第7話 灰色の筆圧

鑑識室の蛍光灯は、外の曇天より白かった。
窓のない部屋では、時間の流れが紙の上にしか現れない。時計の針が進み、端末の画面に数字が増え、古い資料の端だけが少しずつ崩れていく。久保田遥は、その人工的な明るさの下で、灰色の官製はがきと、サイレントから持ち帰った伝票を並べていた。
白い手袋をはめた指先で、紙の端をそろえる。
はがき。伝票。澪の聴取メモ。欠番ネガの複製。私の手帳。
机の上に並んだものは、互いに関係があるようにも、ただ長い年月の中で偶然隣り合っただけのようにも見えた。
私は机の反対側に立ち、久保田の手元を見ていた。
彼女は、すぐにはがきへ触れなかった。まず伝票の綴じ目を確認し、次に紙の繊維を斜めから見た。それから保存袋の中のはがきを、照明へ傾ける。
紙がわずかに光った。
「筆圧を見ています」
久保田が言った。
「似ているか」
「似ている、という評価はできます。ただし、同じ人間が書いたかどうかは、形だけでは決められません」
「分かっている」
「片桐さんは、澪さんの字だと思っている」
私は答えなかった。
久保田は、机の脇に置かれた古い聴取メモを開いた。紙の右下に残る圧痕を、先端の細いライトで照らす。見えない文字を探す作業は、暗い部屋の中で水底を覗くようだった。
「思っているんじゃない」
「では?」
「思いたかった」
言葉にしたあと、部屋の空調音がやけに大きく聞こえた。
久保田は私を見なかった。見ないことで、こちらに続きを促している。
「澪が生きていて、誰かに頼んで、三十年後に知らせてきた。そうなら、俺が見逃したものを取り戻せる気がした」
「生きているなら、取り戻せるんですか」
「分からない」
「でも、死んでいるよりは」
「そうだ」
私は手帳の角を親指でなぞった。革の擦れた部分が、指先の熱を吸った。
「生きている人間なら、謝れる。返事を聞ける。恨まれているなら、恨まれたまま立っていられる。だが、死んだ人間には、こちらの言葉が届かない」
「届かないと、片桐さんは思っているんですか」
久保田はそこで初めて私を見た。
若い目だった。だが、問い方に遠慮がない。
「届かない。だから、記録にする」
「記録にすれば届く?」
「少なくとも、消されにくくなる」
「消されにくくなるだけで、届くわけではない」
「そうだ」
「それでも、書くんですね」
「書くしかない」
久保田は、はがきの裏面へ視線を戻した。
「では、書けないものを、書ける形に変える作業をします」
彼女は細い定規を文字の上へ置いた。
「まず、澪さんの筆跡と一致する部分です。『まだ終わっていない』のうち、『ま』『だ』『終』の入り方は、古い紙片とよく似ています。書き始める前にわずかに手が止まる癖もある。ただし、後半へ行くほど線が硬くなる」
「硬い?」
「力が入りすぎています。澪さんの文字は、最後の一画だけが強い。途中の線には余白がある。でも、このはがきは、最後の二行全体に力が入っている。似せようとしている人間の手です」
「急いでいたのか」
「急いだというより、迷っていた。似せることに集中して、文字そのものの呼吸が失われている」
久保田は、古い伝票の一部をはがきの横へ置いた。
「木下さんが保管していた伝票に、澪さんが書いたと思われる紙片の筆跡があります。こちらは十代の手です。線が細く、紙の端から一定の距離を保っている。はがきの文字は、形を真似ている。でも、余白の取り方が違う」
「澪の字を知っている人間が書いた」
「それだけではありません」
久保田は、聴取メモの圧痕が写った画像を開いた。反転された画面に、薄い線が浮かんでいる。読めるほど鮮明ではない。だが、いくつかの文字の形が見えた。
《……影……》
私は画面へ顔を近づけた。
「読めるのか」
「断定はできません。『影』に見える線と、数字のような跡があります。もう一つ、文章の末尾に、澪さんの癖が出ています」
「最後の一画か」
「はい。最後だけ、強く紙へ沈んでいる」
私は、自分の胸の奥がゆっくり冷えていくのを感じた。
「その圧痕は、誰が書いたものだ」
「澪さんの可能性が高いです。ただし、紙の上に直接書いた文字ではありません。上に重ねた紙へ書いたものが、下へ残った圧痕です」
「上の紙は」
「ありません」
「抜かれた一一七の四」
「おそらく」
久保田は画像を拡大した。
「ここを見てください。圧痕の線は、はがきの文字と似ています。でも、筆圧の順番が逆です」
「逆?」
「澪さんの筆跡は、書き終わりに力が集まる。はがきの文字は、書き始めに力が入って、終わりが逃げている。模倣した人は、形を覚えていた。でも、文字を書くときの力の移動までは覚えていなかった」
「誰かが、澪の紙を見て書いた」
「あるいは、見せられた」
「三十年前に?」
「時期は断定できません。ただ、はがきの筆圧は、古い筆跡を写し取った人間のものです。記憶だけで真似たというより、手本を手元に置いていた」
私は机上の灰色を見つめた。
紙の色は、海霧の下に沈んだ町の色に似ていた。白でも黒でもない。何かが長く濡れたあとに残る、逃げ場のない色。
「澪は、これを書いていない」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
「少なくとも、今のはがきを書いたのは澪さんではありません」
「生きているかどうかは」
久保田は返事をしなかった。
「久保田」
「筆跡鑑定で、生死は分かりません」
「分かっている」
「ただ、はがきの筆圧には、現在書いた人間の身体の状態が出ています。指先の震え、握力、速度。これは若い人間の書き方ではない。書いた人間は、長く紙を扱っていない。あるいは、別の人間の字を急いで写した」
「澪の死の直前に」
「その可能性はあります」
「なぜ、そう思う」
「古い圧痕と、はがきの文字に共通する部分が多すぎるからです。手本になった紙が、澪さんの筆跡を正確に残していた。しかも、その手本は、誰かが保管していたものではなく、事件の夜に近い時期に書かれた可能性が高い」
久保田は画面を閉じた。
「片桐さん。これは生存の知らせではありません」
私は、手帳から灰色のはがきを取り出した。
保存袋越しに、二行の文字を見る。
まだ終わっていない。 防波堤の下を見てください。
「では、何だ」
「記憶を押し返すための道具です」
言葉は静かだった。
「誰かが、澪さんの文字を借りて、片桐さんを現場へ戻した。死んだ人間から届いたように見せれば、片桐さんは無視できない。手紙ではなく、はがきにしたのも同じ理由でしょう。封を切る手間をなくして、署の中で誰かに見つけさせる」
「俺を選んだ理由は」
「当時の担当者だからです」
「それだけか」
久保田は少し黙った。
「それだけではないと思います」
「何だ」
「片桐さんが、まだ自分の失敗を記録していないからです」
私は彼女を見た。
「俺は記録している」
「事件番号も、聴取の日付も、証言の要約も記録しています。でも、肝心な一行だけがありません」
「何の一行だ」
「片桐さんが、澪さんの話を切り捨てたという一行です」
私は手帳を閉じた。
「それは、もう書いた」
「いつですか」
「はがきが届いた日だ」
「それ以前は?」
「書いていない」
「だから、手紙は片桐さんへ向けられた。澪さんの家族でも、町でも、署全体でもなく」
久保田は、はがきの保存袋を机の中央へ戻した。
「片桐さんが、自分の空白を見つけられる人間だと、差出人は知っている」
「買いかぶりだ」
「そうかもしれません」
「俺は三十年、見つけられなかった」
「見つけられなかったのではなく、見つけたものを別の名前で呼んでいたんです」
胸の奥に、何か硬いものが落ちた。
後悔。失敗。判断ミス。時代の空気。組織の都合。
私はそれらに名前をつけてきた。罪という言葉だけを避けて。
「久保田」
「はい」
「お前は、俺を裁くつもりか」
「鑑識は裁きません」
「では、何をする」
「残っているものを、残っている形で出します。片桐さんが悪いかどうかは、その後です。私が決めることでもありません」
「それで済むと思うか」
「済むとは言っていません」
久保田の声に、初めてわずかな熱が混じった。
「でも、片桐さんが自分を裁くことを優先したら、澪さんのための証拠まで、自分の罪の材料に変えてしまう。片桐さんが罪悪感を持つことと、証拠を正しく扱うことは別です。そこを混ぜたら、三十年前と同じになります」
私は言い返せなかった。

彼女は私の後悔を慰めない。だが、切り捨てもしていない。痛みを痛みのまま置きながら、それとは別に紙の上の線を追おうとしている。
それが、師弟などという言葉より重い信頼に思えた。
鑑識室の扉が二度、軽く叩かれた。
立花が入ってきた。手には薄いファイルと、署内の資料閲覧許可に関する書類を持っている。私たちの間に置かれた証拠品を見て、眼鏡の位置を直した。
「結果は」
久保田が報告書を差し出した。
「筆跡は相沢澪さんのものに酷似しています。ただし、同一人物によるものとは断定できません。むしろ、既存の筆跡を手本にした可能性が高い」
「既存の筆跡とは」
「欠番になった聴取資料、あるいは当時の私的な紙片です」
立花は報告書を読み、ページをめくった。
「死者からの手紙ではない」
「その表現は避けます」
「しかし、内容はそう受け取られかねない」
「受け取らせるために書かれた可能性があります」
立花は顔を上げ、私を見た。
「片桐さん。これで、あなたは現場へ戻る理由を得たと思いますか」
「理由なら、最初からある」
「理由と許可は違います」
「許可を待っている間に、証拠が消える」
「証拠は、もう三十年前に一度消えています」
「だから今度は消さない」
「あなた一人の決意では、保管庫の鍵も、鑑識の手順も動かせません」
立花は報告書を閉じた。
「署として、予備調査の継続を認めます。ただし、時効後の正式な再捜査ではない。新たな犯罪事実が確認されるまでは、資料の再照合と関係者への任意聴取に限る。現場保存が必要な場合は、必ず私へ報告すること」
「ずいぶん慎重だな」
「慎重でなければ、あなたは自分の首を証拠品の箱に入れて提出しかねない」
「それが必要なら、そうする」
「それを決めるのは、あなたではありません」
立花の声が低くなった。
「片桐さん。あなたが責任を取るつもりなのは分かっています。ですが、責任を取ることと、責任を独占することは違う。三十年前に黙ったのは、あなただけではない。だからといって、全員の罪をあなた一人の告白にまとめてはいけない」
「署を守りたいのか」
「署だけではありません」
立花は一拍置いた。
「相沢さんの名前を、片桐さんの懺悔の添え物にしたくないんです」
私は立花の顔を見た。
立花はいつものように書類の角を揃えている。だが、その指先がわずかに震えていた。制度の側に立つ人間にも、冷えは届く。届いているのに、手順を崩さない。それは強さというより、崩れた後に残るものを知っている者の慎重さだった。
「分かった」
「本当に?」
「二度も聞くな」
立花は、わずかに口元を緩めた。
「では、久保田さん。欠番ネガの原本照合を続けてください。片桐さんは、当時の聴取資料と現在の関係者の動線を整理する。推測は推測として残すこと」
「了解しました」
久保田が答えた。
立花が出ていくと、鑑識室はまた白い静けさへ戻った。
私ははがきを見た。
澪は生きていない。
その事実が、はがきの文字より重かった。誰かが死者の筆跡を借りたのではない。死者が残した最後の形を、誰かが掘り出し、私の机へ運んだ。
それは救いではなかった。
救いに見えるものほど、罪を深くする。
私は久保田へ言った。
「この文字は、誰が書いた」
「まだ分かりません」
「筆跡を真似た人間ではなく、その紙を持っていた人間だ」
「そうですね」
「その人間は、澪が最後に何を書いたかを知っている」
「あるいは、知っている人間から紙を受け取った」
「木下か」
「決めつけないでください」
「分かっている」
「仙波さんは、木下さんが澪さんの字を使えると言った」
「その証言だけでは足りない」
「では、伝票と照合します」
久保田は、サイレントから持ち帰った伝票の束を開いた。
その中に、一枚だけ、裏面に灰色の紙片が貼りついている伝票があった。古い糊が乾き、紙の端が波打っている。久保田はルーペを取り出し、しばらく黙って見た。
「片桐さん」
「何だ」
「この紙片、伝票の一部ではありません」
「澪の字か」
「分かりません。ただ、はがきと同じ紙質です」
私は身を乗り出した。
「灰色の紙」
「正確には、同じ種類の官製はがきを裁断したものに近いです」
「いつから貼られている」
「糊の劣化から見ると、かなり前です。少なくとも数年ではない。三十年前に近い可能性があります」
「何が書いてある」
「表面は削られています」
久保田はライトを斜めから当てた。
削られた紙面に、薄い筆圧が浮いた。
文字は一つだけだった。
《影》
私はそれを見た瞬間、喉の奥で呼吸が止まった。
影山義弘。
仙波が作業場で口にした名前。白波アパートから出てきた男。灰色の紙を持っていたという証言。
だが、まだ線はつながっていない。
私の手帳には、いくつもの点しかない。点を線にするには、もう一度、現場へ戻る必要があった。
「久保田」
「はい」
「この紙片を、伝票から外せるか」
「外しません」
「なぜ」
「接着面が証拠になるからです。剥がした跡、糊の種類、重ねた順番。いまの形のまま撮影して、保存します」
「分かった」
「片桐さん」
「なんだ」
「これを見たからといって、影山さんがはがきの差出人だとは限りません」
「分かっている」
「本当に?」
私は彼女を見た。
「同じことを何度も言われると、少し腹が立つ」
「腹が立つなら、覚えやすいです」
久保田は平然としていた。
「それに、片桐さんは腹が立った方が、記録を丁寧に書くので」
私は手帳を開いた。
影山義弘。 欠番伝票の紙片に「影」の圧痕。 灰色の官製はがきと紙質が類似。 差出人との関係は未確認。 仙波証言と照合要。
最後の一行を書き終えたとき、万年筆の先が紙に引っかかった。
紙面に、細い黒い線が残る。
その線は、途中でわずかに震えた。
私の手が震えたのか、紙が古かったのかは分からない。
ただ、その震えを消さずに残した。
鑑識室の外で、遠くの電話が鳴った。誰かが受話器を取り、低い声で応答する。窓のない部屋に、港の汽笛が遅れて届いた。
私は灰色のはがきを保存袋へ戻した。
澪本人が書いた手紙ではない。
それでも、そこには澪の手が残っている。彼女が最後に紙へ押しつけた筆圧と、言葉にしきれず沈めた一画。その上を誰かがなぞり、別の二行を作った。
死者の文字を借りた人間は、死者を蘇らせたかったのではない。
死者を、もう一度こちら側へ引きずり出したかったのだ。
私は立ち上がった。
「どこへ行くんですか」
久保田が尋ねた。
「影山に会う」
「今から?」
「町の会合がある」
「どうして知っているんです」
「地元紙の予定欄に載っていた」
「会って、何を聞くつもりですか」
私は手帳を閉じた。
「何も聞かない」
「では、何をするんですか」
「見に行く」
「また、見るだけですか」
私は少しだけ間を置いた。
「今度は、見たものを記録する」
廊下へ出ると、庁舎の暖房が首筋へまとわりついた。外の潮の冷たさとは違う、乾いて重い温度だった。私は外套の襟を立てる。
灰色の筆圧は、死者の便りではなかった。
それは、私が三十年前に書かなかった一行を、誰かが紙の上へ戻すための手だった。
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