第10話 空白を返す帳面

朝、理沙の工具箱は消えていた。
机の上には、無地のノートと名札だけが残っている。名札は裏返したままだった。昨夜、自分で書いた「佐伯望」の字を確認しようとして、私は手を伸ばしかけた。けれど、触れる前にやめた。
工具箱があった場所だけ、畳が湿っている。
指先で触れなくても分かった。そこだけ色が濃く、木の目に沿って細い水の跡が伸びている。鉄の箱が置かれていた形に、畳が沈んでいた。
理沙の家へ返しに行かなければならない。
そう思った瞬間、玄関の外で雪を踏む音がした。
一人分の足音だった。重く、ゆっくりしている。軒下で止まり、しばらく動かない。私は名札を裏返さず、工具箱のあった場所を見た。
戸を叩く音はしなかった。
代わりに、柱を撫でるような音がした。
「望さん」
宗像慶一の声だった。
玄関を開けると、慶一は雪の積もった外套を着たまま立っていた。帽子の縁から、細かな雪が落ちている。彼は私ではなく、玄関脇の柱へ手を置いた。
「今朝は、家の音が違う」
「理沙さんの工具箱が、ここにありました」
「ありました、か」
「今はありません」
慶一は柱から手を離し、土間へ上がった。長靴を脱ぐ前に、踵を二度、三和土へ打ちつける。雪を落とす仕草なのに、その音は家の中へ合図を送っているように聞こえた。
「理沙の家へ行くか」
「その前に、聞きたいことがあります」
「聞きたいことは、たいてい一つでは済まん」
慶一は座敷へ上がらず、土間の端に腰を下ろした。私は火を起こしていないかまどの前に座る。煤の匂いが濃かった。昨夜よりも、古い灰が近くにあるような匂いだった。
「村帳を見せてください」
慶一は黙って私の顔を見た。
「花岡家の記録です。名前が重なる理由を知りたい。私の旧姓が、私の生まれる前から書かれていた理由も」
「理由を知れば、名前が戻ると思うか」
「戻すために知りたいんです」
「誰のところへ」
答えられなかった。
自分のところへ、と言おうとして、声が遅れた。自分という言葉が、すでに家の中で何人分にも使われている気がした。
慶一は外套の内側から、薄い木箱を取り出した。蓋には紙の名札が貼られている。墨で「花岡」とだけ書かれ、下にいくつもの細い線が重なっていた。
箱を開くと、古い帳面が三冊入っていた。紙の色も厚さも違う。いちばん上の帳面を慶一が開く。頁の端には、家の名前と、住んだ人の名前が並んでいた。
花岡家。
その下に、つぐみの名がある。
さらに、その下に日付のない空欄が続いていた。空欄の途中へ、別の筆跡で名前が書き込まれている。
花岡つぐみ。 佐伯。 沢村。 佐伯望。
最後の名だけ、私の字に似ていた。
「これは、いつ書かれたものですか」
「全部が同じ日に書かれたわけではない」
「私の名前は」
「今朝、見た」
「誰が書いたんですか」
「家に決まった書き手はおらん」
「そんな答えでは分かりません」
私は帳面を閉じようとした。慶一の手がその上に置かれた。指は細く、節が赤く腫れている。
「急ぐな。家の書き方は、人の書き方とは違う。先に名を書く。あとから暮らしを合わせる」
「それは、私の人生を決めるということですか」
「決めるというより、空いているところへ置く」
「空いているところ?」
「誰かがいなくなった。誰かが出ていった。誰かが名を変えた。家には、そのたびに空白ができる。空白を空白のままにしておくと、家は眠らん。だから次に来た者の暮らしを、前の空白へ寄せていく」
「つぐみが書いた『まだ来ない』は、その空白ですか」
慶一は答えなかった。
帳面の三冊目を開く。そこには花岡家の間取りが描かれていた。押し入れ、北側の廊下、土間、庭の井戸。子どもの絵にあったものと同じだ。その横に、短い記述がいくつもある。
冬、ひとり。 待つ。 名、未定。 戻らず。
最後の頁に、古い封筒が挟まっていた。
紙は黄ばんでいたが、宛名だけは読めた。
佐伯望様。
私は封筒を受け取らなかった。
「私の名前です」
「そうだな」
「誰からですか」
「差出人はない」
「中身は」
「見れば分かる」
私は封筒を開いた。中には、折りたたまれた便箋が一枚入っていた。文字は薄く、ところどころ滲んでいる。
――家に残すもの。 名前ではなく、見たこと。 続きを書かないこと。 戻る者を、戻った者にしないこと。
最後の一行だけ、筆圧が強かった。
――まだ来ない。
喉が乾いた。
「つぐみは、誰を待っていたんですか」
「分からん」
「宗像さんは知っているんでしょう」
「知っていることと、言えることは違う」
「それで、何人が名前を失ったんですか」
慶一は長く黙った。土間の奥で、雪が屋根から滑り落ちる音がした。家全体がわずかに軋み、帳面の頁がひとりでに一枚めくれた。
そこには、私の旧姓が書かれていた。
今度は、花岡という字の隣ではない。つぐみの名の下でもない。
頁の中央に、ひとつだけ。
「これは、私が生まれる前の記録です」
「名は、生まれてから書かれるとは限らん」
「そんな理屈を認められると思いますか」
「認めなくていい。だが、書かれたものは消えん」
「なら、破ります」
私は帳面へ手を伸ばした。
慶一は止めなかった。
指が紙の端に触れる。乾いているはずの頁は、濡れた布のように冷たかった。破ろうと力を入れた瞬間、襖の裏で鉛筆を引く音がした。
一度。
二度。
三度。
帳面の余白に、細い線が増えた。
私は手を離した。
そこに、まだ書きかけの文字が浮かんでいた。
佐伯望。
「もう書き始めている」
慶一の声が低くなる。
「何を」
「次の頁を」
私は帳面を閉じた。だが、閉じた表紙の内側から、紙を擦る音が続いている。
家は、私の名前を書いている。
私が書くより先に。
慶一が木箱を持ち上げた。
「今夜、井戸を見に行け」
「井戸は凍っています」
「凍っているから見えるものもある」
「何が」
「空白だ」
外では雪が強くなっていた。玄関を開けると、庭の輪郭はすでに消えかけている。井戸のあるはずの場所だけ、雪面が浅くへこんでいた。
私は名札を裏返した。
自分で書いた字の下に、細い水滴がひとつ落ちる。
文字は滲まなかった。
代わりに、表側から紙を引っかく音がした。
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