8話 村帳の空欄

翌朝、洗濯物に付けた名札が、昨日と違う角度で揺れていた。

窓は閉めている。軒下へ出る縁側にも風は通っていない。なのに、白い布の名札だけが、細い糸の先でゆっくり回っていた。回るたび、縫いつけた糸がきしむ。洗濯物そのものは微動だにせず、名札だけが、誰かに読ませるようにこちらを向いた。

私は縁側へ出た。

夜の湿気を含んだ布は冷たく、指先へ水分を返した。名札に書かれた「佐伯」の字は、私が書いたものだった。何度も書き直し、いちばん形の整ったものを選んだ。佐の偏は細く、伯の口は少しだけ右へ傾いている。自分の字は、見なくても分かる。

その下に、別の筆跡が重なっていた。

墨が滲んだのでも、布の繊維が押しつぶされたのでもない。文字の下から、別の線が浮かんでいる。佐の払いに角ばった一画が差し込まれ、伯の横線の下には、花岡の「花」にも見える線が伸びていた。

私は名札を外した。

外した瞬間、布の裏側がひやりと濡れた。絞ったわけではないのに、冷たい水が指の腹へ染み込んでくる。私は反射的に名札を机へ置き、封筒、無地のノート、黒いボールペン、絵日記帳の順に並べた。名札を最後に置き、角を揃える。

名札だけが、わずかに手前へ出た。

押し戻す。

布の下で、紙を擦るような音がした。

私は手を離した。

名札の文字を指でなぞらないようにした。以前なら、線の正体を確かめるため、何度でも触っていた。だが、なぞるほど輪郭が濃くなることを、私はもう知っている。知っていても、目は文字から離れなかった。

自分の名前が、自分の手を拒んでいるように見えた。

洗濯物を取り込むことを忘れ、私は無地のノートを開いた。昨日、理沙が置いていった付箋が貼られている。

佐伯望。

理沙の字だった。少し右上がりで、最後の「望」の払いが長い。私の字ではない。それでも、その名前を見ていると、胸の奥に細い空気が通った。誰かに呼ばれるためではなく、ここにいる人間を指し示すための名前。そう思った直後、付箋の右端がゆっくり浮いた。

私は椅子から立ち上がった。

紙が湿っただけかもしれない。糊が古くなっただけかもしれない。古民家では、冬でも紙が反る。家のせいにする前に、手元で確かめられることを確かめる。それが私のやり方だった。

付箋を剥がし、裏側を見る。

何もない。

貼ってあった場所には、鉛筆の跡が残っていた。理沙の字でも、私の字でもない。けれど、二つの筆跡の間にあるような形だった。

佐伯。

その下に、花岡。

私は付箋を机へ置いた。

昼を過ぎても、雪は降らなかった。空は白く、山の稜線は見えない。車の音も、人の声も聞こえず、集落全体が分厚い紙の中へ挟まれたようだった。外へ出れば、雪の上に自分の足跡が残る。家の中にいれば、床板や紙の上に自分の動作が残る。どちらへ行っても、何かを記録される。

私は名札を外したまま、洗濯物を畳んだ。

白い布は、誰のものか分からないただの布になった。名前がなければ、家に覚えられるきっかけもない気がした。

けれど、最後に畳んだ布の中央へ、薄い鉛筆の線が浮いていた。

名札を外した場所に、名札の形だけが残っている。

私は布を広げた。文字はない。ないのに、そこだけが湿っている。押し入れの奥と同じ、古い紙と濡れた木の匂いがした。

捨てることはできなかった。

捨てれば、書かれたものを消すのではなく、書かれていたこと自体をなかったことにする気がした。

午後、私は沢村理沙の家へ向かった。

雪の降らない道は、積もった雪が音を吸っていた。靴底の下で凍った表面が薄く割れ、ひびが細く伸びていく。道の脇の雪壁はところどころ灰色に汚れ、車輪の跡や犬の足跡が何層にも重なっていた。白いものの上へ、別の生活が押しつけられている。

理沙の家からは、低いラジオの音が漏れていた。玄関先で靴の雪を払っていると、内側から鍵が二度回った。

「誰?」

「望です」

一拍置いて、さらに一度、鍵が回る。

「どうぞ。今、手が粉だらけ」

戸を開けると、理沙は窓枠に木片を当てていた。頬に白い木屑がついている。彼女は手袋を外す前に袖口を払い、釘抜き、金槌、細い鑢を順番に工具箱へ戻した。

「顔が、昨日より紙っぽい」

「名札が変わりました」

「紙より先に人間が変わったか」

理沙は笑わなかった。

私は濡れた名札を見せた。理沙は受け取らず、窓際の明るい場所へ移動した。布の表面へ指を近づけ、触れずに温度を測るような仕草をする。

「昨日の夜、外に干したまま?」

「軒下です。風はありませんでした」

「風がなくても、家は動くよ」

「家が動かすんですか」

「そういう聞き方をすると、答えたくなくなる」

理沙はストーブの前に湯呑みを二つ並べた。ひとつにはコーヒー、もうひとつには番茶が入っている。私は熱いものをすぐ飲まない。そのことを、理沙はいつの間にか覚えていた。

「この土地、書いたものが残りやすいっていうより、書いたあとに何かが足してくる感じがあるんだよね」

「何か、というのは家ですか」

「家でも土地でも、人でもいい。名前をつけた途端、それが本物になると思うのは危ないから」

「でも、これは私の名前です」

「最初に書いたのはね」

「最初に?」

「名札って、書いた瞬間に終わるものじゃないでしょ。洗って、乾かして、また使う。文字が薄くなれば書き足す。誰かが拾えば、誰のものか確認する。そのたびに、名前が生活へ戻ってくる。名前は一回書けば固定されるんじゃなくて、何度も使われて、ようやくその人のものになる」

「私の名札には、別の名前が重なっています」

「花岡?」

「読めなくはありません」

「読めるかどうかは、あまり関係ないよ。読めないものを読もうとすると、脳が勝手に知ってる形へ寄せるから。シミが顔に見えるのと同じ」

「では、ただの染みだと言うんですか」

「言ってない。決めるのを急ぐなって言ってるだけ。怖いものを怖いと決めるのも、何でもないと決めるのも、同じくらい簡単だから」

私は湯呑みを両手で包んだ。まだ熱く、指先へじわじわと熱が戻ってくる。

「理沙さんの家では、名札は変わっていないんですか」

「今のところはね」

「今のところ、という言い方をしますね」

「この土地で絶対って言うと、あとで恥ずかしいから」

理沙は工具箱を開いた。

内側の蓋に、小さな名札が貼られている。沢村理沙。文字は少し右上がりで、角は透明なテープで留められていた。

「これ、毎日見ます」

「家に貼られたものを、信用しすぎないため?」

「そう。家に合わせていると、いつの間にか道具まで誰のものか分からなくなるから」

「何かあったんですか」

理沙は工具箱の中を見たまま、返事をしなかった。ラジオの声が一度途切れ、雑音だけが室内へ流れた。

「去年の冬、私の改修ノートに知らない名前が増えた。祖母の名前。私は祖母に会ったことがない。写真でしか見たことがないし、一緒に暮らした記憶もない。でも、釘を何本打ったとか、どの柱を削ったとか書いている間に、その名前が何度も混じっていた」

「自分の書き間違いでは?」

「そう思った。別のノートから写したのかもしれない。誰かに聞いた話を記憶違いしていたのかもしれない。だから消した」

「消えましたか」

「文字は消えた。でも、消した頁だけが膨らんだ。何も書いてないのに、名前があった場所だけ手触りが違う。捨てようとしたけど、捨てられなかった。捨てたら、祖母がいなかったことになる気がしたから」

「会ったことがないのに」

「会ったことがないからこそ、記録だけがその人の代わりになることがある。誰かを消したくない気持ちと、誰かに自分を使われたくない気持ちは、別々に持っていていいんだよ」

私は絵日記帳の紙表紙を見た。

つぐみが見た雪だるまや、かまどの煤や、井戸の氷を、なかったことにはしたくない。けれど、その子の記憶の器になるつもりもなかった。

「理沙さんは、祖母の名前を残したんですか」

「残したというより、残ってしまった。今もノートは箱の中にある。普段は見ない。でも、完全に捨てる気にもならない」

「それは、家に負けたということですか」

理沙は初めて私を見た。

「そうやって勝ち負けにすると、家の方が楽だよ。残せば負け、捨てれば勝ち。そんな単純な話じゃない。私は祖母の名前があったことは認める。でも、その名前の続きを私が生きる義務はない。そこを切り分けるために、道具箱へ自分の名前を貼った」

「名前を貼るだけで、切り分けられるんですか」

「貼るだけじゃ足りない。毎日使う。鍵を閉める順番も、窓を開ける時間も、コーヒーの濃さも、自分で決める。家に覚えられる前に、自分の暮らしを何度も繰り返す。そうすると、家の中に自分の動作が積もる」

「家の記憶と、自分の記憶を重ねるんですね」

「重ねるんじゃない。隣に置く。重ねると、下のものが見えなくなるから」

理沙は名札を私へ返した。

「望の名前も、佐伯のままにしたいなら、佐伯の生活を続けるしかないよ」

「佐伯の生活が、もう自分のものではないように感じます」

「それでも、今日ここへ来たのは望でしょ」

「私が来たと、どうして言えるんですか」

「歩いてきたから。長靴の跡もあるし、玄関の鍵を二度確認したし、今だって湯呑みをすぐ飲まない。家がやったことは、そこへ後から混ざるだけ」

「でも、私が自分で選んだ癖なのか、家が返してきた癖なのか分からない」

「分からないなら、今日から選び直せばいい。右から靴を揃えるのをやめろとは言わない。自分の癖だと思えるなら続ければいい。怖いのは、家に合わせたくないから全部を壊そうとすること。壊したあとに残るのは、何も選べない自分だから」

理沙の言葉を聞きながら、私は名札を見ていた。

自分の字の下に、薄い角ばった線が浮いている。花岡に見える。けれど、その線はまだ一つの名前になっていない。私が読もうとすることで、名前へ近づいているだけなのかもしれなかった。

「剥がしてしまえば、なくなりますか」

「剥がせば、布からはなくなる。でも、なくなったことにはならない」

「では、どうすれば」

「自分で書き直す。書き直したうえで、元の跡も残す。きれいに消すと、あとで自分が何を消したのか分からなくなるから」

「二つの名前が残ります」

「人間だって、二つ以上の名前を持ってるよ。家で呼ばれる名前、仕事の名前、昔の名前。問題は、どれを今の自分として使うかを、誰に決めさせるかでしょ」

理沙の声は淡々としていたが、その奥には、以前誰かに踏み込まれたときの硬さがあった。親切を拒んでいるのではない。親切を理由に他人の生活へ入ることを拒んでいる。その線を守るために、冗談を使い、工具を使い、名札を貼る。

「私の名前は、私のものです」

「そう言えるなら、まだ大丈夫」

「まだ、ですか」

「この土地では、絶対って言わない」

帰り際、理沙は戸を開ける前に、外の雪を見た。

「今夜、鏡を見ない方がいいよ」

「何か知っているんですか」

「知ってるんじゃない。予想してるだけ。紙に名前が出たあと、次はガラスや水面に出ることがある」

「どうしてですか」

「紙は書かれたものを残す。ガラスは見たものを返す。家が名前を重ねるとき、どっちも使うんだと思う」

「思う、だけですか」

「怖いものを怖いまま扱うには、断言しない方がいい」

外へ出ると、雪は降っていなかった。

理沙の言葉を背中に置いたまま、私は花岡家へ戻った。途中で何度も、名札へ手が伸びそうになった。触れれば別の筆跡が濃くなる気がした。触れなければ、自分の名前がどこまで変わったのか分からない。

家の戸を開ける。

玄関の三和土には、私の長靴が二足分並んでいた。

私は立ち止まった。

一足は朝、私が揃えたもの。もう一足は、私のものより少しだけ小さく、つま先が内側へ向いている。雪はついていない。靴底も濡れていない。

ただ、右の踵だけが、私の長靴の踵へ触れるほど近く置かれていた。

私は靴を動かせなかった。動かせば、そこに誰かがいたことを認める気がした。動かさなければ、家の中にもう一人分の生活を残すことになる。

玄関を閉め、掛け金をかける。

その夜、鏡の曇りが強くなるころ、私は洗面所へ行った。

窓は閉めている。湯も使っていない。それなのに、ガラスの表面だけが白く曇っていた。端から薄い水滴がゆっくり下へ流れている。

私は顔を近づけなかった。

曇ったガラスの右下に、細い線が浮かんでいる。

紙ではない。鉛筆でもない。けれど、確かに文字の形をしていた。

旧姓だった。

声を出そうとして、喉の奥が固まる。呼ぶ相手の名が思い浮かばない。理沙か、宗像か、それとも母か。

鏡の中の私は、口を開けたまま動かなかった。

文字は、曇りの上でゆっくり濃くなっていく。

私は手の甲でガラスを拭った。

文字は消えた。

代わりに、手の甲へ冷たい湿り気が残った。

居間へ戻ると、机の上に見覚えのないものがあった。

理沙の工具箱だった。

そんなはずはない。理沙の家に置いてきた、彼女が毎日使っている鉄製の箱。それが、無地のノートの隣に置かれている。

蓋を開ける。

内側の名札の下へ、もう一枚、白い紙片が重なっていた。

沢村理沙。

その字の下に、角ばった線が浮いている。

花岡。

私は工具箱を閉じた。

背後の襖で音がした。

細い鉛筆を紙へ引きずる音。一度。二度。三度。

私は振り返らなかった。

無地のノートを開き、黒いボールペンを握る。宗像の言葉が浮かぶ。

自分で書いたものを、毎日ひとつ残せ。

私は日付を書いた。

その下に、ゆっくり記す。

「今日、私は名札を見た。」

手が止まった。

家の中のどこかで、紙がめくれる。

私は一行を書き足した。

「それは、私の名前ではなかった。」

書き終えると、襖裏の擦過音が止まった。

静かになったのではない。

家全体が、私の書いた文を読んでいるようだった。

私は名札を右から順に並べた。旧姓の封筒、無地のノート、理沙の工具箱、母の弁当包み。最後に、自分の名札を置く。

佐伯。

その下に、薄く花岡。

私はその文字を消さなかった。

消す代わりに、名札の裏へ自分の名前を書いた。

佐伯望。

二度、書いた。三度目は書かなかった。書き足せば、また別のものが混じる気がした。

名札を裏返して机へ置く。

表に何が浮かんでいても、裏側には自分で書いた文字がある。

それだけを確かめようとして、私は布の端を押さえた。

洗面所の方から、ガラスを爪でなぞる音がした。

私の旧姓を、誰かがもう一度書いている。

私は目を閉じなかった。振り返りもしなかった。

机の上の名札を、右から順にそろえ直した。

紙の角を押さえ、布の端を押さえ、最後に、自分で書いた裏面を押さえる。

夜の花岡家には、雪明かりしかなかった。

その白い光の中で、私の名前と、知らない家の名前が、同じ紙の上に重なっていた。

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