5話 水桶に映るもの

その夜、台所は昼より広く感じた。

灯りは、吊した裸電球が一つだけだった。光の輪は流しと竈の前までしか届かず、その外側では座敷へ続く廊下も、土間の隅も、暗がりの中へ沈んでいる。家の中にいるはずなのに、見えない場所が昼より増えていた。

私は井戸端から水桶を抱えて戻った。

桶の縁が汗ばんだ腕に食い込んでいる。井戸水の冷たさが、木の側面を通して胸元まで伝わってきた。夏着は背中に張りつき、首筋を流れた汗が襟の内側へ入っていく。外では虫が鳴いていたが、家の中へ入ると、その声は厚い布を一枚隔てたように遠のいた。

水桶を台所の中央へ置く。

水面が揺れた。

裸電球の光が、細長く崩れて、桶の内側で幾重にも重なる。私は桶の横にしゃがみ込み、揺れが静まるのを待った。水面は、何かを映すにはまだ動きすぎていた。だから私は、ただ待った。草履の位置を見るときと同じように、変化が止まるまで目を離さなかった。

やがて、水面が平らになった。

そこに、私の顔が映った。

頬に汗が残り、髪が首筋へ貼りついている。目の下が暗い。眠れていないせいだと思った。私は桶の縁に手を置いた。水面の中の私も、同じように手を置く。

そのはずだった。

私の指がわずかに動いたあと、水面の中の指が遅れて動いた。

遅れたというより、動く理由を考えてから動いたように見えた。

私は息を止めた。

水面の私の顔が、ゆっくりとこちらを見上げている。私が顔を上げたのではない。桶の中の顔だけが、先に目を開いた。

頬の線は、私のものではなかった。

見慣れた顔だった。

母に似ていた。

志乃が、桶の底から私を見ていた。

けれど、母そのものではない。頬の影が浅かった。母は笑うと左の口元に小さな皺ができる。水面の顔には、その皺がなかった。目元も違う。母は人の話を聞くとき、相手の言葉を受け止めるように、一度ゆっくり瞬きをする。その顔は、目を伏せるまでの間が少し長すぎた。

私は桶の縁を握った。

水面の中の志乃が、私の動きから遅れて目を伏せた。

「お母さん」

声にしたつもりはなかった。けれど、唇から音が漏れていた。

水面の顔が、今度は私より先に口を開いた。

声はなかった。

ただ、裸電球の光が水の底へ沈み、顔の輪郭が歪んだ。頬の下にもう一つ、薄い影が重なる。母の顔の内側から、別の顔が覗こうとしているように見えた。

私は桶を蹴った。

水が板の間へ広がった。冷たさが足の甲を這い、指の間へ入り込む。桶は横倒しになり、木の縁が床へ当たって、鈍い音を立てた。

水は、私の足元から流しの方へは行かなかった。

板の目に沿って、玄関の方へ伸びた。

細い濡れ跡が、暗い廊下の奥へ向かっている。

私は後ずさった。背中が戸棚に当たった。戸棚の中で茶碗が触れ合い、かすかな音を立てる。その音に混じって、廊下の向こうから、布を絞るような音がした。

ぎゅ、と水を押し出す音。

母が布巾を絞るときの音だった。

私は耳を塞ぎたかった。けれど、手は動かなかった。床に広がった水が、裸足の裏から体温を奪っている。冷たいはずなのに、足の甲には母の手を当てられているような感触が残った。

幼いころ、熱を出した夜のことを思い出した。

母は濡らした手拭いを絞り、私の額へ置いた。水が冷たすぎないように、手の甲で何度も温度を確かめてから触れる。私が眠りから覚めると、母は「まだ寝ていていいよ」と言った。声を荒げることはなく、布団の端を直し、汗で濡れた髪を耳の横へ払った。

いま、背後の暗がりで、同じように髪を払う音がした。

私は振り返らなかった。

「紬」

母の声だった。

低く、疲れを含んだ、いつもの声。

「桶、倒したの」

私は返事をしなかった。

足元の水が、ゆっくりと広がっている。水の先端は私の踵を避け、玄関へ向かう濡れた足跡の上へ重なっていく。消すのではない。古い跡を濃くしている。

「紬。そこにいるなら、布巾を持ってきて」

母なら、倒れた桶を見て最初にそう言う。水を拭く。床を傷めないように、板の目に沿って拭く。濡れたままにしておけば、祖母が嫌がるから。いつもの母なら、私を責める前に手を動かす。

だからこそ、私は戸の向こうへ行きそうになった。

母がいる。

母が帰ってきた。

その考えが胸へ入り、冷たかった身体の内側に、急に熱が戻った。私は一歩、濡れ跡へ足を出しかけた。

「紬」

祖母の声がした。

廊下の反対側から、サトが現れた。手には乾いた布巾を持っている。私の足元を見るなり、祖母は布巾を床へ投げた。濡れ跡の手前へ、まっすぐ落ちた。

「下がれ」

「でも、母さんが」

「返事をしたか」

「してない」

「なら、まだ間に合う」

「母さんの声がする」

「声だけなら、誰でも出せる」

「おばあちゃんは、聞こえないの」

「聞こえている」

祖母は私の腕をつかみ、濡れた板から引き離した。細い指が肌へ食い込む。痛かったが、私は抵抗しなかった。祖母の手が震えていることに気づいたからだ。

「聞こえているから、近づくなと言っている」

「水桶に、お母さんの顔が映った」

「顔を見たのか」

「水の中にいた。私じゃない。お母さんに似ていた。でも、少し違った」

「どこが」

私は答えようとした。頬の影。目を伏せる間。声をかける前の息。母がしない動作。いくつも浮かんだが、言葉にしようとすると、水面の顔がまたこちらを見上げる気がした。

「目が、遅れていた」

祖母は床の水を見た。

「遅れているものは、先に来たものを追っている」

「何を追ってるの」

「志乃の形だ」

「母さんを追ってるの?」

「母さんの形を借りるために」

台所の奥で、何かが戸に触れた。

とん、と小さな音がした。

母なら、戸を開ける前に一度立ち止まる。いまの音は、立ち止まったのではない。戸の向こうから、こちら側へ触れてきた音だった。

祖母は濡れ跡へ塩を撒いた。白い粒が水に触れると、細かな泡が立った。水は消えなかった。けれど、濡れ跡の先端が、虫の触角のように二度、三度と震えた。

「おばあちゃん、これ、母さんなの?」

「志乃の気配はある」

「母さんはどこにいるの」

「その問い方をするな」

「どうして。いるのか、いないのかだけでも教えて」

「人の気配は、置き場所を失うと、他のものに使われる。声も匂いも手つきも、本人だけのものではなくなる。だから、気配があるからといって、そこに本人がいるとは限らん」

「じゃあ、私が知っている母さんは、何なの」

声が思ったより大きくなった。

「米びつを閉める音も、布巾を絞る音も、茶碗の置き方も、全部母さんが生きてきた証拠でしょう。私が覚えているから、母さんだって分かる。違うものが真似できるはずない」

「真似できる」

「そんなに簡単に?」

「人を一人つくるより、人の癖を一つずつ拾う方が容易い。返事の間、戸を閉める力、草履の向き。お前が母親をよく見ていたぶんだけ、あれは近づいてくる」

「私が覚えているから、母さんが薄くなるの?」

祖母はすぐに答えなかった。

その沈黙が、肯定のように聞こえた。

「おばあちゃんは、私が母さんを覚えていることまで、悪いみたいに言う」

「悪いとは言っていない」

「でも、覚えていなければ、あれは母さんの形を借りられなかったんでしょう」

「そうかもしれん」

「だったら、忘れろっていうの」

「忘れるな。だが、同じだと思うな」

祖母の声は乾いていた。けれど、私の腕をつかむ手は離れなかった。

「志乃を戻したいなら、志乃の癖を捨てる必要はない。ただ、癖と本人を分けて見ろ。水桶に映ったものを母親だと思って抱けば、お前の中にある志乃まで、あれの形へ引きずられる」

「母さんを抱きしめたいだけなのに」

「抱けば戻ると思うか」

「思いたい」

「抱きしめるほど、同じ場所へ沈むものもある」

私は床の水を見た。

水面はもうない。桶の中身はすべて板へ流れ、木目の暗い線になっている。その線の中に、顔の輪郭が残っているように見えた。頬の影が浅く、目元だけが遅れている。母に似ている。似ているから、私は目を離せなかった。

祖母が私の視線を追った。

「桶を起こすな」

「水を拭かないと」

「拭けば、家の中へ広げる」

「でも、このままじゃ」

「このままにする。見たものを、すぐ元へ戻そうとするな。戻せないものまで、元の形に押し込むことになる」

祖母は別の布巾を取り、私の足元へ置いた。私に渡すのではなく、濡れ跡の外側へ、乾いた境界をつくるように並べた。

「母さんなら、こんなふうに水を放っておかない」

「だから、今すぐ拭きたい」

「それは志乃のためか」

「そう」

「それとも、お前が見たくないからか」

私は布巾を見た。

母なら、濡れた板を拭く。水の跡を残さない。濡れたものをそのままにしない。家の中の乱れを一つずつ片づけ、誰かが不安になる前に、何でもない顔をする。

私はその手つきを借りて、母の不在を消そうとしていた。

「……分からない」

「分からないままでいい」

祖母はそう言った。いつもなら、分からないことを嫌う人だった。曖昧なものを放置せず、戸締まりも札の結び目も、何度も確かめる。なのに今だけは、私の答えを急がせなかった。

「分からないまま、拭かずに置くの?」

「今夜はな。朝になれば、濡れ方が変わる。水の跡は、そこに何が触れたかを残す」

「水桶の中に映ったものは?」

「もう一度、見れば分かることもある」

「見たくない」

「なら、見なくていい」

「でも、母さんがいるかもしれない」

「いるかもしれないものを、いると決めるな。いないかもしれないものを、いないと決めるな。お前がするのは、見て、違いを覚えることだ」

その言葉を聞いたとき、私は昼間の草履を思い出した。

母の草履は、きちんと揃っているのに、片方だけ沈み方が違った。米びつの蓋は、母の手つきに似ているのに、最後の一手が足りなかった。声もそうだった。私の名前を呼ぶ前の息がなかった。

母の気配は、いくつもの場所に残っている。

けれど、残っているものすべてが母ではない。

その考えは、母を救うための手がかりにもなり、母を失うための刃にもなった。

戸の向こうで、また母の声がした。

「紬。水、こぼしたの」

私は目を閉じた。

今度の声には、母が叱るときの静かな鋭さが混じっていた。水をこぼしたことより、拭かずに立っていることを責める声。いつもの母なら、すぐに布巾を持ってきて、私の隣へしゃがむ。そして何も言わず、板の目に沿って水を拭く。

私は一歩、戸へ近づいた。

祖母は止めなかった。

「行くなら、何を確かめる」

背中から訊かれた。

「母さんかどうか」

「何で」

「声だけじゃなく、手つきも見る」

「顔は?」

「見ない。顔は借りられる」

「それで母親だと分からなかったら」

私は戸の前で立ち止まった。

「分からなくても、母さんの名前を呼ぶ」

「呼べば、影も来る」

「それでも呼ぶ」

「なぜだ」

「母さんだけを呼ぶために。混ざったままのものを、母さんと同じ名前で呼ばないために」

祖母の息が、背後でわずかに揺れた。

「水桶を見て、お前は何を見た」

「母さんに似たもの」

「それだけか」

「……母さんの形に重なっている、別のもの」

「なら、まだ母親は見ていない」

戸の向こうで、声が途切れた。

しばらく、何も聞こえなかった。

私は戸板へ手を置いた。冷たい。向こう側に誰かが立っているなら、その気配が木を通して伝わるはずだった。けれど戸は、濡れた井戸石のように無関心だった。

「お母さん」

私は呼んだ。

戸の向こうから、すぐに返事があった。

「はい」

その返し方に、私は手を離した。

母は、呼ばれてすぐに「はい」とは言わない。誰に呼ばれたのかを確かめるため、一度息を吸う。それから、少しだけ声を低くして返す。子どものころ、何度も聞いた。母の返事には、いつも相手を見つける時間があった。

戸の向こうの声には、その時間がなかった。

「お母さんは、そんな返事をしない」

私が言うと、戸の向こうで、何かが笑った。

笑い声にも、母の癖があった。けれど、母なら笑ったあとに必ず咳を一つする。喉が弱く、笑いを続けると咳が出るからだ。

その咳だけがなかった。

祖母が私の肩へ手を置いた。

「見えたな」

「見えたんじゃない。違いが分かっただけ」

「それでいい」

戸の向こうの気配が、わずかに遠のいた。代わりに、台所の床へ広がっていた水が、音もなく一筋、玄関の方へ戻っていく。

水は流しへ戻らなかった。

桶へ戻ることもなかった。

濡れ跡を辿るように、暗い廊下を抜け、玄関の土間へ吸い込まれていった。

祖母は私を連れて、その場から動かなかった。

土間の方で、藍色の鼻緒が擦れる音がした。

ぺたり。

ぺたり。

見なくても、母の草履が動いているのが分かった。玄関から台所へ来たものが、今度は台所から玄関へ戻っている。けれど、それは帰る動きではなかった。家の中を一周して、もう一度こちら側へ入り直すための動きに聞こえた。

祖母は私の袖口を直した。汗で張りついた布を外側へ引き、首筋にかかった髪を払う。その手つきは母に似ていたが、祖母の指は母より乾いていた。

「今夜は桶を布で覆う」

「また映るかもしれない」

「映るだろう」

「分かっていて、置いておくの」

「水は隠しても、通り道を変えない。見えないようにするだけでは、家の奥へ入っていくものを止められん」

「じゃあ、どうするの」

「明日、久代へ行く」

「古老のところへ?」

「用水路を見せてもらう。水がどこから来て、どこへ戻るのかを知らなければ、母親を呼ぶ場所も決められない」

祖母は倒れた桶を起こさなかった。水を汲み直すこともしなかった。濡れた板の上へ、白い布を一枚だけ被せる。布はすぐに水を吸い、薄い灰色へ変わった。

その布の下で、桶が一度だけ、かすかに鳴った。

木が水を含んだ音ではなかった。

内側から、誰かが指先で触れたような音だった。

私は祖母の手首をつかんだ。

「今の、聞こえた?」

「聞こえた」

「母さん?」

「決めるな」

祖母は短く答えたあと、私の手を外した。だが、離す前に一度だけ強く握り返した。

「水の中に映ったものが何であれ、志乃の姿を借りているなら、志乃の名を勝手に渡すな」

「母さんの名前を呼んではいけないの?」

「呼ぶ場所と、呼び方を選べ」

「母さんを呼ぶのに、そんなことまで考えなきゃいけないの」

「帰すためにはな」

帰す。

その言葉が、桶の底へ沈んだ小石のように、胸の奥へ落ちた。

母がここへ戻ることだけを考えていた。玄関に草履がある。湯呑みがある。台所に匂いが残っている。なら、母は帰ってくるはずだと思っていた。

けれど母は、帰る途中で何かを重ねている。

その何かが母の癖を借り、母の声で私を呼び、私が待つ心の中へ少しずつ入り込んでいる。

母を戻したいなら、その重なりを分けなければならない。

分けるということは、母に似たものを拒むことだった。

私はそれが怖かった。拒んだ瞬間、母まで一緒に遠ざかる気がした。母の声を聞き分けることが、母の声を失うことにつながるように思えた。

祖母は灯りを消した。

台所が暗くなる。土間も、座敷も、桶を覆った白い布も、すべて同じ暗さの中へ沈んだ。

暗闇の中で、風鈴が一度だけ鳴った。

風はなかった。

私は玄関へ続く方を見た。見えないはずなのに、草履の位置が分かった。母の草履は、まだ土間にある。けれど、その鼻緒の影だけが、暗がりの中で水に浮かぶ藻のように揺れている。

私は布団へ戻る前に、台所の戸を閉めた。

閉める直前、戸の向こうから、母の声がした。

「紬。明日は、ちゃんと水を替えてね」

私は返事をしなかった。

母なら、最後に必ず「おやすみ」と言う。

声はそこまで言わず、戸の隙間へ沈んだ。

私は桶を覆った布の端を見つめた。濡れた布は、誰かの手の形のように、中央だけがゆっくり沈んでいた。

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