9話 揺れる紙、揺れない姿勢

待機時間が長くなるほど、僕は白石澪の細部ばかり見てしまうようになった。

面接カードの角を揃える指先。机の上に置かれたペンの向き。胸元の赤いネクタイピンを、気づくたびにまっすぐ直そうとする仕草。椅子に座っていても、背筋は少しも崩れない。

赤い金具は、もう朝から何度も触れられていたせいか、わずかに傾いていた。それでも澪は、完全には直さなかった。指で位置を確かめるだけで、最後の角度を残している。

僕の左腕には、青嶺高校の紺色の腕章がある。

赤と紺。

白い机の上で、二つの学校の色が向かい合っている。

僕は自分の腕章の端を指でなぞった。布は何度も触ったせいで、糸が少し毛羽立っている。指先に引っかかる小さな感触が、妙に現実的だった。

澪の姿勢が崩れないのは、強いからではないのかもしれない。

崩れそうになるたびに、背筋を伸ばしているだけだ。

そう考えてしまうと、以前のように彼女を見下ろすことができなくなった。整っているから腹が立つのではなく、整え続けていることが眩しかった。自分が腕章に触れていないと輪郭を保てないように、澪は姿勢とネクタイピンに自分を預けている。

そのことに気づいた自分が、嫌だった。

僕は、他人の痛みを見つけると、それを自分のもののように受け取ってしまう。放送部で人の声を聞いてきたせいだ。息の乱れ、語尾の落ち方、言葉の途中にできる隙間。そういうものを拾うのが、僕の役目だった。

けれど、澪に対してだけは、拾ったものをすぐに捨てたかった。

見抜いてしまえば、敵として扱いにくくなる。

「何か」

澪が言った。

「え?」

「さっきから、私の胸元を見ている」

僕は視線を逸らした。返事をする前に、息を飲み込む。

「ネクタイピンが曲がってる」

「知っているわ」

「直せばいいだろ」

「あなたの腕章も、糸が出ている」

言われて、僕は腕を見た。

「これはいい」

「なぜ?」

「青嶺の腕章だから」

「私のネクタイピンも、翠陵のものよ」

「だから直すのか」

「直さないと、部長らしく見えないから」

澪はそう言って、赤い金具へ指を触れた。けれど、今度も直さなかった。

「部長らしく見える必要があるのか」

「あるわ」

「誰に?」

澪はすぐには答えなかった。

空調の低い唸りが、天井の奥で続いている。掲示板の紙が風を受け、端だけを震わせる。誰かが面接カードをめくり、椅子の脚が床を擦った。

「部員に」

澪は言った。

「学校に。先生に。たぶん、あなたにも」

「僕に?」

「あなたは私を、翠陵の文芸部部長として見ているでしょう」

「それは、おまえがそう見せてるからだ」

「そうね。だから、あなたのせいだけではないわ」

澪は、わずかに背筋を正した。正したというより、崩れかけた姿勢を元へ戻したように見えた。

「部長でいれば、判断の理由を説明しやすい。部長だから、部員の前で迷ってはいけない。部長だから、私情を持ち込まず、正しい言葉を選ばなければならない。そう考えているうちに、私が何を感じているのかより、部長ならどう振る舞うかが先に来るようになった」

「それは、僕も同じだ」

言ってから、僕はまた息を飲み込んだ。

「生徒会役員だから、放送部だから、企画を任された側だから。腕章を着けていれば、僕が何を言うべきかは決まっている。決まっていると思えば、何を感じているかを考えなくて済む」

「考えなくて済む?」

「考えたら、役割に合わないことを言うかもしれない。怒っているとか、怖いとか、勝ちたいとか。そういうのは、役員の言葉じゃない気がする」

「でも、あなたは怒っているときのほうが、よく話す」

「知ってる」

「先ほどもそうだったわ」

「言うなよ」

「あなたが自分で分かっているなら、言わないこともできる」

「じゃあ、言わないでくれ」

「それは無理ね」

澪の声は静かだった。

「あなたが自分の言葉を、また整えて隠そうとしているから」

その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。

痛みは、怒りよりも扱いに困る。怒りなら短い返事にできる。違う。勝手に決めるな。そう言えばいい。けれど、痛みは言葉にすると輪郭が崩れる。

僕は面接カードの角を押さえた。

「おまえは、見抜けばそれで満足なのか」

「満足?」

「相手が何を隠してるか分かれば、正しい言葉を渡せる。そういう顔をしてる」

「私は、正しい言葉を渡せるほど器用ではないわ」

「でも、そう見える」

「あなたがそう見たいだけではないの?」

澪の視線が、僕の手元へ落ちる。

「私は整っているように見える。あなたは乱れているように見える。だから、私が知っていて、あなたが知らないと思いたい。そうすれば、あなたは私に劣っていることを説明できる」

「……劣ってるよ」

言葉が、思ったより早く出た。

澪の指が止まる。

「翠陵は県内一位だ。模試の順位も、進学実績も、先生たちが話すときの声の高さも違う。青嶺が地域の活動をどれだけやっても、翠陵のほうが評価される。おまえは文章を整えて、面接の答えも作れて、僕よりずっとちゃんとしている」

声が低くなる。

「だから、去年も負けたと思った。企画を奪われたことだけじゃない。僕が作ったものを、おまえは僕よりきれいに扱えた。僕よりきれいに立って、僕よりきれいに黙った。僕はそれを、勝ち負けの差だと思った」

澪は、すぐには返さなかった。

彼女の姿勢は崩れない。けれど、膝の上に置いた手の指先が、ゆっくりと内側へ折れていく。

「それは、劣っているのではなく、違うだけよ」

「同じ夢を書いておいて、よく言えるな」

「同じ夢だからこそ言うの。あなたは声を拾う。私は言葉を削る。どちらが上かではなく、どちらも欠けている。あなたは削らなければ届かないことがある。私は削りすぎれば、何も残らない」

「おまえにも、残らないことがあるのか」

「あるわ」

澪は、自分の面接カードへ視線を落とした。

「部長として書いた文章は、誰が読んでも破綻しない。でも、読んだあとに私のことを思い出す人はいない。正しいだけの文章は、誰も傷つけない代わりに、誰のところにも残らない」

僕は、以前聞いた彼女の声を思い出した。

きれいにしないと、私は話せない。

その言葉が、今は別の形で聞こえた。

「じゃあ、今日はどうする」

「どうする、とは?」

「面接で、部長らしく答えるのか。それとも、白石澪として話すのか」

澪はネクタイピンへ指を伸ばした。

赤い金具を、今度は少しだけ外す。制服の布から浮いたそれを、まっすぐに戻そうとして、手を止めた。

「分からないわ」

澪が言った。

その一言は、今まで聞いたどの言葉よりも不安定だった。

「分からないなら、面接で詰まるぞ」

「ええ」

「困るだろ」

「困るでしょうね」

「おまえ、開き直ってるのか」

「いいえ。詰まったら、詰まったまま考えるだけよ。あなたがそうするように」

「僕は、そんなにうまくできない」

「知っているわ。だから、うまくできないまま話すの」

澪はネクタイピンを元の位置へ戻した。

今度は、少しだけ曲がったままだった。

「それが部長らしくないなら、今日は部長を受けに来たわけではないと考えることにする」

その言葉を聞いて、僕は腕章へ伸ばしかけた指を止めた。

「僕も、生徒会役員を受けに来たわけじゃない」

「そう」

「でも、役職を外すと、何を残せばいいのか分からない」

「残すのではなく、見つけるのでしょう」

「簡単に言うな」

「簡単ではないわ」

澪は僕のカードを見た。

「空白があるから、まだ見つけられる。すでに立派な理由で埋まっていたら、あなたはそれを自分のものだと思い込んでいたかもしれない」

「空白を、そんなふうに言うなよ」

「なぜ?」

「怖いからだ。面接官に見られたら、何もないと思われる。先生に見られたら、準備不足だと思われる。母に見られたら、まだ自分で決められていないとばれる」

「ばれているのではない?」

澪の言葉に、僕は顔を上げた。

「何が」

「あなたが、まだ決めきれていないこと。お母さまも、真鍋先生も、ひよりさんも、たぶん知っている」

「だから困ってるんだ」

「困っているなら、困ったまま選べばいいわ」

「それで落ちたら?」

「そのときは、落ちたという結果を引き受けるしかない」

「おまえは、怖くないのか」

「怖いわ」

澪は、背筋を伸ばしたまま答えた。

「怖いから、姿勢を崩さない。崩したら、立てなくなる気がするから。でも、立っているように見せることと、本当に揺れていないことは違う。あなたがそれを分かってしまったなら、もう隠せないでしょう」

その言葉は、責めるものではなかった。

見抜かれたことへの反発が、少しずつ形を変えていく。見抜かれているなら、少なくとも僕の前でだけは、澪は完全な部長でいなくてもいいのかもしれない。

僕も、腕章をつけた役員でいなくていい。

ひよりが、少し離れた椅子から立ち上がった。

「はい、そこまで。ふたりとも、相手の弱点を見つけて、丁寧に交換する会は終了です」

僕はひよりを見る。

「交換してない」

「してるよ。蒼は白石さんの背筋を見て、白石さんは蒼の息を見てる。観察し合って、ついでに自分のことまでばれてる」

「ひよりは、何でも軽く言うな」

「軽く言わないと、蒼は重たい言葉を全部抱えて、面接室まで運ぶでしょ」

ひよりは僕の前に水を置いた。ペットボトルのラベルの継ぎ目が、僕の指に当たりやすい向きになっている。澪の前にも同じように置いたが、彼女のほうはキャップが開けやすい向きに回してあった。

「真鍋先生、圧のかけ方だけは一流なんだよね」

ひよりが、受付の机で紙束を整えている先生へ声を投げる。

真鍋先生は顔を上げなかった。

「褒めてないな」

「褒めてるよ。圧って、才能だから」

「要らん才能だ」

「でも、蒼には効いてる」

先生の手が止まった。

紙束の角を揃えたまま、先生は一度だけ僕を見る。その視線は長くない。けれど、僕がまた腕章の端へ触れようとしていることまで、見逃していなかった。

「上手くなくていい」

先生が言った。

朝にも聞いた言葉だった。

けれど、今度は続きがあった。

「ただし、黙っていることを上手さにするな」

僕は返事をしようとして、息を飲み込んだ。

喉の奥に、言葉が引っかかる。

「……難しいですね」

「簡単だと思っていたのか」

「思ってません」

「なら、今のままで行け」

先生はそれだけ言って、紙束を受付の端へ移した。乱れていた書類はきれいに揃っている。けれど、面接カードの一枚だけ、角がわずかにずれていた。

先生はそれを直さなかった。

ひよりが先に気づき、僕も気づいた。

澪も気づいたらしい。だが、誰もその紙に手を伸ばさなかった。

整っていないものを、整えずに置いておく。

それは、思っていたより勇気のいることだった。

僕は水を一口飲んだ。冷たさが喉を通り、乾いたところへ痛みを残す。けれど、その痛みは不快ではなかった。熱があることを、隠さずに済む。

澪も水を飲んだ。

二人分のキャップが、ほとんど同時に閉じられる。

小さな音が、静かな待機フロアに並んだ。

「白石」

「何?」

「僕は、面接でたぶん詰まる」

「知っているわ」

「でも、黙って終わらせない」

澪は僕を見た。

「私も、きれいな答えで終わらせない」

「それで落ちたら?」

「そのときは、その言葉で落ちたのだと思う」

「強いな」

「強くないわ。怖いから、決めているだけ」

僕は、少しだけ笑った。

澪はそれを見て、わずかに目を細める。

「あなたも、笑えるのね」

「失礼だな」

「いつも、口元を固めているから」

「おまえだって、笑わないだろ」

「笑うわ」

「今まで見たことない」

「見ようとしていなかっただけでしょう」

その言葉に、返すものがなかった。

僕は、澪の顔を正面から見た。赤いネクタイピンはまだ曲がっている。指先は紙を押さえたままだ。背筋は伸びているが、呼吸はわずかに乱れていた。

それらを見ても、もう「奪った側の余裕」とは思わなかった。

揺れながら、揺れていないように立とうとしている人の姿だった。

廊下の奥で、案内係の声が響く。

「二十三番、二十四番の方。面接室へお願いします」

待機フロアの空気が、わずかに動いた。

僕の指が、腕章へ伸びる。

けれど、触れる寸前で止まった。

腕章はそこにある。僕が青嶺の生徒会役員だった時間も、放送部で誰かの声を整えてきた経験も、なくならない。触れなくても、役割は消えない。逆に、触れたからといって、僕自身になるわけでもない。

僕は面接カードを鞄へしまった。

志望理由の欄は、まだ完全には埋まっていない。消し跡も残っている。けれど、もうそれを隠すために紙を折ろうとは思わなかった。

澪が立ち上がる。

椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。彼女は胸元のネクタイピンに触れたが、直さなかった。

僕も立つ。

「行きましょう」

澪が言った。

「うん」

返事をする前に、息を飲み込まなかった。

廊下は、朝と同じように白かった。窓のない壁に蛍光灯の光が張りつき、空調の風が足元を薄く撫でていく。前方の扉の下から、面接室の明かりが細い帯になって伸びていた。

二十三番。

二十四番。

足音が、交互に床へ落ちる。

僕たちの間には、まだ拳ひとつ分の距離があった。けれど、その距離を埋めようとは思わなかった。近づきすぎれば、相手の言葉をまた自分のものにしてしまう気がした。必要なのは、隣にいながら、相手の声を相手のものとして聞くことだった。

扉の前で、案内係が振り返る。

「準備はいいですか」

僕は返事をする前に、いつものように息を飲み込みそうになった。

けれど、澪がわずかにこちらを見た。

見ている。

ただ、それだけだった。

待つつもりなのだと分かった。

「はい」

僕は言った。

声は少し掠れていた。けれど、借りた言葉ではなかった。

澪も、姿勢を正したまま頷く。赤いネクタイピンは、最後まで少し傾いていた。

扉が開く。

僕たちは、それぞれの言葉を抱えたまま、白い光の中へ入った。

背後で、受付票が鞄の中でかすかに擦れ合った。

その音はもう、刃物ではなかった。

揺れる紙の音だった。

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