第3話 夜の軋み

その夜、私は眠れなかった。
布団へ入って目を閉じても、玄関の土間に残った濡れた足跡が浮かんだ。台所から私の足元へ伸びてきた、細い水の跡。塩を落とされても消えず、板の目の上で小さく震えていた。
あれが母のものなら、どうして私のところへ来たのだろう。
母なら、声をかける。戸を開ける。私の肩を叩く。眠っていても、布団の端を少し持ち上げて、「風邪をひくよ」と言う。
黙ったまま近づいてくることはない。
私はそう考えた。何度も考えた。考えているあいだだけは、母がまだどこかにいるという可能性を手放さずに済んだ。
隣の部屋から、祖母の寝返りを打つ音がした。畳がかすかに沈む。すぐに静かになった。
家の中には、私と祖母しかいない。
そう思った直後、台所で米びつの蓋が閉まる音がした。
ぱたん、と短い音だった。
母が米びつを閉めるときの音に似ていた。力を入れすぎず、けれど最後のところだけ手首を返す。その癖まで同じだった。子どものころ、私はその音を聞いて朝を知った。布団の中で目を覚ますと、台所から米びつの蓋が閉まる音がして、続いて水道ではなく井戸水の流れる音がする。母はいつも、家族の誰より先に起きていた。
私は起き上がった。
廊下へ出ると、汗で夏着が背中に張りついた。夜の家は昼間より広く、廊下の先がひどく遠い。足音を立てないように歩く。古い板は、踏む場所を選べば鳴らない。母に教えられた歩き方だった。
台所の戸口まで来た。
火の消えた竈が、黒い口を開けている。流しには洗われていない茶碗が三つ並んでいた。母の茶碗だけが、ほかの二つより少し内側を向いている。私は無意識に手を伸ばし、三つとも同じ角度へ直そうとした。
指先が茶碗に触れる寸前、奥で風鈴が揺れた。
風はなかった。
縁側の戸は閉まっている。それなのに、風鈴は一度、短く鳴り、二度目は音になりきれずに止まった。硝子の中で舌だけが揺れ、かすかな金属音が残る。
私は手を引いた。
米びつの蓋は閉まっていた。けれど、留め金のあたりに水が一滴ついている。月明かりを受けて、黒い粒のように光っていた。
私はそれを布巾で拭いた。
布巾は母が使っていたものだった。藍の糸がところどころほつれ、端に小さな結び目がある。母は布巾を用途ごとに分けていた。食器を拭くもの、台を拭くもの、床を拭くもの。同じ布を使うと、何も言わずに取り替える。
私はその布巾を鼻へ近づけた。
井戸水と米と、乾ききらない手の匂いがした。
母の匂いだと思った。
その思いが胸へ入った途端、台所の暗がりから、布を絞るような音がした。
ぎゅ、と水を押し出す音。
私は振り返った。
誰もいない。
ただ、流しの脇に置いたはずの木のしゃもじが、釜の横へ戻っていた。母がいつも置く場所だった。柄の先は右を向き、濡れた部分だけが薄く光っている。
私はしゃもじを見つめた。
「お母さん?」
声にした途端、喉の奥が冷たくなった。
返事はなかった。
代わりに、玄関の方から、何かを引きずる音が聞こえた。
ぺたり。
私は耳を澄ませた。
ぺたり。
濡れた布か、裸足か、それとも草履の裏か。床に重さを置くたび、湿り気が木へ移っていくような音だった。
祖母を起こそうと思った。けれど、足が玄関の方へ向いた。
母の草履を確かめなければならない。
そうしなければ、何かが起きたことを見逃してしまう。見逃したまま朝になれば、母を探す手がかりが一つ消える。そんな気がした。
私は廊下を戻った。
玄関の引き戸は、昼間と同じように閉まっていた。隙間から外の闇が細く見える。土間には、昼に見たものとは違う冷気が溜まっていた。湿った土の匂いに、藍染の布を煮たような青臭さが混じっている。
草履は、朝より奥へ寄っていた。
上がり框の脇ではなく、土間の中央へ近づいている。二足とも、台所へ続く土間の線に沿っていた。鼻先も同じ向きだ。揃っている。母が揃えたときと同じように、左右の間隔まで整っている。
それなのに、片方だけが土へ深く沈んでいた。
鼻緒の影も、片方だけ濃い。
私は上がり框に手を置いた。木は夜の水気を吸って、皮膚にぬるく張りついた。指先で木目をなぞる。ささくれの場所まで覚えている。母はここに座って、濡れた草履の底を布で拭いていた。私が幼いころ、草履を乱雑に脱ぐと、母は笑いながら私の足首をつかんだ。
「履き物にも、帰る向きがあるの」
母はそう言って、私の小さな靴を揃えた。
「帰る向き?」
「外へ出るときは外へ。家へ上がるときは、家の方へ。向きが分からなくなると、帰ってきても帰れないから」
そのときの母の指が、今も草履の鼻緒に残っている気がした。
私は手を伸ばした。
触れてはいけないと祖母に言われている。けれど、今の草履が母のものなら、触れれば分かるかもしれない。鼻緒の擦れ、足の形に沿った柔らかさ、母の体温の記憶。
指先が鼻緒に触れる寸前、土間の隅に濡れた足跡が見えた。
一つ増えていた。
朝にはなかった。昼に掃いたときにもなかった。玄関の外から入ってきた形ではない。土間の中央に突然置かれたように、足の裏だけが残っている。
爪先は家の奥を向いていた。
足指の開き方が、母のものに似ていた。母は歩くとき、右足の指だけ少し開く。昔、足袋を繕いながら本人がそう言っていた。疲れると右足へ体重をかけるから、指が開くのだと。
けれど、この足跡には踵がなかった。
踵の部分だけ、湿りが途切れている。
私は息を止めた。
台所の板の間が、きし、と鳴った。
音は奥から来たのではなかった。板の一枚が、歩幅の途中だけ押されたように鳴った。誰かが廊下を歩いているのに、足を置いた場所ではなく、置く前の空間が沈んでいる。
私は振り向けなかった。
背中側の空気が重くなった。濡れた髪が首筋に張りつくような冷たさが、肩からゆっくり下がってくる。母の布巾に顔を近づけたときの匂いが、背後からした。
米を炊いた匂い。
井戸水の匂い。
夏着の袖を絞ったときに立つ、薄い藍の匂い。
そして、誰かが髪を耳へかける音。
私は目を閉じた。
母がそこにいるなら、振り返ればいい。
手を伸ばせばいい。
けれど、母なら私の名前を呼ぶ。いつものように、最初に息を吸う。紬、と呼んでから、少しだけ間を置く。その間に、私が顔を上げるのを待つ。
背後の気配は、何も言わなかった。
ただ、濡れた足が一歩、近づいた。
ぺたり。
私は手の甲を親指でこすった。皮膚が熱を持ち、そこだけ現実に触れているようだった。
「お母さんなら、呼んで」
声は小さく、玄関の板に吸われた。
返事はなかった。
代わりに、草履が動いた。
視界の端で、藍色の鼻緒がわずかに滑る。二足とも、まるで見えない足に履かれたように、台所の方へ向きを変えた。土の上を引きずった跡が、濡れた線になって伸びていく。
私は振り向かなかった。
振り向けば、母の顔をしたものがいるかもしれない。母の顔をしていないものがいるかもしれない。そのどちらも、今の私には受け止められなかった。
廊下の奥で、祖母の戸が開いた。
「紬」
祖母の声だった。
私は返事をしなかった。背後の気配が、祖母の声を聞いた瞬間に薄くなったからだ。
その違いを、私は見逃さなかった。
祖母が玄関まで来る。裸足の足が土間へ降りる前に止まった。祖母はすぐには私へ触れず、まず草履と足跡を見た。
「何を聞いた」
「米びつの音」
「ほかは」
「しゃもじが動いた。風鈴も」
「足跡は」
「一つ増えた」
「どこから来た」
私は背後を見ないまま答えた。
「分からない。外からじゃない。家の奥からでもない。途中から置かれてる」
祖母はしばらく黙っていた。
「今、何かいたか」
「いたと思う」
「見たか」
「見てない」
「見なかったのか、見えなかったのか」
「見なかった」
祖母は私の横へ並んだ。前掛けの端を握る音がした。祖母の指も震えている。ほんのわずかだったが、布が擦れる音で分かった。
「振り向かなかったのは、母さんだと思ったからか」
「母さんではないと思ったから」
「どちらだ」
「分からない。でも、母さんなら呼ぶ」
祖母の沈黙が長く続いた。
玄関の外で、虫が一匹鳴いた。すぐに別の虫が重なり、声が細く途切れる。風鈴はもう揺れていない。
「紬」
祖母は私の袖口をつまんだ。汗で張りついた布を、母と同じように外へ引いた。けれど、その手は母よりずっと強かった。
「ここから先は、家の中だけの話じゃない」
「久代さんを呼ぶの」
「ああ」
「今すぐ?」
「夜に呼ぶ。あの人は夜の足跡を見分ける」
「それで母さんが分かる?」
「母親かどうかは、顔では分からん。草履の沈み方と、足跡の戻り方で見る」
「母さんが戻れないなら、戻す方法はある?」
「あるかもしれん」
「かもしれない、ばかりだね」
「確かなことを言えば、確かなものだけが寄ってくる。分からないものに確かな言葉を渡すな」
私は草履を見た。
二足はまだ、台所の方を向いている。片方の底が土へ沈み、濡れた跡がその先へ伸びていた。草履は玄関にあるのに、母の居場所だけが家の奥へ移されていく。
「おばあちゃん」
「なんだ」
「母さんを探しに行ってもいい?」
「今は駄目だ」
「どうして」
「探すと言って、呼ばれに行く顔をしている」
「呼ばれているなら、返事をしないと」
「返事をしたから、志乃は戻れなくなったかもしれん」
その言葉が、土間の冷たさより深く足元へ入った。
「母さんは、返事をしたの?」
「昔から、返事だけはする子だった」
「呼ばれたら、誰にでも?」
「困っている声ならな。人でも、そうでないものでも」
「そんなの、母さんが悪いみたい」
「悪いとは言っていない。優しさには、戸口がないことがある。戸口がなければ、家の中と外が同じになる」
祖母は塩壺を取り、私の足元へ少しだけ撒いた。白い粒が濡れた足跡の手前で止まる。足跡は消えなかったが、その先へ伸びていた湿りが、薄く途切れた。
背後の空気が揺れた。
母の匂いが、遠ざかる。
私は反射的に一歩踏み出しかけた。
祖母の手が、私の肩をつかんだ。
「行くな」
「母さんが離れる」
「離れるなら、今は離れさせろ」
「でも、母さんかもしれない」
「母さんなら、朝まで残る。母さんでないなら、朝までにもっと近づく」
祖母は土間から目を離さなかった。
「見分けるために、久代を呼ぶ。お前は草履を動かすな。足跡も拭くな。何も元へ戻すな」
「元へ戻さないと、母さんが帰れない」
「帰れないものを、帰った形に整えるな」
その言葉の意味は、まだ私の中でうまく形にならなかった。
私はずっと、物を元へ戻してきた。母の湯呑み、しゃもじ、布巾、草履。そこにあるべき場所へ戻せば、いなくなったものも戻ってくると思っていた。
けれど今、草履は揃っている。
揃っているのに、母はいない。
私は足跡から目を離せなかった。
台所の戸口まで伸びた濡れ跡の先で、板がもう一度、きし、と鳴った。
今度は、はっきり歩幅だった。
一歩。
そして、もう一歩。
暗がりから誰かがこちらへ来ている。
私は振り返らず、母の名前を口の中で繰り返した。
志乃。
志乃。
呼ばないために、呼んだ。
その名を自分の中だけに留めるように、唇を閉じた。
背後で、母の声に似た息がした。
けれど、母がいつも私の名を呼ぶ前に置く、あの短い吸気だけがなかった。
私は初めて、母がいないことではなく、母のいない場所へ別のものが入り込んでいることを認めた。
玄関の草履は、家の奥を向いたままだった。
その鼻緒の影だけが、まだ生き物のように、ゆっくりと濃くなっていた。
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