9話 井戸の底の横顔

名簿の最初の名前へ指を置いたまま、私はしばらく声を出せなかった。

紙の上には、家にいない人の名前が並んでいる。死んだ人。遠くへ出た人。帰る場所を失ったまま、記録の中だけに残った人。志乃の名前も、その列の中で静かに墨を吸っていた。

玄関の土間から、湿った音がした。

ぺたり。

私は顔を上げた。

母の草履は、上がり框の脇にある。けれど、濡れた足跡が一つ、名簿の前まで伸びていた。踵のない足跡だった。足指の形だけが、紙の手前で止まっている。

久代はその跡を見たまま、杖の先をわずかに動かした。

「古井戸へ行く」

「今から?」

「水の向きが変わる前に」

祖母が札を包み直した。

「紬は連れていく」

「危ない」

久代が言った。

「だから連れていく。あの子が見なければ、帰すものも帰せん」

祖母は反論しなかった。代わりに、私の夏着の襟を直した。汗で張りついた布を指で引き、首筋にかかった髪を払う。母がするのと同じ仕草だった。けれど祖母の指は乾いている。母の手なら、井戸水の冷たさか、米を炊いた湯気の熱が残っているはずだった。

私はその違いを覚えた。

「母さんは、古井戸にいるの」

「いるとは言っていない」

久代が杖を取り上げた。

「井戸は、いる場所を映すんじゃない。戻る途中のものを映す」

「それなら、母さんの姿が見えるかもしれない」

「見えるものを、母親だと決めるな」

「分かってる」

「分かっていない顔をしている」

私は反論しなかった。母の姿が見えたら、私はきっと手を伸ばす。声を聞けば、名前を呼ぶ。足元を見るように言われても、顔を確かめてしまう。そうしなければ、母を見失うと思っていた。

けれど、失うまいとする手が、母を縛っているのかもしれなかった。

私たちは家を出た。

玄関の戸を閉める前、私は一度だけ振り返った。土間の暗がりに、母の草履が二足並んでいる。鼻先は、私たちの背中ではなく、家の奥を向いていた。

祖母が戸を閉めた。

木の戸が重く滑り、最後にかちりと音を立てる。その音の内側で、誰かが息をついたような気がした。

外は夕方だった。

盆の飾りを片づけた家々の軒先に、乾いた竹や枯れた花が束ねられている。村の道には人の姿が少なく、畑の脇を流れる水の音だけが長く続いていた。遠くの田では、帰り支度をする農夫が鎌を洗っている。村の暮らしは、母がいなくなったことなど知らない顔で、いつもの夕方へ戻ろうとしていた。

私はそれが腹立たしかった。

母の草履が家の中で向きを変え、声を借りたものが私を呼んでいるのに、誰もが戸を閉め、火を消し、明日の仕事のために眠ろうとしている。

「みんな、母さんのことを知っているの」

歩きながら訊いた。

久代はすぐには答えなかった。田と田の間の細い畦へ足を置き、草履の先で土の硬さを確かめる。湿った草が足首に触れ、露が夏着の裾を濡らした。

「知っている者もいる」

「なのに、誰も探さない」

「探している。見えないところでな」

「それは、探しているって言わない」

「言葉にして探すと、呼ぶことになる。呼べば、寄ってくるものもある」

「母さんも寄ってくるかもしれない」

「影もな」

私は足を止めた。

「久代さんは、母さんを助ける気があるの」

久代も立ち止まった。山の斜面から吹き下ろす風が、草の穂を一斉に倒していく。風が止むと、湿った土の匂いが強くなった。

「助ける、という言葉は便利だ」

「便利?」

「助けると言えば、相手を自分のいる場所へ連れてくることだと思える。だが、戻る者には戻る場所がある。そこへ向けてやることも助けるうちだ」

「母さんを、私のところへ戻してほしい」

「お前のところへ戻ることと、この家に留まることは違う」

「そんなの、母さんに聞かなきゃ分からない」

「だから井戸を見る」

久代は杖の先で、畦の脇を指した。

「水は、口を利かない。だが、向きを隠さない」

細い用水路の石に、何かが引っかかっていた。

久代がしゃがみ込む。水面から拾い上げたのは、銀色の簪だった。銀はくすみ、櫛の歯の間に黒い土が詰まっている。久代はそれを掌の上で裏返し、柄の根元を親指で擦った。

「母さんのじゃない」

私は見ただけで分かった。

志乃は髪をまとめるとき、簪を使わない。髪が邪魔になると、古い布紐でひとつに結ぶ。台所へ立つときは、必ず右肩の後ろへ髪を払ってから、紐を結び直す。簪など、家のどこにもなかった。

「違う」

「持ち主を知っているか」

「知らない。でも、母さんはこういうものを持たない」

久代は簪を水へ戻さなかった。懐から小さな布を出し、包んだ。布には、古い藍色の糸が縫い込まれていた。

「拾わないの」

「持ち主のないものを拾うと、持ち主のないままではいられなくなる」

「誰かのものだったんでしょう」

「そうだ。だが、今は水のものだ。水のものを家へ持ち込めば、家の名を欲しがる」

「母さんのものじゃないものが、どうしてここに流れてくるの」

久代は用水路の流れを見た。

「帰れなかったものが、流れの枝に引っかかる。簪、手拭い、櫛、草履の片方。持ち主の記憶を残した物だ。人の記憶は、水より重い。だから底へ沈む。沈んだものが、井戸を通って家へ戻る」

「母さんは、それを拾ったの」

「拾おうとした」

「どうして」

「志乃は、誰かのものが流れていると、見過ごせない人間だった」

その言葉に、母の姿が浮かんだ。

庭に落ちた洗濯ばさみを拾う。誰かが置き忘れた茶碗を戸棚へ戻す。私が泣いていると、泣く理由を聞く前に濡れた手拭いを持ってくる。母はいつも、困っているものをそのままにしなかった。

それが母の優しさだった。

同時に、母自身を境目の向こうへ押し出した癖でもあった。

古井戸は、地蔵堂よりさらに山側にあった。

獣道を抜けると、木々の間に丸い石の縁が見えた。井戸の周囲だけ草が短く、誰かが定期的に刈っているらしい。だが、地面は黒く湿り、石の根元には泥が薄く溜まっていた。

久代は井戸へ近づく前に、杖で周囲を一周した。土を叩くたび、乾いた音と湿った音が交互に返ってくる。

「この辺り、何かおかしい?」

私が訊くと、久代は杖の先を見た。

「音が一つ多い」

「音?」

「水の音に、足音が混じっている」

耳を澄ます。

最初は、水が石壁を撫でる音しか聞こえなかった。細く、低い音だった。けれど、その奥に、濡れたものを引きずる音がある。

ぺたり。

ぺたり。

井戸の底からだった。

私は石の縁へ手を置いた。冷たさが掌から腕へ上がってくる。石は濡れているのに、表面のざらつきだけが妙に乾いていた。

「見るな」

久代が言った。

「まだ見てない」

「見ようとしている」

「母さんがいるかもしれない」

「だからだ」

久代は井戸の縁に小石を置いた。石は転がらず、濡れた縁に吸いつくように止まった。

「ここを通って、戻るものがいる」

「母さんも?」

「志乃の気配も通った」

「気配じゃなくて、母さん自身は」

「水面が映すものを見てから決めろ」

私は井戸の中を覗いた。

深い闇の底に、水面があった。

最初に映ったのは、私の顔だった。頬に汗が残り、髪が首筋に貼りついている。隣に久代が立っているはずなのに、水面には私しかいなかった。

私は息を止めた。

水面の中の私は、少し遅れて息を止めた。

次に、横顔が浮かんだ。

志乃だった。

白い夏着の襟元。耳へ払った髪。薄い横顔。母が台所で水を確かめるとき、いつも見せていた角度だった。

「お母さん」

私の声に反応するように、水面の志乃がわずかに顔を動かした。

けれど、口元だけが遅れた。

頬が動いてから、少し遅れて唇が開く。笑おうとしたのか、何かを言おうとしたのか、私には分からない。母なら、人の話を聞くとき、まずゆっくり瞬きをする。水面の志乃は、瞬きをせずに、口元だけを動かした。

私は石の縁を握りしめた。

「違う」

久代が黙っている。

「母さんじゃない」

「どこが違う」

「母さんなら、私を見つけてから、先に目を細める。笑う前に、左の口元に皺ができる。あれにはない」

「ほかは」

「母さんは、私を呼ぶ前に息を吸う。水の中のあれは、息をしていない」

水面の志乃が、ゆっくりとこちらを見上げた。

その目は母のものだった。いや、母の目を知っている私が、そう思い込もうとしていた。目の形、睫毛の影、まぶたの重さ。全てが母に似ている。似ているのに、どこにも母がいない。

志乃の横顔の後ろに、もう一つの輪郭が重なった。

頬の線より半歩遅れて、細い影が動いた。首の位置がずれ、肩の高さが合わない。人の形を真似ているのに、身体の中で別々のものが動いている。

「久代さん、あれは何」

「名残だ」

「名残って、何の」

「持ち主をなくしたものの名残。帰る者に重なり、帰る場所を借りる。顔を持たないから、借りた顔を自分のものだと思わせる」

「母さんは、あれに捕まってるの」

「捕まっているのか、重なっているのか、まだ分からん」

「また分からないって言う」

「分からないものを、分かったふりで扱えば、どちらも失う」

私は井戸の中を見続けた。

水面の志乃が、口を動かした。

声は聞こえない。

けれど、唇の形だけで、私の名前を呼んだのが分かった。

紬。

私は反射的に身を乗り出した。

久代の手が、私の肩を掴む。

「下がれ」

「母さんが呼んだ」

「声を聞いたか」

「聞いてない。でも、呼んだ」

「水面の口の動きに、名前を渡すな」

「母さんなら、助けてって言ってる」

「母親なら、助けてとは言わない」

「どうして分かるの」

「志乃は、誰かを困らせる声を出さない。困っていても、自分で手を動かす」

「だから、手を動かせないんでしょう」

私は久代の手を振りほどこうとした。

「母さんは、あの中で動けない。なら、私が引っ張り上げる」

「水へ手を入れれば、影も掴む」

「それでもいい」

「いいわけがない」

久代の声が、初めて強くなった。

「お前は、母親を戻したいのか。それとも、母親に似たものを自分の側へ置きたいのか。二つは同じではない」

「同じじゃない。でも、私は母さんを失いたくない」

「失わないために、手放すことがある」

「そんなの、きれいごとだよ」

「きれいごとで済むなら、私は六十年前に済ませている」

久代の手が、私の肩から離れた。

井戸の水面は、まだ志乃の横顔を映している。だが、その横に映る影が、少しずつ濃くなっていた。母の鼻筋に重なり、母の髪へ入り込み、母の輪郭を内側から広げている。

「昔、私の弟が戻らなかった」

久代は井戸を見たまま言った。

「私は若かった。家族が泣くのを見ていられず、井戸へ手を入れた。水の中に弟の顔があった。名前を呼んだら、すぐに返事をした。懐かしい声だった。だから、引き上げようとした」

「何が起きたの」

「水面から出てきた手を掴んだ。温かかった。生きている人間の手と変わらなかった。私は弟だと思った」

「違ったの?」

「弟の手には、親指の付け根に古い火傷の跡があった。薪割りのときについた傷だ。水の中から出てきた手には、それがなかった。私は見ていたのに、見ないことにした」

久代の杖が、石の縁を一度叩いた。

「その手を離せなかった。離せば弟が落ちると思った。だが、掴んでいるあいだ、弟の声はどんどん近くなり、弟の顔はどんどん薄くなった。最後には、私の手の中に残ったのは、冷たい水だけだった」

「弟さんは?」

「戻ったかもしれん。戻れなかったかもしれん。私が掴んだものが弟でなかったことだけは分かる」

私は水面の志乃を見た。

母の手に火傷の跡はない。指先はいつも、包丁や針仕事で小さな傷を作っていた。盆の準備をしていたとき、右手の人差し指に絆創膏を巻いていた。水面の志乃の指には、何もない。

「母さんじゃない」

今度は、自分の口からはっきり言えた。

水面の影が、母の顔の上で笑った。

その笑い方は、母が笑うときのものではなかった。母は笑ったあと、必ず喉を払う。笑いすぎると咳が出るからだ。水面の影は、咳をしない。ただ、口元を開いたまま、黒い水の中で私を見ている。

「母さんの名前を呼ぶ」

私は言った。

久代が私を見る。

「ここでは呼ぶな」

「どうして」

「井戸は帰る道を開く。ここで名を呼べば、帰る者だけでなく、帰りたいものも向きを持つ」

「なら、どこで呼べばいいの」

「家の玄関だ。戸口で呼び、外へ向ける。中へ引くな」

「母さんは、私を呼んでいる」

「呼んでいるのが母親なら、玄関まで来る」

「来なかったら?」

「来ないものを、母親にしないことだ」

その言葉は冷たかった。けれど、久代の手が再び私の肩へ置かれたとき、その掌には確かな温かさがあった。火のそばにいた人の温度ではない。長いあいだ、誰かを引き戻すために差し出されてきた手の温度だった。

私は井戸から離れた。

水面の中で、志乃の横顔が薄くなる。代わりに、私自身の顔が戻ってきた。だが、水面の私の口元には、母に似た笑いが浮かんでいた。

私は目を逸らした。

帰り道、夕闇が畦の上へ下りていた。

湿った草が足首に絡み、靴の裏へ泥が貼りつく。私は何度も足を取られそうになった。母の横顔が目の裏から離れない。優しい輪郭。遅れた口元。重なっていく影。

畦の端で、私は足を踏み外した。

身体が斜めに傾いた瞬間、久代の腕が私を引いた。背中が彼の胸へぶつかる。杖が土へ倒れ、乾いた音を立てた。

「気をつけろ」

「ごめんなさい」

「謝るな。足元を見ろ」

久代の手は、思っていたより温かかった。

私はその温度に驚いた。村の古老は、井戸の底のように冷たい人だと思っていた。人の顔より草履を見て、水の音より泣き声を信じる。けれど、私を引いた腕は生きた人間のものだった。硬く、節があり、汗が少し湿っていた。

「久代さんも、誰かを離したくなかったんだね」

久代は杖を拾った。

「離したくなかったから、間違えた」

「それでも、今は母さんを送るの」

「送る。帰るものを帰せなければ、離したことにもならん」

「母さんが帰る場所は、私のいるところじゃないかもしれない」

「そうだ」

胸が縮んだ。

「でも、母さんが私を忘れるわけじゃないよね」

「忘れるのは、生きている者の方だ」

「私が忘れなければ、母さんは残る?」

久代は歩きながら、長いこと答えなかった。

「残る」

やがて、そう言った。

「だが、残すことと、留めることは違う。記憶は、戸を閉めても消えない。戸を開けたままにしておけば、別のものまで入ってくる。お前が守るべきなのは、母親を家に縛ることではなく、母親の名前を母親でないものに使わせないことだ」

私は黙って歩いた。

家が見えてきた。玄関の戸は閉まっている。けれど、土間の中に残った湿気が、外からでも分かるほど濃くなっていた。台所の窓から、灯りが一つ漏れている。

祖母が戸口で待っていた。

「見たか」

久代が訊いた。

「見た」

「どちらだった」

祖母は私に問うた。

私はすぐには答えられなかった。母の顔を見た。母ではない影も見た。どちらも同じ水の中にいて、どちらかだけを取り出すことはできなかった。

「母さんの気配はあった」

私は言った。

「でも、横顔の口元が遅れていた。指に、母さんの絆創膏の跡がなかった。名前を呼ぶ前の息もなかった」

祖母は短く頷いた。

「なら、見分けたな」

「まだ全部は分からない」

「全部分かる必要はない」

祖母は私の濡れた袖を見て、手を伸ばした。袖口を絞り、肌に張りついた布を外へ引いた。いつものように乱暴だった。けれど、指を離す前に、私の腕を一度だけ撫でた。

「今夜、玄関で呼ぶ」

「母さんを?」

「志乃を」

「影も来る」

「来させる。来たものを、名前と足元で分ける」

「私にできる?」

祖母は家の中を見た。

玄関の土間には、母の草履が残っている。二足とも、火の方を向いている。鼻緒の影は濃く、土間の隅から濡れた足跡が一本、外へ伸びていた。

「できるかじゃない」

祖母は札を私へ差し出した。

「やるんだ」

紙は、井戸の石より冷たかった。

私は札を受け取った。水面で見た母の横顔が、指先の奥にまだ残っている。抱きしめたいと思った。けれど、抱きしめることが母を戻すとは限らない。手を離すことが、母を捨てることとも限らない。

私は玄関の土間へ降りた。

濡れた土が、足裏へまとわりつく。

母の草履の前に立つ。

今度は、揃え直さなかった。

ただ、二足の鼻緒に残った、母の足の形を見つめた。片方の擦れは深く、片方の擦れは浅い。母が長く履いた足の癖が、そこに残っている。水面の影にはなかったもの。誰にも借りられない、生活の重さだった。

私は札を胸へ当てた。

井戸の底で見た横顔が、また脳裏に浮かぶ。

その口元は、母の言葉をまねていた。

けれど母は、言葉より先に手を動かす。

帰ってきたなら、きっと草履を濡れたままにしない。私の髪を払い、戸を閉め、最後に一度だけ振り返る。

その振り返りを、私は待つ。

待つために、今度は手を伸ばさない。

玄関の外で、用水路の音が低く続いていた。山から村へ、村から家へ。戻るものと、戻れないものを一緒に運ぶ水の音だった。

その水音に重なって、母の声がした。

「紬」

今度は、最初に息を吸う音があった。

私は顔を上げた。

草履の鼻緒の影が、ゆっくりと薄くなっていく。

それでも私は、まだ返事をしなかった。

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