5話 去年の壇上

ひよりが僕と澪の間に水を置いたあとも、空気は完全にはほどけなかった。

透明なペットボトルが、二枚の面接カードの境目で細く光っている。僕はその水を見ながら、去年の発表会のことを思い出していた。

思い出したくて思い出したわけではない。むしろ、ずっと避けていた。けれど、ひよりが「去年の発表会も、今日の面接も、全部一緒にしてる」と言ったせいで、別々の箱に押し込めていた記憶の蓋が、ひとつずつ外れていった。

「蒼」

ひよりが僕の名前を呼んだ。

「今、思い出してる?」

「何を」

「去年のこと」

僕は返事をする前に息を飲み込んだ。

澪がこちらを見ている。正面から、逃げずに。彼女の視線が、発表会の壇上にあった赤い照明と重なった。

「……別に」

「別にって顔じゃないよ」

「ひよりは、顔を見すぎる」

「見ないと、水を渡すタイミングを逃すから」

軽口の形をしていたが、ひよりの声は柔らかくなかった。これ以上は踏み込まない。ただ、僕が自分から話すなら、そこにいる。そういう距離だった。

僕は受付票を机の上で裏返した。

二十三番の数字が消えると、ただの薄い紙になる。番号も学校名も役職もなくなれば、紙は紙に戻る。だが、その薄さの中に、僕は去年の夜を押し込めていた。

合同発表会の前日、青嶺高校の放送部室には、古い紙とインクの匂いがこもっていた。

窓の外はもう暗く、校庭の照明だけが、ブラインドの隙間から細く差し込んでいた。僕は机に広げた原稿を何度も読み直していた。地域の商店街の人たちへ聞き取りをして、学校と地域をつなぐための放送企画。商店の紹介だけではなく、店主がなぜその場所で店を続けているのか、どんな人に来てほしいのかまで聞き取って、声として届ける企画だった。

最初に言い出したのは、僕だった。

正確には、放送部の会議で僕が思いつきを口にし、ひよりが「それ、聞きたい人いると思う」と言い、真鍋先生が黒いボールペンで資料の端に丸をつけた。

そこから、僕たちは何度も商店街へ通った。

魚屋の店主は、閉店後の店先で、昔は子どもが学校帰りに立ち寄ってくれたことを話した。古本屋の女性は、誰かが探している本を見つけたときが一番うれしいと言った。聞き取りの最中、僕は相手の言葉をメモしながら、どこを放送に残すべきか考えていた。

声には、文字にならない部分がある。

言葉の間。笑う前にわずかに息を吸う音。言い切ったあと、聞き手の反応を確かめる沈黙。

僕はそれを拾いたかった。

その企画が、翠陵との合同発表会の題材になった。

学校同士の模試順位や進学実績を比べる空気の中で、合同という言葉はきれいだった。青嶺は現場で聞き取る力があり、翠陵は文章を整理して見せる力がある。互いの得意分野を組み合わせれば、ひとつの学校だけでは作れない発表になる。先生たちはそう言った。

僕も、そう思いたかった。

澪は合同作業の場で、何度も原稿を読んだ。文章の構成について意見を出し、話の順番を変えた。僕が書いた商店街の紹介文に対して、「この人が何を言ったのかより、あなたがどう受け取ったのかが前に出ている」と指摘した。

腹は立ったが、正しいことも多かった。

だから僕は、彼女の赤ペンを受け入れた。言葉を削られ、順番を入れ替えられても、声そのものを奪われたとは思っていなかった。最後に残るものが、聞き取った人の声であるなら、それでいいと思っていた。

少なくとも、発表会の前日までは。

「あなたが全部作ったの?」

澪の声で、記憶から戻された。

僕は机の上の受付票を見たまま答えた。

「全部じゃない。聞き取りは部員と分担した。原稿の最初の案を書いたのは僕だ」

「最初の案ではなく、企画そのものの話」

「だから、僕が言い出した」

「そう」

澪は短く答えた。

その一言に、何かが含まれている気がした。僕は彼女の横顔を見た。赤いネクタイピンの位置が、朝からほんの少しだけ傾いている。

「何が言いたい」

「発表会の資料を、あなたは今でも全部、自分たちのものだと思っている?」

「……どういう意味だ」

「質問に質問で返さないで」

「おまえに言われたくない」

僕の声が低くなる。

ひよりがペットボトルを指先で回した。けれど、今回は口を挟まなかった。

澪は面接カードを閉じ、膝の上に置いた。紙の角を揃える動作はいつもと同じだったが、指先の力だけが強い。

「発表会の直前、企画の構成が変わった」

「知ってる。翠陵側が、原稿を短くした」

「それだけではないわ」

「何が」

「発表資料の表紙が、差し替えられていた」

僕の喉に、あのときの鉄の味が戻ってきた。

壇上へ上がる直前、スタッフの一人が資料を運んでいた。僕は客席の脇で、表紙に印刷された校章を見た。青嶺と翠陵、両校の名前が並んでいると思っていた。けれど、照明の下で見えたのは翠陵の校章だけだった。

あれが見間違いでなければ。

僕は立ち上がりかけた。

そのとき、係の先生が「次、白石さん」と呼んだ。

澪が壇上へ出た。

僕は後ろから追いかけることも、声を上げることもできなかった。

「誰が差し替えた」

僕が聞くと、澪は一拍置いた。

「分からない」

「分からないまま、壇上に出たのか」

「出た」

「なぜ」

「発表を止める理由が、私には見つけられなかったから」

「青嶺の企画だったのに?」

「そうね」

「それなら、止める理由はあっただろ」

「あなたは、あの場で止めた?」

胸を突かれた。

僕は返事をしなかった。すると澪は、静かなまま続けた。

「私は、資料を見たときに青嶺の名前が消えていることに気づいた。最初は印刷のミスだと思った。けれど、発表順はもう動いていた。客席には両校の生徒と先生がいて、前の発表が終わり、司会が次の企画を紹介していた。私は舞台袖で、担当の先生に確認しようとした」

「それで?」

「先生は、もう始めろと言った」

「それだけ?」

「それだけよ」

澪の声が硬くなった。

「私は、表紙のことを言った。青嶺の名前がない、と。先生は『内容は合同で作ったものだから問題ない』と言った。あなたの原稿を読めば、青嶺の協力が分かる。そういう意味だったのだと思う」

「でも、表紙には翠陵しかなかった」

「ええ」

「おまえは、それで納得したのか」

「納得したわけではない」

澪は目を伏せた。唇の内側を噛むように、わずかに口元が動く。

「でも、私は舞台に出た。部長として、発表を成立させなければならないと思った。発表を止めれば、青嶺が準備不足だったように見える。翠陵が勝手に進めたようにも見える。どちらにしても、会場では誰かが責任を負うことになる」

「だから、おまえが前に立った」

「そう」

「何も言わずに?」

「何か言えば、誰かが傷つかずに済むと思った?」

その問いに、僕は言葉を失った。

澪の返事は、質問ではなかった。自分へ向けた確認のようだった。

「私は、発表を止めずに済ませれば、あとで事情を説明できると思った。発表が終わったあと、資料を確認して、青嶺の企画であることを伝えればいい。そう考えた」

「でも、言わなかった」

「あなたが、何も言わなかったから」

胸の奥で、椅子の脚を引きずるような音がした。

「僕が?」

「舞台袖で、あなたを見た。資料を見ていたでしょう。表紙のことに気づいていた。私は、あなたが何か言うと思った」

「言えなかった」

「分かっている」

「分かってるなら――」

声が詰まった。

澪は逃げなかった。

「分かっているから、言えなかったことを責めた」

空調の音が、天井の奥で低く続いている。僕は自分の受付票を握り直した。紙の端が指へ食い込む。

「責めた?」

「あなたが何も言わないなら、私は前に出るしかないと思った。あなたの代わりに説明することもできた。でも、私が言えば、今度は翠陵の部長が青嶺の企画を弁護している形になる。あなたたちの言葉を、私が代弁することになる」

「それの何が悪い」

「あなたは、誰かの言葉を勝手にねじ曲げられるのが嫌いでしょう」

僕の指が止まった。

「私が説明すれば、たとえ事実を言っても、あなたたちの企画を私の言葉に置き換えることになる。私は、それをしたくなかった」

「だから黙ったのか」

「そう」

「それで、結果的におまえの企画になった」

「そうね」

澪は否定しなかった。

その素直さが、かえって腹立たしかった。

「だったら、最初から言えばよかっただろ。僕の企画だって。青嶺の放送部が作ったものだって。おまえが黙らなければ、あんなふうにはならなかった」

「ええ。そう思う」

澪の声がわずかに揺れた。

「だから、私はあの日から、あなたに何か言わなければいけないと思っていた。でも、何を言えばいいのか分からなかった。謝れば、私が奪ったと認めることになる。違うと言えば、あなたの怒りを否定することになる。説明すれば、言い訳になる。黙れば、今までと同じになる」

「それで、ずっと黙ってたのか」

「あなたが私を見ないから」

僕は顔を上げた。

澪の目は、怒っているようには見えなかった。けれど、まっすぐすぎる視線の奥に、隠しきれない疲れがあった。

「廊下ですれ違っても、放送部の前を通っても、あなたは私を見なかった。私が声をかければ、あなたは役職の話をする。部長としてどう思うのか。翠陵として何を考えているのか。私は、部長でも翠陵でもない自分の言葉を探していたのに、あなたは私をそこへ戻した」

「僕が?」

「あなたが、というより、私がそう受け取った」

「同じだろ」

「違うわ」

澪は、そこだけは譲らなかった。

「あなたが私を敵として見ることと、私があなたに何も言えなかったことは、同じではない。けれど、二つが重なって、今まで残った」

ひよりが、机の上のミントタブレットを一粒、指で転がした。

「ふたりとも、沈黙を相手の意思だと思ったんだね」

僕はひよりを見た。

彼女は僕と澪の間に割って入るのではなく、少し離れた場所から言葉を置いた。

「蒼は、白石さんが黙ってたから、奪った側の余裕だと思った。白石さんは、蒼が黙ってたから、もう自分で言うつもりがないんだと思った。どっちも、相手が何かを選んで黙ってると思った」

「私は、そう思ったわけでは――」

「白石さん」

ひよりの声は穏やかだった。

「違うなら、違うって言っていいよ。でも、蒼の沈黙を見て、そこに意味を置いたのは本当でしょう?」

澪は黙った。

長い沈黙だった。

彼女の赤いネクタイピンが、照明の下で小さく傾いている。直すために伸びた指は、今度は金具へ触れなかった。

「……本当です」

澪が言った。

「私は、岸本くんが何も言わなかったことを、意思だと受け取った。発表を任せる意思。私に前へ出ろという意思。あるいは、もう自分の企画だと主張するつもりがないという意思。いくつも考えた。でも、どれも確かめなかった」

「どうして」

「確かめるのが怖かったから」

その言葉は、あまりに静かだった。

僕の中で、澪の姿が少しだけ変わった。壇上で凛と立っていた姿。何も崩さず、赤いネクタイピンだけを光らせていた姿。僕には、何ひとつ迷っていない人間に見えた。

けれど、彼女はあの場で、何を言うべきか分からなかった。

僕と同じように。

「怖かった?」

僕が聞くと、澪は目を伏せた。

「怖かったわ。部長として、間違った判断をすることが。青嶺の人たちを傷つけることが。翠陵の代表として、舞台を壊すことが。どれを選んでも誰かを傷つけるなら、せめて発表だけは終わらせるべきだと思った」

「それは、正しい判断だったのか」

「分からない」

澪はカードの端を押さえた。

「正しいと思いたかっただけかもしれない。発表を終えれば、後から説明できる。終わらせることを優先したのは、部長としての責任だった。そう言えば、私は自分を許せると思った」

僕は何も言えなかった。

待機フロアの空調が、ひときわ低く唸った。掲示板の紙が風を受けて持ち上がり、クリップがかすかに鳴る。

去年の夜、僕は原稿の最後の一文を何度も直していた。

声を届けるためには、正確でなければならない。

けれど、正確さを選び続けた結果、僕はあの場で何も言えなかった。

澪もまた、責任という言葉を選び続けて、目の前にいた僕へ何も届かないまま立っていた。

「僕は、おまえが奪ったと思ってた」

言葉が、思ったより長くなった。

「おまえが前に出て、翠陵の名前で発表して、何も崩れなかったから。僕が作ったものを、最初から自分たちのものだと思ってたんだと。だから、あの日から、おまえを見るだけで腹が立った。原稿を直されたことも、負けたことも、全部、あの壇上の顔に結びつけた」

喉が詰まる。

「でも、本当は違ったのかもしれない。僕は、奪われたことだけじゃなくて、自分が何も言えなかったことが一番嫌だった。おまえが立っていたから言えなかったんじゃない。おまえが立っていなくても、僕はたぶん、誰かが言ってくれるのを待っていた」

澪は、僕の言葉を遮らなかった。

「それを、今さら言うのね」

「今さらしか言えない」

「遅いわ」

「分かってる」

「遅いから、もう意味がないとは思わないの?」

僕は受付票を見た。

折り目のついた二十三番。濡れて柔らかくなった紙。時間が経てば戻らないものもある。

「意味があるかは知らない。でも、言わないままにしておくよりはいい」

澪の目が、ほんの少し揺れた。

「あなたは、そういうところだけは頑固ね」

「おまえに言われたくない」

「私は、頑固なのではなく、言葉を選んでいるの」

「選びすぎて、何も言えなくなる」

「あなたは削りすぎて、何も伝わらなくなる」

短い応酬のあと、ふたりとも黙った。

ひよりがため息のように息を吐く。

「はい。去年の壇上、いったんここまで」

「いったん?」

僕が聞くと、ひよりはミントタブレットの箱を閉じた。

「これ以上続けたら、今度は面接の前に本当に裁判になるから」

「もう十分、裁判だろ」

「蒼が被告で、白石さんが証人で、私は傍聴席」

「傍聴席にしては口を挟みすぎだ」

「静かな傍聴席は、だいたい寝てるから」

ひよりはそう言って、僕の手元へ水を近づけた。

僕は一口飲んだ。

喉を通る冷たさが、さっきまでとは違っていた。痛みが消えたわけではない。澪の説明を聞いたからといって、去年のことが帳消しになるわけでもない。

ただ、記憶の中で一つに固まっていたものが、少しずつ分かれていた。

僕が黙ったこと。

澪が黙ったこと。

壇上で翠陵の名前が読み上げられたこと。

そのすべてを、ひとりの人間の悪意だけで説明することはできない。

できないからこそ、腹立たしさは消えずに残った。

「白石」

「何?」

「おまえは、あのあと先生に言ったのか」

「何を」

「表紙のこと。青嶺の名前が消えていたこと」

澪は答える前に、少しだけ目を伏せた。

「言ったわ」

「誰に」

「合同発表会の担当の先生に。資料を差し替えた理由を聞いた」

「それで?」

「『合同企画だから、どちらの学校の名前が前に出ても問題ない』と言われた」

僕の指が受付票の端を押さえた。

「それだけか」

「そのときは」

「そのときは?」

澪は顔を上げた。

「私は、その返事を正しいものとして受け入れようとした。でも、できなかった。だから、今日まであなたに話すつもりだった」

「今日までって、どうして今日なんだ」

「面接が終われば、私たちはもう、同じ場所に座る理由を失うから」

その言い方が、妙に胸へ残った。

同じ長椅子。二十三番と二十四番。青嶺の腕章と翠陵のネクタイピン。今だけ隣り合っている二人。

面接が終われば、また別々の学校へ戻る。

「じゃあ、今言えばいいだろ」

「今言ったわ」

「全部じゃない」

「全部を言うには、私の言葉はまだ足りない」

澪はそう言って、面接カードの角を揃えた。

今度は、紙の端が少しずれたままだった。

僕はそれを直そうとしたが、手を出さなかった。

彼女が自分で直すのか、直さないのか。それを決める時間まで奪いたくなかった。

廊下の奥で、また受験生を呼ぶ声がした。椅子の軋み、紙の擦れる音、空調の低い呼吸。

僕は去年の壇上を、まだ許せていない。

澪のことも、まだ完全には信じられない。

けれど、あのとき壇上に立っていた彼女が、何も感じていなかったわけではないことだけは、もう疑えなかった。

怒りの向きが変わる。

それは消えることではなく、別の場所へ流れ始めることだった。

僕は、澪の傾いたネクタイピンを見た。

「それ、直さないのか」

澪が胸元へ視線を落とす。

「何を」

「ネクタイピン」

「……気づいていたのね」

「見える位置にあるから」

朝の言葉を返すと、澪は一瞬だけ目を見開いた。

それから、指先で赤い金具に触れた。けれど、すぐには直さない。

「今日は、このままでいいわ」

「珍しいな」

「たまには、ずれているものをずれたままにしておく」

「おまえが?」

「私にも、そのくらいの権利はあるでしょう」

返す言葉が見つからなかった。

ひよりが、間の抜けた声を出した。

「うん。傾いてるけど、落ちてはいないし」

「評価しているの?」

「見たまま言っただけ」

僕は思わず息を吐いた。

笑いにはならなかった。それでも、胸の奥に固まっていたものが、ほんの少しだけほどけた。

発表会の壇上で聞こえなかった声が、今になって隣から届いている。

遅すぎる声だった。

けれど、遅いからといって、もう届かないとは限らない。

机の上で、僕の二十三番と澪の二十四番が風に揺れた。紙の端が触れ、さらりと音を立てる。

今度は、その音を刃物だと思わなかった。

ただ、去年から閉じたままだった記憶の扉が、わずかに開く音として聞こえた。

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去年の壇上 - 隣席の敵 - 誰でも作家life