第9話 名札の裏、湿った紙

理沙の家へ行ったとき、彼女は改修途中の窓枠に木片を当て、金具を締めているところだった。
窓の外では雪が降っていなかった。けれど、空は白く濁り、山の稜線はどこにも見えない。積もった雪が音を吸っているせいか、理沙の家の中にはラジオの低い声と、金具を締める工具の音だけが残っていた。
理沙は、私が戸口に立ったまま絵日記帳を差し出すと、一瞬だけ息を止めた。
「また面倒なの、拾ったんだね」
冗談の形をしていた。いつもの理沙なら、そのまま笑って済ませるのだろう。けれど、私の顔を見たあと、彼女は工具を置いた。木屑のついた指先を膝で拭い、窓、鍵、ストーブの順に確かめてから、ストーブの前に湯呑みを二つ並べた。
「座って。立ったまま話すと、だいたい悪い方へ行くから」
私は絵日記帳を膝に置いた。
紙表紙は、弁当包みで包んできたのに湿っていた。布を解いた指先に、冷たい水分がまとわりつく。紙から移ったものなのか、雪を払った手袋の湿気なのか、区別はつかなかった。
「押し入れの中が、前より湿っています」
「花岡家はそういう家だよ」
「襖の裏から音がします。鉛筆で紙を擦るような音です。夜だけではありません。昼間にも聞こえるようになった」
「聞こえるようになった、じゃなくて、聞き分けられるようになったんじゃない?」
私は答えなかった。
理沙は湯呑みの表面へ指先を当て、熱さを確かめた。私の方の湯呑みは、まだ少し遠い場所に置かれている。すぐには飲まないことを、彼女は覚えていた。
「名札も変わりました」
私は布製の名札を机へ置いた。
自分で書いた旧姓の下に、別の筆跡が浮かんでいる。薄く、角ばった線。花岡の一部にも見えるし、別の名前の書き損じにも見える。だが、その線は染みではなかった。布の繊維を押し分け、下から文字になろうとしている。
理沙は触れずに、名札を見た。
「昨日までは、ここまで濃くなかった」
「昨日、見たんですか」
「見たよ。覚えてないだけで」
「覚えていないことを、普通に言うんですか」
「普通に言うというより、古い家に住んでると、同じことを何度も言うようになるんだよ。戸締まりしたかとか、火を消したかとか。あとは、紙が湿るとか」
「理沙さんの家でも、起きていますか」
「うちでは、名札はまだ変わってない」
「まだ、という言い方をするんですね」
「この土地で絶対って言うと、あとで恥ずかしいから」
理沙は工具箱を開いた。
内側の蓋には、小さな名札が貼ってある。沢村理沙。少し右上がりの字で、角は透明なテープに押さえられていた。何度も剥がれかけ、そのたびに貼り直した跡がある。
「これは、自分で貼ったんですか」
「もちろん。家に貼られた名前を信用しすぎると、道具まで誰のものか分からなくなるから」
「何かあったんですか」
理沙は工具箱を閉じなかった。
「去年の冬、改修ノートに知らない名前が増えた。祖母の名前。私は祖母に会ったことがない。写真でしか見たことがないし、一緒に暮らした記憶もない。でも、柱を削ったとか、釘を何本打ったとか書いている間に、その名前が混じっていた」
「自分で書いたのに、知らない名前だったんですか」
「自分で書いた字だった。そこが嫌だった」
理沙は紙コップの縁を親指で押さえた。
「最初は、誰かの話を思い出したんだと思った。祖母の名前をどこかで見て、無意識に写したんだって。でも、消したあとも、頁の手触りだけが残った。名前のあった場所が膨らんでいて、指で触ると、そこだけ紙が湿っている。捨てれば楽になると思ったよ。でも、捨てたら祖母がいなかったことになる気がした」
「会ったことがないのに」
「会ったことがないからこそ、記録だけがその人の代わりになることがある。誰かを消したくない気持ちと、誰かに自分を使われたくない気持ちは、別々に持っていていいんだよ」
その言葉が、身体の内側へゆっくり沈んだ。
私はつぐみの絵日記帳を手放したくなかった。雪だるまの顔、かまどの煤、凍った井戸の縁。あの子が見たものまで消してしまえば、あの冬に誰もいなかったことになる気がした。
けれど、残すことと引き受けることは同じではない。
「私は、つぐみの記憶を消したくありません」
「うん」
「でも、つぐみの続きを生きるつもりもありません」
「うん」
「その二つを、どう分ければいいんですか」
理沙はすぐに答えなかった。窓枠の隙間へ木片を差し込み、金具を締め直す。作業の手順を変えないことで、答えを急がないようにしているようだった。
「重ねないこと」
「重ねない?」
「前の人の名前の上へ、自分の名前を書かない。前の人の道具を使うなら、使った日を自分で残す。古い写真を持つなら、裏に誰が持ってきたかを書く。そうやって、隣に置くんだよ。重ねると下のものが見えなくなるから」
「家は、重ねようとしている」
「たぶんね」
「私の名前を、別の名前の続きにしようとしている」
「家にしてみれば、続きにした方が扱いやすいんだろうね。人間は別々でも、靴を揃える順番や、茶を冷ます時間や、押し入れを確かめる回数が同じなら、家には同じ暮らしに見える。名前は、その暮らしに貼る札みたいなものだから」
「私は札ではありません」
声が出るまで、少し遅れた。
理沙は私を見た。からかうことも、慰めることもしなかった。
「そう言えるなら、まだ大丈夫」
「まだ、ですか」
「この土地では、絶対って言わないの」
彼女は引き出しから黄色い付箋を取り出し、工具箱の中の名札の隣へ置いた。付箋には、沢村理沙、と書かれている。名前の横に、今日の日付もあった。
「毎日、書いてるんですか」
「名前だけだと家に持っていかれそうだから。今日は今日の私だって、日付をつける」
「それで、家に覚えられるのを防げるんですか」
「防ぐというより、家が覚えたものの隣へ、自分の手を置くの。家に勝つとか、消すとかじゃない。自分が書いた順番をなくさないために」
理沙は付箋を私へ差し出した。
「望も書けばいい」
「何を」
「自分の名前。今日の分」
私は黒いボールペンを取り出した。だが、紙へ先端を置く前に、手が止まった。
理沙の字で書かれた「佐伯望」が、ひどく確かなものに見える。自分で書けば、その文字へ別の線が混ざる気がした。
「私が書いた方がいいんじゃないですか」
「そう思うよね。でも、今の望は、自分の字まで疑ってる」
「疑います。絵日記に書かれた字が、私の癖を先に持っている」
「なら、書いたあとで消さないこと。変な線が混じっても、隣にもう一度書く。きれいにしようとすると、どこからが自分か分からなくなる」
私は付箋を受け取った。
紙は乾いていた。理沙の家は、花岡家より明るく、ストーブの熱も部屋の隅まで届いている。けれど、乾いた紙を持っているのに、なぜか濡れた木の匂いがした。
理沙は古い写真を一枚取り出した。
改修前の、別の古民家だった。土間の位置、北側へ伸びる廊下、座敷の壁際に並ぶ押し入れ。花岡家とは違う家なのに、間取りの輪郭がよく似ている。
私は写真を受け取らなかった。
「この家は、理沙さんの家ですか」
「改修前の家。まだ誰も住んでなかった頃」
「押し入れの位置が、花岡家と同じです」
「古民家なんて、どこも似たようなものだよ」
「そうでしょうか」
「そう思った方が楽だよ」
「でも、写真に写っている押し入れの奥にも、絵日記があったんですか」
理沙の指が止まった。
ラジオの音が、急に遠くなった。
「なかった」
「本当に?」
「本当に。ノートはあったけど、絵日記じゃなかった。改修の記録。私が書いたものと、祖母の名前が混じったもの」
「同じことです」
「違う」
「どう違うんですか」
「私は、その家で起きたことを全部、花岡家のせいにはしたくない。自分の記憶違いも、自分の家族のことも、土地のせいにすれば説明はつく。でも、説明がつくことと、事実であることは違うから」
「では、理沙さんは何を信じているんですか」

「信じる必要があると思う?」
理沙は写真をしまった。
「私は、怖いものを怖いまま置いておく方がましだと思ってる。名前をつけると、扱える気がするでしょ。家の記憶、つぐみ、花岡、そういう名前をつければ、何が起きているか分かった気になる。でも、名前をつけたものは、名前の形でこちらへ戻ってくる。呼べば返事をするものもある」
「それでも、私は知りたい」
「知ったら、戻れないかもしれないよ」
「もう戻れません」
声が遅れて出た。
理沙は目を伏せた。初めて、少しだけ疲れた顔をした。
「そういう顔をしていると思った」
「私の名前は、私のものです」
「うん」
「誰かの記録の続きでも、家の都合で呼ばれる名前でもない。私はここへ、過去を引き受けるために来たんじゃなくて、過去から離れるために来ました。家族のことも、前の住所のことも、話さないで済む場所へ来たかった。でも、離れたつもりのものが、紙の上で待っていた。私が生まれる前から、私の旧姓を知っていたみたいに、私の生活を先に書いていた。もしこの家が、私の知らない記憶を私のものにしようとしているなら、私はそれを拒みたい。けれど、つぐみが見たものまで消すことはできない。あの子が待っていた時間を、私の都合で空白に戻すこともできない。だから、何を残して、何を返すのか、自分で決めたいんです」
理沙は黙って聞いていた。
ストーブの中で薪が崩れ、赤い火が一度だけ明るくなる。彼女は火を見てから、静かに言った。
「それなら、決めるのは名前じゃなくて、境界だよ」
「境界」
「これは私の記憶。これは私が見たもの。これは私が知らないもの。全部を一つの帳面へ押し込めない。分からないものは、分からないまま置く。名前が書かれていても、私の経験だと認めない。逆に、自分が確かに覚えていることは、家が先に書いていても返さない。家に書かれたから私のものじゃない、ってこともあるけど、家に書かれたから私のものではないと決める必要もない」
「そんなふうに、きれいに分けられますか」
「分けられないから、毎日やるんだよ。一度決めて終わりじゃない。名前は毎日使う。暮らしも毎日繰り返す。家が覚えるなら、こっちも自分で覚え直すしかない」
私は付箋へ「佐伯望」と書いた。
その下に、今日の日付を記す。
文字は少し震えた。けれど、書いた線を消さなかった。
理沙は付箋を受け取らず、工具箱の名札の隣へ置いた。
「これは、私の字です」
「そう」
「家の字が混じっても、消しません」
「消さなくていい。隣へ書けばいい」
帰ろうと立ち上がったとき、理沙は私の袖を引き止めなかった。けれど、玄関の戸を開ける前に、鍵を三度確かめた。
「今夜、鏡を見ない方がいいよ」
「何か知っているんですか」
「知ってるんじゃない。予想してるだけ。紙に名前が出たあと、ガラスや水面に出ることがある」
「どうしてですか」
「紙は、書かれたものを残す。ガラスは、見たものを返す。家が名前を重ねるとき、どっちも使うんだと思う」
「思うだけですか」
「怖いものを怖いまま扱うには、断言しない方がいい」
外へ出ると、雪は降っていなかった。
理沙の家から花岡家までは、歩いて数分しかない。それなのに、雪壁に挟まれた道は、途中で何度も同じ場所へ戻ってくるように見えた。靴底の下で凍った雪が薄く割れ、ひびが足元から伸びていく。私の足跡の上には、理沙の家から続く浅い跡が重なっていた。
振り返る。
誰もいない。
もう一度振り返る。
今度は、私の足跡の隣に、もう一列の跡があった。子どもの靴ほど小さくはない。私の長靴ほど深くもない。雪の表面を押さえただけのような、浅い窪みだった。
花岡家の窓が見えた。
押し入れのある座敷の窓だけが、他より暗い。暗さの中央に、細い鉛筆の線が一文字だけ浮かんでいる。
私は読もうとした。
読めなかった。
読めないまま、玄関の戸を開ける。
三和土には、私の長靴が二足分並んでいた。
一足は、朝、私が揃えたもの。もう一足は、私のものより少しだけ小さく、つま先が内側へ向いている。雪はついていない。靴底も濡れていない。
私は靴を動かせなかった。
動かせば、そこに誰かがいたことを認める気がした。動かさなければ、家の中にもう一人分の生活を残すことになる。
私は玄関を閉め、掛け金をかけた。
その夜、鏡の曇りが強くなるころ、洗面所へ行った。
窓は閉めている。湯も使っていない。それなのに、ガラスの表面だけが白く曇っていた。鏡の端から水滴が細く流れ、下へ落ちる前に消えていく。
私は顔を近づけなかった。
曇ったガラスの右下に、文字が浮かんでいる。
旧姓だった。
私は手の甲で拭った。文字は消えたが、冷たい湿り気だけが皮膚に残った。
居間へ戻ると、机の上に理沙の工具箱が置かれていた。
そんなはずはない。理沙の家に置いてきたものだ。けれど、無地のノートの隣に、確かにある。
蓋を開ける。
内側の名札の下へ、白い紙片が重なっていた。
沢村理沙。
その下に、角ばった線が浮いている。
花岡。
私は工具箱を閉じた。
背後の襖で、鉛筆を紙へ引きずる音がした。
一度。
二度。
三度。
私は振り返らなかった。
机へ戻り、無地のノートを開く。今日の日付を書き、その下へ、ゆっくり記す。
「今日、私は名札を見た。」
手が止まる。
家の中のどこかで、紙がめくれた。
私は一行を書き足した。
「それは、私の名前ではなかった。」
書き終えると、擦過音が止まった。
静かになったのではない。
家全体が、私の書いた文を読んでいるようだった。
私は名札を机の上へ並べた。旧姓の封筒、無地のノート、理沙の工具箱、母の弁当包み。最後に、自分の名札を置く。
表には、旧姓の下へ薄く花岡が浮かんでいる。
私はそれを消さなかった。
名札を裏返し、理沙の付箋を見ながら、自分の名前を書いた。
佐伯望。
一度。
二度。
三度目は書かなかった。
文字を増やしすぎると、また別の線が混じる気がした。
名札を机へ戻す。
表に何が浮いていても、裏には自分で書いた文字がある。つぐみの名を消さず、家の名を受け取らず、その間に薄い紙を一枚置く。
それだけのことが、今夜の私にできる唯一の境界だった。
洗面所の方から、ガラスを爪でなぞる音がした。
私の旧姓を、誰かがもう一度書いている。
私は目を閉じなかった。振り返りもしなかった。
紙の角を押さえ、布の端を押さえ、最後に、自分で書いた裏面を押さえる。
外では雪が降り始めていた。
白い雪が庭と用水路と井戸の境目を消していく。花岡家の中には、つぐみの絵と、私の旧姓と、理沙の字と、私が今日書いた名前が残っている。
どれが過去で、どれが現在なのか、もう簡単には分けられない。
それでも、最後の一画を置く手だけは、まだ私のものだった。
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