第6話 名札に浮いた別の筆跡

翌朝、洗濯物に付けた名札が、昨日と違う角度で揺れていた。
窓は閉まっている。障子の隙間から入る風もない。なのに、白い布の名札だけが、紐の先でゆっくりと回っていた。回るたび、縫いつけた糸がきしむ。洗濯物は乾いていない。昨夜の湿気を含んだまま、軒下の物干し竿に並んでいる。
私は縁側へ出て、名札を見た。
「佐伯」
自分で書いた字だった。少し右上がりで、佐の偏だけがわずかに細い。何度も書き直して、いちばん整ったものを選んだ字だ。
その下に、別の筆跡が重なっていた。
墨がにじんだようにも、布の繊維が押しつぶされたようにも見える。佐の払いの下に、角ばった線が一本差し込まれている。望の「望」の下部にも、花岡の「花」の上半分にも見えた。
私は名札を外した。
指先に、冷たい湿り気がまとわりついた。布を絞ったわけではないのに、水分が皮膚へ移ってくる。私は反射的に名札を机へ置き、右から順に並べた。封筒、無地のノート、黒いボールペン、絵日記帳、名札。
角をそろえる。
名札だけが、わずかに手前へ出ている。
私は押し戻した。
それでも、布の端は机から一ミリほどはみ出したままだった。
もう一度押す。今度は強く。
布地の下で、紙をこするような音がした。
私は手を離した。
名札の文字を、指でなぞらないようにした。なぞれば輪郭が濃くなることを、もう知っている。なのに、目だけは文字から離れなかった。自分の名前が、自分の手を拒んでいるように見えた。
洗濯物を取り込むことも忘れ、私は無地のノートを開いた。昨日、理沙が置いていった付箋が貼られている。
佐伯望。
紙の上の字は、私の字ではない。けれど、その名前を見ていると、胸の奥に細い空気が通った。誰かに呼ばれるためではなく、ここにいる人間を指し示すための名前。そう思った直後、付箋の端がゆっくり浮いた。
私は椅子から立ち上がった。
浮いたのは、紙が湿ったせいだけかもしれない。そう考えようとした。古民家では紙が反る。糊が弱れば端も剥がれる。家のせいにする前に、手元で確かめられることを確かめる。いつもの順番だった。
付箋を剥がし、裏側を見る。
裏には何もない。
戻そうとして、手が止まった。
付箋を貼った場所に、鉛筆の跡が残っていた。理沙の字ではない。私の字でもない。けれど、二つの文字の間にあるような形だった。
佐伯。
その下に、花岡。
私は付箋を机へ置いた。
昼を過ぎても、雪は降らなかった。空は白く、山は見えない。道を走る車の音も聞こえず、集落全体が分厚い紙の中へ挟まれたようだった。外へ出れば、雪の上に自分の足跡が残る。家の中にいれば、床板や紙の上に自分の動作が残る。どちらへ行っても、何かを残してしまう。
私は洗濯物を取り込んだ。
名札を外したままの布を一枚ずつ畳み、右から順に箪笥へ入れる。名札のない布は、誰のものか分からない。ただの布になる。その方がよかった。名前がなければ、家に覚えられるきっかけもない気がした。
けれど、畳み終えた布の一枚に、薄い鉛筆の線が浮いていた。
名札を外した場所に、名札の形だけが残っている。
私は布を広げた。
何も書かれていない。書かれていないのに、白い布の中央だけが湿っている。そこへ指を近づけると、木材と古い紙の匂いがした。
押し入れの奥と同じ匂いだった。
私は布を畳み直し、机の上へ置いた。捨てることはできなかった。捨てれば、書かれたものを消すのではなく、書かれていたことそのものをなかったことにするように思えた。
午後、沢村理沙の家へ向かった。
雪の降らない冬の道は、積もった雪が音を吸っていた。私の足元では、凍った表面が薄く割れる。踏みしめるたび、ひびが細く伸びるのが見えた。道の脇に積まれた雪壁は、ところどころ灰色に汚れている。誰かが通った跡、車輪の跡、犬の足跡。白いものの上へ、別の生活が何層も重なっていた。
理沙の家の窓から、ラジオの音が漏れていた。音量は低く、言葉の端だけが雪の中へ落ちている。玄関先で靴の雪を払っていると、内側から鍵が二度回った。
「誰?」
「望です」
一拍置いて、鍵がもう一度回った。
「どうぞ。今、手が粉だらけ」
戸を開けると、理沙は作業用のエプロンをつけ、窓枠に木片を当てていた。頬に白い粉がついている。彼女は手袋を外す前に袖口を払い、道具を一つずつ箱へ戻した。釘抜き、金槌、細い鑢。どれも置き場所が決まっている。
「顔が、昨日より紙っぽい」
「名札が変わりました」
「紙より先に人間が変わったか」
理沙はそう言ったが、笑わなかった。
私は濡れた布の名札を見せた。理沙は受け取らず、窓際の明るいところへ移動した。文字を読む前に、布の表面へ指先を近づけ、触れずに温度を測るような仕草をした。
「それ、昨日の?」
「はい」
「昨日の夜、外に干したまま?」
「軒下です。風はありませんでした」
「風がなくても、家は動くよ」
「家が動かすんですか」
「そういう聞き方をすると、答えたくなくなる」
理沙はストーブの前に湯呑みを二つ並べた。ひとつには自分で淹れたコーヒー、もうひとつには番茶が入っている。私が熱いものをすぐ飲まないことを、彼女はいつの間にか覚えていた。
「この土地、書いたものが残りやすいっていうより、書いたあとに何かが足してくる感じあるんだよね」
「何か、というのは家ですか」
「家でも、土地でも、人でもいい。名前をつけた途端、それが本物になると思うのは危ないから」
「でも、これは私の名前です」
「最初に書いたのはね」
「最初に?」
「名札って、書いた瞬間に終わるものじゃないでしょ。洗って、乾かして、また使う。文字が薄くなれば書き足す。誰かが拾えば、誰のものか確認する。そのたびに名前が生活へ戻ってくる。名前は一回書けば固定されるんじゃなくて、何度も使われて、ようやくその人のものになる」
理沙は湯呑みを持ち上げ、縁へ口をつける前に一度止めた。温度を確かめている。私はその動作を見ていた。私が番茶を冷ますのと同じように、理沙にも自分の順番がある。
「私の名札には、別の名前が重なっています」
「花岡?」
「読めなくはありません」
「読めるかどうかは、あまり関係ないよ。読めないものを読もうとすると、脳が勝手に知ってる形へ寄せるから。シミが顔に見えるのと同じ」
「では、ただの染みだと言うんですか」
「言ってない。私は、決めるのを急ぐなって言ってるだけ。怖いものを怖いと決めるのも、何でもないと決めるのも、同じくらい簡単だから」
私は湯呑みに手を伸ばした。まだ熱かった。けれど、両手で包んでいると、冷えた指先が少しずつ戻ってくる。
「理沙さんの家では、名札は変わっていないんですか」
「今のところはね」
「今のところ、という言い方をしますね」
「この土地で『絶対』って言うと、あとで恥ずかしいから」
「何かあったんですか」
理沙は答える代わりに、工具箱を開いた。
内側の蓋に、小さな名札が貼られている。沢村理沙。文字は少し右上がりで、最後の「沙」の払いが長い。紙の角は浮いているが、剥がれないよう透明なテープで留めてあった。
「これ、毎日見ます」
「自分で貼ったんですか」
「もちろん。家に貼られたものを信用しすぎると、あとで自分の道具まで誰のものか分からなくなるから」
「何があったんですか」
理沙は工具箱の蓋を開いたまま、しばらく中を見た。
「去年の冬、私のノートに知らない名前が増えた。祖母の名前。私は祖母の顔を知らない。写真でしか見たことがないし、一緒に暮らした記憶もない。でも改修の記録をつけていると、釘を何本打ったとか、どの柱を削ったとか、その間に祖母の名前を書いていた。最初は自分の間違いだと思った。別のノートから写したのかもしれない。誰かに聞いた話を記憶違いしていたのかもしれない。だから消した」
「消えましたか」
「文字は消えた。けど、消した頁の紙だけが、そこから薄く膨らんだ。何も書いてないのに、名前があった場所だけ手触りが違う。捨てようとしたけど、捨てられなかった。捨てたら、祖母がいなかったことになる気がしたから」
「会ったことがないのに」
「会ったことがないからこそ、記録だけがその人の代わりになることがある。誰かを消したくない気持ちと、誰かに自分を使われたくない気持ちは、別々に持っていていいんだよ」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
私はつぐみの絵日記を手放したくなかった。あの子が見た雪だるまや、かまどの煤や、井戸の氷を、なかったことにしたくなかった。けれど、だからといって、つぐみの記憶の器になるつもりはない。
「理沙さんは、祖母の名前を残したんですか」
「残したというより、残ってしまった。今もノートは箱の中にある。普段は見ない。でも、完全に捨てる気にもなれない」
「それは、家に負けたということですか」
理沙は初めて私を見た。
「そうやって勝ち負けにすると、家の方が楽だよ。残せば負け、捨てれば勝ち。そんな単純な話じゃない。私は、祖母の名前があったことは認める。でも、その名前の続きを私が生きる義務はない。そこを切り分けるために、道具箱へ自分の名前を貼った」
「名前を貼るだけで、切り分けられるんですか」
「貼るだけじゃ足りない。毎日使う。鍵を閉める順番も、窓を開ける時間も、コーヒーを淹れる濃さも、自分で決める。家に覚えられる前に、自分の暮らしを何度も繰り返す。そうすると、家の中に自分の動作が積もる」
「家の記憶と、自分の記憶を重ねるんですね」
「重ねるんじゃない。隣に置く。重ねると、下のものが見えなくなるから」
理沙は名札を私へ返した。

「望の名前も、佐伯のままにしたいなら、佐伯の生活を続けるしかないよ」
「佐伯の生活が、もう自分のものではないように感じます」
「それでも、今日ここへ来たのは望でしょ」
「……私が来たと、どうして言えるんですか」
「歩いてきたから。長靴の跡もあるし、玄関の鍵を二度確認したし、今だって湯呑みをすぐ飲まない。家がやったことは、そこへ後から混ざるだけ」
「でも、私が自分で選んだ癖なのか、家が返してきた癖なのか分からない」
「分からないなら、今日から選び直せばいい。右から靴を揃えるのをやめろとは言わない。自分の癖だと思えるなら続ければいい。怖いのは、家に合わせたくないから全部を壊そうとすること。壊したあとに残るのは、何も選べない自分だから」
私は名札を見た。
自分の字の下に、薄い角ばった線が浮いている。花岡に見える。けれど、その線はまだ一つの名前になっていない。私が読もうとすることで、名前へ近づいているだけなのかもしれなかった。
「剥がしてしまえば、なくなりますか」
「剥がせば、布からはなくなる。でも、なくなったことにはならない」
「では、どうすれば」
「自分で書き直す。書き直したうえで、元の跡も残す。きれいに消すと、あとで自分が何を消したのか分からなくなるから」
「そんなことをしたら、二つの名前が残ります」
「人間だって、二つ以上の名前を持ってるよ。家で呼ばれる名前、仕事の名前、昔の名前。問題は、どれを今の自分として使うかを、誰に決めさせるかでしょ」
理沙の声は淡々としていたが、言葉の奥に、以前誰かへ踏み込まれたときの硬さがあった。彼女は親切を拒んでいるのではない。親切を理由に、他人の生活へ入り込むことを拒んでいる。その線を守るために、冗談を使い、工具を使い、名札を貼る。
私は名札を折らないように、両手で挟んだ。
「私の名前は、私のものです」
「そう言えるなら、まだ大丈夫」
「まだ、ですか」
「この土地では、絶対って言わない」
帰るとき、理沙は私を玄関まで送った。引き止めることはしなかったが、戸を開ける前に、外の雪を見た。
「今夜、鏡を見ない方がいいよ」
「何か知っているんですか」
「知ってるんじゃない。予想してるだけ。紙に名前が出たあと、次はガラスや水面に出ることがある」
「どうしてですか」
「紙は書かれたものを残す。ガラスは見たものを返す。家が名前を重ねるとき、どっちも使うんだと思う」
「思う、だけですか」
「私は学者じゃないからね。怖いものを怖いまま扱うには、断言しない方がいい」
外へ出ると、雪は降っていなかった。
理沙の言葉を背中に置いたまま、私は花岡家へ戻った。道の途中で何度も、名札を包んだ布へ手が伸びそうになった。触れれば、別の筆跡が濃くなる気がした。触れなければ、自分の名前がどこまで変わったのか分からない。
家の戸を開ける。
玄関の三和土には、私の長靴が二足分並んでいた。
私は立ち止まった。
一足は、朝、私が揃えたもの。もう一足は、私のものより少しだけ小さく、つま先が内側へ向いている。
雪はついていない。
靴底は濡れてもいない。
けれど、右の踵だけが、私の長靴の踵へ触れるほど近く置かれていた。
私は息を吸った。湿った木と、古い布と、かすかな煤の匂いがした。
靴を動かすことはできなかった。動かせば、そこに誰かがいたことを認める気がした。動かさなければ、家の中にもう一人分の生活を残すことになる。
私は玄関を閉め、掛け金をかけた。
その夜、鏡の曇りが強くなるころ、私は洗面所へ行った。
窓は閉めているのに、ガラスの表面だけが白く曇っていた。息を吹きかけた覚えはない。湯も使っていない。鏡の端から、薄い水滴がゆっくり下へ流れている。
私は顔を近づけなかった。
曇ったガラスの右下に、細い線が浮かんでいる。
紙ではない。鉛筆でもない。けれど、確かに文字の形をしていた。
旧姓だった。
私は声を出そうとした。喉の奥が固まり、空気だけが漏れた。呼ぶ相手の名が思い浮かばない。理沙を呼ぶべきか、宗像を呼ぶべきか、それとも母を呼ぶべきか。
鏡の中の私は、口を開けたまま動かなかった。
文字は、曇りの上でゆっくり濃くなっていく。
私は手の甲でガラスを拭った。
文字は消えた。
代わりに、手の甲へ冷たい湿り気が残った。
居間へ戻ると、机の上に見覚えのないものがあった。
理沙の工具箱だった。
そんなはずはない。理沙の家に置いてきた。彼女が毎日使っている、小さな鉄製の箱。けれど、机の右端、無地のノートの隣に、それが置かれていた。
私は近づいた。
蓋を開ける。
内側に貼られていた名札の下へ、もう一枚、白い紙片が重なっている。
沢村理沙。
その字の下に、角ばった線が浮いていた。
花岡。
私は工具箱を閉じた。
閉じた瞬間、背後の襖で音がした。
細い鉛筆を、紙へ引きずる音。
一度。
二度。
三度。
私は振り返った。
襖は閉じている。白い紙の中央に、さっきまでなかった膨らみがあった。内側から誰かが指で押しているように、紙がゆっくり伸びている。
私は近づかなかった。
膨らみの下で、鉛筆の線が一本動いた。
横へ。
次に、縦へ。
文字が書かれている。
私は無地のノートを開き、黒いボールペンを握った。宗像の言葉が浮かぶ。自分で書いたものを、毎日ひとつ残せ。家が書いたものの隣に、あんたの手を置くためや。
私は日付を書いた。
その下に、ゆっくりと記す。
「今日、私は名札を見た。」
手が止まった。
家の中のどこかで、紙がめくれる。
私は一行を書き足した。
「それは、私の名前ではなかった。」
書き終えると、襖裏の擦過音が止まった。
静かになったのではない。
家全体が、私の書いた文を読んでいるようだった。
私はペンを置き、名札を右から順に並べた。旧姓の封筒、無地のノート、理沙の工具箱、母の弁当包み。最後に、自分の名札を置く。
佐伯。
その下に、薄く花岡。
私はその文字を消さなかった。
消す代わりに、名札の裏へ自分の名前を書いた。
佐伯望。
二度、書いた。三度目は書かなかった。書き足せば、また別のものが混じる気がした。
名札を裏返して机へ置く。
表に何が浮かんでいても、裏側に自分で書いた文字がある。
それだけを確かめようとして、私は指で布の端を押さえた。
その瞬間、洗面所の方から、ガラスを爪でなぞる音がした。
私の旧姓を、誰かがもう一度書いている。
私は目を閉じなかった。振り返りもしなかった。
机の上の名札を、右から順にそろえ直した。 紙の角を押さえ、布の端を押さえ、最後に、自分で書いた裏面を押さえる。
夜の花岡家には、雪明かりしかなかった。
その白い光の中で、私の名前と、知らない家の名前が、同じ紙の上に重なっていた。
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