第2話 ミントと弁当箱

澪が拾った受付票を受け取り、鞄の内ポケットへしまう。
二十三番の紙は、朝よりも柔らかくなっていた。汗を吸った端がわずかに波打ち、角を揃えようとしても、完全には戻らない。何度か指で押さえているうちに、紙のほうがこちらの緊張を覚えてしまったように思えた。
待機室へ向かう廊下には、窓がなかった。
蛍光灯の白い光が、壁と床の境目を曖昧にしている。空調の低い唸りが天井の奥で続き、どこかの部屋から椅子を引く音が聞こえた。人がいるはずなのに、誰もいない場所を歩いているようだった。
案内係の生徒が、廊下の突き当たりにある部屋の扉を開けた。
「二十三番と二十四番の方はこちらです。呼ばれるまで、静かにお待ちください」
静かに。
それは、受験会場にいる人間なら誰でも知っている言葉だった。けれど、実際に言われると、喉の奥へ蓋をされるような感じがした。
部屋の中には、折りたたみ椅子が二列に並んでいた。窓際の長机には水の入った紙コップと、番号順に分けられた書類が置かれている。壁の掲示板には、面接官の名前と受験生の順番が貼られていた。紙の端が空調の風で細かく揺れ、そのたびに小さな影が文字の上を走る。
僕は案内された椅子に腰を下ろした。
隣には澪が座る。ひとつぶん空いた椅子を挟んでいるが、彼女の制服の布が擦れる音まで聞こえた。赤いネクタイピンは照明を受けて、さっきより暗く光っている。
僕は腕章の端をなぞった。
紺色の布。青嶺高校の生徒会役員であることを示す記号。これを着けている間は、少なくとも「岸本蒼」以外の何かでいられる。生徒会の役員。放送部の進行係。原稿を整える人間。そういう役割が、僕の輪郭を代わりに作ってくれる。
指が布の端を三度なぞったところで、目の前にミントタブレットの小箱が置かれた。
「それ、今日で何回目?」
ひよりだった。
彼女は僕の正面に立っていた。肩から下げた鞄を椅子の背にかけ、僕の顔ではなく、まず腕章を見ている。
「何が」
「腕章。さっきから撫ですぎ。生地がそのうち蒼の指紋を覚えるよ」
「覚えないだろ」
「じゃあ、蒼が覚えられる。紺色の布に」
ひよりはそう言って、口元だけで笑った。冗談の形をしているが、目は笑っていなかった。僕の肩の高さや、唇の乾き具合を確認している目だった。
彼女は小箱の蓋を開けた。中には白い粒が整然と並んでいる。小さな缶を集めるのが好きなひよりは、こういうときにも容器の傷や印刷のずれを気にする。今日の箱は淡い水色で、角に小さなへこみがあった。
「ひとつ食べる?」
「いらない」
「そう言うと思ったから、水もある」
今度はペットボトルを差し出された。冷気を含んだ表面に、水滴が細かく浮いている。ひよりは僕の手のひらへ押し込むのではなく、ラベルの継ぎ目が指に当たりやすい向きにして、机の端へ置いた。
受け取れ、と言われているわけではない。
けれど、取らない理由もなかった。
「その顔、面接じゃなくて裁判に行くみたい」
「被告席はそっちだろ」
澪へ視線を向けると、ひよりは一度だけ彼女を見た。
「白石さん、被告席に座るには姿勢がよすぎるんだよね。裁判長側というか」
澪は面接カードから目を上げた。
「裁判長にしては、権限がないわ」
「権限がなくても、判決を出しそう」
「あなたは、初対面の相手にずいぶん自由ね」
「初対面だから自由なんだよ。知り合いには、もう少し気を遣う」
「それは、気を遣っているのではなく、嫌われたくないだけでは?」
澪の返しは、刃物のように細かった。
ひよりは一瞬だけ目を丸くした。それから、楽しそうに首をかしげる。
「なるほど。白石さん、そういう感じなんだ」
「どういう感じ?」
「人の冗談を、わざわざ正しい形に直して返す感じ」
「冗談に正しい形があるの?」
「ないから面白いんだよ」
「では、面白くない冗談を放置する理由もないでしょう」
ひよりが僕を見る。
笑っているようで、助けを求めている顔ではなかった。むしろ、ここから先は僕がどうしたいかを見ている。
僕はペットボトルの蓋に指をかけた。回そうとしたが、指先に力が入らない。蓋のぎざぎざが皮膚へ食い込む。
「ふたりとも、紙を睨みすぎ」
ひよりは机の上に置かれた面接カードを見回した。
「紙が先に折れるよ」
「折れたら、書きやすいかもしれない」
僕が言うと、ひよりは少しだけ笑った。
「蒼の場合、折ったところに逃げ込むから駄目」
「逃げ込んでない」
「そう?」
「何が言いたい」
「別に。蒼は昔から、誰かに聞かれる前に答えを用意するでしょ。聞かれたことじゃなくて、聞かれそうなことを。だから、たまに本人がどこにいるのか分からなくなる」
返す言葉を組み立てようとした。
ひよりの言葉は、短いのに逃げ道が少ない。反論するなら、まず自分がそこにいると説明しなければならない。けれど、僕は今、自分がどこにいるのかさえ確かではなかった。
「それは、放送部やってれば普通だろ。場の流れを読んで、必要な言葉を先に出す」
「普通じゃないよ。普通の人は、そこまで先回りして、自分の言葉を後ろに置いていかない」
「僕の言葉が後ろにあるって、どうして分かる」
「だって、蒼は何か言う前に、必ず一回飲み込むから」
喉が動いた。
自分でも気づかないうちに、また息を飲み込んでいた。
ひよりはそれを見ていた。見ていたが、すぐには何も言わなかった。そこが彼女の嫌いになれないところだった。見つけたことを、すぐ正解のように突きつけてこない。必要なら、こちらが自分で気づくまで待つ。
僕はようやくペットボトルの蓋を開けた。
小さな音がした。
その音だけで、隣の数人がこちらを見たような気がした。実際には誰も振り向いていない。けれど、静かな部屋では、蓋の開く音まで自分の存在を証明してしまう。
「飲めたじゃん」
「子ども扱いするな」
「子どもは受験会場で、受付票を握り潰しそうにならないよ」
手の中の二十三番を見た。
確かに、紙の端はさらに柔らかくなっていた。指の腹に貼りつき、離すときにわずかな抵抗がある。
「握り潰してない」
「まだね」
ひよりはミントタブレットを一粒、僕の前へ転がした。白い粒が机の木目に沿って進み、面接カードの端に当たって止まる。
「食べたほうがいい。口の中、乾いてる」
「分かるのか」
「唇を三回舐めたから」
「数えるなよ」
「数えたくて数えてるんじゃないよ。見えるんだから仕方ない」
僕はミントを指でつまんだ。表面は乾いていて、少しざらついている。口に入れると、冷たい刺激が舌の上に広がった。強すぎない。ひよりが選ぶものはいつも、こちらの呼吸を奪わない程度にしか効かない。
「どう?」
「……普通」
「普通なら成功」
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
一定の間隔で、床を踏む音。急いでいないのに、迷いもない。扉が開き、真鍋先生が入ってきた。
先生は室内を見渡したあと、真っ先に受付の机へ向かった。乱れていた書類の束を持ち上げ、角を揃え、番号順に並べ直す。放送室で機材を扱うときと同じ手つきだった。何かを整えることに慣れているのに、その動作を自分の価値とは結びつけていない。先生が触れた紙だけが、静かに正しい場所へ戻っていく。
僕は腕章から指を離そうとした。
しかし、離す前に先生と目が合った。
眼鏡の奥の視線が、僕の左手へ落ちる。
「痛むか」
「え?」
「腕章。そこまで触るなら、布が痛むか、おまえが痛んでるかのどちらかだ」
先生は書類の束を机に置いた。声が低い。周囲に聞かせるためではなく、僕だけに届けばいいという音量だった。
「別に、痛くないです」
「そうか」
先生はそれ以上追及しなかった。僕の隣を通り過ぎ、部屋の後ろにある時計を確認する。秒針がひとつ進み、またひとつ進む。
僕は、何か言わなければならない気がした。
けれど、先生の前でまで用意した答えを出すのは違う気がして、口を閉じた。
真鍋先生は、僕の沈黙を待つように、眼鏡を指で押し上げた。
「上手くなくていい」
その言葉だけで、胸の奥が硬くなった。
「誤魔化すな」
先生は続けた。
「面接官は、おまえが上手に話せることを確認しに来るわけじゃない。上手く話せる人間なら、原稿を読ませれば分かる。わざわざ本人を呼ぶのは、原稿の外側にいるものを見たいからだ。そこを別の言葉で埋めると、声が薄くなる」
「でも、何を言えばいいか分からないまま行ったら、余計にまずいでしょう」
僕が言うと、先生はすぐには返さなかった。
部屋の空調が低く唸っている。誰かが紙をめくった。澪のペン先が机に触れ、かすかな音を立てた。
「分からないなら、分からないところから話せ」
「それで評価されるんですか」
「評価されるかは知らん」
「先生」
「合格するための言葉は、俺には作れない。作れたとしても、おまえが言えば借り物になる。借り物で通っても、入学してから返す相手がいない」
短い言葉が、紙の隙間へ落ちていく。
僕は返事をしなかった。返せなかったというより、返すとまた説明になりそうだった。
真鍋先生は僕の顔を見たまま、少しだけ視線を外した。
「岸本。今日は、役職を受けに来たんじゃない」
左腕の紺色が、急に重くなった。
「……分かっています」
「なら、腕章に喋らせるな」
それだけ言うと、先生は受付の机へ戻った。書類の端をもう一度揃え、何事もなかったように次の受験生の確認へ向かっていく。
ひよりが、僕の横で小さく息を吐いた。
「先生、朝から容赦ないね」
「ひより」
「なに」
「先生に言われたこと、分かってたのか」
「うん。だから水を渡した」

「それは答えになってない」
「答えを渡したら、真鍋先生に怒られるから」
ひよりはペットボトルを指先で軽く回した。透明な水が中で揺れ、白い照明を細かく砕く。
「私は、蒼が話せるようにすることはできるけど、何を話すかは決められない。決めたら、それは蒼の進路じゃなくて、私が安心するための進路になるから」
「ひよりは、僕に何を期待してる」
「期待してない」
「嘘だろ」
「期待じゃなくて、確認したいだけ」
「何を」
「蒼が、蒼のまま選べるかどうか」
喉の奥が詰まった。
ひよりは僕を追い詰めるつもりなどないのだろう。声も柔らかい。姿勢も崩れている。けれど、こういう言葉を軽く投げてくるときのほうが、彼女は本気だった。
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単に言ってないよ」
ひよりは一度、僕の手元を見た。次に、膝の上の面接カードへ視線を移す。
「蒼が何回も書き直して、何回も消して、それでも空白が残ってるのは知ってる。放送原稿なら、誰かの話を聞いて、順番を変えて、聞きやすい形にできる。でも進路の話だけは、誰かの声を借りて整えたら終わりなんだよ。だから、今すぐ立派な答えを出せって言ってない」
「じゃあ、何をしろっていうんだ」
「息をして、水を飲んで、空白を空白のまま見てればいい」
その言葉に、僕は思わず笑いそうになった。
「それが面接対策かよ」
「対策というより、蒼が逃げないための準備」
笑いは喉の手前で止まった。
ひよりは、いつも最後に冗談で包む。けれど今日は包まなかった。僕がそのまま受け取れると思ったのか、それとも、受け取るしかないところまで来ていたのかは分からない。
昼にはまだ早かったが、緊張が長く続いたせいで、胃の奥に空洞ができていた。僕は鞄を足元から持ち上げた。
「弁当、食べるの?」
ひよりが聞いた。
「少しだけ」
鞄から弁当箱を取り出す。銀色の留め具に指をかけると、朝の玄関が一瞬よみがえった。
母が蓋を押さえたときの、かちりという音。
ちゃんと、自分で選んできなさい。
僕は弁当箱を机の上に置いた。隣の澪が、ほんの少しだけ視線を動かした。こちらを見たのか、音に反応しただけなのかは分からない。
蓋を開ける。
卵焼き、鮭、きんぴらごぼう。隙間にはブロッコリーと、小さく切ったりんごが詰められていた。どれも崩れていない。朝、母がいつもより時間をかけて詰めたのだろうと思った。
蓋の内側に、白い付箋が貼られていた。
何も書かれていない。
鉛筆の跡も、母の字もない。ただ、長方形の紙が一枚、きれいに貼られている。糊の部分だけが少し光っていた。
「何それ」
ひよりの声が近くなった。
「付箋」
「それは見れば分かるよ。何も書いてないじゃん」
「そうだな」
「お母さん、貼り忘れたのかな」
「たぶん違う」
朝の母を思い出す。弁当箱の蓋を閉める前、一瞬だけ手を止めていた。何かを言おうとして、やめたように見えた。
あのとき母が書かなかったのは、書けなかったからではない。
書かないことを選んだのだ。
付箋を指でなぞる。紙は面接カードより少し厚く、指先へさらりとした感触を返す。白い四角は、何かを書くための場所にも、何も書かないための場所にも見えた。
「蒼」
ひよりの声が、今度は冗談を含まなかった。
「それ、何か書けってこと?」
「分からない」
「分からないなら、分からないままでいいよ」
「先生と同じことを言うな」
「先生とは違う」
「どこが」
「先生は、蒼が自分で話せって言ってる。私は、話せないなら話せないまま、そこにいてもいいって言ってる」
ひよりは付箋に手を伸ばさなかった。貼り替えようとも、何か書こうともせず、ただ僕の手元から少し離れたところに座っている。
「でも、ずっと空白のままでもいいとは思ってない」
「結局、書けって言ってるじゃないか」
「書くかどうかを決めるのは蒼。私は、空白を誰かに埋めさせないでって言ってるだけ」
その言葉が、母の「自分で選んできなさい」と重なった。
弁当の蓋に貼られた白い付箋。面接カードの志望理由欄。受付票の二十三番。どれも、僕の代わりに何かを決めてくれるものではなかった。役割を示す腕章でさえ、僕が何者かまでは書いてくれない。
僕は付箋を剥がしかけた。
紙の端が少し浮く。糊が伸び、白い面が弁当箱の蓋から離れていく。
何か書くなら、ここだと思った。
けれど、ペンを持つ手が動かなかった。
「誰かの声を届けたい」
その言葉なら書ける。すでに面接カードにも残っている。地域連携ボランティア、生徒会活動、放送部。実績に沿って並べれば、それらしい文章になる。
だが、それは僕の言葉なのか。
弁当の卵焼きから、甘い匂いがした。冷めた米の匂いもする。母が朝の暗い台所で、僕のために包丁を使い、蓋を閉め、付箋を貼った時間が、白い紙の向こう側にある。
僕は付箋を剥がさず、元の位置へ戻した。
「書かないの?」
ひよりが訊ねる。
「今日は」
「そっか」
「逃げたと思うか」
「思わない」
「どうして」
「書かないと決めるのも、選ぶことだから」
ひよりはそう言って、ようやくミントタブレットを一粒、自分の口へ入れた。蓋が閉じる音が、乾いた室内に小さく響く。
「ただし、あとで蒼が『何も決められなかった』って言ったら、そこは訂正するからね」
「厳しいな」
「友達だから」
その言い方が照れくさくて、僕は弁当箱の中へ視線を落とした。
隣では、澪が面接カードを閉じていた。紙の角を揃え、ペンをその上に置く。けれど、彼女はいつものようにすぐ背筋を伸ばさなかった。手元を見たまま、わずかに息を吐く。
「白石さんも食べる?」
ひよりが声をかけた。
「結構です」
「そう言うと思った。でも、顔色は蒼と同じくらい乾いてるよ」
「あなたは、初対面の相手をよく観察するのね」
「観察しないと、水を渡すタイミングが分からないから」
「水を渡せば、相手が楽になると思う?」
「思わない」
ひよりはあっさり言った。
「でも、水があれば、楽になるための準備はできる。何もないよりはまし。蒼にも、白石さんにも」
澪は黙った。
赤いネクタイピンへ伸びた指が、途中で止まる。彼女は代わりに面接カードの端を押さえた。紙がわずかにしなる。
「……私は、励まされるのが苦手です」
澪が言った。
声は静かだったが、さっきまでの応酬とは違っていた。言葉を整えているのに、整えきれていない。
「励まされると、励まされた分だけ、正しく立たなければならない気がする。大丈夫だと言われると、大丈夫ではない自分のほうが間違っているように思える。だから、あなたのやり方は嫌いではありません」
「私のやり方?」
「水を置いて、飲むかどうかは相手に任せるところ」
ひよりが少しだけ目を伏せた。
「それ、褒めてる?」
「評価しているだけ」
「蒼みたいなこと言うね」
「岸本くんと一緒にしないで」
「そこは一緒でいいだろ」
僕が口を挟むと、ひよりの口元がほどけた。澪も、ほんの一瞬だけ目を細めた。笑ったのかどうかは分からない。けれど、さっきまで張りついていたものが、わずかに揺れた。
その揺れを見て、僕は息を吐いた。
緊張が消えたわけではない。喉の奥にはまだ乾いたものが残っている。面接カードの空白も、去年の壇上の記憶も、何も解決していない。
ただ、ひよりが置いた水と、母が残した白い付箋が、僕の手元にあった。
選べ、と母は言った。
答えを奪わないために、何も書かなかった。
僕は弁当の蓋を閉じた。銀色の留め具が、朝と同じ音を立てる。
かちり。
その音を聞いたひよりが、僕の顔を覗き込む。
「食べないの?」
「あとで食べる」
「面接のあとまで、卵焼きが待ってくれるといいね」
「待つだろ」
「卵焼きに人格を持たせないでよ」
僕は小さく息を吐いた。笑ったつもりはなかったが、ひよりには伝わったらしい。彼女は満足そうに頷き、残った水を僕の手元へ少し近づけた。
僕はそれを飲んだ。
冷たい水が喉を通る。ひりついたところを洗い流すほどではない。ただ、そこに何が引っかかっているのかを、少しだけ確かめられる。
廊下の掲示板で、紙がまた震えた。
白い付箋も、面接カードも、受付票も、風のない場所で静かに揺れている。何も書かれていないものは、何も持っていないのではない。まだ、誰の言葉にも決められていないというだけだ。
僕は腕章の端へ手を伸ばした。
指が触れる寸前で、止めた。
代わりに、弁当箱の留め具を一度だけ確かめた。
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