第1話 草履の置き場

盆が明けた翌朝、私は目を覚ますより先に、家の湿り気を感じた。
枕元の空気が重かった。肌にまとわりつく暑さとは違う。濡れた布を広げたときのような、冷たく薄い水気が、畳の下からゆっくり上がってきている。蝉の声は遠く、縁側の風鈴は鳴らなかった。
私は布団を出て、廊下を歩いた。
足音を立てないようにするのは、もう癖になっていた。母が眠っているとき、廊下の板を踏むと、古い家はすぐに軋む。母はその音で目を覚まし、「紬、朝はまだだよ」と、少し笑った声を出す。そういう朝が、何度もあった。
玄関の引き戸に手をかけたところで、一度、息を止めた。
戸を開けると、土間の冷気が足首にまとわりついた。昨夜までとは違う冷たさだった。夏の朝の土間は、いつもひんやりしている。それでも今朝は、足裏に触れた土がわずかに粘ついた。濡れているわけではないのに、皮膚から離れるのを嫌がるような感触があった。
私は土間に降りた。
上がり框の脇に、母の草履があった。
二足とも、きちんと揃えられている。鼻緒は藍色で、何年も使われているのに擦り切れていない。母は草履を脱ぐと、必ずつま先の角度を揃えた。片方がほんの少し斜めになっているだけでも、上がる前にしゃがみ込んで直す人だった。
その草履の鼻緒が、夜の湿気を吸って濃くなっていた。
濡れた布のようだった。
私は草履の前に立ち、しばらく動けなかった。
昨夜、母は台所にいた。米びつの蓋を閉め、しゃもじを洗い、使った布巾を流しの端に掛けた。それから縁側へ出て、風鈴が止まるのを見ていた。
「少し長くいるから」
母はそう言った。
誰に向けた言葉だったのか、分からない。祖母に言ったのか、私に言ったのか、それとも自分に言い聞かせたのか。ただ、母がそう言ったあと、風鈴の音が一度だけ鳴り、すぐに止まった。
母はそのまま、家の奥へ歩いていった。
私は背中を見送った。白い夏着の裾が廊下の暗がりへ消えるまで見ていた。いつもなら、しばらくすると台所から水の音がする。母が湯呑みを洗い、戸棚を閉め、最後に玄関を掃く音がする。
けれど、昨夜は何も聞こえなかった。
今朝になっても、母は戻っていない。
裏口へ行けばいるかもしれない。井戸端で手を冷やしているかもしれない。近所の誰かに呼ばれて、畑へ出ているのかもしれない。
私はそう考えながら、玄関脇に立てかけてあった箒を取った。
土間を掃く。
箒の先が、乾いた土の粒を木の目へ押し込んでいく。ざり、ざり、と小さな音がする。その音を聞いていると、家が少しずついつもの形へ戻るような気がした。
母が帰ってきたとき、玄関が汚れていたら嫌がる。上がり框に埃があれば、無言で布巾を濡らして拭く。私は井戸端へ行き、桶の水で布巾を濡らした。水は冷たく、指の節に食い込むようだった。絞った布を上がり框に当てると、木の表面から古い匂いが立ち上った。
母の匂いがした。
藍染の手拭いと、炊いた米と、夏の汗が混じったような匂いだった。
私は布巾を鼻へ近づけた。すぐに離した。確かめるほど、母がここにいないことがはっきりする気がした。
台所へ行き、湯呑みを三つ出した。祖母の分、私の分、それから母の分。
母の湯呑みは、縁が少し欠けている。何度言っても母は捨てなかった。
「手に馴染んだものは、欠けても使えるから」
そう言って、欠けた部分を指でなぞりながら笑っていた。
私はその湯呑みに井戸水を注いだ。母が戻ったとき、喉が渇いているかもしれない。水を飲めば、いつもの声が戻るかもしれない。
そんなことを考えていた。
玄関へ戻ると、草履の向きが変わっていた。
さっきまで、上がり框と平行だったはずの鼻先が、わずかに座敷の方を向いている。
ほんの少しだった。数センチにも満たない。けれど私は、物の位置を覚えている。朝、戸を開けたときに見た草履の角度を、私は間違えない。
私は一度、目を閉じた。
開けても、草履は同じ向きだった。
風が入ったのだと思った。戸を開けたままにしていたから、空気が動いたのだろう。鼻緒が床に引っかかって、自然に向きがずれたのかもしれない。
私は土間に膝をついた。
上がり框の木目を指先でなぞる。ささくれが皮膚に触れた。草履に手を伸ばす。
「紬」
背中から声がした。
祖母のサトだった。
私は振り返らなかった。手は草履の鼻緒から数寸のところで止まっていた。
「おばあちゃん。お母さん、まだ戻ってない」
「見れば分かる」
サトは私の後ろまで来た。裸足の足が土間へ降りる音がしなかった。祖母は玄関に立つとき、いつも上がり框の手前で一度止まる。今朝もそうだった。
「裏にもいない。井戸にもいない。近所の人に聞いても、誰も見てないって」
「そのうち戻る」
「でも、草履が」
「触るな」
声は大きくなかった。それでも、腕を掴まれたように手が止まった。
私はようやく振り返った。祖母の顔はいつもと変わらない。口元は固く、白髪は後ろで一つに結ばれている。けれど、右手だけが前掛けの端を強く握っていた。
「草履を揃えるだけだよ。お母さんが帰ってきたとき、こんな向きじゃ嫌がるから」
「帰ってきた者の草履ならな」
「お母さんの草履だよ」
「それを決めるのは、まだ早い」
祖母は土間を見た。草履ではなく、その周りの床を見ていた。
私はその視線の先を追った。土間には、濡れているような暗い部分があった。水をこぼした覚えはない。朝、私が掃いたときにはなかったはずだ。
「何が違うの」
声が掠れた。
「何も違わない。だから触るなと言っている」
「分からないよ。お母さんがいないのに、何も違わないわけない」
「いないと決めたのか」
「だって、戻ってこないから」
「戻ってこない者と、戻れない者は違う。戻れない者と、戻る途中で別のものを連れてきた者も違う」
祖母の言葉は、玄関の湿気より冷たかった。
私は立ち上がった。膝に土がついていた。手の甲を親指でこする。母がいないと決められたくなかった。けれど、母がいるとも言い切れなかった。
「何を言ってるの」
「言葉で分かる話じゃない」
祖母はそう言うと、私の手首を取った。指は細く、力が強かった。子どものころ、盆の夜に玄関へ出ようとした私を引き戻したときと同じ手だった。
「おばあちゃんは、前にもこんなことを見たの」
祖母は答えなかった。
「お母さんに何かあったの。昨夜、何か聞いたんでしょう。風鈴が止まる前に、母さんは何か言ってた。少し長くいるって。あれは何だったの」
「知らない方がいいこともある」
「私はもう見てる。草履も、土間も、母さんがいないことも。知らないふりをしている方が怖い」
祖母の指が、私の手首から離れた。
「怖いから触るのか」
「確かめたいから」
「確かめて、違っていたらどうする」
「違っていても、母さんを探す」
「探して見つけたものが、母さんの形をしていたら」
答えられなかった。
土間の奥で、どこかの木が小さく鳴った。家の中を誰かが歩いたような音ではなかった。歩き出す前に、足を置く場所を探しているような、ためらう音だった。
私は反射的に家の奥を見た。
台所の戸は閉まっている。座敷の障子も閉まっている。なのに、戸と床の隙間から、薄い水の跡が伸びているように見えた。
玄関の草履から、家の奥へ向かって。
瞬きをすると、跡は消えていた。
「今、何か見えた?」
祖母が訊いた。
「……何も」
「そう言うと思った」
祖母は私の横を通り過ぎ、土間へは降りずに台所へ向かった。私はその背中を追った。祖母は神棚の下で足を止めた。普段なら米や乾物をしまっているだけの場所だ。けれど、神棚の板の下には、小さな引き出しがある。前面には細い封の糸が渡され、古びた結び目が残っていた。
祖母は鍵を取り出した。
「それ、何」
「まだ見るだけだ」
「母さんを戻すためのもの?」
「戻す、という言い方をするな」
鍵を差し込む前に、祖母は一度、私の袖口を直した。汗で肌に張りついていた布をつまみ、首筋にかかった髪を払う。母がよくしていた仕草だった。
祖母の手は乱暴だったが、離れるときだけ、少し長く私の肩に残った。
「家には、触る順番がある」
鍵が回る。
引き出しの奥から、乾いた紙の匂いがした。
私は玄関に残された草履を見た。そこに母の足の形が残っている気がした。鼻緒の擦れ、土に沈んだ跡、歩き出す前のわずかな傾き。あれは母が帰ってきた証拠なのか。それとも、母の形を借りた何かが、母を家の奥へ連れていった証拠なのか。
祖母が引き出しを開ききった。
そのとき、玄関の方から、濡れたものを引きずる音がした。
ぺたり、と一度。
続いて、もう一度。
私は振り向こうとした。
祖母の手が、私の肩を強く押さえた。
「見るな」
けれど私は、見てしまった。
土間に並んだ母の草履の鼻先が、今度は座敷ではなく、台所の方を向いていた。二足とも、まるで誰かが履いたまま、家の奥へ歩き出そうとしているように。
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