第1話 雪のない朝

霜降り谷へ入った朝、雪は降っていなかった。
降っていないのに、山の稜線は一晩で白く消えていた。空から落ちてくるものがなくても、世界のどこかで雪が増え続けているようだった。県道を外れて集落へ向かう細い道には、除雪車の押し残した雪が壁のように積まれ、車の窓より高くなっている。雪壁の向こうに見えるのは、電柱の頭と、時おり屋根の先だけだった。
運転してきた軽トラックの男は、花岡家の前でエンジンを切ると、しばらくハンドルに手を置いたまま動かなかった。
「ここで、間違いないんですよね」
私が地図を見せると、男は地図ではなく、家の軒先に掛かった古い木札を見た。墨で書かれた「花岡」の文字は、雪明かりの中で黒く湿っていた。
「住所は合ってます。家の名前も、まあ、合ってる。ただ、冬に初めて来る人は少ないんでね」
「冬に来る人は、少ないんですか」
「普通は、雪が降る前に入るんです。雪が降ってからだと、家が人を選ぶって言う人もいるし」
男は笑おうとしたが、口元だけが動いた。冗談として聞き流すには、その言葉の置き方が妙に慎重だった。
「家が、人を選ぶんですか」
聞き返した私の声は、自分で思っていたより低かった。男はようやくこちらを見た。
「古い家ですから。戸が重いとか、寒いとか、そういう話ですよ。住める人と住めない人がいる。ほら、家にも癖がありますから」
「癖なら、これから覚えます」
そう答えると、男は何も言わず荷台へ戻った。私は自分の言葉が、家に聞かせるためのもののように思えて、靴底の雪を何度も落とした。
荷物は少なかった。家具はほとんど処分し、衣類と食器、それから仕事をしていた頃の書類をいくつか残しただけだった。それでも、箱を開けるたびに紙ものが出てくる。
古い封筒。宛名の消えかかった請求書。母が縫った弁当包み。通帳を入れていた布袋。使い終えた伝票。どれも必要のないものだったが、捨てるために手に取ると、紙の厚みや折り目が、手放してはいけない理由のように感じられた。
私はそれらを机の上に並べた。
右から、封筒。無地のノート。黒いボールペン。母の弁当包み。
一つずつ角を揃え、少しでもずれていると指先で押し戻した。弁当包みには、白い布の名札が縫いつけてある。糸の色は褪せていたが、そこに書かれた旧姓だけは、まだ読めた。母の字だった。小学校へ持っていくものには、いつもこの名札がついていた。弁当箱、水筒、上履き袋。名前を付ければ、なくしても戻ってくると母は言っていた。
私は名札を指でなぞり、布袋の中へしまった。
花岡家は、外から見るより広かった。土間から座敷へ上がる段差が低く、廊下は北側へ細長く伸びている。床板は乾いているのに、歩くと足の裏へ濡れた木の冷たさが返ってきた。煤けた柱には、何度も拭かれた跡があり、その一部だけが黒く光っている。
台所には、使われていないかまどが残っていた。煉瓦の縁に触れると、冷たいはずなのに、奥にまだ火の気があるような錯覚がした。煤の匂いが薄く漂っている。煙の匂いではない。何年も火を使っていない場所に、火を使っていた時間だけが沈んでいるような匂いだった。
荷物を運び終えた男が、玄関で靴を履きながら言った。
「夜は、戸締まりをちゃんとしてくださいよ。風が回ると、勝手に建具が鳴るんで」
「分かりました」
「あと、井戸には近づかない方がいいです。蓋はしてありますけど、雪で位置が分からなくなるから」
「庭の井戸ですか」
男は返事の代わりに、窓の外を見た。雪に埋もれた庭は一面平らで、畑との境も、用水路の線も消えている。白いところと白いところの間に、わずかな凹凸があるだけだった。
「昔の井戸です。もう使ってません」
それだけ言って、男は帰った。
車の音が遠ざかり、雪壁の向こうへ消えると、家の中は急に大きくなった。人が一人いなくなっただけなのに、梁が持ち上がり、廊下が奥へ伸びたように感じられた。
私は台所で火をつけ、番茶を淹れた。湯が沸くまでに、食器棚の中を拭き、茶碗を右から順に並べた。湯呑みを両手で包み、湯気が細くなるのを待つ。急いで飲めば舌をやけどする。そういう当たり前の順番だけが、ここではまだ私の側にあった。
夕方になっても、外は明るかった。雪が光を返しているせいだ。窓の外には、日が沈んだあとにも昼の残りが貼りついている。畑と用水路と庭の境目は、すべて白い一枚の布に縫い込まれていた。
湯呑みを置いたとき、玄関の方で木が鳴った。
一度。
間を置いて、二度。
さらに短い間を置いて、三度。
風ではない。風なら、家のどこかが続けて鳴る。今の音は、誰かが外から戸を叩いたようだった。ただし、叩いたというには弱く、家の中から返事を求めるような音だった。
私は立ち上がった。
玄関へ向かう途中、床板が一枚だけ、足の下で沈んだ。さっきも同じ場所を踏んだはずなのに、今度は沈み方が深い。私は振り返った。廊下には誰もいない。白い雪明かりが障子を透かし、柱の傷を細く浮かび上がらせている。
玄関の戸を開けると、冷気が頬を刺した。外には誰もいなかった。雪の表面に残っているのは、朝、私がつけた足跡だけだった。足跡は途中で消えている。除雪された道へ続く前に、何かに押し潰されたように浅くなっていた。
戸を閉めようとしたとき、背後でまた木が鳴った。
今度は玄関ではない。
廊下の奥だった。
私は振り向かずに戸を閉めた。錠を掛け、掛け金を指で押さえ、外れないことを確かめてから、家の奥へ戻った。音のした方には、押し入れがある。座敷の壁際に大きな襖が二枚並び、白い紙はところどころ黄ばんでいた。
荷解きの途中で、その押し入れだけはまだ開けていなかった。
私は座敷へ入り、襖の前に立った。紙の表面が冷えている。手のひらを当てると、内側からわずかな湿り気が返ってきた。家の中に、ここだけ冬の外気が溜まっているようだった。
襖を開ける。
湿った木と、古い布の匂いが押し寄せた。上段には空の衣装箱、下段には布団袋や新聞紙の束が積まれている。奥は暗く、雪明かりも届かない。
私は布団袋を手前へ引いた。底に溜まった埃が舞い、鼻の奥がかゆくなった。新聞紙を一束ずつ取り出し、日付を確かめる。古い地方紙だった。折り込み広告の文字が黄ばんでいる。その下から、紙の角が覗いていた。
最初は、子どもの絵本だと思った。

引き出してみると、紙表紙の帳面だった。表紙には、雪だるまと小さなかまどが描かれている。雪だるまの顔は三つの点と短い線でできていて、かまどの煙だけが妙に細かい。煙は屋根へ上がらず、表紙の端へ横に流れていた。
帳面を裏返すと、表紙の隅に鉛筆で小さな文字があった。
花岡。
その下に、子どもが書いたらしい名前が続いていたが、紙が擦れて読めない。私は表紙の端を親指でなぞった。紙は乾いているのに、指先だけが冷たく濡れた。
最初の頁を開く。
丸い字で、日付が書かれていた。
「きょうはゆきがふった」
その下に、雪の庭が描かれている。庭の中央に雪だるま。右手にかまどのある台所。左端には、丸い蓋の載った井戸がある。絵の隅には小さな狐の足跡が並んでいた。
「ゆきだるまをつくった。かおはおとうさんがつけた」
次の頁には、かまどの絵。
「ひをつけると、けむりがくろい。おばあちゃんはまどをあける」
さらに次の頁には、井戸が描かれていた。氷の表面に、細い線が何本も走っている。
「いどがこおった。たたくと、なかからおとがした」
私はそこで一度、帳面を閉じた。
子どもの絵日記としては、よくできていた。絵の線は素朴だが、物の位置が正確だった。かまどと押し入れの距離、窓から見える井戸の角度、雪だるまの背後にある柿の木の枝。まるで家の間取りを覚えるために描いているようだった。
それでも、古い家に残された子どもの帳面を見つけただけなら、ここまで手が止まることはなかった。
私は数頁先をめくった。
頁の端に、小さな文字があった。
子どもの字ではない。
整っている。筆圧が一定で、漢字の払いも、住所を書くときの癖も、私が知っているものに近い。
旧姓が書かれていた。
私は頁を閉じた。
閉じたあとも、文字の形が目の裏に残った。見覚えがあった。見覚えがあるのは字形だけではない。その旧姓に続いていた番地の並びが、私が花岡家へ来る前に住んでいた住所と重なっていた。
完全に同じではない。町名の表記が古く、番地の区切りも違う。それでも、骨組みが同じだった。
私は帳面を開き直した。
日付は、私が生まれるより前だった。
指先で文字をなぞる。紙は少し湿っていた。墨でも鉛筆でもない、乾ききらないものが紙の中に沈んでいるような湿りだった。
「違う」
声に出してから、私はその言葉を取り消したくなった。
何が違うのか分からない。字が違うのか、住所が違うのか、それとも、ここに書かれていること自体が違うのか。
頁の隅には、短い文があった。
「まだこない」
その「こ」の丸みだけが、私の母の字に似ていた。私は母が宛名を書くとき、最後の文字だけ少し強く押す癖を思い出した。弁当包みの名札も、同じだった。
私は帳面を机へ運んだ。
封筒、無地のノート、黒いボールペン、母の弁当包み。そこへ絵日記帳を加え、右から順に並べる。四つの角を揃え、指で押さえた。帳面だけが、ほんの少し手前へ出ている。
私は奥へ押し戻した。
すると、襖の裏側から、鉛筆を紙へ引きずるような音がした。
細く、長い音だった。
私は手を止めた。
音は一度で終わらなかった。襖の向こう、いや、襖そのものの裏側から、子どもが文字を書いているような擦過音が続いた。線を一本引き、少し間を置き、また一本引く。読める文字になるまで、何度も同じ場所をなぞっているようだった。
私は帳面の頁を開いたまま、音を聞いていた。
雪明かりだけが、座敷の畳を白くしている。暖房はまだ入れていない。足の指が冷え、袖口から入った寒気が肘まで上がってきた。それなのに、背中には家の奥から寄せられるような熱があった。
擦過音が止まる。
私は頁へ目を落とした。
さっきまで空白だった余白に、薄い鉛筆の線が一本だけ増えていた。文字にはなっていない。ただ、次の線を待つように、紙の端で止まっている。
私は帳面を閉じた。
表紙の雪だるまが、こちらを見ているように思えた。
外では雪が降っていない。なのに、屋根の上から何かが滑り落ちる音がした。重い雪が、誰もいない庭へ落ちた音だった。
私は押し入れを閉め、戸の中央を手のひらで押さえた。冷えた襖紙の向こうで、何かが同じように押し返している気がした。
手を離せなかった。
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