第8話 去年の続き

呼び出しの列が、しばらく動かなかった。
廊下の奥では、別の部屋へ向かう靴音が遠ざかっている。誰かが小さく咳をし、その音が空調の低いうなりに吸い込まれる。待機フロアに残った受験生たちは、面接カードへ視線を落としたまま、互いの存在を見ないふりをしていた。
見ないふりをしているだけで、誰もが隣の呼吸を聞いている。
僕もそうだった。
机の上には、二十三番と二十四番の受付票が並んでいる。僕の札は汗を吸って端が波打ち、澪の札はまだまっすぐだった。紙の差は、そのまま僕たちの差に見えた。
青嶺と翠陵。
県内一位と、それを追う側。
奪われた側と、奪った側。
そんなふうに並べてしまえば、簡単だった。簡単だからこそ、僕は一年近く、その形で記憶を固めてきた。
澪は面接カードの端を押さえている。指先は白く、紙がわずかにしなるほど力が入っていた。赤いネクタイピンは、朝から少しだけ傾いている。それでも彼女は直そうとしなかった。
僕は、その傾きから目を離せなかった。
「……白石」
呼ぶ前に、息を飲み込んだ。
喉の奥へ何かを押し戻すような、いつもの癖だった。
澪が顔を上げる。
「何?」
「去年のこと、話す」
「今?」
「今しかない」
声が低くなった。怒っているときほど、僕は丁寧な声を作る。熱を隠そうとして、逆に言葉の輪郭だけが硬くなる。
澪は僕を見た。正面から、逸らさずに。
「面接前に?」
「面接前だからだ」
「理由になっていないわ」
「面接が始まったら、また何も言えなくなる」
言ってから、自分で傷ついた。
また。
その一言の中に、去年の壇上がそのまま残っていた。
澪の瞳がわずかに揺れた。けれど、表情は崩れない。彼女は一度目を伏せ、次の言葉を選ぶように唇を閉じた。
「それは、私のせい?」
「そうは言ってない」
「言っているのと同じでしょう」
「違う」
「何が違うの?」
静かな声だった。
その静けさが、僕には挑発に聞こえた。感情を切り離して、正しい場所だけを指で示しているように見える。
「おまえはいつもそうだな」
「どういう意味?」
「何か言われても、すぐに言葉の形を直す。中身じゃなくて、言い方だけを問題にする」
「言い方が違えば、中身も変わるわ」
「またそれか」
「ええ。またよ。言葉を雑に扱えば、相手へ渡したあとで戻せないから」
僕は受付票を握った。柔らかくなった紙が、指の腹へ貼りつく。
「戻せないのは、言葉だけじゃない」
澪の指が止まった。
「去年の合同発表会。あのとき、僕たちが作った企画を、翠陵の案みたいに発表した」
口に出すと、胸の奥に鉄の味が戻ってきた。
舞台袖の暗がり。照明の熱。直前まで握っていた原稿の紙の角。表紙に印刷されていた、翠陵学園の校章。
青嶺の名前が消えていた。
誰かが差し替えたのか、最初からそうだったのか、僕には分からなかった。ただ、壇上の中央に立つ澪だけが、妙に鮮明だった。
「青嶺の机で作った原稿を、翠陵の企画として扱った。僕が書いた部分も、ひよりが聞き取った部分も、真鍋先生が赤を入れた部分も、全部だ」
僕はそこで言葉を止めた。
澪の表情を見れば、何か分かると思った。驚くのか、否定するのか、あるいは開き直るのか。
だが澪は何も言わず、ただ僕を見ていた。
「それで?」
やがて、彼女が言った。
「それで、おまえは何を言いたいの?」
「謝れよ」
短くなった。
自分でも分かる。感情が高ぶるほど、僕の言葉は削れていく。必要な部分まで削り落として、相手へ突きつける形だけが残る。
澪の睫毛がわずかに伏せられた。
「何について?」
「分かってるだろ」
「分からないから聞いているの」
「企画を奪ったこと」
「私は、奪っていない」
澪の返事は、すぐには返ってこなかった。一拍置いてから、低く落ちた。
「少なくとも、奪ったつもりはない」
「つもりの話をしてるんじゃない」
「では、何の話?」
「結果の話だ。おまえが前に立って、翠陵の名前で発表して、青嶺の名前は消えた。僕たちは客席に座ったまま、それを聞いた。結果だけ見れば、奪ったのはおまえたちだ」
「結果だけなら、そう見えるでしょうね」
「見えるんじゃない。そうだった」
「あなたは、あの場で何か言った?」
胸の奥が硬くなった。
言えなかった。
立ち上がりかけた。喉まで声が上がった。けれど、係の先生が澪の名前を呼び、照明が舞台を白くした。その瞬間、僕は動けなくなった。
自分の企画だと言うだけでいい。
青嶺の放送部が作ったものだと、ひとこと言えばよかった。
それなのに、僕は黙った。
「言えなかった」
ようやく絞り出した。
「分かってる」
澪の声が、少しだけ揺れた。
「だったら、責めるなよ」
「責めていないわ」
「今のは責めただろ」
「確認しただけ」
「確認、確認って……」
言葉が喉へ詰まった。
澪は何かを言いかけたが、すぐに口を閉じた。彼女の指先が面接カードの端を押さえる。紙の下で、白い指が小さく震えている。
それを見た瞬間、僕の怒りはむしろ強くなった。
震えているなら、最初からそうすればいい。
何も崩さず、何も言わず、あとから正しいことだけ並べるから、僕だけが乱れているように見える。
「おまえは、あのとき何も感じなかったのか」
澪は答えなかった。
「僕たちの原稿が、翠陵の名前で読まれても。僕が客席で立ち尽くしていても。何も感じなかった?」
「感じたわ」
返ってきた声は、予想より低かった。
「感じたから、何も言えなかった」
「意味が分からない」
「分からなくていいとは言わない。でも、私にも分からなかった。あの場で何を言えばいいのか。青嶺の名前が消えている。資料が違う。発表を止めるべきだ。そう思った。でも、舞台袖には司会がいて、担当の先生がいて、次の発表を待つ人たちがいた。私が止めれば、誰かが責任を負う。止めなければ、青嶺の名前が消えたままになる」
「だから、黙って立っていた」
「そう」
「それで、僕が言うのを待っていたのか」
「待ったわ」
「僕は言えなかった」
「知っている」
「知っているなら、言えばよかっただろ!」
声が跳ねた。
何人かの受験生が、紙から目を上げた気配がした。僕は周囲を見なかった。澪だけを見ていた。彼女の赤いネクタイピンが、照明を受けて細く光っている。
「おまえが前に出たなら、おまえが言えばよかった。これは青嶺の企画だって。翠陵だけのものじゃないって。僕の代わりに言うくらい、できただろ」
澪はすぐに返さなかった。
唇の内側を噛むように、口元がかすかに動いた。
「あなたの代わりに言えば、今度は私があなたの言葉を奪うことになる」
「そんなの、言い訳だ」
「そうかもしれない」
「認めるのかよ」
「認めるわ。言い訳だったのかもしれない。私が、あなたの言葉を代わりに使うのが怖かった。翠陵の部長が青嶺の企画を説明すれば、今度は私の言葉であなたたちの声を覆うことになる。正しいことを言っても、私が前に立つ限り、私の発表に見える」
「だから、黙った?」
「ええ」
「その結果、僕たちは何も言えなかった」
「ええ」
澪が、二度続けて認めた。
その素直さが、僕には受け止めきれなかった。
謝るでもない。否定するでもない。言い訳だと分かっていると言いながら、責任を引き受けるでもない。
僕は、彼女に怒鳴れば何かが壊れると思っていた。けれど実際には、怒鳴るほど僕の中のほうが崩れていった。
「僕は、あれからずっと、おまえが奪ったと思ってた」
声が掠れた。
「おまえが何も言わずに前に立ったから。僕たちの原稿を、自分たちのものみたいに扱ったから。翠陵の名前で発表されても、何も困っていない顔をしていたから。だから、僕はおまえに負けたんだと思った。企画も、声も、立っている場所も」
長く話すつもりはなかった。
それなのに、言葉が止まらない。
「でも、本当は違う。僕は、奪われたことだけが悔しかったんじゃない。あの場で何も言えなかった自分が、一番嫌だった。おまえが怖かったんじゃない。先生や、会場や、失敗したと思われることが怖くて、誰かが代わりに言ってくれるのを待ってた。おまえが言ってくれれば、僕は自分が黙ったことを忘れられると思ってた」
喉の奥が熱くなった。
僕は口元を親指で押さえた。けれど、言葉はもう止まらなかった。
「だから、ずっとおまえを敵にしていたほうが都合がよかった。おまえが奪ったことにすれば、僕は何も言えなかった人間じゃなくて、奪われた人間でいられる。負けた理由を、全部おまえのせいにできる」
澪は、僕を見たまま動かなかった。
目を逸らされるより、そのほうが苦しかった。
「まだ、そのことを引きずっているのね」
澪の声は静かだった。
僕は反射的に言い返そうとして、息を飲み込んだ。
「……悪いか」
「悪いとは言っていないわ」
「言ってるのと同じだろ」
「違う。あなたが傷ついたことまで否定するつもりはない」
「じゃあ、何を言いたい」
「あなたは、怒っている相手を間違えているかもしれない、と言いたいの」
「おまえじゃないなら、誰だ」
「知らない」
「知らない?」
「担当の先生かもしれない。差し替えた誰かかもしれない。私自身かもしれない。あなた自身かもしれない。ひとつに決められない」
その言葉に、僕はまた腹が立った。
ひとつに決められない。
それは、澪の得意な逃げ方に聞こえた。複数の可能性を並べれば、誰も断定できない。責任の輪郭がぼやける。
「おまえは、いつもそうやって曖昧にする」
「曖昧にしているのではないわ」
「じゃあ何だ」
「間違った一つに決めつけないようにしている」
「それで、何も言えなくなる」
「……そうね」
澪はそこで、初めて視線を下げた。
「私は、言葉を間違えるのが怖い。間違えた言葉は、あとから訂正できない。だから、正確にしようとする。誰も傷つかないように、誰にも反論されないように、誰が聞いても正しい形にしようとする。でも、そうしているうちに、私が何を思っていたのか分からなくなる」
赤いネクタイピンへ指が伸びた。
けれど、彼女は直さなかった。
「発表会の日もそうだった。止めるべきだと思った。でも、止めれば誰かが傷つく。続ければ青嶺が傷つく。どちらを選んでも正しくないなら、せめて発表だけは成立させようと思った。部長として、代表として、場を壊さないことを選んだ」
「場を壊さないために、僕たちの企画を壊した」
「そうね」
「それでも、奪ってないと言うのか」
「奪っていないとは言わない。結果として、あなたたちの名前を消したまま、私は前に立った。だから、あなたが奪われたと感じるのは当然だと思う」
澪の声が、わずかに乱れた。
「でも、私はあなたたちの企画を自分のものにしたかったわけではない。そこだけは、違うと言わせてほしい」
言い切ったあと、彼女は一度息を整えた。
背筋は伸びている。けれど、指先は紙の端を押さえたままだった。整いすぎた姿勢の内側で、何かが崩れかけているように見えた。
僕は、それを見てしまった。
見てしまったから、さらに言葉が出なくなった。
「じゃあ、どうして今まで言わなかった」
やっと出た声は、思ったより小さかった。
「言うつもりはあったわ」
「いつ」
「何度も」
「でも、言わなかった」
「あなたが私を見なかったから」
僕は顔を上げた。
「僕のせいにするのか」
「そうではないわ」
「同じだろ」
「違う。あなたが悪いと言っているのではなく、私はあなたに近づく方法を失っていたと言っているの」
澪はカードを閉じた。
「廊下ですれ違っても、あなたは私を見なかった。私が声をかけようとすると、あなたは青嶺と翠陵の話に変えた。部長としてどう思うのか。翠陵として何を考えているのか。あなたは私を、ずっと学校と役職の中へ戻した」
「おまえがそう見えるからだ」
「ええ。だから、私も部長の顔を続けた」
「意味が分からない」
「あなたが私を翠陵の部長として見るなら、私はその役割で応じるしかなかった。個人として話そうとすれば、あなたの誤解を解く前に、私自身が崩れそうだったから」

その言葉が、胸の奥に残った。
澪が崩れそうだった。
僕には、そんなふうに見えなかった。見えなかったからこそ、彼女を余裕のある人間だと思った。自分とは違い、迷いも恐れもなく、きれいな言葉だけを選べる人間だと。
けれど、彼女は僕と同じように、役割の中へ逃げていた。
僕が腕章へ触れるように、澪はネクタイピンを直す。
どちらも、自分の輪郭を役職に預けるための小さな仕草だった。
「おまえは、あの日、怖かったのか」
僕が聞くと、澪はすぐには答えなかった。
空調の音が、頭上で低く続いている。掲示板の紙が揺れ、クリップがかすかに鳴った。
「怖かったわ」
澪は言った。
「部長として間違えることが。翠陵の代表として、発表を壊すことが。青嶺の人たちを傷つけることが。どれを選んでも、誰かが傷つくと思った。だから、私は一番ましそうなものを選んだ。発表を終わらせること。あとで説明できると思った。けれど、発表が終われば終わるほど、説明する機会は遠くなった」
「それで、今日まで来た」
「ええ」
「ずいぶん長いな」
「長いわね」
澪は笑わなかった。
「長い間、私は正しい説明を探していた。でも、正しい説明が見つからないから、何も言えなかった。言えないまま時間が過ぎれば、今さら何を言っても言い訳にしかならない。そう思っていた」
「今も?」
「今も、少し」
その率直さに、僕は返事を失った。
そのとき、ひよりが机の上のミントタブレットを一粒、指で転がした。白い粒は木目に沿って進み、僕と澪の受付票の間で止まった。
「ふたりとも」
ひよりの声は、明るすぎなかった。
「今ここで、去年の発表会をもう一度やり直そうとしてない?」
僕はひよりを見た。
「どういう意味だ」
「蒼は、白石さんに代わりに言ってほしい。白石さんは、蒼が自分で言ってくれるのを待ってる。去年と同じ舞台を、今度はこの机の上で作ってるみたい」
「僕は、そんなつもりじゃ」
「つもりの話じゃないよ」
ひよりは僕の受付票を見た。
「蒼は、ずっと『おまえが言えばよかった』って言ってる。でも、本当は自分が言えなかったことを、白石さんに言わせて終わらせたいんじゃないの?」
胸の奥が詰まった。
澪も、ひよりの言葉を聞いていた。彼女は反論しなかった。面接カードの上に置いた手が、わずかに緩む。
「私は、蒼の代わりにはなれない」
澪が言った。
「あなたが言えなかったことを、私が言っても、去年のあなたの声にはならない。だから、今ここで私に勝とうとしないで。あなたが本当に怒っているなら、私に向けていい。でも、その怒りを私へ預けて、身軽になろうとしないで」
言葉は静かだった。
けれど、逃げ道がなかった。
僕は、自分の受付票を見た。二十三番の数字が、汗で波打った紙の上に印刷されている。数字は僕を代表してくれない。青嶺の腕章も、放送部の原稿も、去年のメモも、僕の代わりに話してはくれない。
僕は何度も、役割の記号に守られてきた。
生徒会役員だから。
放送部だから。
企画を作った側だから。
奪われた側だから。
そのどれかでいれば、岸本蒼として何を言うかを考えずに済んだ。
「僕は」
声が出た。
けれど、その先が続かない。
澪が急かさずに待っている。ひよりも、ミントの箱へ手を置いたまま、こちらを見すぎない。
空調が低く唸る。
僕は腕章の端へ手を伸ばしかけ、止めた。
「僕は、まだ、おまえを許してない」
ようやく言えた。
「去年のことは、納得していない。おまえが前に出たことも、翠陵の名前で発表されたことも、僕が何も言えなかったことも、全部、まだ嫌だ。でも、僕が本当に怖かったのは、企画を失うことじゃなかった。失ったときに、何も言えない自分のまま残ることだった」
澪は、目を逸らさなかった。
「だから、僕はおまえを敵にした。おまえが奪ったことにすれば、僕は何もできなかった人間じゃなくて、奪われた人間になれる。おまえを許せない限り、僕は自分を責めなくて済む。そういうことだと思う」
言葉が長くなった。
喉の奥が熱い。息が足りなくなり、途中で何度も止まりそうになる。それでも、今度は削らなかった。
「だから、謝れと言った。おまえに、僕の代わりにあの日をやり直させようとした。でも、それではまた、おまえの声を借りるだけだ。僕は、去年からずっと、同じことをしていた」
澪はしばらく黙っていた。
やがて、彼女は傾いたネクタイピンへ指を触れた。いつもならまっすぐに直すはずの金具を、今度も直さずに離す。
「私も、あなたを敵にしていたのかもしれない」
「僕を?」
「ええ。あなたが何も言わなかったことを、私は責任のように受け取った。私が前に立ったのは、あなたが立たなかったからだと思えば、私は自分の判断を正当化できた。私は部長として、仕方なく舞台に出た。あなたが何も言わなかったから。そう思えば、私も自分を責めずに済んだ」
澪の声は、よく整っていた。
ただ、その整い方はもう、冷たくなかった。
「あなたを責めることで、私は自分の沈黙を見ずに済んだ。あなたが私を奪った側と決めたように、私もあなたを黙った側と決めた。お互いに、相手の役割を決めて、その中へ押し込んだ」
「……同じだな」
「同じではないわ」
澪は一拍置いた。
「でも、似ている」
僕は、初めてその言い方を嫌だと思わなかった。
受付票の端が、空調の風でわずかに浮く。二十三番と二十四番の紙が触れ、さらりと音を立てた。
「私は、あなたに謝りたい」
澪が言った。
僕は顔を上げる。
「でも、今ここで『ごめんなさい』と言えば、またきれいな言葉で終わらせてしまう気がする。私は、あなたの企画を奪ったつもりはない。でも、結果としてあなたの名前が消えた場で、私は前に立った。あなたが言えなかったことを、私は待つだけで済ませた。そのことについては、私にも責任がある」
澪の指先が、紙の上で止まった。
「だから、許してほしいとは言わない。許されるために話しているわけではない。私は、あの日の自分を正しいことにしたくないだけ。正しい判断だった、と言い切ってしまえば、私はまた部長の顔へ戻れるから」
僕は返事をしなかった。
胸の内側に、熱いものと冷たいものが同時にあった。まだ腹は立っている。澪の判断を、簡単に理解したことにはできない。理解したから許せるわけでもない。
ただ、怒りの中へ、別のものが混ざっていた。
敬意だった。
澪が、部長の顔を崩さないまま、崩れたところを見せている。僕のように声を荒らげることもなく、それでも自分の責任を言葉にしている。
その姿は、壇上で見たものとは違っていた。
「ひより」
僕が呼ぶと、ひよりは少しだけ首をかしげた。
「なに」
「今、勝負してるように見えるか」
「見えるよ」
「まだ?」
「勝負をやめるって、仲良くすることじゃないからね。蒼が白石さんを許せないままでも、白石さんの話を聞けるなら、たぶんそれで十分」
「十分なのか」
「今日のところは」
ひよりはミントを一粒、僕のほうへ転がした。
「敵を味方にしなくてもいい。相手が敵のままでも、相手の言葉を聞けることはあるから」
白い粒が、受付票の二十三番の横で止まった。
僕はそれを拾った。
表面は乾いていて、指先へわずかなざらつきが残る。口に入れると、冷たい刺激が広がった。強すぎない。喉を奪うほどではなく、そこにある緊張を少しだけ浮かび上がらせる味だった。
澪も、僕を見ていた。
「それ、辛くない?」
「普通」
「そう」
「食べるか」
言ってから、余計なことを言ったと思った。
澪は一瞬だけ目を見開いた。けれど、ひよりの小箱から一粒取る。
「いただくわ」
彼女がミントを口へ入れる。少しして、眉がわずかに寄った。
「強い」
「普通だろ」
「あなたの普通は、信用できない」
「おまえの普通もな」
ひよりが、そこで小さく息を吐いた。
「はい。裁判は休廷。原告と被告が同じミントを食べたので」
「誰が原告だ」
「蒼」
「僕は被告じゃない」
「では、白石さんが?」
「私も違うわ」
「じゃあ、二人ともただの受験生ということで」
その言葉に、僕は返事をしなかった。
ただの受験生。
青嶺の役員でも、翠陵の部長でもない。企画を奪われた人間でも、正しい判断をした代表でもない。面接カードの前で、何を書くか迷い、呼ばれるまで水を飲み、喉の奥の緊張を持て余している受験生。
澪も同じように、ミントの刺激を飲み込めずにいる。
僕は彼女の横顔を見た。
傾いた赤いネクタイピン。白くなった指先。整えられた姿勢。その奥で、ほんの少しだけ乱れている呼吸。
「白石」
「何?」
「さっきのこと、面接が終わっても話せるか」
澪は僕を見た。
「何を?」
「全部」
「全部は無理よ」
「おまえ、そういうところが――」
「でも、続きを話すことはできる」
彼女は言葉を選び、けれど今度は選びすぎなかった。
「今日だけで全部を説明する必要はないでしょう。私たちは、去年の一日を一年かけて誤解したのだから。今日一日で、きれいにほどけるとは思っていない」
「それでも、話すのか」
「あなたが、今度は逃げなければ」
「おまえもな」
「ええ」
澪は頷いた。
短い頷きだったが、そこには約束のようなものがあった。僕はそれを、言葉にして確かめようとはしなかった。言葉にした瞬間、また形を整えすぎてしまう気がしたからだ。
廊下の奥で、受験生を呼ぶ声がした。
「二十一番の方、面接室へどうぞ」
ひとりが立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、乾いた音を残す。扉が開き、白い光が廊下へ細く漏れた。
僕の番号まで、もう遠くない。
手の中の二十三番は、汗で柔らかくなっている。澪の二十四番が、机の上で風に揺れた。僕は自分の札を、その隣へ置いた。
紙の端が触れる。
さらり、と音がした。
朝なら、細い刃が入る音に聞こえただろう。
今は違った。
痛みは残っている。去年の記憶も、澪への疑いも、消えてはいない。それでも、その音の中に、相手の存在を確かめる響きが混じっている。
僕たちは、まだ敵かもしれない。
けれど、敵のままでも、隣に座って話すことはできる。
そのことを、僕は初めて知った。
澪が面接カードを閉じる。紙の角は、完全には揃っていない。赤いネクタイピンも、まだ少し傾いたままだった。
僕は、それを直そうとは思わなかった。
澪が自分で選んだずれなら、そのままにしておけばいい。
僕もまた、腕章の端へ伸ばしかけた指を止めた。
「次、呼ばれたら」
僕が言った。
「ええ」
「僕は、たぶん詰まる」
「知っているわ」
「そこで笑うなよ」
「笑わない。待つわ」
その言葉を聞いたとき、喉の奥に引っかかっていたものが、少しだけほどけた。
待つ。
去年、僕は誰かが言ってくれるのを待っていた。
今度は、自分で言う。その途中で詰まったら、詰まったままでも、誰かが待っていることを知っている。
それだけで、足元の床が少しだけ確かになった。
ひよりが、僕の手元へ水のボトルを寄せる。
「飲んどきな。今度は本当に喉が逃げるから」
「ひよりは、最後までそれだな」
「最後じゃないよ。面接のあとも水は必要」
ひよりはそう言って、澪の前のボトルも同じように少し近づけた。
澪はそれを見て、かすかに目を細める。
「小野寺さん」
「ひよりでいいって」
「ひより」
「はい」
「ありがとう」
ひよりは、すぐには返事をしなかった。
それから、いつものように軽く肩をすくめた。
「水を置いただけだから」
澪はそれ以上、何も言わなかった。
僕も、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は朝のものとは違っていた。言葉で傷つけたあと、謝罪で覆い隠すのではなく、互いがそこにいることを確かめるための沈黙だった。
空調の低い唸りが、僕たちの間を通り過ぎる。
掲示板の紙が震え、二十三番と二十四番の受付票が、また触れ合う。
今度は、どちらも折れなかった。
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