第1話 受付票の手ざわり

母は、玄関のたたきまで出てきて、弁当箱の蓋をもう一度押さえた。
銀色の留め具が、かちりと鳴る。朝の台所からついてきた卵焼きの甘い匂いと、冷えた空気の金属っぽい匂いが、玄関の狭い空間で混じっていた。
「忘れ物は」
「ない」
「本当に?」
僕は鞄の中を思い浮かべた。面接カード。受験票。筆記具。青嶺高校の生徒会腕章。放送部で使っている赤ペン。何度も書き直した志望理由の下書き。どれもある。
「ない」
母は頷き、弁当箱を僕の鞄の脇に押し込んだ。落ち着いて、と言うかと思った。けれど母は、受験の日にその言葉を使わない。
「ちゃんと、自分で選んできなさい」
それだけ言った。
僕は返事をする前に、一度息を飲み込んだ。いつもの癖だった。喉の奥に引っかかったものを、なかったことにしてから声を出す。
「わかってる」
わかっているつもりだった。
けれど、家を出て駅へ向かう道の途中で、僕の頭の中に浮かんでいたのは、大学で何を学びたいかでも、将来何になりたいかでもなかった。去年の合同発表会の壇上と、そこで何も言えなかった自分の顔だった。
秋の朝は薄い。空は明るいのに、光がまだ街の底まで届いていない。駅へ向かう学生たちの靴音が、濡れてもいない歩道の上で硬く跳ねている。僕は鞄の中の面接カードに触れた。紙の角が、指先に小さく当たる。
志望理由の欄には、何度も書き直した跡がある。
地域連携ボランティアを通じて、誰かの声を届ける活動に関心を持った。
そこまでは書けた。その先が続かなかった。
誰かとは誰なのか。なぜ届けたいのか。届けた先で、相手に何をしてほしいのか。
放送原稿なら、問いに答える順番を整えられる。主語を置き、理由を置き、最後に結論を置く。けれど自分の進路を同じように並べようとすると、どの言葉も借り物に見えた。
駅のホームで、スマートフォンに届いた学校からの連絡を確認した。集合時刻、会場、待機フロア。青嶺高校の生徒は、校門前に集まってから係の先生に誘導されることになっている。
通知の下には、昨日ひよりから届いた短いメッセージが残っていた。
『水、持った?』
僕は『持った』と返した。少し考えてから、『ミントも?』と続ける。
すぐに既読がついた。
『蒼が必要になると思って』
余計なことを書くな、と返そうとして、やめた。
県立青嶺高校の仮設受付は、普段は進路資料室として使われている部屋の前に設けられていた。廊下の壁際に長机が二台並べられ、その上に受験票の確認用紙や番号札が積まれている。天井近くの空調は、起きているのか止まっているのか判然としない低い音を出していた。
受付係の先生に受験票を渡す。
「岸本蒼さん。確認します」
先生の指が紙の上を滑る。僕はその指先を見ながら、腕章の端をなぞっていた。紺色の布は何度も触れたせいで、端の糸が少し毛羽立っている。生徒会役員であることを示す腕章。人前に立つとき、これをつけていれば、自分の役割が先に決まる。
先生が札を一枚取り出した。
「二十三番。こちらをお持ちください」
紙の番号札は、思っていたより薄かった。指先に汗が滲んでいたせいで、受け取った瞬間、ぺたりと貼りついた。紙が僕の体温を吸い取っていく。まだ眠りの底に残っていた熱を、薄い紙に少しずつ持っていかれるようだった。
「待機フロアは、案内の生徒について行ってください」
僕は札の角を揃えた。癖だった。紙を受け取ると、まず角を揃える。乱れたものが手元にあると、それだけで次の判断まで濁る気がする。
札を胸元にしまおうとしたとき、隣から別の番号を読み上げる声がした。
「白石澪さん。二十四番です」
その名前を聞いた瞬間、喉の奥が狭くなった。
振り向く必要はなかった。それでも僕は振り向いた。
翠陵学園の制服。白い襟元。整えられた髪。校章の入った赤いネクタイピン。照明の下で、その赤だけが妙に鮮明に見えた。
白石澪は、受け取った番号札を両手で挟み、表と裏を確かめてから、僕と同じように角を揃えた。紙を扱う動作まで無駄がない。札の端が彼女の指の間でぴたりと止まる。
僕の二十三番と、彼女の二十四番。
たった一つ違いの番号が、受付の長机の上で並んだ。
係の生徒が待機フロアを指す。僕たちは同じ方向へ歩き出した。
廊下は、受験生の数に対して狭すぎた。誰も大声を出さない。靴底が床を擦る音と、遠くの教室から聞こえる椅子の軋みだけが、一定の間隔で流れていく。空調の低い唸りが、廊下の壁に沿ってついてくる。
歩いている間、澪の赤いネクタイピンが視界の端にあった。
去年の合同発表会でも、あれを見た気がする。
壇上の照明。発表資料の表紙。青嶺の机で作った放送企画が、翠陵側の案として紹介された瞬間。僕は客席の端で立ち上がりかけて、結局、何も言えなかった。
喉に鉄の味が残っていた。
その場にいた澪は、何も崩さずに立っていた。だから僕は、彼女を奪った側の人間として記憶した。事実がどうだったかを確かめるより先に、そう決めた。
待機フロアには、折りたたみ椅子が二列に並べられていた。正面の掲示板には面接順の紙が貼られ、その端が空調の風に細かく震えている。紙が剥がれかけているわけではない。ただ、一定の呼吸をしているように見えた。
「二十三番と二十四番の方は、こちらへ」
案内された長椅子には、二人分の空きしかなかった。
僕が先に腰を下ろす。少し遅れて澪が隣に座った。間には拳ひとつ分の距離がある。近すぎるわけではない。それでも、彼女が紙をめくる音が聞こえた。
さらり、と乾いた音。
僕は鞄から面接カードを出した。出したというより、逃げ場をなくすために机へ置いた。何度も書き直した志望理由の欄が、白い紙の中で不自然に広がっている。
澪も面接カードを取り出し、机の上に置いた。彼女はカードの下辺を揃え、ペンを右上にまっすぐ置いた。
僕は視線をカードへ落としたまま、言った。
「そんなに整えても、面接官は紙の角なんか見ないだろ」
澪の指が止まった。
「角が揃っているほうが、読みやすいから」
「読みやすさを気にするなら、受験生を学校名で並べるのもやめればいいのに」
言ってから、少し強すぎたと思った。けれど、取り消すことはしなかった。
澪は僕を見た。正面から、逸らさずに。見下しているようにも、警戒しているようにも見える目だった。
「学校名で並べているのは、私たちではないでしょう」
「でも、翠陵はそういうのを気にする」
「あなたは青嶺を気にしている」
返事の前に、一度息を飲み込んだ。
「何の話だ」
「腕章」
澪の目が、僕の左腕に落ちた。
「あなたはそれを、受付からずっと触っている。青嶺の生徒会役員であることを確認しないと、ここに座っていられないように見える」
指先が腕章の端から離れた。
その瞬間、左腕が急に軽くなった。軽くなったのに、肘から先の輪郭がわからなくなるような感覚があった。
「……よく見てるな」
「見える位置にあるから」
「そうやって、相手の癖を拾って、面接で使える言葉にするのか」
「あなたも同じでしょう」
澪は一拍置いた。ネクタイピンに触れようとして、途中で指を止める。
「人の話し方や間を見て、次に必要な言葉を選ぶ。あなたは放送部で、私は文芸部で、それをしてきた。違うのは、あなたが声にするために整え、私は文字に残すために整えることだけ」
「一緒にするな」
「なぜ?」
「おまえは、感情を切ってる」
澪の眉がわずかに動いた。
「切っているのではなく、混ぜないようにしているだけ」
「同じだろ」
「同じではないわ。感情をそのまま言葉にすれば、相手に届くとは限らない。むしろ、相手に受け取る責任まで押しつけることがある。私は、それをしたくない」
「じゃあ、感情のない言葉なら届くのか」
「そんなことは言っていない」
「言ってるのと同じだ」
廊下の向こうで、誰かの靴音が止まった。
フロア全体が一瞬だけこちらを聞いているように感じた。僕たちの声は大きくない。それなのに、空調の唸りが引いた隙間へ、言葉だけが細く伸びていく。
澪は、僕の手元にある原稿へ目を向けた。放送部で使う原稿ファイルから抜き出した一枚だった。面接で活動について聞かれたときに備えて、地域連携ボランティアの説明を書いてある。

「その原稿、最後の一文が重いわ」
「読んだのか」
「見えただけ」
「読んでないくせに、よく言えるな」
「では、読みます」
澪は僕の返事を待たず、紙へ視線を落とした。
「地域の方々の声を聞き、必要な情報を整理して発信することで、地域と学校の距離を縮めたい。活動を通して、私は誰かの声を正しく届けることの大切さを学びました――」
そこで彼女は止めた。
「ここ」
「どこだ」
「『正しく』。この言葉が、あなたの文章を固くしている」
「正しく届けるのは大事だろ」
「大事。でも、あなたが言いたいのは正しさだけではない」
「勝手に決めるな」
「決めていない。文に書いてあることを言っているだけ」
僕は原稿を取り返すように手を伸ばした。紙の端が指に触れる。澪の指先も同じ場所にあった。
一瞬、互いの手が止まった。
近くで見ると、彼女の指先は白く、爪の根元にわずかな赤みがあった。きれいに整えられているのに、紙の端を押さえる力だけが強い。
澪が先に手を引いた。
「感情が先に立ちすぎるわ」
その言葉は、静かな場所ほど鋭かった。
僕は原稿を取り戻し、膝の上で折れ目を伸ばした。
「読んでないくせに、よく言えるな」
「読んだわ。今」
「たった一度で?」
「文章の癖は、一度でわかることもある」
「便利だな。相手を読んだつもりになれる」
「あなたも、人の声を聞いて感情を拾うのでしょう。拾ったものを、相手に返す前に整える。私がしていることと、そんなに違わない」
「違う」
「どこが」
「僕は、相手の言葉を勝手に薄めたりしない」
澪の視線が、初めてわずかに揺れた。
けれど彼女はすぐに目を伏せた。紙の端を押さえる。赤いネクタイピンが、空調の白い光を小さく返した。
「薄めているつもりはない」
「つもりの話をしてるんじゃない」
「では、何の話?」
「……去年のことだ」
言葉が出たあと、フロアの空調音が急に遠くなった。
去年の発表会。青嶺と翠陵で準備した放送企画。僕たちが作った原稿。最後の発表で、翠陵側の案として読み上げられた名前。壇上でマイクを持っていた澪。
ひとつずつ並べようとすると、どれも紙の上の文字みたいに薄くなった。けれど、喉の奥に残った鉄の味だけは、今もはっきりしている。
「僕の原稿を、翠陵の案みたいに扱った」
澪は黙っていた。
「違うなら、違うと言えばいい。あのときだって、今だって。おまえはいつも、きれいに黙ってる。自分が何もしていないみたいな顔で、他人の言葉の上に立ってる」
「……」
「そういうところが、気に入らない」
澪の唇の内側を噛むような動きが見えた。ほんのわずかだった。見間違いかもしれない。
彼女は顔を上げた。
「あなたは、あの場で何も言わなかった」
声は静かだった。けれど、さっきまでより語尾が硬い。
「言えなかったんだよ」
「同じことです」
胸の奥を、薄い紙で切られたような痛みが走った。
「……そうだな」
自分でも驚くほど、短く出た。
澪は何か言いかけた。だが、次の言葉を選ぶように一度目を伏せた。その沈黙が、僕にはまた、余裕のように見えた。言葉を選べる人間と、選んでいるうちに何も言えなくなる人間。その差を、澪は当然のように知っている。
僕は受付票を握った。
二十三番の紙は、朝より柔らかくなっていた。汗を吸い、端が少し波打っている。隣の二十四番は、彼女の指の下でまだまっすぐだった。
「感情が先に立つのが悪いなら、何を先に立てればいい」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。
澪はすぐには答えなかった。
「……言葉の責任」
「それを言えば、きれいに聞こえるな」
「きれいに聞かせたいわけではない」
「でも、おまえの言葉はいつもきれいだ」
「きれいにしないと、私は話せないから」
初めて、澪の声が少しだけ乱れた。
その乱れは、すぐに整え直された。彼女は背筋を伸ばし、ネクタイピンの位置を指先で確かめた。けれど、さっきまでのように完璧には戻らなかった。赤いピンはほんのわずかに傾いている。
「私は、感情がないわけではない。むしろ、感情のまま話したら、相手を傷つける言葉を選ぶと思う。だから削る。言い換える。順番を変える。そうしているうちに、何を言いたかったのか分からなくなることもある」
僕は返事をしなかった。
空調が低く唸っている。掲示板の紙が揺れ、椅子の脚が誰かの動きに合わせて軋んだ。
澪は僕の原稿を見た。
「あなたの文章は、重い。でも、空っぽではない」
「褒めてるのか」
「評価しているだけ」
「そういう言い方が、いちいち腹立つんだよ」
「あなたは、腹を立てているときほど、丁寧に話す」
また見抜かれた。
喉が詰まり、言葉が一つ遅れた。
澪はそれ以上、何も言わなかった。僕も言い返さなかった。言葉で傷つけたあとに、謝るでもなく、慰めるでもなく、ただ互いの沈黙をそのまま置いておく。近い距離にいるのに、触れないようにしている。その距離が、朝より少しだけ違って感じられた。
廊下の奥で、案内係の声がした。
「二十三番、二十四番の方。面接待機室へ移動してください」
僕は立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、乾いた音がした。
受付票をしまおうとして、指が滑る。二十三番の紙が膝から落ち、床へ向かってひらりと揺れた。
澪が先に手を伸ばした。
彼女の赤いネクタイピンが、僕の腕章の紺と同じ高さで光っている。
「これ」
差し出された受付票を受け取る。紙は彼女の指の温度をわずかに含んでいた。
「ありがとう」
言ったあと、僕はまた息を飲み込んだ。
澪はその間を見ていた。けれど、何も指摘しなかった。
僕たちは並んで、待機室へ向かう廊下を歩き出した。二十三番と二十四番。ひとつ違いの紙片が、鞄の中でかすかに擦れ合っている。
その音は、まだ刃物のようだった。
ただ、さっきまでのように、相手を傷つけるためだけの音には聞こえなかった。
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