第2話 神棚の引き出し

祖母の手が、私の肩を押さえていた。
玄関の土間に並んだ母の草履は、いつの間にか台所の方を向いていた。さっきまで座敷へ向いていたはずなのに、二足とも、鼻先を同じ角度に揃えている。誰かが手で動かしたのなら、もっと雑なずれ方になる。母はいつも、つま先の向きを揃えるとき、左右の間隔まで決めていた。
それなのに今は、揃えられたまま、家の奥を指していた。
「見るなと言ったろう」
祖母の声が、耳のすぐそばでした。
「見たんじゃない。見えたの」
「同じことだ」
祖母は私の肩から手を離すと、引き出しの中身を一つずつ机へ移した。白い紙に包まれた札。赤黒く変色した糸。薄い木片。最後に、何度も折り直された家族名簿。
玄関の方から、また濡れたものを引きずる音がした。
ぺたり。
今度は、さっきより近かった。
私は振り返りそうになった。祖母はそれを見越したように、机の端を強く叩いた。
「札を見る」
「でも、草履が」
「見る場所を間違えるな。あれを見続けると、あれの方へ目が行く。目が行けば、足も行く」
「お母さんがいるかもしれないのに?」
「だからだ」
祖母は白い紙を開いた。紙は乾いているのに、指へ吸いつくような感触があった。端には細い筆で、幾つかの言葉が書かれている。墨はところどころ滲み、古い水の跡のように広がっていた。
私は身を寄せた。
最初の行には、迎え火。
次に、家の名。
それから、戻るものの名。
最後に、送り火。
ただし、順番を変えるな、と書かれていた。
「これ、盆送りの札でしょう」
「そうだ」
「だったら、もう終わったじゃない。昨日、村でも火を焚いたでしょう。夕方、みんなで川原に集まって、迎え火の薪を片づけていた。お母さんも見ていた」
「村の火と、この家の火は同じじゃない」
「どうして言わなかったの」
「言って、何が変わる」
「少なくとも、お母さんを一人で帰らせなかった」
祖母は札を押さえていた指を止めた。顔を上げなかった。神棚の下の暗がりに、祖母の白髪だけが浮いている。
「志乃は一人で帰ってきたんじゃない」
その言い方が、胸の奥に冷たく入った。
「何を連れてきたの」
「まだ決めるな」
「おばあちゃんは知ってるんでしょう。母さんが昨日、何を見たのか。何を聞いたのか。どうして『少し長くいる』なんて言ったのか。母さんは、いつも帰る時間を決めている。仕事があるから、電車が混むから、次の日には戻らなきゃいけないからって。なのに、昨日だけは、長くいるって言った。あれは母さんの気持ちだったの? それとも、誰かに言わされたの?」
言葉が続いた。口に出してしまうと、止める場所が分からなかった。
「母さんは、帰ってきたときから変だった。台所を拭く手が、いつもよりゆっくりだった。湯呑みを並べるときも、誰かの分を数えているみたいだった。私が声をかけたら、返事をするまで一拍あった。母さんはそんなふうに間を置かない。聞こえたら、すぐ返す人だから。なのに私は、疲れているだけだと思った。盆だから、家のことをいろいろ思い出しているだけだって。そう思っていた方がよかったから」
声が震えた。
「でも、今は草履が動いてる。濡れた跡が家の奥へ伸びてる。米びつの音もした。母さんの声に似た音も聞こえた。似ているだけで、母さんじゃないかもしれない。それでも、母さんがそこにいるなら、私は探さなきゃいけない」
祖母はようやく顔を上げた。
「探した先で、母親の形をしたものに抱きつけるか」
「母さんなら」
「母親の声で呼ばれても?」
「母さんなら」
「母親の手つきで、あんたの髪を払っても?」
私は答えられなかった。
祖母は札を畳み、赤黒い糸を指先で撫でた。糸は何度も結び直された跡があり、ところどころ毛羽立っている。その手つきは乱暴ではなかった。古い傷口を確かめるように、慎重だった。
「前にもあったの?」
私が訊くと、祖母は糸を机の上へ戻した。
「昔の話だ」
「昔の話なら、どうして今も札を隠していたの」
「使うことがあるからだ」
「誰に使ったの」
「家の者に」
「お母さんに?」
「志乃だけじゃない」
祖母は家族名簿を開いた。紙が擦れる音に合わせて、玄関の方から木の軋みが返ってくる。まるで誰かがこちらの話を聞きながら、廊下の向こうで身体の重さを移しているようだった。
名簿には、知らない名前がいくつも並んでいた。私が生まれる前に亡くなった人。村を出たまま戻らなかった人。名前の横に小さな印がついている者もいる。墨が濃いものもあれば、名前だけが薄く残っているものもあった。
志乃の名は、今の頁の下から三番目にあった。
その横に、薄い押し跡がある。
書かれてはいない。けれど、何かを書きかけて消したような跡だった。
「この横の跡は何?」
「見えないものを、無理に読もうとするな」
「読めないから聞いてる」
「帰ってきた者の名前を、家の者として書く。帰る前に呼び戻してはいけない。残っている者を、残っていると決めつけてもいけない。名は、呼ぶためだけのものじゃない。区切るためにも使う」
「区切るって、母さんを家族から外すの?」
「逆だ」
祖母の声が、初めてわずかに揺れた。
「家族として送り出すために、家族の名で区切る。名も呼ばずに追えば、何が帰って何が残ったか分からなくなる。そうなれば、家の中にいるものを全部、家族だと思うようになる」
台所の戸の向こうで、水が一滴落ちた。
私はそちらを見た。戸は閉まっている。だが、隙間から流しの水気がこちらへ滲んでいるように見えた。板の目に沿って細い濡れ跡が伸び、途中で二つに分かれている。
一つは玄関へ。
もう一つは、私の足元へ。
「おばあちゃん」
「動くな」
「水が」
「見るなと言った」
「でも、私のところへ来てる」
祖母はすぐに立ち上がった。塩の入った小さな壺を棚から出し、私の足元へ放った。壺は板の上を滑り、濡れ跡の手前で止まった。祖母は蓋を開け、ひとつまみの塩を水の上へ落とす。
白い粒が水気に触れた。
じゅ、と音がした。
水は消えなかった。代わりに、濡れ跡の先がわずかに震えた。
台所の奥で、母の声がした。
「紬、そこにいるの?」
低く、柔らかな声だった。
私は反射的に返事をしかけた。
けれど、祖母が私の口を手で塞いだ。
指先に、塩と古い布の匂いがした。
声はもう一度、私を呼んだ。
「紬。お茶、冷めるよ」
母がいつも使う言い方だった。忙しい朝、私が支度を嫌がっていると、母は叱らずにそう言った。お茶が冷めるよ、と。飲めとは言わない。ただ、そこに置いてあるから、早くおいで、と。
胸の奥に、懐かしさが入り込んできた。
私は母の声に向かって、手を伸ばしかけた。
祖母の手が、さらに強く口元を押さえた。
「返事をするな」
声の主は、戸の向こうで小さく笑った。
「紬。おばあちゃん、そこにいるの?」
母は祖母を呼ぶとき、そんな言い方はしない。いつも「母さん」と呼ぶ。ほんのわずかな違いだった。けれど私は、それを知っていた。
私は祖母の手を外そうとした。母がいるなら、確かめたかった。返事をすれば、本当に母かどうか分かるかもしれない。声を聞き、顔を見て、手を取れば、間違いようがない。
そう思った。
同時に、そう思わせようとしているものがいる気もした。
「お母さんなら、私の名前をあんなふうに呼ばない」
口を塞がれたまま、私は言った。
祖母の目が、ほんの少し細くなった。
「分かったか」
「母さんは、私を呼ぶとき、最初に一度息を吸う。紬、って言う前に。今の声には、それがなかった」
「それだけで決めるな」
「でも、母さんじゃない違いは、他にもある」
台所の戸の向こうから、何かが床を撫でる音がした。布巾を絞るときのような、湿った擦れ方だった。
「母さんは、お茶が冷めるとは言わない。冷める前に自分で淹れ直す。私が来ないなら、湯呑みを流しへ戻す。置いたまま呼び続けたりしない」
声は返ってこなかった。
祖母が私の口から手を離した。
「よく見ていたな」
「見ていたんじゃない。母さんのそばにいたから分かる」
「そばにいたからこそ、間違えることもある」
「間違えても探す」
「それが一番危ない」
祖母は名簿を閉じた。紙の隙間から、薄い埃が立ち上がった。埃はすぐに消えたが、乾いた匂いが鼻の奥に残った。
「志乃は、盆に帰ってきた。だが、帰る前に家の奥へ呼ばれた。あの子は、呼ばれたら返事をする。昔からそういうところがある。誰かが困っていると思えば、自分の用事を後にする。家の中の戸が半分開いていれば閉める。濡れた布が落ちていれば拾う。草履が斜めなら直す。そうやって、人の暮らしの隙間へ入っていく」
祖母はそこで言葉を切った。
「人の暮らしの隙間には、生きている者だけがいるわけじゃない」
「母さんは、呼ばれたから行ったの?」
「行ったのか、行かされたのかは、まだ分からん」
「助けられる?」
祖母はすぐには答えなかった。
その沈黙が、返事よりはっきりしていた。
「戻す手順はある」
「なら、やって」
「今すぐにはできない」
「どうして」
「送り返す相手を見分けなければならないからだ。志乃だけを呼び戻そうとして、重なったものまで抱えれば、家の中に二つの気配が残る。二つが一つの名で呼ばれれば、次に分けることはできなくなる」
「母さんを見捨てるの?」
「見捨てるのは、手順を飛ばして抱きつくことだ」
「そんなの、母さんを助ける言い方じゃない」
「助けるというのは、手元へ置くことじゃない」
祖母は札を私の前へ差し出した。白い紙の上に、細い文字が並んでいる。私は読めるところだけを拾った。
名を呼ぶ。
戸を開ける。
火を送る。
残ったものを、残った場所へ戻す。
「母さんを家から出すの?」
「帰す」
「ここが母さんの家なのに」
「志乃には、志乃の暮らしが別にある。盆に帰ることと、ここへ留まることは違う」
「でも、母さんは戻りたいって言った。少し長くいるって」
「それが本人の言葉ならな」
胸の奥で、何かが折れたような気がした。
私は玄関へ続く暗い廊下を見た。そこに母が立っている気がした。白い夏着の袖。濡れた手を拭く仕草。こちらを振り返る前に、髪を耳へかける癖。
母なら、私を見つけたら手を伸ばす。
私も、その手を取る。
それだけでいいと思っていた。
けれど今、母の形をしたものが、母の手つきで私を呼んでいる。
私は札を受け取った。紙は軽かった。軽いのに、指へ乗せた瞬間、玄関に残された草履の重さまで伝わってくるようだった。
「私が読む」
祖母が顔を上げた。
「まだ早い」
「母さんの名前を、私が呼ぶ」
「呼べば、こちらへ寄ってくる」
「寄ってきたものが母さんなら、受け止める」
「母さんでなかったら?」
私は札の端を握った。紙が汗で少し湿った。
「そのときは、違う名前を呼ぶ」
祖母は長く私を見た。それから、乱れた私の袖口をつまみ、汗で肌に張りついた布を外側へ引いた。母が朝にするのと同じ仕草だった。
「似ているな」
「誰に」
「母親に」
「嫌だよ」
自分でも驚くほど、声が幼くなった。
「母さんみたいになったら、母さんが帰れなくなる気がする」
祖母の指が止まった。
「だから、何でも整えるのか」
返事ができなかった。
玄関の草履。台所の湯呑み。流しに掛けられた布巾。母が帰る場所を崩さないように、私はずっと手を動かしていた。物を元へ戻せば、母も元へ戻ると思っていた。
祖母は札を包み直した。
「家を整えることは、待つことじゃない」
「じゃあ、何」
「帰る者が帰れるように、余計なものを置かないことだ」
そのとき、玄関から三度目の音がした。
ぺたり。
ぺたり。
ぺたり。
今度は草履が、台所の戸口まで来ていた。
私は見なかった。見ないようにした。それでも、濡れた鼻緒が板を擦る音と、湿った藍の匂いが、背中のすぐ後ろまで近づいてくる。
耳元で、母の声に似た気配が囁いた。
「紬。おいで。ここにいるから」
私は札を胸に押し当てた。
母の声なら、最後に必ず、私の手を探す。
あの人は、誰かを呼ぶだけでは終わらない。呼んだ相手が立ち上がるまで、手を伸ばして待つ人だった。
背後の気配は、手を伸ばさなかった。
ただ、濡れたものを引きずりながら、私のいる方へ近づいてきた。
私は初めて、母の不在を疑ったのではない。
母の不在を利用しているものを、はっきりと疑った。
祖母が神棚の引き出しを閉じ、鍵をかけた。
乾いた金属音が、家の中に落ちる。
「今夜、久代甚蔵を呼ぶ」
「古老を?」
「草履と足跡を見せる。あの人間は、顔より先に足元を見る」
「それで、母さんが分かるの」
「分かるかもしれん」
「分からないかもしれない?」
「分からないものを、分からないまま扱わないために呼ぶ」
祖母は玄関へ向かった。私はその背中を追おうとしたが、札を持つ手が震えていることに気づき、足を止めた。
土間には、濡れた足跡が一つだけ残っていた。
台所から、私の方へ向かっている。
その足跡は、母のものに似ていた。
けれど母なら、歩き出す前に必ず、草履の向きを揃える。
私は足跡を見つめたまま、札の上に重なった自分の汗を、親指で拭った。紙の繊維が指先に絡む。
草履はまだ、玄関にあった。
母が帰ってきた証拠なのか。
母が帰れなくなった証拠なのか。
そのどちらでもないものが、母の場所を借りている証拠なのか。
私は答えを急がなかった。
急げば、呼び間違える。
呼び間違えれば、戻ってこられない。
神棚の引き出しの中で、古い家族名簿が微かに鳴った。紙と紙が擦れただけの音だった。それでも私は、そこに書かれた名前の数を、初めて自分のこととして数え始めた。
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