第7話 裏返った筆跡

「ここに戻る」と書かれた頁を見た翌朝、私は布団の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。
障子の向こうは白かった。雪が降っているわけではない。夜のあいだに積もった雪が、朝の光を一面へ返している。部屋の輪郭が薄く、天井の梁さえ遠く見えた。寒さは布団の外からではなく、内側から身体をほどいてくるようだった。
枕元の時計を見た。六時三十二分。
数字を確かめたあと、もう一度見た。六時三十二分。針は動いている。秒の点滅もある。それなのに、時刻だけが昨日から置き去りにされているように感じた。
私は布団を出た。
足裏が畳に触れた瞬間、冷たさが膝まで上がってきた。袖口へ親指を入れ、手をこすりながら台所へ向かう。途中で、襖の前に立ち止まった。昨夜、閉めたはずの戸は閉じている。中央の合わせ目もずれていない。
ただ、紙の表面だけが、私の方へわずかに膨らんでいた。
触れずに通り過ぎ、台所の明かりをつける。
昨夜、刃先を右へ向けて揃えておいた包丁が、一本だけ斜めになっていた。柄は揃っている。刃先だけが、窓の方を向いている。
私は手を伸ばした。
柄をつまみ、向きを直す。動作はいつものものだった。台所道具は刃物から片づける。柄を手前にし、刃先を壁へ向ける。そうすれば、次に使うとき迷わない。
けれど、包丁を置き直す途中で、指が一度、宙に止まった。
この手順を、私はいつから続けているのだろう。
母の台所だった気がする。白い流し台の脇に包丁立てがあり、母はいつも刃を壁側へ向けていた。そう思った直後、その台所の壁が土壁に変わった。煤けた柱が現れ、低いかまどの縁に赤い火が見えた。
私は包丁から手を離した。
思い出したのではない。
思い出す前に、別の光景が差し込んできた。
かまどの脇で、小さな手が布をたたんでいる。白い布の端に、黒い糸で名が縫われている。手は幼く、爪の先に煤が入っていた。誰かが戸口の方を見ている。戻ってくるのを待っているのか、出ていくのを待っているのか、分からない。
私は目を閉じた。
まぶたの裏で、鉛筆が紙を擦る音がした。
押し入れを開けると、絵日記帳は閉じたままだった。
それでも、紙表紙の縁が波打っている。昨夜の湿気を吸ったのだろう。そう考えようとしたが、紙の反り方は湿気のものと違っていた。表紙の中央が内側から押され、端だけが外へ反っている。誰かが帳面の中で息をしているようだった。
私は帳面を取り出した。
机の右端へ置く。無地のノート、付箋、封筒、古い写真。その隣に絵日記帳を置き、すべての高さを揃えた。紙の端、写真の角、付箋の向き。ひとつずつ直していくうちに、物の方が私の手つきを待っているような気がした。
並べ終えても、帳面だけがわずかに手前へ出ている。
押し戻す。
戻したはずの帳面が、また少しだけ前へ出た。
私はもう一度押し戻した。今度は指先に力を込めた。紙表紙の下で、何かが薄く擦れた。頁をめくる音に似ていたが、めくられたのは紙ではなく、紙の内側に溜まった時間だった。
私は帳面を開いた。
昨日まで「ここへ――」で途切れていた頁に、続きはなかった。代わりに、前の頁の文章が変わっていた。
つぐみが書いたはずの丸い字。その一部だけが、私の字になっている。
「おとうさんは、まだこない」
その「まだ」の払いが、私の手帳に残る旧姓の字形と同じだった。文字の端に、私が書類を書くとき無意識に入れる小さな角がある。
私は指で触れなかった。
触れずに、顔を近づける。
紙には古い布の匂いが染みていた。かまどの煤、濡れた木、雪の下の土。そこへ、引っ越し前の部屋で使っていた洗剤の匂いが混ざっている。私はその匂いを知っていた。窓を閉め切った冬の朝、母から届いた荷物を開けたときの匂いだった。
頁の隅に、見覚えのない小さな絵があった。
四角い机。机の上に弁当包み。包みの中央に名札。窓の外には雪があり、窓の内側には女の子が一人立っている。
その絵は、つぐみのものとは思えなかった。
女の子の髪型は私の幼い頃の写真に似ていた。写真は荷物の底にある。私はまだ開いていない段ボールの中から、その写真の一枚を取り出した。
古い写真の紙は冷たかった。
幼い私は、母の隣で弁当包みを抱えている。背景は見慣れた都会の団地の廊下だった。窓の外に雪はない。けれど、私の手元にある包みの名札には、絵日記の余白へ現れたものと同じ角ばった線が重なっていた。
私は写真を裏返した。
裏には日付がある。母の字で、私の旧姓が書かれていた。
その下に、別の文字が薄く残っている。
花岡。
写真の紙が湿った。
私は反射的に手を引いた。写真は机の上で滑り、絵日記帳の表紙へ重なった。二つの紙の端が触れた瞬間、家の奥で木が鳴った。
一度。
返事のように、襖の裏で鉛筆が走った。
私は立ち上がった。
音は座敷からではなかった。台所と廊下の境目、柱の内側から聞こえている。細い音が、文字を形作るように続いていた。横へ引き、止まり、少し戻る。それから縦に落ちる。
私は襖へ近づいた。
紙の中央に、薄い線が浮かんでいる。裏側から書かれたものが、表へ押し出されているようだった。
「つぐみ」

私は声に出していた。
自分の声なのに、少し遠くから聞こえた。
音が止まった。
しばらくして、襖の向こうから、かすかな呼吸が返った。浅く、短い呼吸。子どもが泣くのをこらえているときのような息だった。
「あなたが書いたの?」
返事はない。
「私の名前を、先に書いたのはあなた?」
私はそう尋ねながら、問いの形が間違っていることに気づいた。つぐみが書いたのか、家が書かせたのか、まだ分からない。問いを一つに絞れば、絵日記の方へ答えを選ばされる。
私は襖の前に立ったまま、言葉を続けた。
「あなたが見たものを、私は消したくない。でも、あなたの見たものを私の記憶にするつもりもない。あなたが待っていた人が誰なのか、どこへ行ったのか、私は知らない。知らないままにしておくことが、あなたを置き去りにすることだとは思わない。書かれていないものには、書かれていない理由がある。空白だからといって、誰かが勝手に入っていい場所ではない」
襖紙の膨らみが、ゆっくり縮んだ。
その直後、別の場所で紙が裂ける音がした。
私は机へ戻った。
絵日記帳の最後の頁が開いている。そこには、つぐみの筆跡で「まだこない」と書かれていた。昨日までその下に何もなかったはずなのに、今は細い線が続いている。
「のぞみは」
そこで文は途切れていた。
私は椅子へ座り、無地のノートを開いた。黒いボールペンを持つ。紙の上端へ日付を書こうとしたが、数字の一つ目で手が止まる。
日付を書く前に、誰かが先に書いている気がした。
私は数字を消し、最初から書き直した。今日の日付。現在の年。現在の月。現在の日。
その下へ、ゆっくり記した。
「私は、佐伯望として、この家の頁を読んでいる。」
書いた文字を、すぐには見返さなかった。
先に絵日記帳を閉じる。紙表紙の端を押さえ、右から順に机の上を確認する。封筒、無地のノート、付箋、古い写真、絵日記帳。
写真の裏の「花岡」という文字が、こちらを向いていた。
私は写真を裏返し、母の字だけが見えるようにした。けれど、その下に残る薄い線は消えない。
消さずに、写真の余白へ自分の字を書いた。
「この写真を持ってきたのは、私。」
書き終えると、手の震えが少し収まった。
そのとき、台所から包丁の触れ合う音がした。
私は振り返らなかった。包丁は一本しか動かしていない。なのに、金属が二本ぶつかる音が続いた。誰かが、私の朝の手順をなぞっている。
やがて音が止まった。
代わりに、押し入れの奥から紙をめくる音が聞こえた。頁を一枚、また一枚。私がまだ読んでいない後ろの頁を、誰かが先に読んでいる。
私は絵日記帳へ手を伸ばした。
開くべきではないと思った。
それでも、指は表紙の端へ触れた。冷たい。濡れている。紙の内側から、私の体温を待っていたようだった。
最終頁の裏側に、鉛筆で書かれた文字があった。
「ここに戻る」
その下に、今度は署名がある。
花岡つぐみ。
さらにその下に、同じ筆跡で、別の名前が書きかけていた。
佐伯――
私は頁を閉じた。
名前を最後まで書かせないためではない。続きを見ないことを、自分で選ぶためだった。
襖の裏で、鉛筆がまた動き始める。
私はノートの余白へ、もう一行を書いた。
「続きを書くかどうかは、私が決める。」
文字を書き終えた瞬間、家の中の音がすべて消えた。
雪明かりだけが、座敷に残った。
私は閉じた絵日記帳の表紙へ手を置いた。紙の下にあるものを、消そうとは思わなかった。つぐみの名も、私の旧姓も、花岡家が覚えてしまった暮らしも、なかったことにはできない。
ただ、次の一画だけは、まだ置かせなかった。
外では雪が降り始めていた。
音のない雪が、庭と用水路と井戸の境目を、また白く消していく。
私は机の上の名札を右から順に揃えた。
それから、自分の名前を書いた頁を、絵日記帳の隣に置いた。
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