2話 家の輪郭

その夜、私は番茶を冷ましながら、絵日記を何度も読み返した。

湯呑みの縁から立つ湯気は、最初の頁をめくるたびに細くなり、やがて見えなくなった。それでも私は茶を飲まなかった。頁の角を親指で押さえたまま、手を離せずにいた。指を浮かせれば、紙が勝手に閉じる気がした。閉じた頁の向こうから、いま読んだものが戻ってくるような気もした。

絵日記には、雪だるま、かまど、井戸、狐の足跡が繰り返し描かれていた。

雪だるまの顔は、頁ごとに少しずつ違った。三つの点だけの顔、口のない顔、片目が黒く塗りつぶされた顔。かまどの煤は、煙突から上へ伸びるのではなく、いつも家の内側へ流れている。井戸には丸い蓋が載っていることもあれば、氷の面が剥き出しになっていることもあった。狐の足跡は庭から始まり、途中で途切れ、次の頁では土間の隅に現れた。

子どもの絵にしては、物の位置が具体的すぎた。

頁の端に添えられた短い文もそうだった。

「かまどのひは、あさにつける」

「ながぐつは、げんかんのひだり」

「よるは、いどをみない」

感想ではなく、手順だった。暮らしの順番を崩さないための覚え書き。誰かに教えるためではなく、自分が忘れないために書かれたものに見えた。

私は無地のノートを開いた。

絵日記の文を写せば、何が自分の記憶で、何が紙の中から入り込んだものなのか、区別できる気がした。黒いボールペンを右手に持ち、ノートの上端に日付を書こうとする。だが、数字を一つ書いたところで手が止まった。

日付の下に、もう一つの日付が浮かんだ。

絵日記に書かれていた日付。私が生まれるより前の、冬の日。

私はその数字を見ないようにしながら、つぐみの文を一行ずつ写した。

「きょうはゆきがふった」

「ゆきだるまをつくった。かおはおとうさんがつけた」

「いどがこおった。たたくとなかからおとがした」

書き写すほど、字の形が見慣れてくる。見慣れるはずなのに、指先の動きが少しずつ遅れた。私は「ふった」の「ふ」を書く途中で、次に来る文字を先に知っているような感覚に襲われた。自分が写しているのではない。紙の方が、私の手を待っている。

私は鉛筆を置いた。

その瞬間、家のどこかで、木が小さく鳴った。

乾いた音ではなかった。内側に水を含んだ木が、体をねじるように鳴った音だった。

私はノートの端を押さえたまま、顔を上げた。

座敷から北側の廊下へ続く襖が、わずかに開いている。閉めたはずだった。私は立ち上がり、襖の前まで歩いた。畳の冷たさが靴下越しに足裏へ滲み、廊下から濡れた木の匂いが流れてくる。

襖を閉める前に、裏側を見た。

白い紙の端に、鉛筆の跡があった。縦に一本、横に一本。子どもが線を引き、消しゴムで擦ったあとに残るような薄い痕だった。文字にはなっていない。けれど、その二本の線が、何かの書きかけであることだけは分かった。

私は指で触れなかった。

絵日記を開いたとき、紙の湿り気が指に残った。あの感触を、今度は自分から確かめに行きたくなかった。

翌朝、雪は降っていなかった。

それでも庭の白さは前日より増していた。夜の間に、屋根から落ちた雪や、風に吹き寄せられた雪が、家の周囲を埋めていた。窓を開けると、冷気が部屋の奥まで入り込み、台所の味噌と煤の匂いを一度に薄めた。

私は絵日記を持って、家の中を歩いた。

最初に、押し入れの位置を確かめた。絵日記の頁では、押し入れの右側に細長い柱が描かれていた。実際の柱にも、縦に三本の傷がある。次に北側の廊下へ行った。頁に描かれた廊下は、奥へ向かって少し狭くなっていた。花岡家の廊下も同じだった。床板の幅が途中で変わり、右側の壁だけがわずかに内側へ張り出している。

私は立ち止まった。

昨日、荷物を運び込んだときには気づかなかった。

台所のかまどから窓まで歩幅を数える。絵日記の絵では、かまどから窓まで七歩。実際に歩いてみると、私の歩幅で七歩だった。窓の外には、雪に埋もれた庭がある。絵の中の井戸は窓の左端に描かれていた。外を見ると、庭の雪面に、周囲より低い場所があった。

私は長靴を履き、外へ出た。

玄関先の雪を踏むと、乾いた表面が割れ、その下から湿った雪が靴底へまとわりついた。庭には何の境目もなかった。畑も用水路も井戸も、白い面の下に沈んでいる。ただ、絵日記に描かれていた位置だけが、身体の中で分かった。

私は窓から見た角度を思い出し、雪面を斜めに歩いた。

数歩進んだところで、長靴の先が何かに当たった。

雪を払いのけると、低い石の縁が現れた。絵日記に描かれていた井戸の台だった。蓋は雪の下にあるらしく、石の上には古い木片が一枚だけ残っている。木片の表面に、鉛筆のような細い傷があった。

私はしゃがみ込み、傷を見た。

文字には見えなかった。だが、見ようとするほど、ひらがなの一部に似てくる。誰かの名の最初の一画。私の旧姓に含まれる文字の形にも見えた。

背後の家から、襖の閉じる音がした。

振り返ると、座敷の窓に私の姿が映っていた。白い庭の中に立つ黒い服。その後ろ、窓の内側に、もう一つ小さな影があるように見えた。

私は急いで家へ戻った。

玄関に入ると、濡れた長靴を右から順に揃えた。揃え終えてから、もう一度見直す。左右の向きは合っている。泥も落ちている。何もおかしくない。そう確かめるために、私は靴の先を何度も見た。

昼を過ぎても、絵日記は机の上に置いたままだった。

私は土間を拭いた。雑巾を洗い、絞り、同じ場所を二度拭いた。床板の黒い筋、かまどの縁、柱の根元。手を動かしている間は、考えなくて済む。だが、拭いた場所には別のものが目についた。柱の表面に、爪で引いたような細い傷がいくつもある。昨日までは煤の筋だと思っていた。それは、子どもが背の高さを測るように残した傷だった。

私は引き出しの中の名札を取り出した。

花岡家にあった古い木箱へ、自分で「生活用品」と書いた紙を貼っていた。紙の位置が少しずれている。私は剥がして、書き直そうとした。

紙を裏返したとき、縫い目の脇に、見慣れない影が浮かんでいるのに気づいた。

母が縫った弁当包みの名札だった。

白い布に、旧姓が書かれている。何度も洗われ、糸の端が毛羽立っている。そこへ、別の字が薄く重なっていた。墨でも染みでもない。布が湿気を吸ったときに浮かぶ、記憶の跡に似ていた。

私は名札を机へ置いた。

一文字目の払いの下に、角ばった線がある。花岡の「花」の上半分にも、別の家名の一部にも見えた。

指先でなぞる。

線は消えなかった。

もう一度なぞると、輪郭が濃くなった。

私は布を握り、唇の内側を噛んだ。痛みが来るまで噛んだ。痛みが来ても、文字の影は消えなかった。

そのとき、外から車の音がした。

雪を踏むタイヤの音が近づき、花岡家の前で止まる。沢村理沙だった。彼女は玄関先で手袋を外し、袖口の雪を払ってからこちらへ歩いてきた。いつも通りの動作だった。外の冷気を家の中へ持ち込まないために、ひとつずつ順序を守っている。

「生きてる?」

「生きています」

「よかった。昨日から窓の明かりが消えないから、電気代を心配してた」

理沙はそう言って笑った。だが、私の手元にある名札を見た途端、笑い方が止まった。

「それ、どうしたの」

「もともと持ってきたものです。母が縫った名札で……」

「そうじゃなくて、その下」

私は名札を渡した。

理沙は受け取らず、紙表紙の絵日記帳を見た。机の上にある帳面へ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。

「その家、紙が湿るの早いでしょ」

「昨日も、同じことを言いましたね」

「言ったっけ」

「言いました。絵日記を見せたときに」

理沙は一拍置いた。返事の前に、相手の手元を見る癖がある。その通り、彼女の視線は私の手と名札の間を往復した。

「じゃあ、言ったんだね。覚えてないけど」

「覚えていないことを、普通に言うんですか」

「普通に言うというより、古い家に住んでると、同じことを何度も言うようになる。戸締まりしたかとか、火を消したかとか。あとは、誰にも聞かれてないのに、紙が湿るとか」

「理沙さんの家でも、こういうことがありますか」

「うちでは、名札はまだ変わってない」

「まだ、という言い方をするんですね」

「そこを拾うんだ」

理沙は薄く笑ったが、目は笑っていなかった。彼女は室内を見回し、窓、ストーブ、玄関の鍵を順に確かめた。確認が終わってから、絵日記帳の前へ座る。

「見せて」

私は帳面を開いた。

理沙は最初の頁から、時間をかけてめくった。雪だるま、かまど、井戸、狐の足跡。文字を読むたびに、表情が少しずつ変わる。驚いているというより、以前から知っていたものの位置を確かめている顔だった。

「これ、子どもの絵にしては、家のことを描きすぎじゃない?」

「私もそう思いました」

「雪だるまなら雪だるまだけでいいんだよ。普通は顔を描いて、楽しかった、で終わる。でもこれは、雪だるまを置いた場所と、そこから見える戸の向きまで残してる。生活の説明書みたい」

「つぐみという名前を知っていますか」

理沙は頁の端にある名前を見た。

「村で聞いたことはある。花岡家の子ども。昔の話だけどね。家の人がいなくなったあとも、しばらく一人で住んでいたとか、冬だけ戻ってきたとか、話す人によって違う」

「いなくなったんですか」

「そこは聞かない方がいい」

「なぜですか」

「聞いたら、次に見たものを全部それに結びつけたくなるから。古い家の噂って、そうやって生活を食べるんだよ。柱が鳴った、紙が濡れた、名前を書き間違えた。何でも昔の誰かのせいにできる。そうすると、自分の生活を自分で見なくて済む」

「でも、日記に私の旧姓が書かれていました。私が生まれる前の日付で。住所まで似ている。これは噂で済ませられることではありません」

理沙は帳面を閉じず、指先で頁の角を押さえた。

「済ませろとは言ってない。私が言ってるのは、理由を急いで一つに決めるなってこと。ここの人たちは、家の中に残った紙や傷を、役所の記録より信用する。紙に書いてあれば、誰かが見た証拠になるから。でも、紙は人の名前を重ねることもある。前に住んでいた人の名前の上に、次の人の名前を書く。家の人間はそれを、消えたんじゃなくて続いたと言う」

「私は続きになりたいわけではありません」

声が出るまで、少し遅れた。

理沙は私の顔を見た。それから、机の上に置かれた名札へ視線を落とした。

「そう言うと思った」

「私の名前は、私のものです」

「うん」

「誰かの記録の続きでも、家の都合で呼ばれる名前でもない。私はここへ、過去を引き受けるために来たんじゃなくて、過去から離れるために来ました。家族のことも、前の住所のことも、話さないで済む場所に来たかった。だから、もしこの家が私の知らない記憶を私のものにしようとしているなら、私は……」

そこで言葉が止まった。

何をするのか、決めていなかった。

絵日記を捨てるのか。燃やすのか。家を出るのか。どれも、私がこれまで物を扱ってきたやり方とは違っていた。捨てられないものを捨てるには、捨てる理由を先に作らなければならない。私はその理由をまだ持っていなかった。

理沙はコーヒーを一口飲み、冷めかけた湯気の向こうで言った。

「私は、名前を守るのが一番難しいと思ってる。紙に書くのは簡単だけど、暮らしの中で毎日その名前の人として動くのは、案外大変なんだよ。村の人は、家の名前で呼ぶ。前に住んでいた人の癖で物を置く。昔の写真を見せて、あんたもそのうち似てくるって言う。悪気はない。悪気がないから、断りにくい。断ると、家を嫌ってるみたいに見えるからね」

「理沙さんは、どうしたんですか」

「私は道具箱に自分の名前を貼った。毎日見る場所に。剥がれたら貼り直す。字が滲んだら書き直す。意味があるかは知らないけど、少なくとも、誰が使う道具かは自分で決められる」

理沙は自分の工具箱を開いた。

内側の蓋に、小さな名札が貼ってある。紙の角は浮いていたが、文字ははっきりしていた。沢村理沙。自分の字で、少し右上がりに書かれている。

「古い家に住むって、家に合わせることだと思われがちだけど、私は逆だと思ってる。自分の手順を家に覚えさせる。鍵を閉める順番、靴を脱ぐ向き、朝に窓を開ける時間。家が覚える前に、こっちが先に暮らし方を決める。そうしないと、何でも昔のせいになるから」

「家が、覚える前に」

「そう。家って、空っぽじゃないから。空っぽに見える部屋ほど、前の人の動作が残ってる。そこへ新しい人が入ると、家は新しい動作を覚える。でも、覚えるだけならいい。たまに、古い動作を返してくる家がある」

理沙はそこで言葉を切った。

ストーブの中で薪が崩れた。赤い火の粉が小さく跳ね、ガラスの内側を一瞬だけ明るくした。

「返してくるって、どういう意味ですか」

「朝、置いた覚えのない場所に道具があるとか。自分は知らない歌を口ずさんでいたとか。前の住人の癖を、自分の癖みたいにして返してくる。気づかなければ、そのまま続く」

「理沙さんにも、ありましたか」

「一度だけ」

「何が」

「祖母の名前を書いていた。自分の改修ノートに。何度も。私は祖母と暮らしたことがないのに」

理沙の声は軽かった。軽くしようとしているのが分かった。

「その名前を消したんですか」

「消した。でも、消した頁だけは捨てられなかった。結局、ノートごと箱に入れて、今も持ってる」

「捨てられないんですね」

「人のこと言えないでしょ」

そう言って、理沙は初めて私の顔をまっすぐ見た。

私は返事をしなかった。

絵日記帳を閉じ、表紙を撫でる。紙は冷えていた。古いのに乾いていない。表紙の端に描かれた雪だるまの口元は、三本の短い線でできている。その線が、少しだけ鉛筆でなぞり直されていることに気づいた。

理沙は私が見ている場所を追わなかった。

「持って帰るなら、押し入れには戻さない方がいいよ」

「どこへ置けばいいですか」

「見えるところ。家の中で、いちばん乾く場所」

「そうしたら、何か変わりますか」

「変わるかどうかは知らない。でも、隠したものを家に預けると、家のものになる気がするから」

私は絵日記帳を抱えた。

外へ出ると、雪はまた降り始めていた。細かな雪が、音もなく空から落ちている。理沙の家から花岡家までの短い道が、数分のうちに白く均されていく。私の足跡も、理沙の家の前から続くタイヤの跡も、雪の中へ薄く沈んだ。

振り返ると、私の足跡の上に、もう一つ浅い跡が重なっていた。

子どもの靴ほど小さくはない。私の長靴ほど深くもない。

雪の白さの中で、それは誰かが私の後ろを歩いた印のように見えた。

私は何度も振り返った。

道には誰もいない。

花岡家の窓だけが、白い光を返していた。押し入れのある座敷の窓は、外から見ても暗い。けれど、その暗さの中央に、細い鉛筆の線のようなものが一文字だけ浮かんでいた。

私はそれを読もうとした。

読めなかった。

読めないまま、家の戸を開けた。

玄関に入り、濡れた長靴を揃え、絵日記帳を机の右端へ置く。封筒、無地のノート、黒いボールペン、母の弁当包み。その隣に、紙表紙の帳面を置いた。

角を合わせる。

指で押さえる。

手を離す。

絵日記帳は動かなかった。

それなのに、頁の内側から、誰かが次の一枚をめくる音がした。

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