第3話 火箸の向こう

宗像慶一を訪ねたのは、その翌々日の朝だった。
雪は夜のうちに止んでいた。止んでいるのに、空はまだ雪を含んでいるらしく、山の稜線は白い雲の向こうへ沈んでいた。道の両側に積まれた雪壁には、除雪車の刃が削った筋が何本も残っている。表面だけが凍り、踏むたびに薄い膜がぱき、と割れた。
私は絵日記帳を布袋に入れ、胸の前で抱えて歩いた。濡れないようにしたつもりだったが、紙表紙は袋の中でも冷えていた。歩くたび、腕の内側へ帳面の角が当たる。押し入れから取り出したときから、ずっとそこにある感触だった。
宗像の家は、花岡家から坂を下りた先にあった。屋根の雪が深く、軒先から細い氷柱が何本も垂れている。戸口には雪かき用のスコップが二本立てかけられていたが、どちらも柄の先が磨かれていた。使われている道具は、置き場所まで決まっている。
私は戸を叩かなかった。
以前、理沙に、村の古い家では戸を叩く回数まで覚えられることがある、と冗談めかして言われたのを思い出した。冗談の中に本気が混じっていたのかもしれない。私は取っ手に手をかけ、少しだけ引いた。
内側から、すぐに戸が開いた。
宗像は戸口に立っていた。灰色の毛糸の帽子をかぶり、厚い綿入れを着ている。私を見るより先に、私の腕の中の布袋を見た。それから、靴先に付いた雪、濡れた裾、手袋の縫い目へ視線を移した。
「入れ」
短い言葉だったが、戸を開けたまま、私が土間へ上がるまで待っている。
靴を脱ぎ、つま先を揃えた。雪のついた長靴を右から並べる。宗像はそれを見ていた。見ていることを隠そうともしなかった。
「花岡家の癖が、もう出とる」
私は顔を上げた。
「何のことですか」
「靴を揃える順番や。あの家では、昔からそうする者がおった」
「私の癖です」
「そう思ううちは、それでええ」
宗像はそれ以上言わず、土間の奥へ戻った。私は布袋を抱えたまま、敷居をまたいだ。土間は深く、座敷との境目が暗い。外の白さが戸口で途切れ、家の中には煤と乾いた木の匂いが沈んでいた。
火鉢には、昨夜から残っていたらしい炭が赤くなっていた。煙は出ていないのに、火箸を動かすたび、灰の中から熱い金属の匂いが立った。
宗像は座布団を勧めなかった。私は火鉢の向こう側に腰を下ろした。そこから見ると、彼の手元がよく見える。節の太い指が火箸を持ち、灰の表面をゆっくり崩している。一本の線を引き、その線を別の灰で埋め、また引く。絵日記の頁をなぞる鉛筆の動きに似ていた。
「それを見せに来たんか」
私は布袋から帳面を出した。
「見せるだけではありません。知りたいことがあります」
「知りたいことは、たいてい一つではない」
「この帳面を書いた子どもの名前を教えてください」
宗像は答えず、絵日記帳を受け取った。紙表紙の縁に指を置き、すぐには開かない。古い帳面を読むというより、重さを量っているようだった。
やがて表紙をめくる。
雪だるま。かまど。凍った井戸。狐の足跡。
宗像は一頁ずつ進み、絵の端にある小さな余白を確かめた。そこに残った鉛筆の薄い線を、爪の先で撫でる。私なら見落とすような傷だった。
「絵は、子どものものや」
「文字もですか」
「最初の文字はな」
「最初の、というのは」
宗像は火箸を置いた。炭の赤い部分が、ゆっくりと黒く沈む。
「この家で冬を越えた子は、花岡つぐみいうた」
名前が口から落ちた瞬間、火鉢の中で炭が小さく割れた。
花岡つぐみ。
紙の上に何度も現れた名前を、初めて人の声で聞いた。丸い字の形と、頁の端に置かれた余白が、ひとりの子どもの姿に変わっていく。短く削られた鉛筆を持ち、日付を書く前に一度だけ鉛筆を回す。絵の角を揃え、最後の一文を書き切る前に、家のどこかへ顔を向ける。
私は知らない子どもを、知っているような気がした。
「何歳ぐらいだったんですか」
「小学校の低学年やったと思う。八つか、九つか。正確な年齢は、家の帳面ごと違う」
「家の帳面ごと?」
「役所の紙には、つぐみの冬は一度しかない。村の控えでは二度ある。花岡家の中の紙では、何度も冬を越しとる」
「そんなのは記録の間違いでしょう」
「間違いにしてしまえば、話は簡単や」
宗像は絵日記帳を閉じた。閉じる動作があまりに静かで、紙の中のものを起こさないようにしているように見えた。
「家の人が出ていったあと、つぐみはひとりでおった。大人がいなかった、という意味ではない。大人は出たり入ったりした。けれど、冬のあいだ家の中に残ったのは、あの子と、火と、井戸と、紙やった」
「家族は、つぐみを置いていったんですか」
「置いていったのか、戻れなんだのか。そこは誰も言い切らんかった」
「でも、子どもがひとりで冬を越すなら、誰かが助けるでしょう」
「助ける、という言葉は外から来た人間がよく使う。ここでは、家の中で火を起こし、雪を払い、食べるものを残す。それで助けたことになる。名前を呼ぶ人がいなくても、生活が続いとれば、まだ大丈夫やと考える」
「それは助けたことになりません」
自分でも思いがけないほど強く言っていた。
宗像は私を見た。目の色は薄く、白い光を吸っていた。
「そう思うか」
「思います。誰かがいるかどうかを確認することもせず、紙や帳面だけを残して、生活が続いているから大丈夫だと言うのは、見捨てたのと同じです」
「では、あんたはどうする」
「何をですか」
「紙に名前が残って、家がその名前を覚えたとき。本人が違うと言うても、古い記録が先に手を伸ばしてきたとき。あんたは、見捨てずに済むのか」
火箸の先が、灰の中で止まっていた。
私は返事をしようとした。けれど、言葉が出てこなかった。自分の旧姓が書かれた頁を閉じ、名札の滲みを指でなぞり、絵日記を机の右端へ置く。私はこれまで、確かめることばかりしてきた。確かめれば、自分の側に戻せると思っていた。
だが、確認するたびに、文字は濃くなった。
「この帳面には、私の旧姓が書かれています」
宗像の目が、布袋の中の帳面へ落ちた。
「私が生まれる前の日付で、引っ越し前の住所まで。つぐみという子どもが、どうして私の名前を知っているんですか」
「つぐみが知っとったとは限らん」
「では、誰が」
「家やろ」
その答えはあまりに淡々としていた。
「家が、字を書くんですか」
「紙に字を書くのは人間や。人間の手を借りて、家が書かせることはある」
「同じことではありませんか」
「違う。人は書いたつもりになる。家は、書かせたことを忘れん」
外では風が動いた。軒先の氷柱が触れ合い、細い音を立てた。私は火鉢の赤みに手を近づけたが、指先まで熱は届かなかった。
「私の名前は、家のものではありません」
「名前は、家のものでも、人のものでもある。生まれたときは親のもの、学校へ行けば帳面のもの、働けば役所のもの、死ねば墓のものになる。自分のものやと言える時間は、案外短い」
「だからといって、家に持っていかれていい理由にはならない」
「持っていかれたと思うか」
「実際に書き換えられています」

私は布袋から絵日記帳を出し、該当する頁を開いた。旧姓と、町名の古い表記。その下にある、読みかけの文。私は何度も指でなぞったせいで、紙の端を少し黒くしていた。
「これは私の人生です。私が住んでいた場所で、私が使っていた名前です。誰かが先に書いたからといって、その人の記憶になるわけではない」
宗像は頁を見たまま、長く黙った。
やがて、帳面の下に指を差し入れた。紙表紙と本文のあいだに、何か挟まっているらしい。宗像が慎重に引き出したのは、細く折られた紙片だった。黄色く変色し、端が擦れている。
紙片には、いくつかの名前が縦に並んでいた。
花岡。
その下に別の姓。さらに別の姓。文字のいくつかは消され、上から薄い線を引かれている。最後の行だけ、空白だった。
「これは何ですか」
「家におった者の控えや」
「つぐみの家族ですか」
「家に名前を置いた者の控えや」
「同じことではないんですか」
「人の家族と、家が覚えた者は、同じではない」
宗像は紙片を私に渡さなかった。指先で押さえたまま、火鉢の脇へ置いている。名前の列を見ていると、私の旧姓がその中に入り込むような錯覚がした。まだ書かれていないのに、空白の位置が、自分を待っている。
私は身を乗り出した。
「私の名前も、ここに書かれるんですか」
「もう書かれとるかもしれん」
「見せてください」
「見せたら、見た者になる」
「もう見ています」
「絵日記をな。だが、絵日記はまだ入口や」
その言葉に、背中の皮膚が薄く張った。
宗像は紙片を折り直し、絵日記帳の頁へ戻した。折り目は、もともとそこにあったようにぴたりと重なった。
「つぐみは、家の中のことを描いた。描いたものを消されんように、余白を残した。余白は自分だけの場所やと思うたんやろう。けれど家は、空白を嫌う」
「だから、私の記憶を入れた?」
「家が欲しがったのは、あんたの記憶ではない。空白の続きや」
「私を、つぐみの続きにするつもりですか」
「つぐみの続きになる者は、つぐみだけとは限らん」
「意味が分かりません」
「分からんままで帰る方がええこともある」
私は立ち上がりかけた。膝の裏が冷えて、力が入らない。土間の方を見ると、黒い煤の溜まった隅に、小さな石が置かれていた。井戸の縁にあったものと同じ形だった。白い筋が一本、表面を走っている。
「この家には、まだつぐみがいるんですか」
宗像はすぐには答えなかった。
火箸で炭を一度だけ返す。赤い面が現れ、灰の中で明滅した。
「子どもが残っとるのか、子どもが見たものだけ残っとるのか。そこを分けて考えると、かえって見失う」
「私は、つぐみを消したくありません」
言ってから、自分の言葉に驚いた。
恐ろしい。紙の中で私の名を先回りし、私の記憶のふりをして入り込んでくる。それでも、つぐみの絵の端にある小さな余白や、火をつける順番を忘れないための短い文を、私は手放したくなかった。
宗像は私を見た。
「それが、いちばん危ない」
「なぜですか」
「憎んどるうちは、まだ外におる。かわいそうやと思い始めたら、家の中へ入る」
「では、何も感じずに捨てろと言うんですか」
「捨てるも、残すも、あんたが決めることや。家に決めさせるな」
その言葉だけが、はっきりしていた。
私は絵日記帳を受け取った。紙表紙は、来たときより柔らかくなっている。角を押さえると、指の腹に湿り気が移った。
帰り際、宗像は戸口の柱に手を当てた。私ではなく、家の方へ触れているようだった。
「望」
初めて、名前を呼ばれた。
私は振り返った。呼び捨てにされることが嫌いなのに、その声には、乱暴さがなかった。呼んだというより、確かめた声だった。
「何ですか」
「家の名を、自分の名と間違えるな」
「どうやって区別すればいいんですか」
「自分で書いたものを、毎日ひとつ残せ。家が書いたものを消すためやない。家の書いたものの隣に、あんたの手を置くためや」
「それで、家が私を覚えるのを止められますか」
宗像は外の雪を見た。道には、私が来たときの足跡が残っている。その上へ、細かな雪が降り始めていた。
「覚えられることと、渡すことは違う」
それだけ言って、彼は戸を閉めた。
私は坂道を上った。
雪は細かく、音を立てずに落ちてくる。足跡の縁が白く崩れ、私の靴底が作った形は少しずつ消えていった。だが、完全には消えない。薄い窪みだけが残り、そこへ次の雪が重なる。
一歩進むたび、歩幅が遅れた。
前の足跡へ足を置こうとしても、私の靴はわずかに横へずれる。誰かが先に踏んだ場所を避けているのか、それとも、同じ場所へ戻ろうとしているのか分からなかった。
花岡家が見えてきた。
屋根は白く、窓は雪明かりを反している。押し入れのある座敷の窓だけが、他の窓より暗かった。私は立ち止まって、そこを見た。
暗い窓の内側で、細い鉛筆の音がした。
聞こえた気がしただけかもしれない。
だが、音の間隔を私は知っていた。線を一本引き、少し待ち、また一本引く。つぐみが頁の余白へ何かを書いているときの音だった。
私は玄関を開けた。
冷気と一緒に、湿った木の匂いが押し寄せてくる。濡れた長靴を脱ぎ、右から揃えた。昨日と同じ手順だった。土間へ上がり、戸を閉め、掛け金をかける。
机の上には、封筒、無地のノート、黒いボールペン、母の弁当包み、絵日記帳が並んでいた。
私は、手を触れていないはずの帳面を見た。
絵日記帳だけが、机の右端から少し離れている。
指先で戻そうとしたとき、紙表紙の下から、薄い鉛筆の線が覗いた。誰かが新しい頁を開いたのではない。閉じた表紙の隙間へ、内側から文字を書き出しているようだった。
私は帳面を開いた。
まだ読んでいない頁の余白に、一行だけ文字があった。
「ここへくる」
それは私の旧姓でも、花岡つぐみの名でもなかった。
けれど、その最後の「る」の払いは、私が無地のノートへ書く字と同じだった。
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