4話 火のそばで言い残された子ども

宗像慶一を訪ねたのは、雪がいったん止んだ翌朝だった。

空から落ちてくるものはなかったが、山の稜線は白い雲の向こうに隠れたままだった。道の両側には除雪車が押し寄せた雪が高く積まれ、私の肩ほどもある壁になっている。表面は凍って薄く光り、踏み固められた道には、昨日の足跡がところどころ残っていた。私のものか、誰か別の人のものか、見分けられない程度に縁が崩れている。

絵日記帳は、母の弁当包みで包んだ。

紙表紙を直接、雪の空気にさらしたくなかった。弁当包みの名札には旧姓が縫いつけられている。出かける前、私はその文字を指でなぞった。糸の間に入り込んだ黒ずみが、昨日より濃く見えた。

家を出るとき、押し入れの戸は閉めた。掛け金などない戸だったが、中央を掌で押さえ、戸板が動かないことを確かめた。それから玄関へ戻り、靴の向きを揃えた。右の靴を少しだけ内側へ寄せ、左の踵を右に合わせる。

そこまでしてから、私は自分の動作を思い返した。

昨日、宗像の家で言われたことが耳に残っている。

――花岡家の癖が、もう出とる。

私は靴を見下ろした。自分が長年そうしてきたのか、花岡家に入ってからそうするようになったのか、分からなかった。分からないことをそのままにしておくのが嫌で、私は靴を一度ばらばらに置き、それからもう一度、いつもの順番で揃えた。

外へ出ると、冷気が鼻の奥を刺した。

宗像の家は、花岡家から坂を下りた先にある。軒先から垂れた氷柱は、透明というより灰色だった。戸口には雪かき用のスコップが二本立てかけられている。柄の先まで雪が払われ、置き場所だけが乾いていた。

私は戸を叩かなかった。

取っ手へ手を伸ばしたところで、内側から戸が開いた。

宗像は、こちらを見ずに言った。

「入れ」

私は土間へ上がった。靴を脱ぎ、つま先を揃える。雪のついた長靴を右から並べた。

宗像が、初めて私の足元を見た。

「また、その順番や」

「私の癖です」

「そう思ううちは、それでええ」

彼はそれ以上続けず、土間の奥へ歩いていった。私は布に包んだ帳面を抱え、敷居をまたぐ。外の白さが戸口で切れ、煤と乾いた木の匂いが濃くなる。宗像の家は寒かった。火鉢があるのに、熱は部屋全体へ広がらず、赤い炭の周りだけに小さく留まっている。

宗像は火鉢の前に腰を下ろした。

私は向かいへ座った。畳の下から冷気が上がり、膝の裏に溜まる。宗像は火箸で灰を崩した。一本の線を引き、別の灰でそれを埋める。また線を引く。その動きが、絵日記の余白をなぞる鉛筆に似ていた。

「それを見せに来たんか」

「知りたいことがあります」

「知りたいことは、一つに見えても、いくつか重なっとる」

「この帳面を書いた子どもの名前を教えてください」

宗像はすぐには答えなかった。

私は包みをほどき、絵日記帳を火鉢の脇へ置いた。紙表紙は冷えていた。布から出しただけなのに、そこだけ湿気を含んでいるように指先へ張りつく。

宗像は表紙に手を置いた。

「紙は、よう覚えとる」

「紙が覚えるんですか」

「紙に書いた者と、読んだ者の手をな。文字だけやない。押さえ方、めくる速さ、角の折れ方。そういうもんまで残る」

「では、この帳面にある私の旧姓も、誰かが書いた記録として残っているだけですか」

宗像は私を見なかった。表紙の端を指で撫でている。

「先に、頁を見せえ」

彼は絵日記帳を開いた。

雪だるま。かまど。凍った井戸。狐の足跡。

何度も見た絵なのに、宗像の前で開かれると、別のものに見えた。子どもの遊びではなく、家の中に残った順序の記録。雪だるまを作る場所、火をつける時間、長靴を脱ぐ向き、井戸を見てはいけない夜。

宗像は、頁の端に残された薄い線を指で辿った。

「絵は、子どものもんや」

「文字もですか」

「最初の文字はな」

「最初の、というのは」

宗像は火箸を灰の上に置いた。

「この家で冬を越えた子は、花岡つぐみいうた」

名前が落ちた瞬間、火鉢の炭が小さく崩れた。

花岡つぐみ。

その名を、私はすでに紙の中で見ていた。けれど、人の声で聞くと、名前は急に体を持った。短く削られた鉛筆。余白を残した頁。描いた絵の角を揃える指。日付を書く前に、一度だけ鉛筆を回す癖。

知らない子どものことを、私は知っているように思った。

「何歳だったんですか」

「八つか、九つか。小学校の低学年やったと思う」

「この家で、ひとりで暮らしていたんですか」

「ひとりで、というのは少し違う。家族は出入りしとった。食べるもんも、火を焚くもんも、残していった。けれど、冬のあいだ家の中に長くおったのは、つぐみと、火と、井戸と、紙やった」

「それは、ひとりで暮らしていたということです」

「外から見ればな」

「中から見ても同じです。子どもがひとり残されて、家族が戻ってくるかどうかも分からないなら、それは置いていかれたんです」

宗像は灰を見た。

私は、自分でもなぜそこまで強く言うのか分からなかった。ただ、火のそばに残された子どもの姿が、絵日記の中からこちらへ向かってくるようだった。雪だるまの顔を毎日描き直し、井戸の氷が鳴る音を聞き、誰かが戻ってくるかもしれない戸口を見つめながら、頁の角を揃える子ども。

「置いていったのか、戻れなんだのか。そこは、誰も言い切らんかった」

「言い切らなかったんですか。それとも、言いたくなかったんですか」

「似たようなもんや」

「違います。言えなかったのと、言わなかったのでは、残される側の意味が変わります」

「残される側は、意味を選べん」

宗像はようやく私を見た。

「家の中で火を起こし、雪を払い、食べるものを残す。それで助けたことになる土地もある。名前を呼ぶ人がおらんでも、生活が続いとれば、まだ大丈夫やと考える。役所の紙に名前があれば、そこに人がおると思う。家の帳面に日付があれば、その日を越えたと思う。人そのものを確かめるより、記録が続いとることを大事にする」

「それは助けたことになりません」

言葉は遅れて出た。

私はいつも、感情が動いてから声になるまでに時間がかかる。けれど、そのときだけは遅れなかった。

宗像は火箸の先を灰に沈めた。

「そう思うか」

「思います。誰かがいるかどうかを見に行かず、紙や帳面だけを残して、生活が続いているから大丈夫だと言うのは、見捨てたのと同じです。記録は人の代わりにはなりません。書かれた名前が残っていても、その名前を持つ人が寒がっているか、怖がっているか、誰かを待っているかまでは分からない」

「では、あんたはどうする」

「何をですか」

「紙に名前が残って、家がその名を覚えたとき。本人が違うと言うても、古い記録が先に手を伸ばしてきたとき。あんたは、見捨てずに済むのか」

火箸の先が止まった。

私は返事をできなかった。

絵日記に自分の旧姓が書かれている。生まれる前の日付で、引っ越し前の住所の骨組みまで記されている。私はそれを何度も確かめた。頁を閉じ、開き、指でなぞり、無地のノートへ書き写した。確認すれば、事実は私の側へ戻ってくると思っていた。

けれど、確認するほど文字は濃くなった。

「この帳面には、私の旧姓が書かれています」

宗像の視線が頁へ落ちる。

「私が生まれる前の日付で、前の住所まで。つぐみという子が、どうして私の名前を知るんですか」

「つぐみが知っとったとは限らん」

「では、誰が」

「家やろ」

「家が文字を書くんですか」

「紙に字を書くのは人間や。人間の手を借りて、家が書かせることはある」

「同じことではありませんか」

「違う。人は、自分が書いたつもりになる。家は、書かせたことを忘れん」

私は帳面の該当頁を開いた。旧姓と、古い表記の住所。その下に、読みかけの短い文がある。私は何度も触れたため、紙の端が黒くなっていた。

「私の名前は、家のものではありません」

「名前は、生まれたときは親のものや。学校へ行けば帳面のもの、働けば役所のもの、死ねば墓のものになる。自分のものやと言える時間は、思うほど長くない」

「だから、家に持っていかれていい理由にはならない」

「持っていかれたと思うか」

「実際に、私が書いた覚えのないものが書かれている」

「それを見たあんたが、どう読むかや」

宗像は絵日記帳の表紙と本文の隙間へ指を差し入れた。紙が擦れる音がした。取り出したのは、細く折られた紙片だった。

いくつかの姓が、縦に並んでいる。

花岡。その下に、別の姓。さらに別の姓。文字を消そうとした跡があり、薄い線が幾重にも重なっていた。最後の行だけが空いている。

「これは何ですか」

「家に名前を置いた者の控えや」

「つぐみの家族ですか」

「家族とは限らん」

「では、誰の名前ですか」

「住んだ者。泊まった者。戻った者。戻らなかった者。家が覚えた者は、同じ欄に入る」

「そんな記録を、誰が作ったんですか」

「家の中におった誰かやろう」

宗像は紙片を私へ渡さなかった。指先で押さえたまま、火鉢の脇に置いている。

「最後の空欄は、何ですか」

「まだ、書かれていない」

「私の名前ですか」

「もう書かれとるかもしれん」

「見せてください」

「見たら、見た者になる」

「私はもう、絵日記を見ています」

「絵日記は入口や」

その言葉で、背中が薄くこわばった。

外の軒先で氷柱が触れ合い、かすかな音を立てた。宗像の家の中には時計がなかった。時間を測るものがないのに、沈黙だけが正確に長くなっていく。

宗像は紙片を折り直し、帳面の隙間へ戻した。

「つぐみは、家の中のことを描いた。描いたものを消されんように、頁の端に余白を残した。余白は自分だけの場所やと思うたんやろう」

「でも、家は空白を嫌う」

「そうや。空白があると、次の者を置く」

「だから、私の記憶を入れたんですか」

「家が欲しがったのは、あんたの記憶ではない。空白の続きや」

「私を、つぐみの続きにするつもりですか」

「つぐみの続きになる者は、つぐみだけとは限らん」

「意味が分かりません」

「分からんまま帰る方がええこともある」

私は立ち上がった。膝の裏が冷えて、すぐには伸びなかった。

土間の隅に、小さな石が置かれている。白い筋が一本入った、井戸の縁にあったのと同じ石だった。私はそれを見つめた。見つめているうちに、石の表面に薄い氷が張り、そこへ誰かの顔が映るような気がした。

「この家には、まだつぐみがいるんですか」

宗像は火鉢へ向き直った。

「子どもが残っとるのか、子どもが見たものだけ残っとるのか。そこを分けて考えると、かえって見失う」

「私は、つぐみを消したくありません」

言ってから、自分の声に驚いた。

恐ろしい。私の名前を先回りして書き、私の記憶のふりをして入り込んでくる。それでも、あの子が描いた雪だるまや、かまどの煤や、頁の端に残した小さな余白を、私は捨てたくなかった。

宗像は、しばらく私を見た。

「それが、いちばん危ない」

「なぜですか」

「憎んどるうちは、まだ外におる。かわいそうやと思い始めたら、家の中へ入る」

「では、何も感じずに捨てろと言うんですか」

「捨てるも、残すも、あんたが決めることや。家に決めさせるな」

その言葉だけが、火箸よりも硬く残った。

私は絵日記帳を受け取った。紙表紙は、最初に見つけたときより柔らかくなっている。角を押さえると、指の腹へ湿り気が移った。

戸口へ向かうと、宗像が柱に手を当てた。私ではなく、家へ触れているようだった。

「望」

初めて名前を呼ばれた。

私は振り返った。呼び捨てにされることが嫌いなのに、その声には乱暴さがなかった。名前を呼んだというより、そこにいるものを確かめた声だった。

「何ですか」

「家の名を、自分の名と間違えるな」

「どうやって区別すればいいんですか」

「自分で書いたものを、毎日ひとつ残せ。家が書いたものを消すためやない。家の書いたものの隣に、あんたの手を置くためや」

「それで、家が私を覚えるのを止められますか」

宗像は戸口の外を見た。白い道に、細かな雪が降り始めている。私の足跡の縁が少しずつ崩れていた。

「覚えられることと、渡すことは違う」

それだけ言って、宗像は戸を閉めた。

私は坂道を上った。

雪は音を立てずに落ちてくる。足跡の縁が白く崩れ、靴底が作った形は薄くなる。けれど、完全には消えない。窪みだけが残り、そこへ次の雪が重なっていく。

一歩進むたび、歩幅が遅れた。

前の足跡へ足を置こうとすると、靴先がわずかに横へずれる。誰かが先に踏んだ場所を避けているのか、それとも、同じ場所へ戻ろうとしているのか分からない。

花岡家が見えてきた。

屋根は白く、窓は雪明かりを返している。押し入れのある座敷の窓だけが、ほかより暗かった。

私は立ち止まった。

暗い窓の内側で、細い音がした。

鉛筆を紙へ引きずる音。

線を一本引き、少し待ち、また一本引く。つぐみが頁の余白へ何かを書いているときの音に似ていた。

私は玄関を開けた。

冷気と一緒に、湿った木の匂いが押し寄せてくる。濡れた長靴を脱ぎ、右から揃えた。戸を閉め、掛け金をかける。

机の上には、封筒、無地のノート、黒いボールペン、母の弁当包みが並んでいた。その隣に、絵日記帳がある。

私は帳面へ手を伸ばした。

右端から少し離れている。

戻そうとしたとき、紙表紙の下から、薄い鉛筆の線が覗いた。新しい頁が開いたのではない。閉じた表紙の隙間へ、内側から文字が伸びているようだった。

私は帳面を開いた。

まだ読んでいない頁の余白に、一行だけ文字があった。

「まだこない」

その下に、別の線が続いている。

「ここへ――」

そこから先は、書かれていなかった。

私は頁の角を親指で押さえた。

紙の向こうで、誰かが息をしている気がした。私のものではない、子どもの浅い呼吸。眠気と寒気が絡み合い、部屋の輪郭が少しずつぼやけていく。

それでも、指は頁から離れなかった。

空白は、まだ空白のままだった。

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