第4話 紙の呼吸

待機フロアの空調は、ずっと同じ調子で低く唸っていた。
止まっているようにも、動いているようにも聞こえる音だった。天井の奥で巨大な機械が眠りながら息をしている。その呼吸に合わせるように、掲示板の紙の端がわずかに震えていた。
僕は、右手の中の受付番号札を見た。
二十三番。
仮設受付でもらったときから、紙の端が指に貼りついている。汗を吸ったせいで、角だけが柔らかく波打っていた。受け取った瞬間はもっと硬かったはずなのに、何度も握り直すうちに、僕の緊張を紙が引き受けてしまったようだった。
隣の長椅子には、二十四番の札が置かれている。
白石澪の番号札だった。
彼女は札を机の上に置いたまま、面接カードの角を揃えていた。紙の下辺、右上のペン、カードから少しだけはみ出した受験票。そのすべてが、定規を当てたように整っている。
胸元では、翠陵学園の校章が入った赤いネクタイピンが光っていた。
僕の左腕には、青嶺高校の紺色の腕章がある。
赤と紺。二つの学校の色が、白い机の上で向かい合っていた。
待機フロアには、僕たち以外にも受験生が何人かいた。誰も話していない。話してはいけないわけではないのだろうが、声を出せば自分の緊張まで周囲に拾われるような気がするのだと思う。
誰かが咳をした。
短い音が天井へ昇り、空調の唸りに押し流される。
そのあとで、椅子の脚が床を擦った。ぎ、と乾いた音がする。たったそれだけの音が、フロアの静けさをかえって際立たせた。
僕は腕章の端を親指でなぞった。
紺色の布は、もう何度も触ったせいで糸が少し毛羽立っている。これを着けていると、僕は生徒会役員でいられる。放送部で進行を任されている人間でいられる。誰かの原稿を整え、誰かの声を聞き取り、場に必要な言葉を選ぶ側にいられる。
少なくとも、面接カードの空白を見つめるだけの受験生ではなくて済む。
「それ、擦り切れるわよ」
隣から声がした。
僕は腕章から指を離した。
「何が」
「腕章。さっきからずっと触っているでしょう」
澪は面接カードから目を上げていた。正面から見られると、逃げるための視線の置き場所がなくなる。彼女の目は冷たいというより、余計なものを足していない目だった。こちらの顔色を読むためでも、威圧するためでもなく、ただ見たものを見たまま受け取っている。
「別に。癖だ」
「癖は、理由がなくても出るものだと思う?」
「朝から面接の哲学を始めるなよ」
返事をしてから、声が低すぎたことに気づいた。
怒っているときほど、僕は丁寧になる。言葉の角を削って、声の温度を下げる。そのほうが冷静に見えると思っているのに、実際には感情の輪郭だけが濃くなる。
澪は一拍置いた。
「哲学ではないわ。確認よ」
「何を確認する必要がある」
「あなたが、青嶺高校の生徒会役員としてここにいるのか。それとも、岸本蒼としてここにいるのか」
喉の奥が狭くなった。
受付で名前を呼ばれたときよりも、番号札を受け取ったときよりも、その言葉のほうが鋭かった。
「同じだろ」
「同じではないでしょう」
「どう違う」
「腕章を外したら、今のあなたは何をするの?」
指先が、また腕章へ向かった。
触れる寸前で止める。
左腕が急に軽くなった。軽くなったのに、どこへ置けばいいのか分からない。膝の上に置くには落ち着かず、机の上へ出すには目立ちすぎる。結局、僕は手を握った。
「翠陵は、そうやって相手の役割を見て回るのか」
「青嶺は、相手の学校名を見て決めつけるのね」
「決めつけてない」
「では、なぜ私を見ないの」
反射的に澪を見た。
見ないようにしていたことまで、見抜かれていた。
彼女の赤いネクタイピンが、照明を受けて小さく揺れた。去年の合同発表会でも、あれを見た。壇上の中央でマイクを持っていた澪。青嶺の机で作った放送企画が、翠陵側の案として紹介されたとき、彼女は何も崩さず立っていた。
僕はあの場で、立ち上がりかけた。
けれど、立たなかった。
違う、と言えばよかった。原稿を作ったのは僕たちだ、と。企画の中心にいたのは青嶺の放送部だ、と。
それなのに、喉の奥に鉄の味を残したまま、僕は黙った。
その沈黙を、僕は澪の余裕のせいにした。
「見てるだろ」
「今はね」
「去年も見てた」
「ええ」
「なのに何も言わなかった」
澪の指が、面接カードの端を押さえた。細い指先が紙へ沈む。
「あなたも言わなかった」
胸の内側で、何かが擦れた。
「言えなかったんだよ」
「同じことです」
「違う」
「言えなかった事情があったとしても、結果として声を出さなかったことは変わらないわ」
短い言葉だった。
正しいから腹が立った。
正しい言葉は、いつも逃げ道を塞ぐ。反論するには、まず自分の弱さを認めなければならない。僕は受付票を指で折りかけ、慌てて開いた。二十三番の紙には、新しい折り目が一本残った。
澪はその紙を見た。
「握り潰さないで」
「潰してない」
「折り目がついたわ」
「紙の話だろ」
「あなたは、紙の話をするときだけ素直ね」
意味が分からず、僕は眉を寄せた。
「どういうことだ」
「物の状態なら見たまま言えるから。受付票が濡れている。カードの角が折れている。腕章の糸が出ている。そういうことは、正確に言える。でも、自分のことになると、急に主語が消える」
「……おまえに何が分かる」
「分かるとは言っていないわ」
澪はそこで言葉を止めた。
いつものように、一拍置く。最適な語を探しているのだろう。だが、その沈黙は今までのように余裕には見えなかった。言葉を選んでいるというより、選ばないと口にできない人間の沈黙に見えた。
「見えている、と言っただけ」
彼女は続けた。
「あなたは、話す前に一度息を飲み込む。今もそうした。怒っているときほど、言葉を丁寧にする。けれど、丁寧にするほど、声の底にあるものが隠れなくなる」
「観察して、面接で使うつもりか」
「あなたも同じことをしているでしょう」
「僕はそんな――」
「人の声を聞く仕事をしているなら、しているはずよ。息継ぎの位置、語尾の落ち方、言葉の速さ。何を言ったかだけでなく、どう言ったかを見る。そうでなければ、誰かの声を届けるなんて言えないでしょう」
最後の言葉に、僕の視線が動いた。
澪の面接カードだった。
彼女は僕の目の動きを見逃さなかったのか、カードを隠すように手のひらを置いた。
その仕草が、妙に気になった。
「何を書いたんだ」
「面接カードに?」
「志望理由」
「あなたに見せる必要はないわ」
「見せたくないのか」
「見せないだけ」
「似たようなものだろ」

「同じではない」
朝から何度も聞いた言葉だった。
同じではない。
澪は、僕が使う言葉の曖昧さをいちいち拾う。腹立たしい。だが、彼女の指がカードを押さえる力は、さっきより強くなっていた。赤いネクタイピンも、わずかに傾いている。
「白石さん」
少し離れたところから、ひよりの声がした。
彼女は自分の鞄を椅子の背にかけ、手に持っていた水のペットボトルを僕たちの間の机へ置いた。ラベルの継ぎ目が僕の側を向いている。いつもそうだ。僕が取りやすい向きを、ひよりは自然に選ぶ。
「ふたりとも紙を睨みすぎ。紙が先に折れるよ」
「岸本くんが折ってるだけでしょう」
「白石さんも押さえすぎ。紙、逃げられないじゃん」
澪は自分の指先を見た。
ほんの少しだけ力を抜く。
「紙は逃げないわ」
「人は逃げるけどね」
ひよりは軽く肩をすくめた。
僕は水を見た。冷たいボトルの表面に、細かな水滴が浮いている。乾いた空気の中で、そこだけが別の季節から持ってこられたようだった。
「飲まないの?」
「後でいい」
「蒼は後でって言って、喉が先に閉じるから」
「閉じない」
「じゃあ、今飲んで証明して」
「何の証明だよ」
「水を飲める人間だっていう証明」
ひよりの言い方が妙に真剣で、僕は反論し損ねた。キャップを回す。小さな音がしただけで、何人かの視線がこちらへ集まったように感じる。
実際には、誰も見ていない。
僕は水を一口飲んだ。
冷たさが喉を通る。乾いていたところに触れた瞬間、痛みが出た。ひよりはそれを見ていたが、何も言わなかった。大丈夫とも、よく飲めたとも言わない。ただ、ペットボトルを机の中央へ少しだけ戻した。
「ほら。紙もまだ折れてない」
「それは関係ないだろ」
「関係あるよ。蒼は一個のことを気にすると、全部同じ箱に入れるから」
「また勝手なことを」
「去年の発表会も、今日の面接も、青嶺と翠陵の勝負も、腕章も、志望理由も、全部一緒にしてる」
ひよりの声は柔らかかった。
だからこそ、逃げられなかった。
「別々にできるほど、器用じゃない」
言ってから、喉を飲み込んだ。
ひよりは少し首をかしげた。いつもなら最後に冗談を足すところだが、今日は足さなかった。
「それ、器用じゃないんじゃなくて、置き場所を知らないだけじゃない?」
「同じだろ」
「違うよ。置き場所を知らないなら、探せるから」
隣で、澪が面接カードをめくった。
紙の擦れる音が、空調の唸りに混ざる。
彼女のカードの志望理由欄が、一瞬だけ見えた。
地域連携ボランティア。
誰かの声を。
届く形に。
僕のカードにも、似た言葉がある。
誰かの声を届けたい。
その一行を書いたあと、僕は続きが書けなくなった。誰かとは誰なのか。なぜ届けたいのか。届けた先で、何を変えたいのか。言葉を足すほど、それらしい文章にはなったが、僕の声から遠ざかっていった。
澪も、カードの端を押さえている。
きれいに整えられた紙の上に、消しゴムで薄くなった跡がいくつもあった。
僕は声をかけようとした。
だが、何と言えばいいのか分からない。
同じだな、と言うのは簡単すぎる。違うところもある、と言えば、また学校同士の境界へ戻ってしまう。
結局、何も言わなかった。
ひよりがミントタブレットの小箱を開ける。白い粒が、淡い水色のケースの中で整然と並んでいる。
「一個いる?」
「いらない」
「白石さんは?」
「結構です」
「ふたりとも断り方が似てる。仲良しみたい」
「違う」
僕と澪の声が重なった。
ひよりが、口元だけで笑う。
「そこは息ぴったりなんだ」
「違うと言ってる」
また重なった。
今度は、澪の口元がほんの少し動いた。笑ったのか、呆れたのかは分からない。ただ、その表情の端に、整えきれないものが見えた。
僕は受付票を机へ置いた。
二十三番と二十四番。
二枚の紙の端が、触れそうで触れない距離に並ぶ。
紙は軽い。数字も軽い。けれど、僕にはその一枚が、今日ここへ来るまでに積み上げてきたものを全部背負っているように感じられた。
青嶺の名前。
翠陵の名前。
去年の壇上。
言えなかった声。
書けなかった理由。
それらが、薄い紙の中に押し込まれている。
澪の受付票が、空調の風でわずかに動いた。
僕の二十三番が、その端に触れる。
さらり、と紙が擦れた。
朝、受付で聞いたときは、細い刃が入るような音だった。今もまだ、胸の奥には警戒が残っている。澪を許したわけではない。去年のことを忘れたわけでもない。
ただ、その音が、相手を傷つけるためだけのものではない気がした。
紙と紙が触れれば、どちらかが折れるとは限らない。
互いの端を確かめるように、そばに置かれることもある。
廊下の奥で、案内係の声が響いた。
「二十三番、二十四番の方。待機室へ移動してください」
澪が面接カードを閉じた。
紙の角を揃え、ペンをまっすぐに置く。けれど、赤いネクタイピンの傾きは直さなかった。
僕は受付票を手に取った。汗を吸った端が指へ貼りつく。
「行くぞ」
言ってから、命令のように聞こえたことに気づいた。
澪は立ち上がり、僕の左腕を一度見た。
「腕章に頼らなくても、歩けるでしょう」
「……分かってる」
今度は、息を飲み込まなかった。
椅子を離れる。折りたたみ椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。僕たちは並んで、廊下の奥へ歩き出す。
二十三番と二十四番の受付票が、鞄の中でかすかに擦れ合っている。
その音はまだ、完全に穏やかではない。
けれど、少なくとももう、僕ひとりの中に閉じ込められた音ではなかった。
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