7話 白紙の余白

面接直前の待機フロアは、朝よりも静かだった。

受験生の数は減っている。呼ばれていった椅子のいくつかが、折りたたまれたまま壁際に寄せられていた。人がいなくなったぶん、空調の低い唸りが広くなったように聞こえる。天井の奥で機械が眠りながら息をしている。その息に押され、掲示板の紙が端から細かく震えていた。

僕は面接カードを膝の上に置いていた。

志望理由の欄には、何度も消しゴムをかけた跡が残っている。紙の表面は毛羽立ち、照明を受けると、白いはずの場所だけが薄く曇って見えた。

地域連携ボランティアを通じて、誰かの声を届ける活動に関心を持った。

その一文の下には、かつて続けようとした言葉が、鉛筆の影になって沈んでいる。

地域と学校の距離を縮めたい。

必要な情報を整理し、正しく発信したい。

何度も書いた。何度も直した。先生に見せるたび、語尾を変え、主語を足し、理由の順番を入れ替えた。母に見せたときは、母はカードの余白を見たあと、「まだ決めていないなら、まだ書けないでしょう」と言った。

その言葉を聞いたとき、僕は少し腹を立てた。

決めていないのではない。決めようとしている。考えている。迷っている。そう言い返したかった。けれど、結局、母の前でも一度息を飲み込んでしまった。

僕はずっと、迷っている自分を、考えているように見せてきたのかもしれない。

カードの白さを見つめる。

朝、この白さは敵だった。何も書けていない場所は、何も考えてこなかった証拠に見えた。面接官に見られたら、準備不足だと思われる。青嶺の生徒会役員として、放送部の代表として、そんな空白を持っていること自体が恥ずかしい。

でも、今は少し違って見えた。

白紙は、僕が何も持っていない証拠ではない。誰かの言葉で埋めることを、まだ拒んでいる場所だ。きれいに見える言葉を置けば、すぐに埋まる。けれど、それで本当に僕のものになるとは限らない。

僕はペンを取った。

書くつもりはなかった。ただ、指先に重さを確かめたかった。赤ペンではない。放送部で原稿を直すときのように、間違いを見つけて線を引くためのものでもない。今日は黒いボールペンだった。書いた文字を消せない。

ペン先を紙に近づける。

その距離で、手が止まった。

原稿なら、僕は迷わない。主語を置く。出来事を書く。聞いた人の言葉を並べる。最後に、伝えたいことを一文で締める。長すぎれば削り、弱ければ言葉を足す。誰かが読みやすい形にする。それが僕の仕事だった。

けれど、進路の理由だけは、整えれば整えるほど自分から離れていく。

僕はペン先を紙から離した。

「まだ書かないのね」

隣から澪の声がした。

彼女は面接カードを閉じたまま、両手をその上に置いている。紙の角は揃っている。けれど、以前のようにぴたりとは重なっていなかった。右下がほんの少しだけずれている。

胸元の赤いネクタイピンも、わずかに斜めを向いていた。

「書いたら、また余計なことを書く」

「余計なことと、必要なことの区別はつくでしょう」

「それがつかないから、空白なんだよ」

僕は返事の前に息を飲み込んだ。

澪の視線が、僕の喉元へ落ちる。けれど、何も言わなかった。以前なら、あなたは話す前に必ず息を止める、と指摘しただろう。今は、その癖をこちらへ返さずに置いている。

「空白のまま面接へ行くのは、不安ではないの?」

「不安だよ」

言ってから、少し意外だった。

不安だ、と言葉にしたのは、今日初めてかもしれない。怖い、という言葉も、失敗したくない、という言葉も、頭の中には何度も浮かんでいた。けれど、口から出す前に、もっと受験生らしい言葉へ変えていた。

責任を持って臨みたい。

これまでの経験を生かしたい。

自分の可能性を広げたい。

どれも嘘ではない。嘘ではないから、始末が悪かった。

「不安なのに、書かないのね」

「書いたら安心できるとは限らない」

「そうね」

澪はすぐに否定しなかった。

「言葉は、置けば安心できるものではないわ。置いたあとで、自分がその言葉に追いつけなくなることもある」

「おまえも?」

「私も」

澪は一度、ネクタイピンへ指を伸ばした。赤い金具に触れたところで、直すのをやめる。

「部長として話すときは、答えが先にある。部員の前では、迷っているところを見せない。学校の代表として面接を受けるなら、翠陵学園の生徒らしい答えを返す。そういう言葉は、いくらでも作れる」

「作れるなら、書けばいいだろ」

「書けるわ。でも、それを言ったあとで、私の中に何も残らない」

澪は面接カードを指先で押さえた。

「以前は、きれいな文章を書けたことが自信だった。文の構造が整っていて、語彙が正確で、読んだ人が誤解しない。それが言葉の責任だと思っていた。でも、誤解されない文章を書こうとすると、最初から誤解されようのない場所まで退いてしまう。誰も反対できない代わりに、誰にも触れられない」

「それ、僕の原稿にも言ったな」

「あなたの原稿は、逆方向へ行きすぎている」

「結局、駄目なんじゃないか」

「駄目とは言っていないわ」

「評価しているだけ?」

「……今日は、その言い方を使わないでおく」

澪の語尾が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

僕は彼女の顔を見た。澪は視線を外さなかったが、口元の緊張がわずかにほどけていた。完璧に見せるために固めていた表情が、そこだけ薄く崩れている。

廊下の奥で、扉が開いた。

「二十一番の方、面接室へどうぞ」

案内係の声が響き、ひとりの受験生が立ち上がった。椅子の脚が床を擦る。立ち上がった生徒は、何度も頭を下げながら廊下へ出ていった。

その背中が扉の向こうへ消える。

残された静けさは、先ほどよりも深かった。

あと二人。

僕の番号まで、もう遠くない。

ひよりが少し離れた席からこちらを見た。手元には、いつもの水筒とミントタブレットの小箱がある。彼女は立ち上がらず、声もかけなかった。ただ、僕のペットボトルを机の端から中央へ少しだけ滑らせる。

取るかどうかは、僕に任せる。

そういう置き方だった。

僕はボトルを手に取った。冷たい水滴が指の関節へ触れ、指先のこわばりをはっきりさせる。蓋を開け、一口飲む。

水は、喉の奥に残った熱を消してはくれなかった。

けれど、熱があることを隠さずに済む。

それだけで、少し呼吸がしやすくなった。

「白石」

「何?」

「面接で、志望理由を聞かれたらどうする」

澪はすぐに答えなかった。

赤いネクタイピンが、照明の下で小さく揺れる。彼女はそれを直さず、僕の面接カードへ視線を落とした。

「まだ決めていない」

「おまえが?」

「私が」

「それで、怖くないのか」

「怖いわ」

彼女は淡々と言った。

「ただ、怖いからといって、もっともらしい理由を選び直すのはやめる。私は、文章で誰かの声を支えたい。そう言うことはできる。でも、その理由を話すとき、以前のように『社会に貢献したいから』とは続けない」

「何と言うんだ」

「まだ、うまく言えない」

その答えに、僕は少し驚いた。

澪が「うまく言えない」と口にするところを、想像したことがなかった。言葉を選び、相手の曖昧さを正し、必要な一語だけを渡す人間だと思っていたからだ。

「言えないなら、面接で詰まるぞ」

「ええ。詰まるでしょうね」

「開き直るなよ」

「開き直ってはいないわ。詰まったときに、詰まったまま考えるだけ」

澪は僕を見た。

「あなたは、詰まることを失敗だと思っている。でも、言葉が詰まったときにしか見えないものもある。少なくとも、私はそう思うことにした」

僕の指が、ペットボトルを握り直した。

以前の澪なら、こんな言い方はしなかった。言葉が届くまでに生じる遅れを、欠点として扱っていた。けれど今は、その遅れを消そうとしていない。

「それで、面接官に不合格だと思われたら?」

「そのときは、その程度の言葉しか持っていなかったということよ」

澪の声は静かだった。

「合格するために、私ではない言葉を差し出すよりはまし。少なくとも、私が何を選んだかは残る」

その言葉が、母の声と重なった。

ちゃんと、自分で選んできなさい。

母は、受かるための言葉をくれなかった。先生も、正解を作ってくれなかった。ひよりも、僕の志望理由を代わりに書かなかった。

誰も、僕の空白を埋めなかった。

それは、見捨てられていたからではない。

僕が自分で選ぶために、手を出さずにいてくれたのだ。

僕は面接カードの白い欄へ目を戻した。

そこへ、何かを書かなければならないと思っていた。けれど、本当に必要なのは、紙を埋めることではなかった。僕が紙の前から逃げずにいることだった。

「蒼」

ひよりが、今度は名前を呼んだ。

「呼ばれる前に、一回だけ言ってみたら?」

「何を」

「面接で言うこと」

「ここで?」

「ここなら、面接官はいないし、白石さんは採点表を持ってない」

「持っていたらどうする」

澪が言った。

「蒼の点数、私がつける」

「やめろ」

「冗談。たぶん」

ひよりはそこで一拍置いた。笑いで包むには、今の空気が重すぎると判断したのだろう。ペットボトルの表面を指先でなぞりながら、僕を見る。

「立派じゃなくていいよ。途中で止まってもいい。言い直してもいい。蒼が、誰に何を渡したいのかだけ、聞かせて」

僕は口を開きかけた。

いつものように、言葉を並べる順番を考える。活動実績。学んだこと。将来への展望。面接官が頷きやすい流れ。けれど、そこまで考えたところで、僕は意識的に止めた。

その順番ではない。

「僕は」

最初の一音が、喉の奥で引っかかった。

澪もひよりも、急かさなかった。

空調の音がする。掲示板の紙が揺れる。遠くの部屋で、誰かが名前を呼ばれる。

そのすべてが聞こえていた。

僕は腕章へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。代わりに、面接カードの白い欄へ指を置く。

「僕は、聞こえなかったことにされたくない声を、聞こえる場所へ置きたい」

言い終わるまで、長くかかった。

声はきれいではなかった。最初の音は少し掠れ、途中で息が足りなくなった。けれど、その言葉は原稿から借りたものではなかった。

澪は、すぐに評価しなかった。

ひよりも、すぐに励まさなかった。

ふたりとも、僕の言葉が部屋の中へ沈んでいくのを待っていた。

やがて澪が、低い声で言った。

「それなら、誰の声かを聞かれたとき、具体的に話せるわね」

「商店街の人たち」

「どうして、その人たちなの?」

「最初は、活動だから聞いた。でも、聞いたあとで、知らないまま通り過ぎたくないと思った。魚屋の店主が、閉店後も店先を掃除していたこと。古本屋のおばさんが、探している本を見つけた人の顔を覚えていたこと。駅前のパン屋の人が、毎朝、学校へ向かう子どもたちのために焼き上がる時間を変えていたこと。そういうものを、ただの地域活動の実績としてまとめたくない」

話しながら、僕の中で言葉がつながっていく。

「僕は、そういう声を聞いたことを、なかったことにしたくない。聞いたからには、誰かが聞ける形にして置いておきたい。たぶん、僕がやりたいのは、そういうことだ」

ひよりは、わずかに首をかしげた。

「たぶん?」

「まだ、完全には分からない」

「うん。それでいいと思う」

「面接でそれを言っていいのか」

「知らない」

ひよりは平然と答えた。

「でも、今の蒼は、さっきまでより蒼っぽい」

「雑な評価だな」

「私は文芸部じゃないからね」

澪が、面接カードの上のペンを手に取った。

彼女は志望理由の欄を見たまま、何も書かずにいる。ペン先が紙へ触れることはなかった。

「白石は?」

僕が訊ねる。

「何が」

「誰の声を支えたいんだ」

澪は、しばらくカードを見ていた。

背筋は伸びている。けれど、手元のペンはわずかに震えていた。震えを隠すために、彼女は柄を強く握る。

「言葉を失った人」

「具体的じゃない」

「分かっているわ」

「おまえが嫌う言い方だろ」

「ええ。だから、今から考える」

澪は顔を上げた。

「誰かに言われた言葉ではなく、自分が感じたことを、間違いではないと思えるようにする文章を書きたい。助けるとか、救うとか、そういう大きなことではなくていい。自分の感じたことを、自分でなかったことにしないための言葉を渡したい」

僕は黙って聞いた。

「あなたの言う、聞こえる場所へ置くことと、少し似ているのかもしれないわね」

「同じではない」

「ええ。同じではない。でも、似ている」

澪の口元が、かすかに緩んだ。

僕はカードの白い欄を見た。まだ何も書かれていない。けれど、さっきまでの白さとは違う。そこには、言葉を置く前の静けさがある。

面接官に見せるための文章ではなく、僕がこれから口にする言葉を待っている静けさ。

廊下の奥で、案内係の声がした。

「二十二番の方、面接室へどうぞ」

次だ。

僕の胸の奥で、何かが一度だけ跳ねた。腕章へ指を伸ばしかける。紺色の布の端が、視界の隅で揺れている。

触れなくても、僕はここにいる。

そう思おうとした。

完全には思えなかった。

けれど、指を止めることはできた。

ひよりが、水のボトルを僕の手元へ寄せる。

「最後に一口」

「命令?」

「お願い。喉が逃げる前に」

僕はボトルを持ち上げた。

澪も同じように水を飲んだ。二人分のキャップがほとんど同時に閉じられる。小さな音が、静かなフロアに並んだ。

僕は面接カードを鞄へしまった。

白紙の欄は、白紙のままだった。

それでも、もうそれを隠したいとは思わなかった。

呼ばれたとき、僕はたぶん、途中で詰まる。言葉を間違えるかもしれない。去年のように、一瞬、喉の奥へ声が引っ込むかもしれない。

それでも、その沈黙を誰かのせいにはしない。

沈黙が生まれたら、自分でそこから言葉を探す。

「二十三番、二十四番の方」

廊下から、案内係の声が届いた。

澪が立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てる。赤いネクタイピンはまだ少し傾いていた。

僕も立った。

左腕の腕章には触れなかった。

「行きましょう」

澪が言った。

「うん」

返事をしてから、僕は一度だけ彼女を見る。

敵だと思っていた相手は、今も敵かもしれない。去年のことを許したわけではない。面接の結果がどうなるかも、僕には分からない。

ただ、同じ白紙を抱えたまま、同じ廊下を歩くことはできる。

僕たちは並んで、面接室へ続く廊下へ出た。

窓のない廊下は、朝と同じように白い。空調の風が壁に沿って流れ、掲示板の紙を細かく震わせている。前方の扉の下から、面接室の明かりが細い帯になって伸びていた。

その光へ近づくにつれて、僕の足音と澪の足音が、交互に床へ落ちていく。

二十三番。

二十四番。

番号の差はひとつしかない。

けれど、今度はその差を、勝ち負けの距離として数えなかった。

僕は、白紙のままの面接カードを鞄の中で確かめた。

書かれていないからこそ、まだ自分の声で話せる。

そう思ったとき、扉が開いた。

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白紙の余白 - 隣席の敵 - 誰でも作家life