5話 書き写すたびにずれる頁

宗像の家から戻ったあと、私は絵日記帳を押し入れへ戻さなかった。

理沙に言われた通り、家の中でいちばん乾いている場所を探した。台所の窓際は朝の結露がひどく、土間は木の匂いと湿気がこもる。座敷の中央だけが、雪明かりを受けて畳の表面が乾いていた。

私はそこに机を置いた。

封筒、無地のノート、黒いボールペン、母の弁当包み。それから絵日記帳。右から順に並べ、角を揃えた。帳面の紙表紙は、閉じたままなのにわずかに反っている。濡れたわけではない。けれど、乾いた紙が呼吸をしているように、表紙の中央だけがゆっくり沈んだ。

私は見なかったことにして、ノートを開いた。

宗像に言われたことが残っていた。

自分で書いたものを、毎日ひとつ残せ。

何を書けばいいのかは分からなかった。自分の考えや感情を日記にする習慣はない。仕事を辞めた理由も、家族と距離を置いた時期も、紙に書こうとすると言葉の手前で止まった。私はいつも、事実だけを残してきた。日付、金額、住所、荷物の数。人間の部分を抜き取れば、記録は扱いやすくなる。

だから、つぐみの文を書き写すことにした。

それなら、私の生活ではなく、誰かの記録を写しているだけで済む。

絵日記帳を開く。

「きょうはゆきがふった」

私はその一行を、無地のノートへ写した。字の形をできるだけ変えないように、丸いひらがなをゆっくりなぞる。つぐみの「き」は少し右へ傾き、「ふ」は最後の線が長い。子どもの字なのに、文字の終わりだけが妙に整っていた。

次の頁には、雪だるまが描かれていた。

二段重ねの胴体。枝の腕。顔は三つの点と、短い横線。雪だるまの右側に、細い足跡が四つ並んでいる。

「ゆきだるまをつくった。きつねがみていた」

私は文を書き写した。

そのとき、台所から番茶の匂いがした。

昨夜、使った茶葉を片づけ忘れたのだと思った。けれど、台所へ行っても、やかんは空だった。流しには洗った湯呑みが伏せてある。私は湯呑みを一つ取り上げ、内側の匂いを嗅いだ。渋みの残った茶の匂いが、舌の奥にまで戻ってくる。

絵日記の頁へ視線を戻す。

雪だるまの下に、子どもの短い文がある。

「おちゃはさめるまでまつ」

私はその一文を書き写した。

書き終えるまで、なぜか自分がいつも番茶を冷ましてから飲むことを思い出せなかった。熱いものを口に入れるのが嫌いなのではない。熱さが引くまで待つ。その順番を、私は都会にいた頃から守っていた。誰に教えられたのかは分からない。母だったような気もするし、子どもの頃、自分で覚えたような気もする。

紙の上の言葉が、私の暮らしの中にあった。

私はペンを置き、頁の角を押さえた。

紙の向こうから、濡れた木の匂いがした。

次の頁には、かまどが描かれていた。煙は上へ行かず、家の内側へ横に流れている。かまどの横には、布で包まれた何かが置かれていた。

「ひをつけた。おばあちゃんはまどをあけた」

私は書き写した。

「おばあちゃん」という文字を書いたところで、指が止まった。

母の手が浮かんだ。

弁当包みの端を縫っていた手。白い布を膝へ置き、糸を通した針を、目を細めながら何度も布へ刺していた。私はその横で、赤い鉛筆を削っていた。削りかすが机の上へ散らばり、母が指先でそれを集めていた。

――名前を書いておけば、なくしても戻ってくるから。

母がそう言った記憶は、以前からあった。だが、誰のものをなくしたのかが思い出せなかった。

弁当箱かもしれない。私自身かもしれない。

私はノートの余白へ、無意識に旧姓を書いた。

一度。

二度。

三度目を書こうとしたとき、紙の上の文字がわずかに揺れた。

自分の字ではなかった。

「花岡」と書きかけたような角ばった線が、旧姓の下へ薄く重なっている。私は急いで消しゴムをかけた。紙が毛羽立ち、黒い粉が指の腹へ付着する。それでも、線は消えなかった。消えないというより、消した跡の方が文字を浮かび上がらせていた。

私はノートを閉じた。

閉じた表紙の向こうで、紙が一枚めくれる音がした。

誰も触っていない。

私はしばらく動かなかった。家の中には暖房の低い音しかない。外の雪が軒を押す音も、車の通る音もなかった。音がないからこそ、紙の擦れる音だけが、部屋の中央からはっきり届いた。

私は絵日記帳を開いた。

さっきまで書き写していた頁の下に、見覚えのない一行がある。

「おちゃは、のぞみがさめるまでまつ」

望。

ひらがなで、私の名前が書かれていた。

私はその文字を見たまま、息を止めた。

つぐみの字と同じ丸みだった。けれど、「の」の終わりだけは、私が無地のノートへ書く癖に似ていた。筆圧が一度強くなり、最後に紙から離れる。私の字を真似たのか、私が真似させられたのか、判断できなかった。

私は頁を閉じた。

閉じたあと、名前の形が目の裏へ残った。

望。

母に呼ばれたときの声。職場で呼ばれたときの声。役所の窓口で、番号の代わりに呼ばれた声。誰かに呼ばれるたび、同じ音なのに少しずつ違うものになっていった。けれど、紙に書かれた名前は声を持たない。誰の都合で置かれた文字なのか、確かめる方法がない。

昼を過ぎた頃、理沙が来た。

玄関を開ける前に、外で雪を払う音がした。彼女は必ず袖口を払ってから入る。戸が開き、冷たい空気と一緒に、コーヒーの豆を煎った匂いが流れ込んできた。

「寝てる?」

「起きています」

「それは見れば分かる。寝てない顔だから聞いたの」

理沙は返事を待たず、土間から座敷へ上がった。手袋を外し、窓、ストーブ、玄関の鍵を順番に見た。私の家へ来るたび、同じ順番で確認する。家の中にいるものより、自分の手順を信じているようだった。

「何を書いてるの」

机の上を見た理沙が言った。

「写しているだけです」

「写すって、結構まじめな侵入だよ」

私はノートを閉じた。

「侵入しているのは私ではありません。あの帳面の方です」

「そういう言い方をするようになったんだ」

「実際に、私の名前が増えています」

「見せて」

私は絵日記帳を開いた。

理沙は頁を覗き込み、すぐに冗談を言わなかった。紙の上の一行を読んだあと、指を伸ばしかけて止める。触れない方がいいと判断したのだろう。

「これ、昨日はなかった?」

「ありませんでした」

「本当に?」

「本当に」

「書き写したノートの方じゃなくて?」

「帳面にあります」

「分かってる。だから聞いてる」

理沙は椅子を引き、机の向かいに座った。いつもならストーブの近くへ座るのに、その日は紙から距離を取った。

「望、書き写すのをやめた方がいいかもしれない」

「やめたら、何が書かれたのか分からなくなります」

「分からなくなった方がいいこともある」

「宗像さんも同じことを言いました」

「宗像さんが言うと、何でももっともらしく聞こえるから困るんだよね。あの人、村の中では紙と木の通訳みたいな顔をしてるけど、全部知ってるわけじゃない。知ってても言わないだけかもしれないし」

「では、理沙さんは何を知っているんですか」

理沙はコーヒーの蓋を開けた。湯気が細く立ち、座敷の湿った空気と混ざる。

「知ってることと、見たことは違う。私はこの谷に来てから、家の中の物の位置が変わるのを何度か見た。自分で置いたものを忘れた可能性もある。疲れていた可能性もある。だから、全部を家のせいにはしてない」

「でも、何かはあった」

「何かはあったよ。私の家の改修ノートに、祖母の名前が書かれていた。私は祖母に会ったことがない。それは今でも消せない」

「どうして捨てないんですか」

「捨てられないからじゃない。捨てたら、あったことまでなかったことにする気がしたから」

「私も、そうです」

「だから危ないって言ってる」

理沙は紙コップを両手で包んだ。指先で温度を確かめている。

「記録って、残すためのものだと思うでしょ。でも実際には、残したものの隣へ別のものを置くためにも使われる。名前を書けば、その人がいた証拠になる。でも、そこへ別の名前を書けば、前の名前は消えなくても役割が変わる。前の人の持ち物だったものが、次の人の記憶になる。家の中では、それが自然に起きる」

「自然に?」

「そう。誰も悪くない形で。誰も書き換えたつもりがない形で。前の人の椅子に次の人が座る。前の人の道具を次の人が使う。押し入れに残った帳面を、次の人が読む。そうしているうちに、家は名前を一つの暮らしとして覚える。人間は別々でも、家にとっては続きになる」

「私は続きになりたくありません」

「うん。そうだろうね」

「なら、どうすればいいんですか」

「まず、同じ頁を何度も読まないこと」

「それでは確認できません」

「確認するたび、あんたの手が帳面に残る。紙は内容だけじゃなく、読み方も覚える。あんたが何度も同じところを押さえるから、あの頁はあんたの手を待つようになる」

「そんなこと、信じられません」

「信じなくていい。けど、やめた方がいい。信じるかどうかと、手を引くかどうかは別だから」

理沙の言葉は静かだった。説得しようとしているのではなく、自分がこれ以上近づかないための線を、机の上へ引いているようだった。

「理沙さんは、私を助ける気がありますか」

尋ねてから、声が出るまでの遅れがあった。

理沙はすぐに答えなかった。コーヒーを一口飲み、冷たくなった窓ガラスへ目を向ける。

「助けるって言葉、私はあまり使いたくない」

「なぜですか」

「助ける側が、相手の生活へ入っていいと思い込みやすいから。こっちでは親切と監視が近い。食べ物を持ってくる。雪かきを手伝う。家の中を見回す。そうやって、いつの間にか何を捨てたか、誰と話したかまで知られてる。私が移住したばかりの頃、それで一度、かなり嫌な思いをした」

「だから、距離を取るんですか」

「そう。距離がない親切は、相手を家の中へ入れるだけじゃなく、自分も相手の家へ入ってしまうから。私はもう、誰かの事情に住みたくない」

「それでも、来てくれた」

理沙は私の言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を伏せた。

「窓の明かりが、三晩続けて消えなかったから。あんたが寝てないのは分かってた。顔を見ればね」

「心配だったんですか」

「心配というより、隣家として困る。倒れられると、救急車が雪道で来られない。だから、生活は壊さないで」

笑いに寄せた言い方だった。

けれど、理沙が置いていったコーヒーの紙袋は、私の机からいちばん遠い場所に置かれていた。私の手元へ直接触れないようにして、それでも飲める場所を選んでいる。その距離の取り方に、彼女なりの気遣いがあった。

私はノートを開いた。

「宗像さんは、自分で書いたものを毎日ひとつ残せと言いました」

「なら、今日の天気でも書けばいい。雪が降った。寒かった。コーヒーが苦い。そういう、家が知らないかもしれないこと」

「家が知らないことなんて、もう残っていない気がします」

「それでも書く。知られているかどうかじゃなくて、あんたが書いたという順番を残すの」

「順番」

「家に先回りされてるなら、なおさら。何かが書かれたあとで自分が反応するだけだと、ずっと後手になる。だから、先に書く。上書きするんじゃなくて、自分がここにいる日付を置く」

私はノートの新しい頁を開いた。

理沙が見ている前で、日付を書いた。

その下に、短く記す。

「今日、理沙さんがコーヒーを置いていった。」

書き終えた瞬間、襖の裏で音がした。

鉛筆を引きずる音。

一本。

二本。

三本。

理沙の手が止まった。

「今の、聞こえた?」

「はい」

「風じゃないよね」

「違います」

私たちは襖を見た。

理沙は立ち上がらなかった。逃げることも、近づくこともしない。彼女の指だけが、紙コップの縁を押さえている。

擦過音が続く。

やがて、台所と座敷を分ける襖の中央で音が止まった。紙の向こうに、短い線が浮いたように見える。理沙が目を細めた。

「何か書いてる」

「読めますか」

「まだ」

「開けてください」

「嫌だよ」

「でも、何が書かれるのか」

「だから嫌なの。見たら、次は見たものとして扱われる」

私は立ち上がった。

理沙が片手を上げた。

「望、待って」

「確認しないと」

「確認したって、納得できないよ。あんたは次の頁を見て、その次を見て、その次も見る。今の問題は、知らないことじゃなくて、知らないままにしておけないことなんだから」

その言葉が胸の奥へ入り、しばらく動けなかった。

私は知らないことを埋めたい。自分の幼少期の空白も、家族と距離を置いた時期も、なぜ旧姓を見ただけで身体が強張るのかも。空白があるから、誰かがそこへ記憶を置ける。だから、私は書き写し、読み返し、確かめようとする。

けれど、埋めるために触れるたび、空白は私のものではなくなっていく。

理沙は椅子へ座り直した。

「私が帰るまで、帳面を閉じておいて」

「帰ったあとでは?」

「そのときは、自分で決めて」

「理沙さんは、決めてくれないんですね」

「決めてほしい?」

私は答えられなかった。

理沙は少しだけ笑った。けれど、いつもの軽い笑いではなかった。

「決めてほしい顔をしてる。でも、決めた人のせいにできるほど、あんたは雑じゃないでしょ」

「……そういう言い方は、ずるいです」

「知ってる。私はずるく生きてるから。深入りしない。余計な紙は捨てる。自分の名前は自分で貼る。でも、捨てられないものが残ると、夜中に箱を開けて確かめる。そういう程度の人間」

「それでも、名前は自分で貼る」

「そこだけはね」

理沙は工具箱から小さな付箋を取り出した。薄い黄色の紙だった。自分の字で、何かを書き、私へ差し出す。

「これ、机に貼って」

受け取った付箋には、少し右上がりの文字で書かれていた。

佐伯望。

私はその字を見て、すぐに自分の字とは違うと分かった。それなのに、名前を見たとき、胸の奥のどこかが緩んだ。名前がここにあることではなく、誰かが私のために、私のいる場所へ置いたことが嬉しかった。

「私が書いた方がいいんじゃないですか」

「自分で書いたら、今の帳面と同じになる気がするでしょ」

理沙の言葉に、手が止まった。

「そう思っている顔だった」

私は付箋を机の端へ貼った。右側の角を指で押さえる。剥がれないように、何度も押さえる。紙の下に空気が残り、そこだけが小さく膨らんだ。

襖の裏から、また音がした。

今度は一度だけだった。

短い線を引く音。

理沙が立ち上がる。

「今日は帰る」

「もうですか」

「これ以上いると、私の名前まで書かれそうだから」

冗談の形をしていたが、彼女は本気だった。窓の鍵を確かめ、ストーブの火を見て、玄関の掛け金を指で押した。最後に、机の付箋へ視線を落とす。

「それ、剥がれたら貼り直して」

「理沙さんの字で?」

「自分の字で。私の字を借りるのは一回だけにして」

戸口で、理沙は振り返った。

「望。今日の日付、消さないでね」

「家に書き換えられても?」

「書き換えられたら、その横にもう一度書けばいい。消す必要はないよ。消すと、なかったことにしたくなるから」

戸が閉まった。

しばらくして、雪を踏む足音が遠ざかる。私は座敷に戻り、絵日記帳の前へ座った。

理沙の付箋は、机の端で黄色く浮いている。

私は絵日記帳を開かなかった。

代わりに、無地のノートを開く。さっき書いた一行の下へ、もう一行を足した。

「私は、今日ここにいる。」

書き終えたとき、襖の裏で擦過音が始まった。

一つではない。

柱の向こう。押し入れの奥。台所と座敷の境目。家の中のあちこちから、子どもの鉛筆が紙を探す音が重なって聞こえる。

私は音を聞きながら、絵日記帳を開いた。

理沙が来る前に書かれていた頁の端に、別の文が増えている。

「のぞみは、かあさんのぬったふくろをもってきた」

私は弁当包みを見た。

机の右端に置いていたはずの布袋が、絵日記帳のすぐ隣へ移っている。白い名札の下には、母の字で書かれた旧姓。その横に、薄い鉛筆の線が重なっていた。

私は指でなぞらなかった。

なぞれば、濃くなる。

分かっているのに、指先は名札へ近づいた。

そのとき、絵日記の頁にある「かあさん」の文字が、別の言葉へ滲んだ。

「おかあさん」

私は息を呑んだ。

それは私が、幼い頃に母を呼んでいた言葉だった。覚えている。覚えていないはずなのに、台所の低い明かりと、縫い針を持つ手と、冬の窓に張った白い霜が、ひとつの場面になって立ち上がった。

母は弁当包みを縫っていた。

私はその隣で、誰かを待っていた。

誰かは来なかった。

その記憶の中で、私は泣いていなかった。ただ、机の上へ名札を置き、母が書いた文字を何度も指でなぞっていた。

――名前を書いておけば、なくしても戻ってくる。

声がした。

母の声なのか、つぐみの声なのか分からない。

私は頁から手を離した。

目の前の文字は、もう元に戻っていた。

「かあさん」と「おかあさん」の間に、細い鉛筆の線だけが残っている。その線は、私の旧姓の最初の一画にも、花岡の「花」の払いにも見えた。

ノートの一行目を見返す。

「私は、今日ここにいる。」

その文字の下へ、紙の裏から押し上げるように、薄い影が浮いていた。

同じ文だった。

ただし、「今日」の部分だけが違う。

「きょうも」

私はノートを閉じた。

閉じた表紙の内側で、誰かが次の頁をめくった。

今度は、私の手より先に。

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