4話 米びつの音

朝、目を覚ます前から、私は台所の気配を探していた。

布団の中で、まだ半分眠りに沈んだ意識のまま、耳だけが先に働いている。米びつの蓋が開く音、しゃもじが釜の縁を叩く音、井戸水を柄杓で汲む音。母がいた頃、私はいつもその順番で朝を知った。目を開けるより先に、家の中の音が私を起こしていた。

だが今朝は、何も聞こえなかった。

風鈴も鳴らない。縁側の外で、蝉の声だけが薄く続いている。ジジ、ジジ、と乾いた音が、朝の暑さをまだ持て余しているように途切れがちに響く。

私は布団を出た。廊下の板は踏む場所を選べば鳴らない。母に教えられたその歩き方で、玄関へ向かう。

土間へ降りると、昨夜まで上がり框の脇に揃っていたはずの母の草履が、ほんの少し、框の方へ寄っていた。

寄った、というよりは、置き直された。そうとしか言えないずれ方だった。誰かが草履を持ち上げ、数センチだけ動かし、また同じ角度で置いた。そういう手つきの跡が、鼻緒の影の濃さに残っている。

私はしばらく、その草履を見つめた。

触れたい。揃え直したい。指先が勝手にそちらへ動きかける。だが祖母の声が、まだ耳の底に残っている。触るな。その一言だけで、私の手は草履の鼻緒から数寸のところで止まる。癖になった手の甲へ、親指をこすりつける。皮膚が熱を持つ。その熱だけが、今の自分が確かにここに立っていることを教えてくれる。

私は、まず見なかったことにした。

見なかったことにする、という選択も、もう何度目かになる。見て、驚いて、確かめて、また見なかったことにする。そうやって、私は自分の中で少しずつ、母がいないという事実の輪郭を薄くしていった。薄くするほど、楽になるわけではない。ただ、薄くしないと、次の一歩が出せなかった。

私は台所へ入った。

湯呑みを三つ、いつものように出す。祖母の分、私の分、それから――母の分。

その母の湯呑みを出すとき、指先がわずかに震えた。縁が少し欠けている湯呑みだ。何度も捨てようと言ったのに、母は聞かなかった。

「手に馴染んだものは、欠けても使えるから」

その言葉が、耳の奥で今も生きている。私はその湯呑みに井戸水を注いだ。冷たい水面が、朝の薄暗い台所の光を受けて、小さく震えた。震えは水面のものなのか、私の手のものなのか、分からなかった。

布巾を濡らし、台所の板を拭く。濡れた木はひんやりとして、掌に残っていた夏の熱を静かに吸い返していく。その冷たさに、少しだけ安堵する。冷たいものに触れているあいだだけは、何も考えずにいられる。

志乃がいつもしていた癖を、私はひとつずつ拾っていった。

しゃもじは右手側。柄の先を、釜の縁と揃える角度で。箸は揃えて、先端を少し内側へ傾ける。茶碗は、少し口を内へ向けて置く。そうしないと、母は落ち着かない顔をした。子どものころ、私が箸を雑に置くと、母は何も言わずにそっと直した。直すたびに、私の手の上に、母の手が一瞬重なった。

今、私がしている整えは、母のいない台所を、母がいた台所の形に近づけるための作業だった。物の位置を合わせれば、いなくなった人の輪郭まで戻ってくる。そんなはずはないと分かっていても、手を止められなかった。

整え終えたあと、私は座敷まで確かめに行った。障子は閉まっている。畳の目には、朝の光が長く伸びている。誰もいない。当然だ。誰もいないことを確かめるために行ったのだから。

戻ってきて、また玄関の草履を見る。

見てしまうたびに、母の帰宅が遅れているだけだという言い訳が、薄くなっていくのが分かった。遅れているだけ、という言葉は、最初の一日はまだ意味を持っていた。二日目になると、意味の中身が少しすり減った。三日目の今、その言葉はもう、私自身をなだめるための音にすぎなくなっている。

祖母は朝から居間で数珠を弄っていた。私が声をかけても、返事は短い。

「おばあちゃん、今日は久代さんのところへ行くの」

「まだだ」

「まだって、いつ」

「そのときが来たら分かる」

祖母はいつもそうだ。手順を急がない。急ぐことこそが、境目を乱す一番の近道だと思っているらしい。私にはその慎重さが、時にひどく残酷なものに見えた。母が家の奥で何かに重なりかけているかもしれないのに、祖母は塩を用意し、札を数え、水を確かめる。何もしていないわけではない。だが、私の見ている速度と、祖母の見ている速度は、決定的に違っていた。

昼を過ぎた頃、私は井戸端へ出た。

井戸の水は、日盛りの中でも変わらず冷たい。柄杓で掌にすくい、顔にかける。水滴が首筋を伝い、夏着の襟元へ染みていく感覚に、束の間だけ現実へ引き戻される。母がここで手を冷やしていた姿を、私は何度も見てきた。台所の火のそばで手を動かし続けた母は、暑い日には決まってこの井戸端に立ち、手のひらを水に沈めた。掌を上に向け、指を開いて、水の冷たさが指の股まで染みるのを、目を細めて味わっていた。

私はその真似をした。指を開き、水に沈める。冷たさが皮膚を刺す。だが、母のように目を細める余裕はなかった。私の目は、無意識に台所の戸口へ向いていた。

そのとき、戸の向こうから音がした。

米をかき分けるような、乾いた、かすかな音だった。ざり、ざり、と、木の器の中で粒が擦れ合う音。米びつの蓋は閉まっているはずだ。今朝、私が確かめてから、誰も開けていない。

私は振り返った。

台所の戸は、閉まったままだった。隙間から漏れる光の筋に、動くものの影はない。私は水を滴らせたまま、戸口まで戻った。心臓が、いやに大きな音を立てている。手の甲を親指でこすった。皮膚が痛いくらいに熱かった。

戸を引く。

台所には、誰もいなかった。竈の火は消えたまま。流しの茶碗は、私が整えたときの角度から動いていない。

ただ、米びつの蓋だけが、さっきより指一本ぶんだけ浮いていた。

私は蓋の縁に触れた。木は乾いていて、湿気はない。持ち上げようとした手が、その場で止まる。もし今、蓋を全部開けたら、何が見えるのか。米粒の下に、何か沈んでいるのではないか。そんな想像が、指先の力を奪う。

結局、私は蓋を元の位置へそっと押し戻した。押し戻すとき、蓋の下から、ひと粒だけ米がこぼれた。畳ほどでもない小さな音が、静かな台所に妙に大きく響いた。

その米粒を、私は拾わなかった。拾えば、そこに触れたことになる。触れれば、何かがまたこちら側へ寄ってくる気がした。

夕方、祖母は縁側で夕立の匂いを嗅いでいた。空はまだ晴れているのに、祖母の鼻は違うものを捉えているようだった。

「今日、米びつが動いた」

私が言うと、祖母はゆっくりと顔をこちらへ向けた。

「音がしたのか」

「うん。かき分けるような音。蓋が浮いてた」

祖母は少しの間、黙っていた。それから、前掛けの端を握る手に、いつもより力が入るのが見えた。

「志乃は、米びつの蓋を閉めるとき、必ず両手を使った。片手で押さえて、もう片手で滑らせる。急いでいるときでも、その手順は変えなかった」

「知ってる。何度も見てきたから」

「今の蓋の浮き方は、その手順で閉められたものか」

私は考えた。今朝見た草履の位置、米びつの音、蓋の浮き。どれも、母の癖に似ているのに、どこか一手順だけ足りない。丁寧なのに、丁寧さの中身が違う。まるで、母の動きを見た誰かが、後から真似ているような。

「分からない。似てるけど、何かが足りない」

「足りないと感じるなら、それを信じろ」

祖母は数珠を握った手を、膝の上に置いた。

「似ているものを、似ているからと言って同じに扱うな。お前がそれをやると、家の中に、二つの志乃ができる」

「二つの志乃なんて、そんなの」

「あり得ないと思うか」

私は答えられなかった。ここ数日で、あり得ないと思っていたものが、次々とこの家の中で起きている。草履が動き、足跡が増え、声が私を呼んだ。あり得ないという言葉は、もう私を守ってくれる壁ではなくなっていた。

「おばあちゃんは、母さんが今、どこにいると思ってるの」

祖母は縁側の外、山の稜線が夕焼けに沈んでいく方を見た。

「家の中と外の、どちらでもない場所だ」

「そんな場所があるの」

「盆のあいだだけ、開く場所がある。迎え火で開いて、送り火で閉じる。今年は、閉じる前に、志乃がそこへ足を踏み入れた」

「どうして分かるの」

「草履の向きだ。あれは、外へ出ようとして出られなかった者の向きだ。外へ向いていたのが、いつの間にか内へ向いた。踏み入れた者が、戻る道を見失って、家の匂いを頼りに戻ってきている」

祖母の言葉は、ひとつひとつが重く、私の胸の中で嫌な形に沈んでいった。母が戻ってきているのなら、それは救いのはずだ。なのに祖母の口調には、安堵の色がまるでなかった。

「戻ってきてるなら、良かったってことでしょう」

「戻る道の途中で、何かと肩を並べて歩いていたら、良かったとは言えん」

私はその「何か」という言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。何かと肩を並べて歩く母。私にはその姿が、うまく想像できなかった。想像できないことが、余計に恐ろしかった。

夕食の支度は、私がした。母がいつもしていたように、竈に火を入れ、米を炊き、味噌汁を作る。手順は覚えている。だが、味は違う。火加減も、塩の量も、母のものには到底届かない。それでも、私は毎晩それを作った。作ることで、母が座るはずの席を、空けたままにしないでいられた。

夕食のあと、祖母は珍しく、自分から茶を淹れた。湯呑みは三つ。私の分、祖母の分、そして――縁の欠けたあの湯呑みに、祖母は迷いなく茶を注いだ。

「おばあちゃん、それ」

「志乃の分だ」

「戻ってきたときのため?」

「そうだ」

「触っちゃいけないって言ったのに」

「これは触るんじゃない。置くんだ」

その違いを、私はすぐには理解できなかった。だが祖母の手つきを見ていると、何か分かる気がした。祖母は湯呑みを丁寧に、けれど少しの未練も見せずに、母のいつもの場所へ置いた。置いたあと、手を引くまでの動きに、迷いがなかった。

私が草履を揃え直したいと思うときの手つきとは、まるで違っていた。私は物を留めようとして触れる。祖母は物を送るために置く。同じ仕草でも、その奥にあるものが逆を向いていた。

夜になり、私は台所で洗い物をしていた。水は井戸から汲んだばかりで、まだ昼の熱をわずかに残している。茶碗を洗う手を止めたとき、戸の向こうで、また米をかき分けるような音がした。

今度は、はっきりと聞こえた。

ざり。

ざり、ざり。

私は洗い物の手を止め、戸口を見た。灯りは一つだけで、その光の輪の外は、昼間よりも深く暗い。私は動かなかった。祖母の言葉を思い出す。似ているものを、似ているからと言って同じに扱うな。

私はその場に立ったまま、米びつの方を見なかった。見なければ、こちら側へ来ないという保証はどこにもない。それでも、私は見なかった。見ないことだけが、今の私にできる、ぎりぎりの抵抗だった。

音はしばらく続き、やがて途切れた。米びつの蓋が、また指一本ぶんだけ浮いているだろうことは、確かめずとも分かった。

私は湯呑みを洗い終えると、母の分の湯呑みを、祖母が置いた場所からそっと確かめた。茶は半分ほど減っていた。

零れた形跡はない。飲んだのでもなければ、こぼれたのでもない。ただ、静かに、少しだけ減っていた。

その減り方が、母が小さく口をつけて、また置いたときの量に、あまりにも似ていた。

私は湯呑みに触れなかった。触れれば、置いた祖母の手つきを、私の手つきで壊してしまう気がした。ただ、その半分の茶の水面を、長いあいだ見つめていた。水面は動かない。動かないのに、そこに映る灯りの影だけが、ゆっくりと、誰かの睫毛のように震えているように見えた。

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米びつの音 - 湿草履 - 誰でも作家life