖母は先へ進んだ。
山道へ入ると、舗装された道が途切れ、土と石の混じった細い坂になった。朝の光は木々に遮られ、道の上にはまだ夜の湿りが残っている。苔の匂いが濃い。足を置くたび、草履の底が柔らかい土へ沈み、足裏に冷たさが返ってくる。
祖母は、石を踏む前に必ず一度見た。草履の先をわずかに内へ揃え、それから体重を移す。家の玄関で見るのと同じ動きだった。
私はその後ろで、同じ歩幅を真似た。
「母さんも、こうやって歩いていた?」
祖母は前を向いたまま答えた。
「志乃は、若いころは足元を見なかった」
「意外」
「転んでも、手に持ったものを先に守る子だった。鍋を持っていれば鍋を、子どもを抱いていれば子どもを。自分の膝は後回しだ」
「母さんらしい」
「らしいと思うか」
「思うよ。私が熱を出したときも、自分の手を火傷していたのに、私の額ばかり冷やしてた」
「そういうところが、あの子を呼ばれやすくした」
祖母の歩みが少しだけ遅くなった。
「呼ばれやすいって、どういうこと」
「困っている声を聞くと、戸口まで行ってしまう。戸口まで行けば、手を出す。手を出せば、相手の重さを自分の中へ入れる。志乃は昔から、その繰り返しだ」
「それは優しいだけでしょう」
「優しさで境目を跨ぐと、戻るときに自分の足跡が分からなくなる」
私は言葉を返せなかった。
山道の先に、苔むした石段が見えた。段の隙間から細い草が伸び、雨水が黒い筋になって流れている。祖母は石段の手前で止まった。振り向かず、私の足元だけを見た。
「右から上がる」
「どうして」
「左の石には、濡れた跡がある」
見ると、左端の段だけが妙に黒ずんでいた。誰かが歩いたというより、何かを引きずったような湿り方だった。私は右側へ寄った。
祖母が一段目へ足を置く。
石段は苔で滑った。祖母の身体がわずかに傾く。私は手を伸ばしかけたが、祖母は自分で立て直した。伸ばした私の手を見て、祖母は何も言わず、その指を一度握った。
乾いた、硬い手だった。
けれど、離すときには指先が私の汗を拭うように動いた。
「母さんも、こうやって手を出したの」
「志乃は、誰にでも手を出した」
「じゃあ、私は母さんに似てるんじゃなくて、おばあちゃんに似てるのかもしれないね」
祖母の足が止まった。
「手を出すのと、手を離さないのは違う」
「どう違うの」
「助けるために出す手と、行かせないために掴む手は違う。お前の手は、今まで後者だった」
胸に、石段の角が当たったような痛みが走った。
「母さんを行かせたくない」
「知っている」
「それの何が悪いの」
「悪くはない。だが、母親の帰る道を塞いでいるかもしれん」
「私が?」
「待つというのは、戸を開けておくことだと思っているだろう。違う。帰れないものがそこへ入り続けないよう、戸を閉めることも待つうちだ」
祖母は石段を上がった。
私はその言葉を背中で受けながら、濡れた石へ足を置いた。苔が靴底で潰れ、青い匂いが立つ。石段を上るほど、家の匂いが薄れていく。米の匂いも、藍染の布の匂いも、母が使っていた木の盆の乾いた匂いも、山の湿気に押し流されていった。
代わりに、どこかで水が流れている音が聞こえ始めた。
地蔵堂は、石段の上にひっそり建っていた。
小さな木造の堂で、屋根の端には黒い苔が広がっている。地蔵の前には、枯れた花と、半分溶けた蝋燭が置かれていた。風は木立の中を通っているはずなのに、堂の前まで来ると途切れた。
蝉の声が遠くなる。
代わりに、すぐ耳元で葉が擦れた。
誰かが低い声で話しているようにも聞こえたが、言葉までは拾えなかった。
祖母は地蔵の前へ進み、懐から小さな紙包みを出した。塩だった。指先で少しつまみ、地蔵の足元へ置く。次に、手を合わせた。
祈っているようには見えなかった。
何かがそこにいるか、確かめているようだった。
私は祖母の隣に立った。地蔵の顔は風雨に削られ、目も口も曖昧になっている。けれど、胸元に刻まれた布の皺だけは残っていた。誰かが何度も触れた跡のように、石の表面が滑らかになっている。
祖母は手を下ろした。
「ここで、何をするの」
「帰れないものを、家へ入れない」
「母さんを助ける場所じゃないの」
「まず、母親と一緒に来たものを、家から遠ざける場所だ」
「母さんはまだ家にいる」
「気配はな」
「本人もいるかもしれない」
「だから見分ける」
祖母は堂の脇へ回った。そこには、屋根の影に隠れるように、古い板が立てかけられていた。雨に晒されて黒ずみ、端が割れている。私は近づき、板の表面を見た。
墨の跡が残っていた。
文字というより、掻き傷に近い。何度も濡れ、乾き、また雨に打たれたせいで、線の一部だけが窪んでいる。
祖母は指でその窪みをなぞった。
「読める?」
「読めない」
「読めなくていい。ここに書かれたのは、覚えるためじゃない。忘れないためのものだ」
「何を忘れないの」
「盆の夜に、戻り損ねたものがいたこと。家族が、そのものを家族だと思い続けてしまったこと。名前を呼び間違え、抱きしめ、戸を開けたままにしたこと」
私は板の文字へ触れた。
指先に、ざらついた木の感触が伝わる。線の窪みには、黒い湿りが残っていた。墨なのか、土なのか分からない。指を離すと、爪の間に細かな黒いものが入った。
「誰のこと?」
祖母は板から手を離さなかった。
「昔の家の話だ」
「母さんのことじゃない」
「そうだ」
「なら、どうして今ここへ連れてきたの」
「お前が見たものが、昔のものと同じ道を通っているからだ」
「昔にも、母さんみたいな人がいたの?」
「母親の形を借りたものは、何度もある」
「同じ影なの」
「同じかどうかは知らん。だが、同じように人の暮らしへ入る。水の跡を残し、草履を動かし、家族の声を使う」
祖母の声は淡々としていた。けれど、板をなぞる指の先だけが、ひどく慎重だった。
「おばあちゃんは、昔、何かを見送れなかったの」
祖母は答えなかった。
「神棚の引き出しを封じたのも、そのせい?」
「誰から聞いた」
「見れば分かる。封の糸が何度も結び直されていた。あれは、隠すためじゃなくて、開かないようにしていた跡でしょう」
祖母は薄く息を吐いた。
「昔、私の妹が戻らなかった」
地蔵堂の前の空気が、わずかに動いた。
葉擦れが止まり、遠くの水音だけが残った。
「盆の送り火のあと、玄関に草履だけが残った。今のお前の母親と同じだ。妹は家の奥にいるような気配を残していた。声もした。台所の戸を開ける音もした。私は妹だと思って、戸を開けた」
「何がいたの」
「妹の声を使うものだ」
「それで?」
「私は、妹の名前を呼んだ。呼んで、手を伸ばした。影は私の手を取った。冷たくなかった。むしろ、妹より温かかった」
祖母の指が、板の窪みの上で止まった。
「だから、私は間違えた」
「妹さんは?」
「そのあと、一度だけ本物の声がした。家の外からだった。私を呼んだ。だが、私はもう家の中のものを妹だと思っていた。外の声を偽物だと決めた」
私は息を吸えなかった。
「外の声は、何と言ったの」
「帰して、と」
その言葉が、地蔵堂の石段へ落ちた。落ちたものは石の間へ入り、二度と拾えないように思えた。
「私は戸を閉めた。妹の声を残すために。家の中にいるものを、家族として置いておくために」
祖母はようやく私を見た。
「三日後、家の中から水が引いた。草履も消えた。妹の声も消えた。外の声だけが、しばらく夢の中で続いた」
「妹さんは、帰れなかったの」
「帰ったのかもしれん。戻ったのかもしれん。私が見分けなかったから、確かなことは何も言えない」
「それでも、今まで誰にも話さなかったの」
「話せば、同じことをしたくなる者が出る。失ったものを、声だけでも手元に置きたい者は多い」
「私も、そうだよ」
「知っている」
「母さんの声だけでもいいと思ってる。手つきだけでも、匂いだけでも。家の中に残ってくれるなら、何でもいいと思ってる」
「それを言葉にしてはいけない」
「どうして」
「ここには、そういう願いを聞くものがいる」
堂の裏で、何かが軋んだ。
木が擦れた音だった。だが、音の終わりに、人が息を吸う気配が混じっていた。
私は反射的に振り返った。
祖母の手が、私の肩を掴んだ。
「見るな」
「今、何か」
「見なくていい」
「でも、母さんかもしれない」
「母親なら、ここへ来る前に足を揃える」
私は足元を見た。
苔の上に、濡れた跡が二つ残っていた。裸足の跡に似ている。けれど、踵がない。土間で見たものと同じだった。
跡は堂の裏から石段へ向かっている。
石段を下りるのではなく、上ってきた形だった。
私は喉の奥を押さえた。母がここへ来たのか。何かが母の跡を使って上ってきたのか。どちらも決められない。
祖母は跡を見ていた。
「下りるよ」
「地蔵堂は、もういいの」
「長くいる場所ではない」
「母さんの跡があるのに」
「跡があるからこそだ」
祖母は石段の一段目へ足を置いた。今度は振り返らず、私を待った。
私は堂の脇の板をもう一度見た。
黒い文字の一部が、さっきより濃くなっている。雨が降ったわけではない。墨の線の中から、湿りがにじみ出ていた。
その窪みの形が、母の名前の最初の一文字に似ている気がした。
私は目を逸らした。
石段を下りる祖母の背中を追う。上ってきたときより、足元が滑る。苔が靴底へ絡み、身体が前へ持っていかれる。祖母は一段ごとに草履の先を内へ揃えた。私も同じように足を置く。
石段を半分ほど下りたところで、祖母が足を止めた。
視線が、右手の斜面へ向いている。
そこには、夏草に隠れた細い獣道があった。人ひとりがやっと通れる幅で、草の先だけが濡れている。誰かが最近、そこを通ったようだった。
「古井戸へ行く」
祖母が言った。
「ここから?」
「ああ」
「道がないよ」
「道はある。見えないだけだ」
祖母は獣道へ入った。
草が夏着の腕を撫で、露が肌へ残る。汗で張りついていた布がさらに濡れ、冷たく重くなった。細い枝が髪を引いた。私は立ち止まり、振り返った。
地蔵堂は木の葉の向こうに隠れかけていた。
堂の前だけ、風がなかった。
その静けさの中で、母の声に似たものが、低く私を呼んだ。
「紬」
最初に息を吸う音があった。
私は足を止めた。
母なら、ここで振り返る。母なら、私が聞こえる場所にいることを確かめてから呼ぶ。あの声には、確かに母の癖があった。
祖母が前を向いたまま言った。
「返事をするな」
「今のは、母さんかもしれない」
「だからだ」
「でも、息を吸った」
「覚えたんだろう」
「母さんの声を?」
「お前が覚えている母親を」
声は、もう一度呼んだ。
「紬」
今度は、息を吸う前に呼んだ。
私は手の甲を親指でこすった。皮膚の熱が、露に濡れた腕の中で小さく残っている。
「おばあちゃん」
「なんだ」
「母さんの声を覚えていることは、悪いことじゃないよね」
祖母は歩みを止めなかった。
「悪くない」
「でも、影に使われる」
「使われても、手放すな」
「どうすればいいの」
「同じものだと思わなければいい。声は声、匂いは匂い、手つきは手つきだ。志乃は、それらを全部持っていた。だから、ひとつだけ似ているものに、志乃の名を渡すな」
「名前を呼ばないと、母さんが戻れない」
「呼ぶ。だが、呼んだあとで待て。すぐに掴むな。来たものの足元を見る。草履の向き、濡れ跡、戻る気配。母親は、呼ばれた者を急かさない」
私はその言葉を胸の中で繰り返した。
母は、いつも私を急かさなかった。
朝、私が布団から出られないときも、台所から何度も名前を呼ばなかった。湯呑みを置き、火を弱め、私が自分で起きるまで待った。私がようやく廊下へ出ると、「おはよう」と言って、何も言わずに朝飯をよそった。
呼んで、待つ。
その間に手を伸ばさない。
私は初めて、母の優しさを、手つきではなく距離として思い出した。
獣道の先で、水音が大きくなった。
用水路が近い。
細い流れの音が、台所の桶の中で水が揺れる音に似ていた。水が石へ当たり、途切れ、また繋がる。その繰り返しが、家の中で聞いた濡れた足音を思わせた。
ぺたり。
ぺたり。
私は歩みを止めた。
用水路の脇に、白い手拭いが引っかかっていた。洗いざらしで、端に藍色の糸が残っている。私は母のものかと思い、身を屈めた。
手を伸ばす前に、祖母が低く言った。
「見るだけにしろ」
手拭いは水を吸って重くなっていた。母の手拭いに似ている。けれど、母のものには端に小さな結び目がある。この布には、それがない。
「母さんのじゃない」
「そうだ」
「じゃあ、誰の」
「誰のものでもない」
「そんなことある?」
「持ち主をなくしたものは、流れのものになる。流れのものを家へ持ち込むな」
用水路の水が、手拭いの下をくぐり抜けた。布は一度沈み、次に浮かんだ。その浮き方が、誰かが水の中で手を伸ばしたように見えた。
私は目を離せなかった。
祖母が私の背中を叩いた。乱暴な一度だった。
「歩け」
「でも」
「見るだけで終わらせろ。拾えば、持ち主のないものに、お前の家の名がつく」
私は手を引いた。
用水路の音が背後へ遠ざかる。けれど、耳の奥には残った。家の水桶と同じ音。濡れた足跡と同じ湿り。玄関の草履へ戻っていく、見えない流れ。
獣道を抜けると、古井戸の石縁が見えた。
祖母は井戸の前で立ち止まり、まず水面ではなく、縁の泥を見た。指先で泥を軽く弾く。乾いた音が一つ鳴った。
「ここから、家へ戻るものがいる」
私は井戸の中を覗いた。
水面はまだ見えなかった。深い闇の底で、何かがゆっくり揺れている。
祖母が言った。
「今度は、顔を探すな」
「何を見ればいいの」
「戻る向きを見ろ」
そのとき、水の底から、母の草履を引きずる音が聞こえた。
ぺたり。
遠いはずの井戸の底で、濡れた鼻緒が石を擦る音がした。
私は息を止めた。
祖母は私の肩を掴んだまま、井戸の水面を見下ろしている。
そこに何が映るのか、まだ私は知らなかった。ただ、水音の向きだけは分かった。
水は山から村へ流れている。
そして、村から家へ戻っていた。
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