6話 感情が先に立つ

澪が傾いたネクタイピンへ指を伸ばしたまま、結局それを直さなかった。

赤い金具は、胸元でわずかに斜めを向いている。朝の彼女なら、気づいた瞬間にまっすぐ戻していただろう。紙の角がずれているだけでも、指先で何度も揃え直していた。それなのに今は、ずれたままにしている。

僕はそのことが気になった。

気になったこと自体が、腹立たしかった。

隣の相手の細部を拾ってしまうのは、放送部で身についた癖だ。声の速さ、息の乱れ、語尾の落ち方。人の言葉を聞くとき、僕は言葉そのものより先に、その周りにあるものを拾う。

澪は面接カードを閉じた。表紙の上にペンをまっすぐ置く。けれど、いつもならそのまま膝へ戻すはずの手が、紙の端に残った。

「あなたの原稿を、もう一度見せて」

澪が言った。

僕はすぐには返さなかった。

「嫌だ」

「理由は?」

「さっきから散々、感情がどうとか、削れとか言われてる。これ以上、添削されるつもりはない」

「添削すると言っていないわ」

「同じだろ」

「同じではない」

「またそれか」

声が低くなる。自分でも分かっていた。怒るほど、僕は言葉を丁寧にしようとする。乱暴な気持ちを、整った語尾の中へ押し込める。そのせいで、声だけが冷えていく。

澪は僕を見た。見下しているように見えるほど、真正面から。

「あなたは、自分が何に怒っているのかを分けていない」

「分ける必要があるか」

「あるわ。原稿への指摘と、去年の発表会への怒りと、今ここで私があなたの志望理由を見たこと。それを全部ひとつにして、私に返している」

「返して何が悪い」

「あなたの言葉が、あなた自身を傷つけるから」

胸の奥に、薄い紙の端が入り込んだ。

「説教するなよ」

「説教ではない」

「じゃあ何だ」

「確認よ。あなたは、誰かの声を正しく届けたいと言った。そのために、まず自分の声を聞き分ける必要がある」

僕は笑いそうになった。

笑える話ではないのに、口元だけが動きかける。そんなことを、この静かな密室で、翠陵学園の文芸部長に言われる。青嶺の放送部で、他人の原稿を直してきた僕が、自分の声を聞き分けろと言われている。

「正しく、ね」

僕は机の上の原稿を取り上げた。

紙の端が指に貼りつく。何度も持ち歩いたせいで、折り目の近くが柔らかくなっていた。地域連携ボランティアについて、面接で聞かれたときに答えるための原稿だ。活動の目的、聞き取りの方法、地域へ返したもの。必要なことは、すべて書いてある。

「これのどこが感情的なんだ」

澪は僕の手から原稿を奪わず、机の上へ置くように促した。僕は少し乱暴に紙を置いた。

「読めば分かる」

「読んだ」

「なら言えよ」

「最後の一文」

澪は原稿の末尾を指で示した。

「『私は、誰かの声を正しく届けることで、地域と学校の距離を縮めたいと考えています』。ここ」

「どこが悪い」

「悪いとは言っていない」

「じゃあ、何が気に入らない」

「あなたの言葉ではない」

喉が詰まった。

澪は紙面を見ながら続けた。

「この一文は、面接官が聞けば納得しやすい。活動内容ともつながっているし、社会的な意味もある。責任感も、協調性も、将来性も見える。とてもよくできているわ」

「それは褒めてるのか」

「いいえ」

「いいえ、って」

「よくできすぎている」

静けさの中で、紙の擦れる音がした。澪の指先が、原稿の末尾をなぞっている。

「あなたは、地域の人たちの声を聞いた。その声を放送に残したかった。そこまでは、活動の事実として分かる。でも、最後に『地域と学校の距離を縮めたい』と書いた瞬間、誰にでも言える言葉になる。あなたが誰の声を聞いたのか、何に引っかかったのか、何を返せなかったのかが消える」

「面接で、そんな細かいことまで話す必要はないだろ」

「必要がないなら、なぜ書いたの?」

「伝わりやすいからだ」

「誰に?」

言葉が止まった。

澪は紙から目を上げない。

「面接官に? 先生に? 母親に? それとも、あなた自身に?」

「……全部だ」

「全部に伝わる言葉は、誰にも深く届かないことがあるわ」

その言い方が、さっきからずっと僕の中に残っていたものを逆撫でした。

僕は原稿を引き寄せ、末尾を指で叩いた。

「じゃあ、おまえならどう書く」

「私の言葉で書くなら、あなたの原稿を書き換えない」

「逃げるなよ」

「逃げていない。あなたが求めているのは、私の正解でしょう」

「正解なんか求めてない」

「求めているわ」

澪の声が、わずかに硬くなった。

「あなたは、自分で答えを持っている人間を見ると、そこから借りようとする。私が正確に話せば、あなたも正確に話せると思う。私が迷わず言葉を選べば、あなたも迷わずに済むと思う。でも、私の言葉を借りたら、あなたはまた自分の声を後ろへ置いていく」

「おまえに、僕の何が分かる」

「分かるとは言っていない」

「だったら決めつけるな」

「決めつけているのは、あなたのほうでしょう」

澪はそこで、初めて僕の目を見た。

「私を、感情がない人間だと決めつけた。去年の発表会で、何も感じずに舞台へ出たと思った。私があなたの企画を奪って、翠陵の名前を守ることを選んだと思った。今日、私の志望理由を見て、同じ言葉を書いているのは実績のためだと決めつけた。あなたは、相手の沈黙に意味を置くのが得意なのね。確認せずに」

「おまえだって、僕の沈黙に意味を置いた」

「ええ。だから今、それが間違いだったと話している」

「それで済むのかよ」

声が出た。

大きくはなかった。けれど、待機フロアの空気が一斉にこちらへ寄ったように感じた。遠くの受験生が紙をめくる音まで止まった気がする。

「間違いだったと言えば、去年のことが消えるのか。僕が何も言えなかったことも、翠陵の名前で発表されたことも、全部、誤解でしたって言えば終わるのか」

「終わらないわ」

「だったら――」

「だから、終わらせたくないと言っているの」

澪の声は静かだった。

静かなのに、僕の言葉を押し返した。

「あなたは、怒りを保っていたいのではないの? 去年のことが許せないからではなく、許せないままなら、まだ自分が傷ついた側でいられる。奪われた側でいられる。そうしていれば、あのとき何も言えなかった自分を見なくて済む」

息が止まった。

腕章の端へ手が伸びる。

紺色の布をつかんだ指先が、強くこわばった。

「……取り消せ」

「取り消さない」

「それは、僕を馬鹿にしてるのか」

「違う」

「同じだろ。僕が被害者ぶってるって言いたいんだろ」

「被害者ぶっているとは言っていない」

「言ってるのと同じだ」

「違うわ」

澪は一度、目を伏せた。唇の内側を噛むような動きが見えた。だが、次に顔を上げたとき、彼女の表情はさっきより固くなっていた。

「あなたは傷ついた。奪われたと感じた。それは事実でしょう。誰かが意図していたかどうかとは別に、あなたの中で起きたことは消えない。私がそれを否定するつもりはない。でも、あなたが自分の沈黙まで私の責任にし続けるなら、私はそれを受け取れない」

「受け取れない?」

「ええ。私は、あなたが言えなかったことの代わりにはなれない」

その言葉が、胸の奥へ深く沈んだ。

僕は、去年からずっと澪に何かを求めていたのかもしれない。謝罪。説明。認めること。あの場で僕の代わりに「これは青嶺の企画だ」と言ってくれること。

澪がそれをしてくれれば、僕はようやく許せると思っていた。

けれど、それは結局、あの日と同じだった。自分の声を誰かに預けて、代わりに言ってもらうことを待っていた。

「蒼」

ひよりの声がした。

僕は振り向かなかった。

ひよりは、すぐに水を渡さなかった。僕の呼吸が戻るまで待っている。ペットボトルを机へ置く音さえ、今は大きすぎると判断したのだろう。

「いまの蒼、原稿を読むときより速いよ」

「何が」

「怒ってるときのほうが、言葉を削るって自分で言ってたじゃん。今、削りすぎて、相手に当たるところだけ残ってる」

「ひよりまで澪の味方をするのか」

「味方とか敵とか、今日それ何回目?」

「答えろよ」

「答えたら、蒼はまた聞きたい答えだけ使うでしょ」

ひよりは一拍置いた。

「私は蒼の味方。でも、蒼が自分を傷つける言い方をしてるときまで、肯定するつもりはない」

その言葉を聞いた瞬間、僕の中の何かが折れた。

怒りの形を保っていた細い支柱が、音もなく崩れる。代わりに出てきたのは、怒りよりもずっと扱いに困るものだった。

「……じゃあ、どう言えばいい」

声が掠れた。

「何を」

「僕は、どう言えばいいんだよ」

誰に向けた言葉なのか分からなかった。澪か、ひよりか、去年の自分か。あるいは、面接カードの白い欄かもしれない。

「原稿みたいに、順番を決めて、相手が納得する形にして、最後に結論を置けばいいのか。そうすれば、僕はちゃんと話せるのか。誰かの声を届けたいって書けば、面接官は頷く。地域と学校の距離を縮めたいって言えば、責任感があると思ってもらえる。翠陵に負けたくないって言えば、幼稚だと思われる。去年のことが怖いって言えば、推薦にふさわしくないと思われる。だから、全部削った。削って、整えて、誰に見せても恥ずかしくない形にした。それなのに、最後まで空白が残る」

言葉が止まらなかった。

「僕は、誰かの声を届けたいんじゃなくて、声を届けられる人間だと思われたかっただけかもしれない。何も言えなかったくせに。奪われたと騒ぐくせに、また誰かが代わりに言ってくれるのを待っている。そういう自分を隠すために、正しい言葉を並べているだけだ」

喉が熱くなった。

僕は口元を親指で押さえた。何かを止めるように。

澪は、すぐには何も言わなかった。

彼女の視線が、僕の手元、腕章、原稿、そして面接カードの空白へ順番に落ちていく。いつもの観察だった。けれど、今はそれが測るためのものではなく、置き場所を探すためのものに見えた。

「あなたの原稿は」

澪が言った。

「感情が先に立ちすぎている」

胸が縮む。

「またそれかよ」

「最後まで聞いて」

澪は一拍置いた。

「感情が先に立つこと自体が悪いのではないわ。感情があるから、あなたは誰かの声を聞き取れた。商店街の人たちが何気なく話したことを、ただの情報として処理せずに、放送へ残そうと思った。あなたが最初に作った企画には、説明書には書けない理由があったはずよ」

澪の指が、原稿の最後の一文に触れる。

「でも、あなたはその感情を、自分の言葉で扱う前に、立派な目的へ変換した。届かせたい相手も、届いたあとに何を願うのかも言わず、『地域と学校の距離を縮めたい』とまとめた。感情を削ったのではなく、感情にふさわしい言葉を見つける前に、誰かが評価しやすい言葉へ逃げたのよ」

「逃げた……」

「ええ」

「おまえに言われたくない」

「私も同じだから」

澪は、自分の面接カードへ目を落とした。

「私も、きれいな言葉へ逃げた。あなたの原稿を見て、感情が先に立っていると思った。それが不快だった。私ができなくなったことを、あなたはまだできているように見えたから」

「できてない」

「今はそうね。でも、最初からできていなかったわけではない」

「買いかぶるな」

「買いかぶっていない。あなたの原稿を読めば分かる」

澪は原稿を僕の側へ押し返した。

「だから、削るなとは言わない。言葉は選ぶべきよ。けれど、削ったあとに何も残らないなら、それは推敲ではなく隠蔽でしょう」

隠蔽。

その言葉が、紙の上に落ちた黒い染みのように残った。

僕は原稿を見た。整った文章。活動の目的。地域への貢献。どこから読んでも間違いではない。間違いではないからこそ、僕がいなくても成立してしまう。

ひよりが、ようやくペットボトルを僕の前へ置いた。

「水」

僕は受け取った。

冷たい表面が指先へ触れる。指がこわばっていたせいで、ボトルが少し軋んだ。

「白石さんも」

ひよりは澪の前にも、同じように水を置いた。

「私は――」

「飲まなくてもいいよ。でも、置いておく。蒼だけだと、また自分が特別に弱いみたいな顔をするから」

「そんな顔はしていない」

「してる」

澪は水のボトルを見た。

ラベルの継ぎ目が、僕のほうを向いている。澪の前に置かれたボトルは、反対側を向いていた。ひよりは相手ごとに、取りやすい向きを変えている。

澪はしばらく黙っていたが、やがてキャップへ指をかけた。

開ける音が、二つ続いた。

静かな待機フロアに、同じ小さな音が並ぶ。

僕は水を飲んだ。喉の奥に残っていた熱は消えない。それでも、息が少しだけ通る。

「蒼」

澪が僕の名を呼んだ。

その呼び方は初めてだった。苗字ではなく、役職でもなく、青嶺の生徒でもない名前。

僕は顔を上げた。

「あなたが原稿に書いた『誰か』は、誰?」

また、答えにくい問いだった。

僕は一度息を飲み込んだ。けれど、今度はそのまま飲み込んで終わりにしなかった。

「……商店街の人たち」

「具体的に」

「魚屋の店主。古本屋のおばさん。あと、駅前の小さなパン屋の人」

「その人たちの声を、どうしたいの?」

「聞いてほしい」

「誰に?」

僕は原稿の上へ視線を落とした。

「学校の人たちに。あの人たちが、ただ店をやってるだけじゃないって。誰かの帰りを待ってたり、昔から町にいる理由があったり、いなくなったら困る人がいたりするって」

言葉はたどたどしかった。

けれど、原稿に書いた文章よりも、ずっと自分に近かった。

「それを、聞いた人にどうしてほしいの?」

「……すぐに何かしてほしいわけじゃない。ただ、知らないまま通り過ぎてほしくない。僕も、最初は知らなかったから」

澪は黙って聞いていた。

「僕は、声を届けたいんじゃなくて……」

喉が詰まる。

今度は長くなりすぎる前に、言葉を切った。

「聞こえなかったことにされたくない声を、聞こえる場所へ置きたい」

口にした瞬間、胸の奥で何かが動いた。

それは立派な志望理由ではなかった。面接官が頷くかどうかも分からない。地域と学校の距離がどうこうという、整った結論もない。

ただ、僕が本当に嫌だったものが、そこにはあった。

声を出したのに、なかったことにされること。

そして、自分が何も言えなかったせいで、誰かの声をそこへ置けなかったこと。

澪は、しばらく僕を見ていた。

「それなら、最初からそう言えばよかったのに」

「簡単に言うなよ」

「簡単ではないわ。私にも言えなかったから」

彼女は自分の面接カードを開いた。

志望理由の欄には、何度も書き直した跡がある。濃い線の下に、消えかけた文字が重なっていた。澪はその一番下へ指を置いた。

「私が文章で支えたいと思ったのは、昔、誰かが書いた短い手紙に助けられたから」

僕は黙って聞いた。

「内容は、たいしたものではなかった。頑張れとも、大丈夫とも書いていない。ただ、あなたがそう感じたことは、間違いではない、と書いてあった。それだけだった。でも、その言葉があったから、私は自分の感じたことを、なかったことにしないで済んだ」

澪の声が、少しだけ揺れた。

「だから私は、誰かの声を支える文章を書きたかった。でも、部長になって、評価される文章を書くようになって、いつの間にか、誰かに届く前に、正しい文章であることを優先していた。正しい文章なら傷つけないと思っていた。でも、正しいだけでは、ひとりでいる人のところまで届かない」

澪はそこで言葉を止めた。

「あなたの原稿は、整っていない。感情が先に立っている。でも、誰かのところへ行こうとしている」

僕は原稿へ目を落とした。

「だから、腹が立った」

「僕に?」

「あなたにというより、あなたの言葉に。私が捨てたものを、あなたは乱暴なまま持っていたから」

澪の指が、傾いたネクタイピンへ触れる。

今度は直さなかった。

「でも、乱暴なままでは届かないこともある」

「分かってる」

「なら、削ることも必要よ」

「おまえが言うと、また腹が立つ」

「それも、分かっている」

澪の口元が、ごくわずかに緩んだ。

僕は水を飲んだ。ミントの刺激がまだ舌に残っている。乾いた喉を冷たさが通り、さっきまで絡まっていた言葉が、少しずつほどけていく。

原稿の最後の一文を、僕は赤ペンで横線を引いた。

地域と学校の距離を縮めたい。

その言葉を消しても、活動そのものは消えない。

代わりに、空白ができた。

けれど、今度の空白は、怖くなかった。そこへ何を置くかを、僕自身が考えられる気がした。

澪は僕の手元を見た。

「書き直すの?」

「今は書かない」

「どうして」

「面接前にまた整え始めたら、元に戻りそうだから」

澪は一度目を伏せた。

「それは、賢明ね」

「褒めてるのか」

「評価しているだけ」

「やっぱり腹立つな」

「あなたは、腹を立てているときのほうが、少しだけ自分の言葉になる」

僕は返そうとして、やめた。

否定できなかった。

廊下の向こうで、案内係が次の番号を呼んだ。空調の唸りに混じって、複数の靴音が遠ざかっていく。待機フロアの席がひとつ空き、折りたたみ椅子が小さく揺れた。

僕は原稿をファイルへ戻した。

澪はその動きを見届けてから、自分の面接カードを閉じた。けれど、今度は角を完全には揃えなかった。右下が、ほんの少しだけずれている。

僕はそれを見た。

直そうとは思わなかった。

彼女がそのずれを残すのかどうかを、彼女自身に任せたかった。

ひよりが、ミントの小箱を僕たちの間へ置いた。

「一個ずつ食べる?」

「いらない」

「私は、いただくわ」

澪が白い粒を一つつまんだ。

ひよりが目を丸くする。

「珍しい」

「何が」

「白石さんが、素直に受け取るの」

「受け取るかどうかは、私が決めることだから」

澪はミントを口へ入れた。

僕は思わず彼女を見た。澪はその視線に気づいていたはずなのに、何も言わなかった。代わりに、少しだけ眉を寄せる。

「何?」

「いや。強すぎないかと思って」

「あなたと同じものなら、問題ないでしょう」

「僕が選んだわけじゃない」

「でも、食べた」

ひよりが二人を見比べ、肩をすくめた。

「はい。今日の裁判、原告と被告が同じミントを食べたので休廷」

「誰が原告だ」

「蒼」

「僕は被告じゃない」

「じゃあ、白石さんが?」

「私も違うわ」

「それなら、裁判長は私ね」

「権限がないだろ」

僕が言うと、澪がこちらを見た。

「権限がなくても、判決を出しそうね」

朝と同じ言葉だった。

けれど今度は、澪の口元にわずかな笑みがあった。

僕も、笑ったのかもしれない。自分では分からなかった。ただ、喉の奥に引っかかっていたものが、少しだけ動いた。

面接カードの空白は、まだ残っている。

原稿も完成していない。

去年のことも、許したわけではない。

それでも、僕はさっきまでのように、感情を消してから話そうとは思わなかった。感情が先に立つなら、その後ろにどんな言葉が続くのかを、自分で確かめればいい。

二十三番の受付票と、二十四番の受付票が、机の上で触れ合っている。

紙の端が擦れる音は、もう刃物ではなかった。

まだ少し痛い。

けれど、その痛みがあるからこそ、僕は自分がここにいることを確かめられた。

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